くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「No.10」

「No.10」

なんだこれは?という映画である。前半を真面目に追いかけているといつの間にかはぐらかされて、後半から終盤、とんでもない展開になった上、じゃあ、あれはなんだったのかと自己嫌悪にさえ陥る映画。面白いといえば面白いし、やりたい放題と言えばやりたい放題の作品で呆気にとられてしまった。監督はアレックス・ファン・バーメルダム。

 

荒波の風景から、一人の老紳士マリウスが朝食を持って自室にやってくる。マリウスを呼ぶ妻の声に反応して朝食を食べる。妻は病気で寝たきりらしく、仕事に行く夫マリウスに悪態をつくもマリウスは出かけてしまう。こうして映画は始まる。マリウスは迎えの車に乗る。着いたところは舞台の稽古場で、ギュンターという役者を中心に、演出家カールが指示をしている。

 

カールは妻のイサベルと仲良く、イサベルも女優で、次の朝稽古に一緒に行こうというカールに、イサベルは自分のバイクで行くからと家を出る。そしてイサベルは別の男とベッドの中にいた。相手はギュンターだった。イサベルとギュンターは不倫関係だった。この日、ギュンターの娘リジーが彼氏を連れてくるからとイサベルに早く帰るように促すが間に合わず、イサベルを寝室に隠して、ギュンターとリジーその彼氏で食事をする。リジーは病院で肺が一つしかないと言われたことを話し、ギュンターにも検査を受けてほしいというが生まれてこの方ギュンターもリジーも病気になったことがないから嫌だと答える。そしてリジーらは帰る。

 

翌朝、ギュンターは朝食を買いに外に出るが、橋の上でサングラスの男に意味不明の言葉「カマヒ」と囁かれる。その後、部屋に戻り、イサベルと別れて迎えの車に乗る。中にはマリウスやカールらも乗っている。ギュンターの乗った車とイサベルのバイクが出くわさないように、ギュンターはイサベルにメールを送る。ところが途中、車の前方を塞がれて時間が狂う。間一髪でイサベルのバイクと出くわさなかったが、車のドアミラーからマリウスは、イサベルがギュンターの家を出る現場を見てしまう。

 

一方舞台の稽古では、マリウスは妻のことでセリフを覚える暇がなく、演出のカールを苛立たせていた。稽古を終えたカールにマリウスは、イサベルとギュンターは付き合っているようだと告げ口する。リジーはギュンターの誕生日のサプライズのためにギュンターをカメラで撮影していたが、そこでイサベルとの関係を知ってしまう。一方、翌日からカールは執拗にギュンターを蔑ろしにしてマリウスのセリフを増やしたり役を端役から主役に変更し、一方でギュンターを端役に変えたりし始める。

 

時々、ギュンターの隣の家の白髪の男や、謎の神父とその助手のシーンが挿入される。神父と助手はギュンターやリジーを監視しているようである。マリウスが妻の介護でセリフが覚えられないことでギュンターが不具合にならないように、マリウスの妻を殺すように指示したりする。そしてライジェンバッハという男がマリウスの妻を殺害してしまう。

 

やがて舞台本番、マリウスはプロンプターを入れて欲しいと頼む。しかしギュンターは、マリウスがカールにイサベルとの不倫を告げ口したと知り、復讐のため本番直前にプロンプターを気絶させて自分がその場に座り、マリウスのセリフを言った直後、マリウスの足に釘を打ち込む。

 

マリウスが逃げた車の中でいると、かつて橋の上で出会ったサングラスの男が一通の招待状を渡す。そして橋の上で言った言葉は「ママ」という意味だという。マリウスは子供の頃森で発見された過去があった。ギュンターは教会へ行き、そこの懺悔室でイノセンスという黒人に声をかけられる。ギュンターは招待状のままに森の奥にある一軒の教会へ向かうがギュンターをリジーが後をつけていた。

 

ギュンターが教会の中に入り、地下奥に進んで行くと謎の司教らが出迎え、実はギュンターは異星人で、地球の生物と交配できるか試すために送り込まれた十二人の一人だと告げられる。そして、ギュンター一人だけ追跡できたのだという。肺が一つであったり、病気を全くしないのが異星人の証拠だと言われる。

 

教会を出たギュンターは後をつけてきたリジーに、異星人であることを話し、リジーは半信半疑ながらも信じる。そしてやがて母星へ帰る日が近づく。リジー、ギュンター、司教らが森の教会の地下深くにある宇宙船に乗り込み、やがて宇宙船は地面の中から現れて宇宙へ飛び立つ。司教らはギュンターらの星にキリスト教を布教するために宗教画やキリスト像などを積み込んでいた。

 

