くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「数に溺れて」「ZOO」

「数に溺れて」

三人の殺人鬼の姉妹のブラックコメディを流麗なカメラワークと美しい色彩、そしてちょっとグロテスクで下賤な感性で描いたアート作品という感じの一本でした。面白いのですが、素直に楽しめる映画でもなかった気がします。監督はピーター・グリーナウェイ

 

エルシーという一人の少女がドレスを着て星を数えながら縄跳びをしている。灯台の光が彼女の影を家の壁に写し、手前に何か鳥の死骸らしきものが見える。酔っ払いのカップルが彼女の前を通り過ぎる。こうして映画は幕を開ける。場面が変わり、ナンシーという女がだらしなく食い散らかしたそばにブリキの浴槽がある。そこにジェイクという男が来て彼女を抱こうとする。ナンシーは外のリンゴの木のそばの浴槽を取りにいく。その傍にジェイクの妻シシー1が花を持って立っている。

 

ジェイクとナンシーが浴槽を並べていちゃついているとシシー1が現れ、酔っ払ったジェイクを浴槽に沈めて殺す。そして妹のシシー2の海辺の家に行く。シシー2は太った夫ハーディとベッドにいた。シシー1がシシー2にナンシーを運ぶのを手伝って欲しいと頼む。一方夫を殺したから検視官のマジェットに連絡をする。そして事故死に見せてもらうが、マジェットは代わりにシシー1に体を求める。マジェットの息子スマットは、生き物の死体に数字をつけ花火を上げる趣味があった。さらに様々なゲームをする日々を送っていた。

 

シシー2は、夫ハーディがセックスレスで不満が募っている。しかも仕事ばかりで、ぶくぶく太ってみにくくなってきていた。ある日、ハーディが海で泳いでいて溺れかけるが、周りの人に助けてもらう。その後、また一人で海に行ったハーディは胃痙攣で溺れかける。シシー2は放っておこうとするが、スポーツの若者らのランニング姿をみて、助けられないように自ら海に入りハーディを殺してしまう。そしてマジェットを呼び、嘘の検死報告をしてもらう。

 

さらにシシー3は配管工でカナヅチのベラミと結婚する。普通のSEXは嫌だと最初に宣言し夫婦生活を始めるが、プールで泳ぎを教えている際、そのままSEXしようとしてベラミの浮き輪を取りそして溺死させてしまう。シシー3もマジェットに検死を頼むが、マジェットはシシー3に結婚を求めるものの、結局そっけなく断られる。

 

ジェイク、ハーディ、ベラミの関係者がジェイクらの死に不信感を持って調べようとするもはっきりしない。ある日シシー三姉妹らと共に浜辺で綱引きゲームをしようということになる。ジェイクらの関係者は車で駆けつけるが途中で縄跳びをしているエルシーを撥ねてしまう。

 

浜辺で綱引きが始まるが、刑事が来てスマットを呼んだため、スマットが突然抜けたので三姉妹らは負けてしまう。間も無くして、三姉妹はそれぞれの夫の遺灰を湖に捨てるべくマジェットに協力してもらい船に乗る。スマットは、彼らに花向けるように花火を打ち上げ、自らは首を吊ってしまう。

 

船の上で三姉妹はマジェットを殺そうと画策、遺灰を流し、船の底の穴を開け、マジェットが沈んで行く姿で映画は終わる。船にはスマットが書いた100の文字があった。

 

なんとも言えないブラックコメディという一本ですが、芸術的な画面作りはさすがに素晴らしく、それを楽しむなら満足感に浸れる作品という映画でした。

 

「ZOO」

映像は本当に素晴らしいと思うのですが、なんとも言えないグロテスクな感性にはちょっとついていけなかった。監督はピーター・グリーナウェイ

 

動物園の前、二人の子供が嫌がる犬を引きずっている場面から映画は幕を開ける。そして片足のゴリラやシマウマの首が投げ入れられた虎の檻などのカットを細かく繋いでタイトルが流れる。ゴリラを撮影する職員のアップから、外で交通事故の急ブレーキの音、カットが変わり、車の事故のショット、車の中で運転していた一人の女性アルバが重症で片足を切断される。この車に動物園に勤務する動物学者オズワルドとオリヴァーの妻が乗っていて亡くなってしまう。二人は双子だった。

 

二人は悲しみの中、死んだ動物が腐敗していく過程を記録する実験にのめり込んでいく。さらにアルバに惹かれアルバもまた二人に惹かれていく。外科医ヴァン・メイハランはアルバに興味を覚え、もう片方の足も切ろうと考える。アルバにはベータという娘がいた。大勢の子供を作りたかったが、結局出来なかった。やがてもう片方も切断したアルバは同じく両足のないファンと一緒に暮らすとオリヴァーらに告げるが、オリヴァーらはアルバの腐敗する姿を撮影したいと提案するもファンやベータに拒否される。

 

