くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「恋化粧」「男嫌い」「ああ爆弾」

「恋化粧」

丁寧に書き込まれた脚本ですが、イライラするほどの恋愛メロドラマという感じでした。当時の観客はどんな物語でもスターを見るために映画館に通い詰めたのでしょう。そんな当時の空気が感じられるノスタルジー満載の娯楽映画だった。監督は本多猪四郎

 

大川で曳舟の船長をする力彌が船に乗っていると、橋の上から初子、雛菊、関取が声をかける場面から映画は幕を開ける。陸に戻ると、初子の弟孝助が喧嘩に巻き込まれているというので力彌が助けに入る。喧嘩の相手に頬に傷のあるチンピラもいた。最近、この付近では車の盗難事件が相次いでいて実はこの傷の男が犯人だった。

 

芸者をしている初子は力彌に惚れていたが、力彌には出征時に付き合っていた恋人園子がいた。戦後帰国した力彌だが園子は行方不明だった。しかしあるバーで力彌は園子と再会する。園子は、自動車修理工の男石島と同棲していたが石島が自動車泥棒とは知らなかった。そして結婚するか迷っているのだった。翌日もう一度会うことを約束したが、翌日力彌がバーに行くと園子はまた行方をくらましていた。

 

そんな園子を初子が道で見かける。口止めされたが、初子は力彌に園子の居場所を教える。力彌が園子のアパートに行くとそこで傷のある男石島と出会う。そして自動車泥棒をしている石島を警察に突き出そうとするが、駆けつけた園子に許してくれと懇願される。力彌は石島を解放してやる。力彌は船会社の社長から、初子との結婚を勧められて迷っていた。

 

後日、園子は、石島に自首を進め、出所するまで待つからと買い物に出ようとするが、自動車泥棒の悪仲間が園子の留守にやってきて石島を脅し最期の仕事に連れていく。

 

力彌は気持ちを整理し、園子の気持ちを確かめるべく再度園子のアパートに行くが、園子は留守で石島の書き置きがあった。力彌はそれを隠し、帰ってきた園子に本当の気持ちを正す。そして園子の決意を知り、石島を止めるべく自動車工場へ向かう。その頃、自動車泥棒に現場を見かけた孝助が工場を見張っていたが捕まってしまう。孝助の恋人雛菊が力彌を探しに行くが見つからず関取を連れてくる。

 

力彌は自動車工場に現場に行き石島らと格闘の末、関取の応援もあり、悪者は駆けつけた警察に捕まり、石島は逮捕される。園子は石島の故郷で石島の出所を待つことにして汽車に乗り、初子と力彌は結婚を決めて映画は終わっていく。

 

時代を感じざるを得ない物語ですが、映画スターを見るために映画館に集まってくる様子が垣間見られるとっても楽しい映画でした。

 

「男嫌い」

書き割りのセットの中で展開するモダンコメディという感じの大怪作という一本。シンメトリーでパステルカラー調の絵作りを徹底して描くしたたかな女の物語はなかなか毒があって楽しい映画でした。監督は木下亮。

 

小さな男の子が小さな女の子に追いかけられ、真っ白な車と真っ赤な車が一軒のパステル調の家の前に止まっている。実業家の父が亡くなって四十九日の日、綾子、郁子、歌子、悦子の四人の娘と末の息子修が実家にやってくるところから映画は幕を開ける。四人それぞれ自立していて、下手な男性よりも収入もあり気も強く、男を手玉に取らんばかりの女達。そんな女達に親戚の女傑は見合い話を持ってくる。

 

長女と末娘に合うような年齢の男性二人を用意するが、見合いの席に、仲人が交通渋滞で間に合わず、四人の姉妹がやってきた男二人を物色し始める。軽快な会話と毒舌の繰り返しの中、その日は結局まともに見合いもならず、後日、一番若い男性と四人が見合いをする。しかし、曲者四人に圧倒される青年。

 

四姉妹は気分転換に八丈島へ行き、そこでハワイに住むポールというイケメンと出会い四人はそれぞれ猛アタックするが、結局外国かぶれの男達は日本の女を手玉に取ろうとしているの知り逆にやりこめてしまう。そして戻ってきたが、最初の見合い相手の中年男性と再会する。そして四人はその男性と付き合うも、その男性は、女性の素晴らしさを知ったと言って、一人アメリカに旅立って女達は元の生活に戻り映画は終わる。

 

なんのことはない会話劇の連続と遊び心満載の映像の数々を気楽に楽しむ映画で、軽いタッチの舞台劇の如きモダンな映画だった。

 

ああ爆弾

狂言風のテンポと拍子木、台詞回しでコミカルなミュージカル仕立てで描く娯楽映画。少々物語の構成がしつこくて後半長さを感じてしまうが、楽しい映画でした。監督は岡本喜八

 

刑務所の一室、ヤクザの大名組親分の大作が狂言風に刑法の蘊蓄を語り、同室の太郎と調子を合わせている場面から映画は幕を開ける。太郎は爆弾作りの名手で万年筆に爆薬を仕込んだりできるプロだった。やがて二人は出所するが、でたものの大作の子分達の出迎えは一人もいなかった。しかも、出迎えた一人息子健作は、大名組は株式会社になったのだという。

 