宇宙空間へ出てから、異星人は司教やキリスト像、その関係者たちを宇宙に放出してしまう。リジーは、宇宙船の中に謎の部屋を見つけ、そこはギュンターの母の映像にあった景色のセットがあるのを見つける。ギュンターらは宇宙船のベッドに横になる。宇宙空間に漂うキリスト像や司教、助手の姿で映画は終わる。

 

なんとも突拍子もない展開であれよあれよとラストシーンに繋がっていく。いったい前半の流れはなんの意味があったのかと思ってしまうが、実は全てが舞台の中のギュンターの妄想だったのかという深読みさえしてしまうラストシーンである。コメディ仕立てではあるものの、見終わってぽかんとしてしまう映画だった。

 

映画感想「デジャヴュ」「季節のはざまで」

「デジャヴュ」

目眩く17世紀と現代の物語の交錯がいつの間にかクセになって虚構の世界にのめり込んでいくファンタジー。ではどういうことだったのかというのがはてなで終わるエンディングが実に面白い作品だった。監督はダニエル・シュミット

 

トブラー博士が、17世紀にポンペイウスを殺したのち自らのその後、同じ斧で殺されたイェナチュの墓を発見したというニュース映像から映画は幕を開ける。見ているのは放送局に勤めるクリストフである。早速彼はトブラー博士のところへ赴く。

 

トブラー博士はイェナチュが殺された時の様子を目の前で見てきたかのように話す。そして、イェナチュは殺される寸前に相手の服の鈴を引きちぎったと話し、その鈴がこれだとクリストフに見せる。そして彼は、墓からイェナチュの頭蓋骨を盗んで家に保管していた。その帰り道、ケーブルカーで降るクリストフは、登りのケーブルカーに乗って入るトブラー博士とすれ違う。そしてクリストフのポケットには例の鈴が入っていた。

 

クリストフが自宅に戻ると妻のニナが化粧をしている。クリストフは彼女をそのままベッドへ連れていく。後日、クリストフは、イェナチュが謝肉祭の夜に食堂で殺された際の斧を持っているプランタと言う老嬢の元を訪ねる。城で召使の老婦人と暮らす彼女は、斧をクリストフに見せる。この頃からクリストフは、イェナチュの幻覚を見るようになる。幻覚なのか、17世紀に自分が紛れ込んでいるのか混乱するようになり、ニナは心配するようになる。

 

ある日、ポンペイウスが逃げてくる場面に出会し、追ってきたイェナチュに、ポンペイウスは暖炉にいると教える自分を体験する。しかも、その時の声は自身に録音機に記録されていた。クリストフは奇妙な罪悪感に囚われるようになっていく。ニナはクリストフが持っている鈴をあっさりと川に投げ捨ててしまう。17世紀のある夜、クリストフは若きプランタ嬢がイェナチュとSEXしているのを目撃してしまう。どうやら17世紀のクリストフはプランタ嬢に気があるらしい。

 

やがて謝肉祭が迫ってきて、クリストフはニナと一緒にプランタの城にやってくるが、プランタは謝肉祭の日は斧を飾らないからと、ニナは見ることができない。そのまま二人は謝肉祭の雑踏の中、食堂へ行く。この食堂の厨房のある場所が以前は食堂で、そこでイェナチュが殺されたのだった。賑やかな子供達の歌声を録音しようとニナが言うので、クリストフはホテルの部屋に戻り録音機を持ってこようとする。そして食堂へ戻ったらニナは大勢の人たちと雑踏の中へ消えてしまう。

 

ニナを追いかけてクリストフは厨房へやってくると、そこに17世紀のイェナチュがカードをしていた。クリストフは斧を持ってイェナチュを斬り殺す。その様子を見ているのは若き日のトブラー教授だった。ベッドで目が覚めたニナは傍に眠るクリストフを認め、映画は終わっていく。

 

17世紀と現代を交錯させ、前世の記憶をデジャヴュとして蘇らせながら描いていく幻想的な物語で、しんどくなる展開もないわけではないけれども、ある意味クセになる面白さのある映画でした。

 

「季節のはざまで」

淡々と過去の思い出を綴っていくだけの作品で、なんの大きなドラマのうねりもないままにラストシーンを迎えるという映画で、正直、退屈といえば退屈ですが、独特の感性の絵作りは美しい。品のいい一本というイメージの作品だった。監督はダニエル・シュミット

 

バスに乗るヴァランタンは、かつて住まいしていたホテルの売店の女性から会いたいと言ってきたので了解した旨の知らせを聞いたことを回想している。ヴァランタンはその女性の家を訪ねる。すでに高齢になっているその女性は鏡に向かって話しかけるほどに弱っていたが、ヴァランタンが幼い日、女性の売店で手に入れていたミッキーマウスの本について語り合う。

 