やがて、アルバはオリヴァーらの前でレコードを聞きながら息絶え、自身のエスカルゴの庭と遺産をオリヴァーらに残す。オリヴァーとオズワルドは、自らの腐敗していく姿を撮影するためにアルバの残してくれたエスカルゴの庭でカメラの前で自殺、カタツムリが彼らを覆っていって映画は終わる。

 

なんとも言えない映画で、娼婦ミロのエピソードなども本編に絡むのですがうまく感想に書けなかった。面白い映画だし、映像的には素晴らしいのですが、動物が腐敗する様が何度も挿入されるのはちょっと目を背けてしまいます。でも独特のオリジナリティあふれる映画でした。

映画感想「英国式庭園殺人事件」「プロスペローの本」

「英国式庭園殺人事件」

初公開以来何度か見ている作品で、その度理解できなかったが、今回初めて面白いと感じた。映像や展開のシュールさはもちろん、機関銃のように繰り出されるセリフ、貴族の退廃的な姿を揶揄するような展開、そして、遊んでいるのかと思うようなブロンズの彫像が動くシーンなどなどが実に個性的で面白い。奇作ではあるけれど、逸品と言える一本です。監督はピーター・グリーナウェイ

 

暗闇の中、食事に集ったハーバート家の妻ヴァージニア、娘サラ、その夫タルマン、そして公証人のノイズ、さらに領主のノーマンらが下賤な会話を繰り返している場面から映画は幕を開ける。この場に画家のネヴィルもいたが、ヴァージニアはネヴィルに、ハーバート家の庭の絵を描いて欲しいと頼む。それは、夫ハーバートの誕生祝いのサプライズなのだという。しかし著名なネヴィルは、自分を雇うには金がいるなどと高飛車に答える。ヴァージニアは、ある提案をする。それは庭園の絵十二枚について一枚8ポンド払うことと自身の体を与えるというものだった。

 

やがてハーバートは十二日間サウサンプトンに出かけることになり、この間に絵を描いて欲しいとヴァージニアはネヴィルを説き伏せ、ノイズによって契約書が作られて、ネヴィルは絵を描き始める。各場所ではネヴィルの指示によって使用人の出入りが制限されたり、調度品を指定されたりやりたい放題をし、気が向けばヴァージニアを抱いて過ごす。

 

やがて六枚の絵が完成した時、サラが、母は単純な女性ではないと警告した上で母と同じ契約を私ともして欲しいと提案。ネヴィルはその申し出を受ける。そして十二枚の絵が完成するが、なぜかその絵にはないはずのハシゴや、馬のブーツ、上着などが書き足されていくようになる。そして十二枚が完成した日、ハーバート氏の死体が運河から上がる。ネヴィルには関係がないとその地を去るが、ハーバート家では、十二枚の絵を売ってハーバートの記念碑を建てる話が出てくる。さらにタルマンはサラの不倫を知っていたが、それを問い詰めると、逆にサラが子孫を残すために企てたと言い返す。

 

ネヴィルはノーマンの求めで戻ってきて、ヴァージニアと会う。そして当初予定していた十三枚の絵のうち十二枚を完成させたこと、残る一枚の場所となる馬の像の前の絵を描くと伝える。そしてネヴィルがヴァージニアと懇ろにしているところへサラが入ってきて、全ては、子供が作れないタルマンに愛想をつかせたサラが、子孫を残すためにネヴィルを利用したことを告白して、サラとヴァージニアはネヴィルを残して部屋を出ていく。

 

ネヴィルは馬の像の前で絵を描き上げるが、そこへ黒ずくめで仮面をした人々が集まってくる。彼らはネヴィルを責めるが、ネヴィルは、仮面の人物がノーマンであり、ノイズであり、タルマンであると見抜く。黒ずくめの人々はネヴィルの目を潰し、最後に双子が彼を殺す。ネヴィルの絵は燃やされ、映画は終わっていく。

 

シュールな中に、独特の世界観を描き出す手腕は非常に面白いが、いかんせん、なかなか癖があって素直についていけないところもある。芸術作品というのがぴったりの作品でした。

 

「プロスペローの本」

初公開以来の再見だから四十年近くになるかも知れない。圧巻の映像アートの世界に呆気にとられる映画だった。物語こそついていけないほどに難解だが、それは特撮テクニックを駆使した映像表現と、舞台劇のような演出、主演のジョン・ギールグッドの名演などが積み重ねられたゆえであろう。恐ろしいほどの超大作かと思うほどに膨大なエキストラと、横と縦に延々と流れる流麗なカメラワーク、美術セットの素晴らしさとほとんどのエキストラが全裸という絵作りに圧倒されました。監督はピーター・グリーナウェイ

 

ミラノ大公のプロスペローが実弟アントーニオとナポリ王アロンゾーによって絶海の孤島に追放されるというテロップの後、絢爛たる画面からのミラノ大公プロスペローの姿に映像が移って映画は始まる。画面中央にもう一つの画面がオーバーラップし、カメラは延々と横移動をしながら、プロスペローが執政を弟アントーニオに任せたために、アントーニオはアロンゾーと組んでプロスペローを追い出そうとしたことが描かれていく。

 