大作はまずは妾のところに行くが、そこには見かけない男と女がベッドにいた。仕方なく大名組に戻ってきた大作は、株式会社に代わり、矢東という男が社長になっているのに出くわす。そして大作は会長だからと言われるも体良く追い出されてしまう。自宅に戻るもかつての邸宅は矢東が住んでいた。そして今の家にやってきた大作は宗教にのめり込む妻梅子と再会する。

 

市会議員を目指す矢東は、ペンこそ力だという演説で支持者を増やしていた。大作は出刃包丁で殴り込むが、幼馴染の椎野に助けられる。椎野は矢東の運転手をしていた。椎野は、いつも矢東の金を銀行に引き出しに行くのだが、渡される小切手にゼロを足して逃げる計画をしていた。大作は太郎に万年筆爆弾を作らせ、それを使って矢東を亡き者にしようと計画、床屋で上着に万年筆を仕込むが、なんとその上着は椎野のものだった。

 

椎野は計画通り小切手にゼロを足して銀行窓口に行くが、銀行強盗と出来わし、格闘の中で万年筆を落とし、強盗と格闘して負傷してしまう。万年筆は銀行の支店長に渡るが、インクが出ないと捨てられ、清掃をしているおばさんがそれを拾う。そして息子にプレゼントするが、息子は健作に300円でその万年筆を譲ってしまう。

 

自宅に戻り、矢東が爆死するのを待っていた大作のところに万年筆を持った健作が帰ってくる。それを見た太郎が間一髪でそれを外に投げ捨て爆発させる。そのショックで大作は脳卒中で入院することになる。

 

やがて選挙が行われ、矢東はあわや当選かというところで逆転で次点落選してしまう。応援者の大群舞の中、矢東は暴力を振るって暴れてしまう。矢東のところに太郎が現れ、当選者が三か月以内に死んだら次点者が当選するとアドバイスし、ゴルフボールに爆弾を仕掛けるのを提案、見返りに大金を手にする。その金で大作を病院へ入院させ、椎野も入院して、豪華な入れ歯も作ってもらい二人でタクシー会社をしようと車を手に入れる。ところが健作はゴルフ場でキャディのバイトをしていることを知る。

 

太郎は健作を助けるため買ったばかりの車で駆けつけ、間一髪、ゴルフボールは彼方で爆発するが、車は吹っ飛んでしまう。こうしてあれよあれよと巡り巡ってのお話は終わる。

 

コーネル・ウーリッチの「万年筆」という原作を元にしているとはいえ、コミカルなミュージカル仕立てに模様替えした作りがとっても面白い作品。もう少し全体を整理して緩急をつければオリジナリティあふれる傑作になったかもしれない一本でした。

映画感想「エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」「一本刀土俵入」(マキノ雅弘監督版)「姿なき目撃者」

エドガルド・モルターラ ある少年の数奇な運命」

映像は美しいし、物語の構成、展開も見事なのですが、いかんせんキリスト教ユダヤ教の教義の話が中心になると理解できにくい部分が多々あるので、果たしてどれほど深い内容なのかはなんともいえない。洗礼や割礼の持つ重要性は、私のような日本人には計り知れない理解づらさがあります。とは言っても、アニメーションをちらほら挿入したり、劇的な展開を組み込んだりした作劇と演出のうまさはさすがに秀逸な映画でした。監督はマルコ・ベロッキオ

 

教皇ピウス9世の治世のイタリアボローニャ。時は1858年、モルターラ家に一人の赤ん坊エドガルドが生まれ、両親が何やらお祈りをしている場を1人の女中アンナが垣間見ている場面から映画は始まる。そして何かを持って一軒の家に入っていく。そして6年の月日が流れる。モルターラ家に夜間突然教皇庁からの役人がやって来て、家族の面通しをした上、6歳のエドガルドを連れていくという。エドガルドがキリスト教の洗礼を受け、両親がユダヤ教信者なのでその両親のもとで育てることは教皇則に違反するのだという。

 

地元の修道士に懇願し、一夜だけ猶予をもらった父サロモーネと母マリアンヌだが、結局エドガルドは連れ去られ、ローマに連れて行かれる。サロモーネらは、イスラム教団体などに働きかけてなんとか取り戻そうとするが、ピウス9世らはがんとして許さなかった。ピウス9世は、毎夜、イスラム教徒やイタリア軍に襲われる悪夢を見、新聞などによる誹謗中傷に怯えていた。

 

サロモーネはエドガルドに会いにいくが、まるで洗脳されたようなエドガルドの姿を見る。その後、母マリアンヌが行くと、エドガルドは一旦引き下がるも引き返して泣き叫んで母に縋るのだった。エドガルドは頭が良くてピウス9世に気に入られる。やがて、十年の歳月が流れ、エドガルドは青年になっていた。すっかりキリスト教徒になったエドガルドだが、ある日、教皇が謁見に来て際、つい襲いかかってしまい教皇に膝まづかされる。

 

イタリア軍は庶民の不満を受けて教皇庁を襲撃、軍にいたエドガルドの兄がエドガルドを助けにいくが、エドガルドは帰ろうとしなかった。まもなくしてピウス9世は亡くなる。そして三年後、棺を墓所に収めるべく葬送されるが、庶民が襲い掛かり遺体を川に捨てようとする。一時は食い止めようとしたエドガルドだが、突然川に投げ込めと叫んで走り去ってしまう。

 

時が過ぎ、この日、マリアンヌは死の床にいた。すでに父は亡くなっていた。エドガルドが駆けつけ母の枕元でキリスト教の洗礼をしようとする。しかし母はユダヤ教徒として死ぬからと洗礼を拒否する。エドガルドは家族に責められ廊下にうづくまるエドガルドの姿で映画は幕を閉じる。