プロスペローは娘ミランダと絶海の孤島に流れ着く。しかし親友のゴンザーローが、彼に二十四冊の魔法の本を授ける。プロスペローはその本を読むことで絶大な力をつけ、十二年の年月が経つ。そして、孤島に小イタリア王国を築き、妖精キャリバンを使って壮大な復讐劇の本「テンペスト」を執筆し始める。映画はその執筆する物語を現実か幻想かわからない風に映像化していく。

 

嵐を起こし、アロンゾーの船を難破させ、乗組員を船に閉じ込める。さらに、アロンゾーに架空の息子ファーデナントを作り出してミランダと恋をさせる。それは、アロンゾーの子孫がナポリとミラノを継承するという野望を打ち砕くものだった。アロンゾーたちがトリンキーとステファノーという仲間に島を乗っ取らせようとしたが失敗するという筋書きを作り、アロンゾーには近親者による暗殺を企てる。

 

しかし、そんな筋書きを考えたプロスペローにエアリアルから、そのあまりの残虐性を指摘されてプロスペローは自分が間違っていたことに気がつき、本と魔力を捨てることを決意する。その瞬間、彼が作り出した人々が生を得て語り始め、ファーデナントとミランダはめでたく結婚することになり、アントーニオとアロンゾーを許し、ミラノ大公に返り咲いて母国へ帰ることになり映画は終わっていく。最後にプロスペローを助けたエアリアルは自由の身になって飛び立っていく。そしてプロスペローは観客に許しを乞う姿でエンディング。

 

というお話のようだが、執筆していく本の物語が目眩くような絢爛たる映像で展開していくので、それに惑わされてストーリーを追えなくなってしまう。シェークスピア劇なのでセリフも非常に凝っていて、それについていけない部分もあるのですが、本当に所狭しと画面を覆い尽くす人々の姿と、凝った映像テクニックに圧倒されてしまいました。

映画感想「ラ・カリファ」

「ラ・カリファ」

エンニオ・モリコーネ特集で日本初公開。シュールな映画なのか、カットが前後交錯して唐突に切り替わっていくので、ストーリーの流れが掴みづらい上に、人物関係や立場がわからなくて、ひたすら男女の物語を追いかけていくだけに終始した映画でした。人気になる前のロミー・シュナイダーが出ています。監督はアルベルト・ベビラクア。

 

広場で、ストライキで夫が殺され座り込んでいる主人公イレーヌの一人セリフから映画は幕を開ける。そして死体は救急車に搬送され、「グイド」と夫の名を叫ぶイレーヌからタイトル。場面が変わると大勢の労働者が雇用主を責め、ストライキを行って工場を占拠している場面となる。先導しているイレーヌを見下ろす雇用主のドメルドの姿。ドメルドは労働者の中を強引に車で抜けようとしてイレーヌに立ち塞がれる。それでも車が突き進むので、イレーヌは避けた拍子に車に唾を吐き掛ける。しかし、イレーヌのことが気になり出したドメルドはいつのまにかイレーヌとその彼氏のベッドにいきなり入って来て、彼氏を追い出し、女性と寝てしまう。

 

やがてドメルドの広大な所有地の一角にある建物で二人は密会するようになる。イレーヌと会うようになっドメルドは次第に温厚になり、経営者委員会=マフィアの中でも労働者と話し合うべきだと訴え始める。そして自身の工場は再開して稼働させる。ドメルドは労働者らと共同経営すれば良いのではと提案する。そんなドメルドを快く思わないマファアのメンバーは彼を排除することを考えるが、ドメルドが力があるので躊躇していた。

 

ある日、イレーヌとドメルドはベッドで過ごした後、ドメルドは一人部屋を後にするが、突然銃声が聞こえ彼は殺される。そして車に乗せられ、ドメルドの工場の門の前に放置され映画は終わる。

 

こんな話だったかと思います。イレーヌが突然ドメルドの食卓に現れたり、夢でSF的な部屋に閉じ込められたり、ドメルドの妻が女のことを知っているが理解を示したり、ドメルドの共同経営者か何かが彼に訴えてきて一晩家の前に佇んだり、そんなこんなが突然挿入されるので、物語がまとまらないのがなんとも奇妙な映画だった。でもエンニオモリコーネの曲が抜群に美しかった。

映画感想「四月物語」「死刑台のメロディ」(4Kリマスター英語版)

四月物語

日常のさりげない1ページを美しい感性の色彩と映像、みずみずしいほどの松たか子の表情に、生きてることって良いなあと思わずため息してしまう作品でした。監督は岩井俊二

 

東京の大学に進学することになった卯月が、家族に見送られて出発する場面から映画は幕を開ける。着いた東京は桜の花びらがまるで雪のように舞い散っていて、その中を引越しの荷物を積んだトラックが入ってくる。途中、花嫁を乗せるためのハイヤーの運転手に行き先を聞いたトラックは卯月のアパートへ辿り着く。このオープニング映像がため息が出るほど美しい。

 

何か手伝いをしたいが、引越し業者の足手纏いになっているだけの卯月の浮かれる雰囲気の中、運んだものの全てを部屋に納めきれず、結局、ソファなど大きなものを再度トラックに戻して引っ越しは終わる。お向かいの住民に挨拶を済ませ、やがて入学式からクラス分け、自己紹介でギクシャクした挨拶をした後、食堂で同級生の女子大生に声をかけられ、さらに教室で釣りクラブに行こうと誘われる。淡々と進むストーリーなのだが、なぜかスクリーンに引き込まれていく。

 

卯月は初めてのことに挑戦したく釣りクラブに参加、フライフィッシングを部長から教わるようになる。実は卯月が武蔵野大学に通うようのしたのは高校時代、バンドをしていた先輩山崎に憧れ、彼が武蔵野大学に行ったから後を追ってきたのだ。と言って山崎が卯月を知るわけでもなく、単に片想いだった。高校時代の後輩が東京へあそびにいったさい、山崎が武蔵野書店でバイトしていると聞き、卯月は毎日のように本を買いに行く。

 

ある日、ようやく山崎から、高校のことを聞かれ、後輩だと知れてしまって、卯月は有頂天になる。そして帰ろうとするが雨が降ってくる。山崎が傘を貸すというが卯月は振り切って飛び出してしまう。しかし途中で土砂降りになり、美術画廊の軒で雨宿りをしていてそこで画廊から出てきた男性に傘を借りる。

 

卯月はすぐ戻ってくるからと書店に戻り、山崎に傘を借りるが、真っ赤な傘ながら半分壊れている。それでも卯月はその傘をさして画廊へ戻り傘を借りた男性に傘を返す。壊れた真っ赤な傘をさしながら高揚する気持ちを抑えられない卯月の笑顔で映画は終わる。

 

本当にさりげない物語で、片想いの気持ちがさりげなく伝わるクライマックスと、雨、赤い傘、通りかかりの男性というなんのことはない繊細な演出に頭が下がります。アパートのお向かいの女性がカレーを食べに来てくれたり、必要以上に絡んでこない学校の友達、映画館で怪しい男に近づかれ必死で逃げる姿や、そこでの忘れ物の本を追いかけて届けてくれる怪しい男などなど、たわいないあれこれがとっても良い。桜が舞う景色、雨の彩り、そして映画初主演の松たか子の瑞々しい姿に引き込まれてしまう一本でした。

 

「死刑台のメロディ」

1920年アメリカで起こった冤罪事件「サッコ=バンゼッティ事件」を描いたサスペンス。名作なのかも知れないが、いかんせん暗くて重い映画だった。結局、冤罪だったというエンディングのテロップもなく、ひたすら、実際に行われたらしい偏った裁判の事実を延々と描く様が辛い。戦前のアメリカの汚点をストレートに描写した辛辣さは見ている私たちにも暗い影を落としていく。見応えはあるもののしんどい作品でした。監督はジュリアーノ・モンタルド

 

1920年アメリカ、イタリア労働党のアジトに警察隊が突入してくる場面から映画は幕を開ける。次々と労働党の人々が逮捕され、殴られていく。そして、一台の路面電車が停められ、中にいた二人のイタリア人ニコラ・サッコとバルトメオ・バンゼッティが逮捕される。保身のために持っていた銃を追及され、それが無許可であったことから彼らは嘘つきだと言われ、イタリア移民だったことも暗に匂わせられて警察ではみるみる犯罪者の汚名をかけられていく。そして4月15日に起こった靴工場での強盗殺人事件の犯人であるかのように追求され始める。

 

最初は、楽観的に見ていた二人だが、どうやら自分たちがアナーキストであるとか、イタリア人であるとか何かにつけこだわってくる検察側の言葉に、犯罪を裁く以上に政治的な色合いと差別による何かを感じ始める。弁護についたムア弁護士は無罪を疑わなかったが、検察側のカッツマンや、証言台に立つ証人たちの偽証によって次々と窮地に立たされていく。さらに二人に有利な証言をした老人は退廷後暴行される事態さえ起こってしまう。

 

銃器鑑定にさえ歪んだ結果が示されるに及んで、ムア弁護士は裁判の非道さを訴えるが、ついにカッツマンは事件の真偽よりも二人が英語も喋らないイタリア人で、民主主義もわからず自由主義に対する危険な輩であると本音を暴露するにあたり、さすがの判事もカッツマンを責めることになり、弁護側検察側双方が厳重注意となる。しかし、陪審員の判決は有罪と宣言され、ムア弁護士は不正を判事に訴えるも退けられて、ついにこの地を去ることにする。

 

刑務所に入ったバンゼッティとサッコだが、刑務所で真犯人だという男が現れ、証人たちも自らの犯罪を見逃してもらうなどの条件で偽証した事などがわかり訴えるも、結局判事は取りあわなかった。さらにサッコはとうとう精神を病んで施設に入ってしまう。後を引き継いだトンプソン弁護士は市民の声を嘆願書にして知事に提出、知事はバンゼッティを呼んで直接面談をするが、結局味方になってくれなかった。

 