 

教皇が、新聞の風刺画が動き出すのに怯えたり、夜中、イスラム教徒に割礼させられそうになる幻覚を見たり、恐怖に恐れる姿が出てきるが、あまり冷酷な姿が表に描写できていないので、エドガルドの家族の苦悩が今ひとつ浮かび上がってこなかった。しかし、絵作りは美しいし、流石にクオリティ十分な映画でした。

 

「一本刀土俵入」茂兵衛、お篤、弥八、升公、北公、良公

コンパクトにまとまった娯楽映画の佳作。井出雅人の脚本がいいのかもしれないが、コミカルなタッチを盛り込みながらの人情噺とクライマックスの剣戟がとにかくテンポ良くて楽しい。職人監督が作るエンタメ映画という仕上がりがとにかく心地よい映画でした。監督はマキノ雅弘

 

河原で子守をしている女が川で水を飲んでいる関取に声をかけるところから映画は幕を開ける。江戸へ向かう関取の茂兵衛は金がなくて水だけでここまでやって来た。茂兵衛は女に別れを告げて江戸へ向かうが、渡しの側の取手の宿場町に通りかかった茂兵衛はたまたまヤクザ物の弥八が喧嘩をしている現場に遭遇し、その弥八を突き飛ばして痛い目に合わせてしまう。旅籠の二階にいた女お蔦は茂兵衛の姿を見て二言三言身の上話を交わした後、なけなしの金と簪をくれてやる。そして故郷の歌を聞かせてやる。

 

痛い目にあった弥八は茂兵衛を追っていたが、茂兵衛はお蔦にもらった金でたらふく食って、追って来た弥八を返り討ちにしてしまう。茂兵衛はお蔦が歌っていた歌と同じ歌を子守女が歌っていたので、歌を教えてもらい、そして子守している赤ん坊がお蔦の子供だと知る。

 

十年が経つ。神社の賭場で大勝ちをした男はそのまま勝ち逃げをしたのだが、イカサマだとわかる。そこで賭場のやくざ者がその男が、十年前お蔦の情夫だった辰三郎だと思い出す。辰三郎を追ったチンピラが一人の渡世人を捕まえたが人違いだった。なんとそれはヤクザになった茂兵衛だった。茂兵衛もまたお蔦を探していた。

 

この地で飴屋をやっていたお蔦のところに辰三郎が立ち寄るだろうとヤクザものたちがお蔦の家にやってくるが、辰三郎は来ていなかった。ヤクザ達が帰った後、辰三郎はお蔦のところに立ち寄り三人で逃げることにする。お蔦の娘が母に教えてもらった歌を歌っているところへ茂兵衛が通りかかる。そして見張りのヤクザものを倒してお蔦に再会、恩義を受けた金を渡して、やってくるヤクザものを迎え撃つべくお蔦らを逃す。そして茂兵衛はヤクザものと渡り合って倒して映画は終わる。

 

子守唄をキーにしたストーリー展開のうまさが絶品で、小品ながら小気味良い展開でラストまで持っていく作劇がとにかく上手い。大傑作とは言わないまでも、肩の凝らない佳作というレベルの一本だった。やはりマキノ雅弘上手いですね。

 

「姿なき目撃者」

ヒッチコック映画の出来損ないみたいなコメディのようなサスペンスで、それを真面目に描いているのがまた面白くて仕方ない。出だしのお話があれよあれよとあらぬ方向に広がっていって、登場人物に一貫性はないし、刑事は間抜けだし、いつのまにか子供が主人公になっていくしと、荒唐無稽な映画でした。監督は日高繁明

 

ある家の二階で綾子が夫権藤の目を盗んでダンス教師の魚住と密会している場面から映画は幕を開ける。この家の女中千代は、隣の家に住むカメラ好きの少年譲二をうまく丸め込んで、綾子の家の二階の屋根に置かれている給水タンクに隠れて綾子と魚住の逢瀬の現場の写真を撮らせる。そしてその写真で千代は権藤を脅す。

 

権藤は綾子と魚住が会っている日に不意に戻って来て問い詰めようとするが、綾子は魚住を給水タンクに隠す。しかしそれを知って権藤は給水タンクの蓋を閉め、タンクに給水するスイッチを千代に入れさせる。権藤は綾子を問い詰め白状したのでスイッチを切るように千代に言うが千代は隠れ、そのまま給水されて魚住はタンクの中で死んでしまう。権藤らは魚住を溺死に見せるために死体を河原へ運んでしまう。千代がわざと魚住を殺そうとしたと思い、綾子が千代の部屋に入り、千代と魚住の関係を知る。千代と魚住の間には子供さえいたが、その子は死んでしまい、千代は魚住に捨てられた過去があった。

 

権藤は千代と話をつけるために会社に呼び出すが、千代は自分の命が危ないと手紙を書きその手紙を譲二のカメラで撮影する。譲二はタンクに隠れた際ハンカチを落としていて、そのハンカチが魚住の服から見つかり、舟木刑事が捜査するうちに譲二の存在に辿り着く。権藤は千代を呼び出すが言い争いの末千代を突き落として殺してしまう。権藤は千代をバラスで埋めてしまうが、譲二のカメラに撮られた手紙を手に入れようと譲二に迫る。

 

譲二が危ないと、舟木刑事が譲二を護衛するが、二度に渡り見失ってしまい、譲二は権藤と綾子に追い詰められ給水タンクに隠れる。権藤は譲二を殺すべく給水タンクのスイッチを入れる。その頃、譲二がたまたま綾子のバスルームで飲もうとした水に髪の毛を見つけ外に捨てていたことから、舟木らはその髪の毛が魚住のものと判明し逮捕状を取って刑事達が権藤の家にやってくる。譲二は給水タンクで間一髪舟木刑事に助けられ、綾子は権藤の持っていた拳銃で自殺し、権藤は逮捕される。結局、譲二のカメラに収められた手紙はピンボケというオチまでついて映画は終わる。

 

妻に浮気される気のいい経営者だった権藤が、チンピラを使って譲二を追い始めたり、ピストルまで持っていたりとキャラクターが破綻していくし、譲二を護衛している刑事が学校帰りに見失って、譲二が危うくチンピラに捕まりかけるし、自宅で本の整理を手伝っていた刑事が譲二を見失ってしまう失態。さらに魚住と綾子の不倫話がいつのまにか譲二の話に移っていくし、もうどうしようもなくなっていく流れがまさにコメディである。でも、こういうのもまた当時の映画の雰囲気を見せてくれるから面白い。

映画感想「ゴジラ×コング 新たなる帝国」「地に堕ちた愛」(4Kリマスター完全版)

ゴジラ×コング 新たなる帝国」

ほとんど「猿の惑星」かと思わせる映像で、人物やドラマ描写は一切排除して、CGで作られたモンスターのバトルシーンをてんこ盛りで繰り返していくB級大作娯楽映画という装いの一本。見終わったあとに残るのは怪獣たちが大暴れしていたいわゆるCGアニメシーンのみという映画でした。エンタメと割り切ればそれまでですが、全体にグロテスクな描写が多いので、映画にロマンも夢もない作品でした。監督はアダム・ウィンガード

 

地下世界に君臨するコングが、獣の大群から逃れている場面から映画は幕を開ける。そして虫歯に苦しんで地上のモナーク基地のアンドリュース博士に助けを求めにやって来る。一方途上世界に君臨するゴジラは、人間に脅威になる怪獣を倒し、地上世界を守っていた。アンドリュース博士が母親代わりで育てているイーウィス族のジアは、謎の音波を感じとる。モナーク基地でもその音波を探知、どうやら救いを求めるものらしいとわかる。

 

コングと一緒に地下世界へ向かったアンドリュース博士は、そこで髑髏島のシーウィス文明よりはるかに古いイーウィス文明の都市があることを発見、そして、地下世界で、かつて地上を征服しようとしてゴジラに地下に閉じ込められたスカーキングという猿が冷凍怪獣を操ってイーウィス族の地から地上へ出る機会を伺っていた。

 

その頃、間も無く来る強大な敵とのバトルに備え、ゴジラはフランスの原子力発電所放射能を吸収し北極海の怪物のエネルギー源を手に入れるために準備を進めていた。地下世界では、スカーキングのアジトに来てしまったコングは冷凍怪獣に右腕をやられるが、トラッパーの治療と機械を装着して蘇る。そしてスカーキングを倒すべく地上のゴジラに応援を頼みに行く。イーウィス族の中心には重力を操る装置がありその先にモスラが眠っていた。モスラを甦らせるため髑髏島から来たジアの力が必要だった。

 

地上へ出たコングはゴジラを呼ぶが、そもそも敵対していた二体はいきなりバトルを始める。そこへモスラが現れ、二体を仲介してスカーキングが暴れる世界へ向かう。そして大バトルの末、スカーキングは破壊されて、スカーキングに操られていた冷凍怪獣も元の姿に戻り、コングはスカーキングが圧制していた猿人たちを解放してやり、ゴジラはまたコロッセウムで眠ってハッピーエンド、映画は終わる。

 

コングにミニコングが現れたり、人類を守ってきたというセリフの合間に、人類を守るため世界遺産を次々破壊するゴジラやコングの姿があったり、コングが生肉をむしゃぶり食ったり、獣を引き裂いたり、モスラが異様にグロテスクだったりと、日本のゴジラファンには目を背ける描写が多々あるとはいえ、単純にCGアニメを楽しむ分にはいい時間潰しになった感じです。でももう少しストーリーを整理してクオリティは上げて欲しいというのも正直な感想でした。

 

「地に堕ちた愛」(完全版)

初公開時より51分長い完全版。空間の使い方や交錯するストーリーは流石に面白い映画なのですが、ちょっと長さを感じてしまった。体調のせいか作品のせいかわからないけれど、約一週間のお話に現実とお芝居の創作の世界が交錯する作りにはっきりと頭がついていきませんでした。部屋の壁のモダンな模様や赤を階段の壁に使った絵作りなど本当に美しいのですが、作品のクオリティの高さは認められるものの少ししんどかった。監督はジャック・リヴェット

 

街で大勢の男女が集まって一軒のアパートにやって来る。アパートではリアルタイムでお芝居が演じられていてそれを人々が見ている。どうやら女性二人と男性一人の三角関係のコメディのようである。しかし女性を演じた二人エミリーとシャルロットは作品の仕上がりにうんざりとしていた。演じ終わって二人がくつろいでいるところに一人の男クレマンがやって来る。どうやら今の芝居は彼の戯曲を勝手に改作したものらしい。そしてクレマンは次の月曜日に自分の屋敷に来て欲しいと言う。こうして映画は幕を開ける。