バンゼッティは施設のサッコに手紙を送り続け、サッコはとうとう正気を取り戻して刑務所に戻ってくる。最後の判決の日、バンゼッティもサッコもあえて抵抗することなく、無罪である旨だけ言葉を発する。7年の月日が経っていた。そして死刑が確定する。やがて刑が執行される日が来て、世界中で無罪の声が聞こえる中二人は電気椅子に沈んで映画は幕を閉じる。

 

少々、荒っぽい演出も見られるが、全編とにかく二人の姿に焦点を当て続けた映像が実に重苦しくて見応えがある。映画の底力を見せつけた迫力はあるのだが、とにかくしんどい映画だった。

映画感想「No.10」

「No.10」

なんだこれは?という映画である。前半を真面目に追いかけているといつの間にかはぐらかされて、後半から終盤、とんでもない展開になった上、じゃあ、あれはなんだったのかと自己嫌悪にさえ陥る映画。面白いといえば面白いし、やりたい放題と言えばやりたい放題の作品で呆気にとられてしまった。監督はアレックス・ファン・バーメルダム。

 

荒波の風景から、一人の老紳士マリウスが朝食を持って自室にやってくる。マリウスを呼ぶ妻の声に反応して朝食を食べる。妻は病気で寝たきりらしく、仕事に行く夫マリウスに悪態をつくもマリウスは出かけてしまう。こうして映画は始まる。マリウスは迎えの車に乗る。着いたところは舞台の稽古場で、ギュンターという役者を中心に、演出家カールが指示をしている。

 

カールは妻のイサベルと仲良く、イサベルも女優で、次の朝稽古に一緒に行こうというカールに、イサベルは自分のバイクで行くからと家を出る。そしてイサベルは別の男とベッドの中にいた。相手はギュンターだった。イサベルとギュンターは不倫関係だった。この日、ギュンターの娘リジーが彼氏を連れてくるからとイサベルに早く帰るように促すが間に合わず、イサベルを寝室に隠して、ギュンターとリジーその彼氏で食事をする。リジーは病院で肺が一つしかないと言われたことを話し、ギュンターにも検査を受けてほしいというが生まれてこの方ギュンターもリジーも病気になったことがないから嫌だと答える。そしてリジーらは帰る。

 

翌朝、ギュンターは朝食を買いに外に出るが、橋の上でサングラスの男に意味不明の言葉「カマヒ」と囁かれる。その後、部屋に戻り、イサベルと別れて迎えの車に乗る。中にはマリウスやカールらも乗っている。ギュンターの乗った車とイサベルのバイクが出くわさないように、ギュンターはイサベルにメールを送る。ところが途中、車の前方を塞がれて時間が狂う。間一髪でイサベルのバイクと出くわさなかったが、車のドアミラーからマリウスは、イサベルがギュンターの家を出る現場を見てしまう。

 

一方舞台の稽古では、マリウスは妻のことでセリフを覚える暇がなく、演出のカールを苛立たせていた。稽古を終えたカールにマリウスは、イサベルとギュンターは付き合っているようだと告げ口する。リジーはギュンターの誕生日のサプライズのためにギュンターをカメラで撮影していたが、そこでイサベルとの関係を知ってしまう。一方、翌日からカールは執拗にギュンターを蔑ろしにしてマリウスのセリフを増やしたり役を端役から主役に変更し、一方でギュンターを端役に変えたりし始める。

 

時々、ギュンターの隣の家の白髪の男や、謎の神父とその助手のシーンが挿入される。神父と助手はギュンターやリジーを監視しているようである。マリウスが妻の介護でセリフが覚えられないことでギュンターが不具合にならないように、マリウスの妻を殺すように指示したりする。そしてライジェンバッハという男がマリウスの妻を殺害してしまう。

 

やがて舞台本番、マリウスはプロンプターを入れて欲しいと頼む。しかしギュンターは、マリウスがカールにイサベルとの不倫を告げ口したと知り、復讐のため本番直前にプロンプターを気絶させて自分がその場に座り、マリウスのセリフを言った直後、マリウスの足に釘を打ち込む。

 

マリウスが逃げた車の中でいると、かつて橋の上で出会ったサングラスの男が一通の招待状を渡す。そして橋の上で言った言葉は「ママ」という意味だという。マリウスは子供の頃森で発見された過去があった。ギュンターは教会へ行き、そこの懺悔室でイノセンスという黒人に声をかけられる。ギュンターは招待状のままに森の奥にある一軒の教会へ向かうがギュンターをリジーが後をつけていた。

 

ギュンターが教会の中に入り、地下奥に進んで行くと謎の司教らが出迎え、実はギュンターは異星人で、地球の生物と交配できるか試すために送り込まれた十二人の一人だと告げられる。そして、ギュンター一人だけ追跡できたのだという。肺が一つであったり、病気を全くしないのが異星人の証拠だと言われる。

 

教会を出たギュンターは後をつけてきたリジーに、異星人であることを話し、リジーは半信半疑ながらも信じる。そしてやがて母星へ帰る日が近づく。リジー、ギュンター、司教らが森の教会の地下深くにある宇宙船に乗り込み、やがて宇宙船は地面の中から現れて宇宙へ飛び立つ。司教らはギュンターらの星にキリスト教を布教するために宗教画やキリスト像などを積み込んでいた。

 

宇宙空間へ出てから、異星人は司教やキリスト像、その関係者たちを宇宙に放出してしまう。リジーは、宇宙船の中に謎の部屋を見つけ、そこはギュンターの母の映像にあった景色のセットがあるのを見つける。ギュンターらは宇宙船のベッドに横になる。宇宙空間に漂うキリスト像や司教、助手の姿で映画は終わる。

 

なんとも突拍子もない展開であれよあれよとラストシーンに繋がっていく。いったい前半の流れはなんの意味があったのかと思ってしまうが、実は全てが舞台の中のギュンターの妄想だったのかという深読みさえしてしまうラストシーンである。コメディ仕立てではあるものの、見終わってぽかんとしてしまう映画だった。

 

映画感想「デジャヴュ」「季節のはざまで」

「デジャヴュ」

目眩く17世紀と現代の物語の交錯がいつの間にかクセになって虚構の世界にのめり込んでいくファンタジー。ではどういうことだったのかというのがはてなで終わるエンディングが実に面白い作品だった。監督はダニエル・シュミット

 

トブラー博士が、17世紀にポンペイウスを殺したのち自らのその後、同じ斧で殺されたイェナチュの墓を発見したというニュース映像から映画は幕を開ける。見ているのは放送局に勤めるクリストフである。早速彼はトブラー博士のところへ赴く。

 

トブラー博士はイェナチュが殺された時の様子を目の前で見てきたかのように話す。そして、イェナチュは殺される寸前に相手の服の鈴を引きちぎったと話し、その鈴がこれだとクリストフに見せる。そして彼は、墓からイェナチュの頭蓋骨を盗んで家に保管していた。その帰り道、ケーブルカーで降るクリストフは、登りのケーブルカーに乗って入るトブラー博士とすれ違う。そしてクリストフのポケットには例の鈴が入っていた。

 

クリストフが自宅に戻ると妻のニナが化粧をしている。クリストフは彼女をそのままベッドへ連れていく。後日、クリストフは、イェナチュが謝肉祭の夜に食堂で殺された際の斧を持っているプランタと言う老嬢の元を訪ねる。城で召使の老婦人と暮らす彼女は、斧をクリストフに見せる。この頃からクリストフは、イェナチュの幻覚を見るようになる。幻覚なのか、17世紀に自分が紛れ込んでいるのか混乱するようになり、ニナは心配するようになる。

 

ある日、ポンペイウスが逃げてくる場面に出会し、追ってきたイェナチュに、ポンペイウスは暖炉にいると教える自分を体験する。しかも、その時の声は自身に録音機に記録されていた。クリストフは奇妙な罪悪感に囚われるようになっていく。ニナはクリストフが持っている鈴をあっさりと川に投げ捨ててしまう。17世紀のある夜、クリストフは若きプランタ嬢がイェナチュとSEXしているのを目撃してしまう。どうやら17世紀のクリストフはプランタ嬢に気があるらしい。

 

やがて謝肉祭が迫ってきて、クリストフはニナと一緒にプランタの城にやってくるが、プランタは謝肉祭の日は斧を飾らないからと、ニナは見ることができない。そのまま二人は謝肉祭の雑踏の中、食堂へ行く。この食堂の厨房のある場所が以前は食堂で、そこでイェナチュが殺されたのだった。賑やかな子供達の歌声を録音しようとニナが言うので、クリストフはホテルの部屋に戻り録音機を持ってこようとする。そして食堂へ戻ったらニナは大勢の人たちと雑踏の中へ消えてしまう。

 

ニナを追いかけてクリストフは厨房へやってくると、そこに17世紀のイェナチュがカードをしていた。クリストフは斧を持ってイェナチュを斬り殺す。その様子を見ているのは若き日のトブラー教授だった。ベッドで目が覚めたニナは傍に眠るクリストフを認め、映画は終わっていく。

 

17世紀と現代を交錯させ、前世の記憶をデジャヴュとして蘇らせながら描いていく幻想的な物語で、しんどくなる展開もないわけではないけれども、ある意味クセになる面白さのある映画でした。

 

「季節のはざまで」

淡々と過去の思い出を綴っていくだけの作品で、なんの大きなドラマのうねりもないままにラストシーンを迎えるという映画で、正直、退屈といえば退屈ですが、独特の感性の絵作りは美しい。品のいい一本というイメージの作品だった。監督はダニエル・シュミット

 

バスに乗るヴァランタンは、かつて住まいしていたホテルの売店の女性から会いたいと言ってきたので了解した旨の知らせを聞いたことを回想している。ヴァランタンはその女性の家を訪ねる。すでに高齢になっているその女性は鏡に向かって話しかけるほどに弱っていたが、ヴァランタンが幼い日、女性の売店で手に入れていたミッキーマウスの本について語り合う。

 