 

訴えられるのではないかと危惧しながらエミリーとシャルロットはクレマンの邸宅にやって来る。出迎えたポールという男は奇術師で、エミリーをからかう。クレマンは、二人に、今度の土曜日の夜に演るお芝居に参加して欲しいと依頼。ギャラも払うと言われエミリーとシャルロットは引き受ける。クレマンは二人に、本番までこの家に住んで欲しいと依頼する。屋敷にはヴィルジルというタイプライターを打つ助手やベアトリスというクレマンの元を去った妻?エレオノールという恋人の存在などが見えて来る。

 

ポールはエミリーを誘って二人は体を合わせ、シャルロットはクレマンと懇ろになって屋敷の鍵を手に入れる。一方クレマンにはエレオノールという恋人らしい女性も存在する。劇の稽古は始まるがラストシーンは用意されていなかった。さらにポールはシャルロットとも関係を結んでしまい、シャルロットとエミリーはリアルに大喧嘩するが、それが現実なのかお芝居なのか定かになっていない。時々、シャルロットは幻想のようなシーンを見て、エミリーは自分が横たわるそばに立つ赤いドレスの女性を見かけるようになる。

 

やがて本番の夜、お芝居が始まるが、見に来た観客は、お芝居の行く末に呆れるばかり。そして終盤、突然赤いドレスの女性が現れ、エミリーは気を失ってしまうが、彼女こそベアトリスだった。お芝居の結末と現実の展開が一つにまとまっていくのだが、お芝居の後、エミリーとシャルロットはクレマンに仕返しをしようと画策し、シャルロットとクレマンが現実に愛し合ったかのような言葉をベアトリスの前で告白して、ベアトリスは家を出てしまう。エミリーとシャルロットはギャラを手にして屋敷を後にして映画は終わる。

 

カメラが屋敷から外に出ず、空間を巧みに使ったカメラワークは見事ではあるが、現実とフィクションが交錯していく様を頭で整理しきれなくなっていく目眩くような展開は流石に3時間近くなるとしんどかった。

映画感想「陰陽師0」

陰陽師0」

センスのない過剰なCGとカメラワーク、雑な脚本で、もっとスケールの大きなエンタメになりうるはずが薄っぺらい青春ドラマの如く仕上がってしまった。面白くないとは言わないまでも、日本映画のお家芸的なお話なのにもっと作り込んでほしかった。監督は佐藤嗣麻子

 

陰陽師ならびに陰陽寮の解説が描かれたあと、陰陽寮での授業風景になって映画は幕を開ける。狐の子と言われ怖られる一方、陰陽寮の授業に全く顔を出さず疎まれている陰陽寮の学生の一人安倍晴明は、この日、先輩らに揶揄われ庭のカエルを殺せと命じられる。晴明がなんのことなくカエルを殺したのをたまたま見ていた上級貴族の源博雅安倍晴明に近づいて来る。博雅は、密かに思いを寄せる従兄弟のよしこ女王が夜な夜な琴の弦が切れる怪事件に遭遇し困っているのを聞き晴明にその解決を依頼する。

 

安倍晴明はよしこ女王の元へ行き見事琴の怪現象を解決する。折しも、陰陽寮の橘泰家が殺される事件が発覚、その真犯人を見つけるべく陰陽寮で捜査が始まる。晴明もまた真犯人を探すべく捜査を始めるが、平郡貞文に濡れ衣を着せられ捕縛されてしまう。そこへ、よしこ女王が攫われたと博雅が駆けつけて来る。そして二人で女王を助けるべく意識の世界へ飛び込んでいく。

 

実は、女王に迫った火龍を操っていたのは陰陽寮の是邦だった。しかし、晴明は水龍を呼び起こし火龍を倒し、さらに是邦も倒す。帝から恋文をもらっていた女王は、博雅に恋焦がれていたが、帝の思いを拒絶できず、これからも博雅と心は一つであることを確認して帝の元へ行く決心をする。陰陽寮の変事を解決した晴明と博雅は、すっかり意気投合し心地よく酒を酌み交わし、帝は陰陽師として晴明を身近にに置くことを決めて映画は終わる。

 

結局、陰陽寮の中のサスペンスも博雅と女王の叶わぬ恋も、博雅と晴明の友情話もどれも中途半端な上に、アクションシーンも大したことはなく、しかもやたら派手なCGだけがセンス悪い色彩で大盤振る舞いという仕上がりで、もっとちゃんと作ろうよと思ってしまう映画だった。

 

 

映画感想「マンティコア怪物」「異人たち」

マンティコア 怪物」

こういう映画かとサプライズで締めくくる作品だった。延々と繰り返す長回しと淡々と進むストーリーの背後に潜む謎を必死で追っていくと、結局、ただの異常性愛者の物語に唖然としてのエンディングは、確かに面白いが、それ以上でも以下でもなかった。監督はカルロス・ベルムト。

 

ゲームのクリーチャー制作をVRで行っている主人公フリアンのシーンから映画は幕を開ける。普段は自宅で仕事をし時々会社に出向き打ち合わせなどをする。この日もフリアンのデザインしたクリーチャーが好評で、あとは村人などの造形が必要だと言われる。

 