ヴァランタンは、山の中の海の見える部屋があるホテルで少年時代を両親やホテルの所有者だった祖父母と暮らしていた。ヴァランタンはそのホテルを訪ね、裏口のそばの置物の下に隠してある鍵で扉を開けて中に入る。すでに廃業してがらんとしたホテルだが、少年時代の記憶が蘇り、懐かしい日々が甦ってくる。

 

世界一の美女といわれた大女優が、食事の際に食器の位置を寸分違わず置くように給仕に頼む話や、マジシャンだった父の透視術や催眠術のエピソード、ロシアの女性が外交官を撃ち殺す事件、などなどが映像として描かれていく。そして、最後に海の見える部屋に辿り着いたヴァランタンは窓を開けて広がる海を眺めて映画は終わる。

 

なんの抑揚もなく淡々とエピソードが繰り返され、その合間合間に祖母の語る昔話や父の死、天国になぞらえたホテルのロビーなどが描かれていく。いつになれば終わるのかと思うような展開が延々と続いてラストシーンで締めくきるのですが、映画全体にリズムが生まれていないために妙に長く感じる。それでも絵作りは美しいしカメラワークも流麗なので、クオリティはそこそこあるから見ていられるという映画だった。

 

 

映画感想「クラユカバ」「クラメルカガリ」「リンダはチキンが食べたい!」

「クラユカバ」

レトロでガラクタでシュールな世界観が面白いのですが、もうちょっと落ち着いてストーリーテリングして演出しても良かったんじゃないかというほど展開が早い。カットが細かい上に、次々と漢字の名称が羅列されてくると頭が追いついていかなかった。シンプルなお話なので、かろうじてそういうことかとわかるのですが、もっと尺を伸ばしても良かったのかなと思います。でも、ごちゃごちゃした世界観とメカデザインがなかなか見ものでした。監督は塚原重義

 

扇町で探偵業を営む荘太郎のところに情報屋のサキがやってきて、先日の依頼の情報料が欲しいという。ある日、稲荷坂から、近頃、この辺りでは集団失踪が相次いでいて、失踪したところには奇妙な轍が残っているのだという。先日の依頼人の爺さんも行方知らずらしいからと依頼される。そこで荘太郎はサキに地下領域クラガリへ行って調べて欲しいと頼む。サキは、手がかりを求めてクラガリへ向かうが、程なくしてサキも行方不明となる。

 

荘太郎はサキを探しにクラガリへ向かい、そこで黒がねの装甲列車とその指揮官タンネと出会う。どうやら、集団失踪の犯人は福面党ではないかと判断し、荘太郎はタンネと共にクラガリの奥へと進む。しかし福面党の首領の息子も失踪していた。そしてようやくたどり着いた先で、サキを発見、さらに奥へ進むと、そこに、何年かに一度やってくるサーカス団の存在が見えてくる。荘太郎は幼い日の記憶からサーカス団の謎を思い出し、間一髪で反撃してタンネらと地上へ戻ってくる。もちろん失踪者を全て取り戻す。探偵社に戻った荘太郎が新たな依頼を聞くところで映画は幕を閉じる。

 

大体お話はこんな感じだと思いますが、スクラップ工場で作ったかと思うような装甲車や列車、戦車の類までが背後のレトロ感満載の音楽、展開と相まって、不可思議な世界へ誘ってくれます。60分余りと短いので、走り抜けるように展開していくのと、シュールな世界なので、わかりづらいのが残念でした。もうちょっと丁寧に脚本を書いてほしかった。

 

「クラメルカガリ

青春ラブストーリーに絡ませた摩訶不思議な世界観という映画で、お話はシンプルなのですが、キャラクターの個性が描ききれていないのか、絵が平凡なのか、もう一歩のめり込みにくい映画でした。監督は塚原重義

 

かつて巨大な刑務所だった跡地に立った巨大企業泰平のビル。その足元で謎の陥没事故が相次ぎ、役人のシイナはその調査のために街にやってくる。縦横に張り巡らされた炭坑の地図の資料を求めて飴屋を通して、伊勢屋という古本業を営む情報屋を探す。一方、この炭鉱町で地下通路「箱庭」の地図を作っているカガリは、この日も陥没事故の現場を通って地図を追加して、伊勢屋のところに売りに行こうとする。カガリには同業のユウヤという青年がいたが、彼はこんな街を出ていきたいという希望を持っていた。

 

カガリは地下地図を作っていて、山猿組が地下で計画している泰平転覆計画を知る。彼らは泰平の要所施設を破壊して、いよいよ最後の計画へ進もうとしていた。泰平の前身組織は、かつて自浄兵器を作ったのだがそれが暴走して現在の姿になったらしい。カガリから地下での計画を知った伊勢屋は、これ以上関わるなとアドバイスする。

 