自宅で仕事をしていたフリアンは、助けを求める声に気がつく。向かいの部屋が火事で、中に少年がいるらしい。フリアンはドアを蹴破って少年クリスチャンを助け出す。異常はないが煙を吸ったので具合が悪くなったら病院へ行くように、と救急隊に言われる。その夜、気分が悪くなったフリアンは病院へ行くが、パニック症候群だからと安定剤を処方される。

 

フリアンはバーで女性をナンパしてベッドに入るが、うまくSEX出来なかった。後日会社の同僚サンドラのサプライズ誕生パーティでディアナという女性と知り合う。ディアナは寝たきりの父を介護しながら美術史を専攻している学生だった。フリアンは次第にディアナに興味を持ち付き合い始める。一方、フリアンは会社から貸与されたパソコンで自宅で少年のキャラクターを作ってみたりする。

 

しばらくしてフリアンは引っ越すことにし、クリスチャンらとも別れる。ディアナとは何度かデートを重ねるが、ある日、自宅のベッドでSEXをしていた際、ディアナの父が亡くなった知らせが届く。ディアナは自宅に帰り、葬儀の場にフリアンも出かける。ところがそれからフリアンの電話にディアナが出なくなる。一方会社の人事部長に呼ばれ、フリアンが自宅のパソコンで私的に少年のキャラクターを作っていたことがバレてパソコンを引き上げられる。

 

電話に出ないディアナに、フリアンは直接家に行くが、迎え入れたディアナは、少年の動画を見たと言い、もう会いたくないと別れを告げる。フリアンは、いたたまれなくなりクリスチャンの家を訪ねる。母が留守だというので言葉巧みに部屋に上がり、ココアに睡眠薬を入れてクリスチャンに飲ませる。フリアンはクリスチャンをベッドに運び悪戯しようとするが、クリスチャンの部屋に、体が虎で顔が人間の絵が貼られていて、フリアンと名付けられているのを見て思いとどまり窓から身を投げる。

 

フリアンは命は助かったものの脊髄を損傷し動けなくなっていた。ディアナが見舞いにくるようになり、自宅に戻ったフリアンは、ベッドでディアナに介護される姿で映画は終わり。

 

主人公の心の底にあった幼児性愛者の異常性が表に出てくる展開、不遇者を介護することにある意味快楽を覚えるディアナの異常性などがもっと寒々と恐ろしければ面白かったのですが、ちょっとゾクゾク感が物足りず、化け物のクリーチャーデザイナーという設定も、どこか異常に父親にこだわるディアナの行動も今ひとつ生きていないのが残念。面白い作品になりそうなのに勿体無い一本だった。

 

「異人たち」

全くの駄作というわけではないのだが、不必要なゲイ設定が物語を奇妙に汚してしまった感じで、山田太一原作などと大手を振るのはどうかと思える映画だった。監督はアンドリュー・ヘイ。

 

タワーマンションに暮らす主人公アダムが窓の外を眺めている場面から映画は幕を開ける。突然火災警報がなって外に飛び出すと、六階の部屋に灯りがついていて一人の男が見下ろしているのを見つける。部屋に戻ったアダムの部屋にハリーという男が突然訪ねてくる。そしてゲイだという。部屋に入れて欲しいというのを断ったアダムは奇妙な気分になる。そして、幼い頃に交通事故で亡くなった両親の写真を眺め、子供の頃を過ごした懐かしい家にやってくる。

 

ところが、家のそばの公園で父の姿を見かけた気がしたアダムは、かつての家にやって来るとなんと両親がいた。アダムを自然と受け入れ、三人で家族のようなひと時を過ごす。マンションに戻ったアダムは、エレベーターでハリーと出会い家に誘う。そしていつの間にか二人は体を合わせる。このマンションにはアダムとハリーしか住んでいないらしいという。

 

アダムは、再び実家を訪ねるが母しかいなかった。アダムは母に自分がゲイだと告白、母は戸惑いを隠せなかった。その後もアダムはハリーと逢瀬を繰り返す。後日、父一人の実家にやってきて、ゲイについての告白をする。アダムはハリーにも両親に会って欲しいと思い連れていくが、家に入れず、両親の姿だけを認めて帰ってきた。

 

後日、一人で両親のところに行ったハリーは、両親から、この家にやって来るのはやめた方が良いと言われ、最後に三人でショッピングモールに行き食事をする。即死だったかと両親に尋ねられたアダムは即死だったと答えるが、実は母は事故のあと数日病院で苦しんでいた。

 

両親とも別れたアダムはいたたまれなくなり、ハリーの部屋を訪ねるが、そこで浴室で一人死んでいるハリーを見つける。しかも死後かなり経っていた。浴室を出るとアダムの目の前にハリーがいた。誰も自分が死んだことに気がついてもらえず、孤独の中、あの日アダムの部屋に行ったのだという。アダムはハリーをベッドに誘い、自分が守るからと抱きしめて映画は終わる。

 

原作が非常にピュアなファンタジーだったので、いくら今どきとはいえゲイ設定を入れ込んで汚してしまうのはなんともいただけない。しかもゲイの二人はただのおっさんで美しさも何もないから余計に見栄えの悪い作品に仕上がった気がします。クライマックスの場面の交錯シーンや、幻想か現実か見紛うような演出は上手いと思いましたが、それが良かっただけに、余計に無駄な設定が残念でした。都会の大人の孤独を描いた一本という今どき映画だった。

映画感想「あまろっく」「次郎長三国志第六部 旅がらす次郎長一家」

「あまろっく」

全然期待していなかったのですが、思いの外良くできた人情噺だった。脚本が良いのと中条あやみ江口のりこの掛け合いが映画に心地よいリズムを生み出した気がします。笑福亭鶴瓶をそこそこで脇へ抜いたのが良かった。大傑作とは言わないまでも、ちょっとした佳作という出来栄えの良い映画でした。監督は中村和宏。

 

ウェディングドレスを着た二人と竜太郎の竜の字の入った手拭いのカットから、1994年、スワンボートに乗る若き日の父竜太郎、娘の優子、母愛子が尼崎を水害から守るあまろっくの作文を優子書くためにやってきたところから映画は幕を開ける。そして優子は見事優秀賞に選ばれる。竜太郎は鉄工所を営み、ぐうたらながら気のいい社長をやっている。優しい母愛子のもとで育つ優子だが、いつも周りから浮いていた。優子はよくできる大人になろうとして、京大に進み、ボート部で優勝し、バリバリのキャリアウーマンになったがリストラに会ってしまう。そして尼崎の実家に戻ってくる。

 

相変わらず能天気な竜太郎に辟易としながら暮らし始めるが、竜太郎は突然再婚すると言い出す。母愛子が亡くなって19年が経っていた。そして連れてきたのは20歳の市役所に勤める早希だった。戸惑う優子を尻目に早希はマイペースで主婦業を始めるが優子は全く受け入れる気にならない。それでも三人のささやかな家庭が営まれる。竜太郎と優子は何かにつけてそっけない会話をし、この夜も優子は早希の作った食事を取ろうとしなかった。そんな優子に竜太郎は握り飯を持ってくる。それは愛子が亡くなった夜、落ち込む優子に竜太郎が大きなおにぎりを作ったものと同じものだった。

 

翌朝、竜太郎は早希に勧められてジョギングに出かける。折下雨が降り出し、早希は傘を持って竜太郎を探しにいくが、そこで見たのは救急車で搬送される竜太郎の姿だった。突然竜太郎が亡くなったが早希はわずか一ヶ月の竜太郎との暮らしを大切にしたいと鉄工所で働くようになる。

 

そしていつの間にか優子と早希は喧嘩しながらも仲良くなってくる。そんな優子に見合い話がくる。相手は京大を出て大手商社に勤めている南雲という青年だった。優子がたまたま立ち寄ったうどん屋で南雲と出会い、それが見合い相手だと知った上に、海外のプラントの話で二人が盛り上がりすっかり意気投合してしまう。

 

しばらくして、南雲はアブダビに赴任することになり優子にプロポーズする。一方、早希は竜太郎の子供を身ごもっているがわかる。優子はプロポーズを受けたものの早希のことが気がかりだった。そんな時、工場で事故が起こりベテラン工員の高橋が優子を庇ったため大怪我をしてしまう。高橋がいなくなり受注もできなくなって、優子は工場と自宅を売ることにし、南雲に付き添ってアブダビに行くことも断念する。しばらくして、台風が尼崎を襲う。緊急避難の連絡が来たが、大雨でとても外に出られない早希と優子は自宅で一夜を明かす。そして一夜が明けると普通の青空が広がっていた。高橋を見舞いに行った優子に、高橋は、竜太郎はいつもは能天気だが阪神淡路大震災の時は違ったと話す。

 

そして一年後、工場は相変わらず稼働していた。アブダビに行くのをやめた南雲は工場で働き、優子は早希の子供を抱いていて、早希は営業にまわっていた。ウェディングドレスドレスを着た二人の花嫁が教会にいた。冒頭のシーンである。こうして映画は終わる。

 

中条あやみ江口のりこの話にしたのがこの作品を成功させたのかと思います。しかも癖が強すぎる笑福亭鶴瓶を脇に置いて、さりげなくスパイス的に使ったのが良かった。何気ないセリフの掛け合いの面白さも楽しめるし、ちょっとした佳作でした。

 

次郎長三国志 第六部 旅がらす次郎長一家」

日本映画全盛期の娯楽映画の秀作という一本。淡々と流れる前半から中盤、後半と見せ場を盛り上げていく構成と演出はさすがに熟練技を思わせます。監督はマキノ雅弘

 

甲州猿屋の勘助を斬って凶状持ちとなった次郎長一家は、体が弱っている次郎長の妻お蝶を連れての逃亡旅となる。その旅途上から映画は幕を開ける。行く先々で難渋を極めていくが、かつて相撲興行で救ってやった力士の八尾ヶ嶽久六が今は尾張の保下田の久六という親分となったことを聞き、三五郎、石松はそこへ一時世話になるようにと提案する。

 

そして快く迎えられたのだが、久六は実は代官と組んで次郎長捕縛で手柄を上げようと画策していた。石松の幼馴染の七五郎の忠告で難を逃れた次郎長一家は七五郎の家に厄介になることにする。しかし、繰り返す窮状の中お蝶は息を引き取ってしまう。一方、逃したままだと復讐されると恐る久六らは七五郎の家へ迫ってくる。七五郎の妻お園の槍の活躍もあり、久六らを返り討ちにした次郎長らは一路清水へ向かうことにして映画は終わる。

 

娯楽映画と割り切ればそれまでながら、完成度の高さはなかなかのもので、職人監督の力量を目の当たりにする一本でした。

映画感想「数に溺れて」「ZOO」

「数に溺れて」

三人の殺人鬼の姉妹のブラックコメディを流麗なカメラワークと美しい色彩、そしてちょっとグロテスクで下賤な感性で描いたアート作品という感じの一本でした。面白いのですが、素直に楽しめる映画でもなかった気がします。監督はピーター・グリーナウェイ