やがて、山猿組は最後の行動に出てくるが、迎え撃ったのは狛犬組、そして最後に出てきたのはクチナワ爺さんの自浄兵器だった。実はクチナワ爺さんは泰平の前身企業の研究者だったが、自分が作った自浄兵器を破壊されて、ショックのあまり自殺しようと考えた。しかし。混乱の中、一人の赤ん坊を見つけ、その赤ん坊のために身を隠した。山猿組の悪事を倒したクチナワ爺さんはまた自室に引き上げる。実は山猿組に地下地図を売ったのはユウヤだった。彼は山猿組から大金をもらい地上へ出ようと考えていたがすんでのとこで裏切られたのだ。山猿組により地下に落とされかけたユウヤをカガリが助け、二人は無事脱出、山猿組の計画は失敗して物語は終わる。

 

という、そんな話かと思うのですが、「クラユカバ」同様、舞台設定の描写やストーリーテリングが全くできていない脚本なので、60分余りなのに、よくわからない。もっと落ち着いて脚本を練って作れば面白くなりそうなのに勿体無い映画だった。

 

「リンダはチキンが食べたい!」

水彩風の美しい色彩と極力シンプルにした造形がとっても綺麗な絵のアニメーションで、どんどんお話がエスカレートして膨らんでいく展開に翻弄されるのですが、画面が優しいのでいつの間にか癒されて、小さな伏線を回収していくラストがとっても心温まる映画だった。監督はキアラ・マルタ、セバスチャン・ローデンバック

 

幼いリンダが母ポレットと父が作ったパプリカチキンを食べようとする夕食の場面から映画は幕を開ける。ところが突然父がその場で気分が悪くなりそのまま亡くなってしまう。そして時が経ち、リンダは小学生になっていた。この日、ママの指輪をはめたくて、ママに必死で頼むが断られる。それはママがパパから貰った大切な指輪だった。それでもリンダは一晩だけ借りることにする。

 

しかし、翌朝になっても指輪を返さず、そのまま学校へ行き友達に可愛いベレー帽を貸してもらって帰ってくるが、ママは自分の指輪と帽子を交換したのだろうとリンダを責める。そして、お仕置きだと同じ団地の姉のアストリッドのところへ連れていく。ところが家に帰ったポレットは、飼い猫が指輪を飲んでいて吐き出したことから、犯人がリンダではないとわかり、アストリッドのところへリンダを迎えにいく。そして、なんでもいうことを聞くからとリンダに謝るポレットにリンダは、パプリカチキンが食べたいという。

 

しかし、ポレットは料理が苦手だった。とりあえず本を読んで鶏を買いに行くが、なんと世の中はスト中でどの店も開いていない。たまたま鶏を飼っている家を見つけて、その家の息子に分けて欲しいというも断られ、ポレットは鶏を盗んで逃げる。しかし、家に帰ったもののポレットは鶏を絞め殺せない。そこでポレットはアストリッドに助けを求めようと運転しながら携帯電話を触る。しかしそれを警官に見つかり、車を停められる。ところがトランクを開けた途端鶏が逃げ出し、それをポレットとリンダは追いかけていくが、若い巡査もその後を追う。

 

鶏はスイカを運ぶトラックに逃げ込み、ポレットとリンダもそのトラックに乗り込む。その後を若い巡査が自転車で追いかけて、やっと捕まえたが、トラックの運転手は鶏アレルギーだった。運転手は、母なら鶏を絞め殺せるだろうと母の家に向かう。なんとポレットらと同じ団地だった。しかし運転手の母も、みんな父がしていたからできないという。巡査はポレットを捕まえ、手錠をかけ、鍵を飲み込んでしまう。鶏は運転手の母の家から外に飛び出し、木にとまってしまう。

 

ポレットからの電話に出られず、気になったアストリッドがポレットの家にやってくると、鶏が木にとまって大騒ぎで、アストリッドは車の屋根から、巡査に梯子してもらい枝に登ろうとするがうまくいかず、巡査が木に登って鶏を捕まえようとするが、リンダらが釣竿で鶏を捕まえようとして巡査の服を引っ掛けてしまい巡査は降りられなくなる。

 

団地の子供達が集まってきて、ジャージや靴を投げて鶏を落とそうとするがうまくいかず、その頃、リンダの友達の弟が、団地の犬に乗ってスイカのトラックに行き、スイカをサッカーボールのようにして外に投げる。それが子供達のところへ行って大騒ぎになる。リンダの友達は、先にパプリカを焼こうとレンジに入れっぱなしにしていて焦げ付いて煙を出し、団地の広場は煙に包まれ、巡査を追ってきた上司の警官も翻弄される。

 

鶏はなんとかリンダの所に行き、リンダは鶏に、父の得意料理だったからと涙で訴え、見事パプリカチキンは出来上がり、集まった子供達やアストリッドらに配られる。ポレットはトラック運転手と仲良くなり、若い巡査は、実は手品師になりたかったと、背中から鍵を取り出し、アストリッドと仲良く木の上で話す。鶏を盗まれた家の若者はポレットにお金をもらい、大騒ぎも楽しかったと答える。こうして何もかも心温まる流れになって映画は終わる。

 

本当に優しい作品で、どうなることかとハラハラドキドキが次第に癒される展開で締めくくるのがとっても良い。絵も美しいし、こういうアニメもありかと思える一本でした。