 

エルシーという一人の少女がドレスを着て星を数えながら縄跳びをしている。灯台の光が彼女の影を家の壁に写し、手前に何か鳥の死骸らしきものが見える。酔っ払いのカップルが彼女の前を通り過ぎる。こうして映画は幕を開ける。場面が変わり、ナンシーという女がだらしなく食い散らかしたそばにブリキの浴槽がある。そこにジェイクという男が来て彼女を抱こうとする。ナンシーは外のリンゴの木のそばの浴槽を取りにいく。その傍にジェイクの妻シシー1が花を持って立っている。

 

ジェイクとナンシーが浴槽を並べていちゃついているとシシー1が現れ、酔っ払ったジェイクを浴槽に沈めて殺す。そして妹のシシー2の海辺の家に行く。シシー2は太った夫ハーディとベッドにいた。シシー1がシシー2にナンシーを運ぶのを手伝って欲しいと頼む。一方夫を殺したから検視官のマジェットに連絡をする。そして事故死に見せてもらうが、マジェットは代わりにシシー1に体を求める。マジェットの息子スマットは、生き物の死体に数字をつけ花火を上げる趣味があった。さらに様々なゲームをする日々を送っていた。

 

シシー2は、夫ハーディがセックスレスで不満が募っている。しかも仕事ばかりで、ぶくぶく太ってみにくくなってきていた。ある日、ハーディが海で泳いでいて溺れかけるが、周りの人に助けてもらう。その後、また一人で海に行ったハーディは胃痙攣で溺れかける。シシー2は放っておこうとするが、スポーツの若者らのランニング姿をみて、助けられないように自ら海に入りハーディを殺してしまう。そしてマジェットを呼び、嘘の検死報告をしてもらう。

 

さらにシシー3は配管工でカナヅチのベラミと結婚する。普通のSEXは嫌だと最初に宣言し夫婦生活を始めるが、プールで泳ぎを教えている際、そのままSEXしようとしてベラミの浮き輪を取りそして溺死させてしまう。シシー3もマジェットに検死を頼むが、マジェットはシシー3に結婚を求めるものの、結局そっけなく断られる。

 

ジェイク、ハーディ、ベラミの関係者がジェイクらの死に不信感を持って調べようとするもはっきりしない。ある日シシー三姉妹らと共に浜辺で綱引きゲームをしようということになる。ジェイクらの関係者は車で駆けつけるが途中で縄跳びをしているエルシーを撥ねてしまう。

 

浜辺で綱引きが始まるが、刑事が来てスマットを呼んだため、スマットが突然抜けたので三姉妹らは負けてしまう。間も無くして、三姉妹はそれぞれの夫の遺灰を湖に捨てるべくマジェットに協力してもらい船に乗る。スマットは、彼らに花向けるように花火を打ち上げ、自らは首を吊ってしまう。

 

船の上で三姉妹はマジェットを殺そうと画策、遺灰を流し、船の底の穴を開け、マジェットが沈んで行く姿で映画は終わる。船にはスマットが書いた100の文字があった。

 

なんとも言えないブラックコメディという一本ですが、芸術的な画面作りはさすがに素晴らしく、それを楽しむなら満足感に浸れる作品という映画でした。

 

「ZOO」

映像は本当に素晴らしいと思うのですが、なんとも言えないグロテスクな感性にはちょっとついていけなかった。監督はピーター・グリーナウェイ

 

動物園の前、二人の子供が嫌がる犬を引きずっている場面から映画は幕を開ける。そして片足のゴリラやシマウマの首が投げ入れられた虎の檻などのカットを細かく繋いでタイトルが流れる。ゴリラを撮影する職員のアップから、外で交通事故の急ブレーキの音、カットが変わり、車の事故のショット、車の中で運転していた一人の女性アルバが重症で片足を切断される。この車に動物園に勤務する動物学者オズワルドとオリヴァーの妻が乗っていて亡くなってしまう。二人は双子だった。

 

二人は悲しみの中、死んだ動物が腐敗していく過程を記録する実験にのめり込んでいく。さらにアルバに惹かれアルバもまた二人に惹かれていく。外科医ヴァン・メイハランはアルバに興味を覚え、もう片方の足も切ろうと考える。アルバにはベータという娘がいた。大勢の子供を作りたかったが、結局出来なかった。やがてもう片方も切断したアルバは同じく両足のないファンと一緒に暮らすとオリヴァーらに告げるが、オリヴァーらはアルバの腐敗する姿を撮影したいと提案するもファンやベータに拒否される。

 

やがて、アルバはオリヴァーらの前でレコードを聞きながら息絶え、自身のエスカルゴの庭と遺産をオリヴァーらに残す。オリヴァーとオズワルドは、自らの腐敗していく姿を撮影するためにアルバの残してくれたエスカルゴの庭でカメラの前で自殺、カタツムリが彼らを覆っていって映画は終わる。

 

なんとも言えない映画で、娼婦ミロのエピソードなども本編に絡むのですがうまく感想に書けなかった。面白い映画だし、映像的には素晴らしいのですが、動物が腐敗する様が何度も挿入されるのはちょっと目を背けてしまいます。でも独特のオリジナリティあふれる映画でした。