ヴァランタンは、山の中の海の見える部屋があるホテルで少年時代を両親やホテルの所有者だった祖父母と暮らしていた。ヴァランタンはそのホテルを訪ね、裏口のそばの置物の下に隠してある鍵で扉を開けて中に入る。すでに廃業してがらんとしたホテルだが、少年時代の記憶が蘇り、懐かしい日々が甦ってくる。

 

世界一の美女といわれた大女優が、食事の際に食器の位置を寸分違わず置くように給仕に頼む話や、マジシャンだった父の透視術や催眠術のエピソード、ロシアの女性が外交官を撃ち殺す事件、などなどが映像として描かれていく。そして、最後に海の見える部屋に辿り着いたヴァランタンは窓を開けて広がる海を眺めて映画は終わる。

 

なんの抑揚もなく淡々とエピソードが繰り返され、その合間合間に祖母の語る昔話や父の死、天国になぞらえたホテルのロビーなどが描かれていく。いつになれば終わるのかと思うような展開が延々と続いてラストシーンで締めくきるのですが、映画全体にリズムが生まれていないために妙に長く感じる。それでも絵作りは美しいしカメラワークも流麗なので、クオリティはそこそこあるから見ていられるという映画だった。

 

 

映画感想「クラユカバ」「クラメルカガリ」「リンダはチキンが食べたい!」

「クラユカバ」

レトロでガラクタでシュールな世界観が面白いのですが、もうちょっと落ち着いてストーリーテリングして演出しても良かったんじゃないかというほど展開が早い。カットが細かい上に、次々と漢字の名称が羅列されてくると頭が追いついていかなかった。シンプルなお話なので、かろうじてそういうことかとわかるのですが、もっと尺を伸ばしても良かったのかなと思います。でも、ごちゃごちゃした世界観とメカデザインがなかなか見ものでした。監督は塚原重義

 

扇町で探偵業を営む荘太郎のところに情報屋のサキがやってきて、先日の依頼の情報料が欲しいという。ある日、稲荷坂から、近頃、この辺りでは集団失踪が相次いでいて、失踪したところには奇妙な轍が残っているのだという。先日の依頼人の爺さんも行方知らずらしいからと依頼される。そこで荘太郎はサキに地下領域クラガリへ行って調べて欲しいと頼む。サキは、手がかりを求めてクラガリへ向かうが、程なくしてサキも行方不明となる。

 

荘太郎はサキを探しにクラガリへ向かい、そこで黒がねの装甲列車とその指揮官タンネと出会う。どうやら、集団失踪の犯人は福面党ではないかと判断し、荘太郎はタンネと共にクラガリの奥へと進む。しかし福面党の首領の息子も失踪していた。そしてようやくたどり着いた先で、サキを発見、さらに奥へ進むと、そこに、何年かに一度やってくるサーカス団の存在が見えてくる。荘太郎は幼い日の記憶からサーカス団の謎を思い出し、間一髪で反撃してタンネらと地上へ戻ってくる。もちろん失踪者を全て取り戻す。探偵社に戻った荘太郎が新たな依頼を聞くところで映画は幕を閉じる。

 

大体お話はこんな感じだと思いますが、スクラップ工場で作ったかと思うような装甲車や列車、戦車の類までが背後のレトロ感満載の音楽、展開と相まって、不可思議な世界へ誘ってくれます。60分余りと短いので、走り抜けるように展開していくのと、シュールな世界なので、わかりづらいのが残念でした。もうちょっと丁寧に脚本を書いてほしかった。

 

「クラメルカガリ

青春ラブストーリーに絡ませた摩訶不思議な世界観という映画で、お話はシンプルなのですが、キャラクターの個性が描ききれていないのか、絵が平凡なのか、もう一歩のめり込みにくい映画でした。監督は塚原重義

 

かつて巨大な刑務所だった跡地に立った巨大企業泰平のビル。その足元で謎の陥没事故が相次ぎ、役人のシイナはその調査のために街にやってくる。縦横に張り巡らされた炭坑の地図の資料を求めて飴屋を通して、伊勢屋という古本業を営む情報屋を探す。一方、この炭鉱町で地下通路「箱庭」の地図を作っているカガリは、この日も陥没事故の現場を通って地図を追加して、伊勢屋のところに売りに行こうとする。カガリには同業のユウヤという青年がいたが、彼はこんな街を出ていきたいという希望を持っていた。

 

カガリは地下地図を作っていて、山猿組が地下で計画している泰平転覆計画を知る。彼らは泰平の要所施設を破壊して、いよいよ最後の計画へ進もうとしていた。泰平の前身組織は、かつて自浄兵器を作ったのだがそれが暴走して現在の姿になったらしい。カガリから地下での計画を知った伊勢屋は、これ以上関わるなとアドバイスする。

 

やがて、山猿組は最後の行動に出てくるが、迎え撃ったのは狛犬組、そして最後に出てきたのはクチナワ爺さんの自浄兵器だった。実はクチナワ爺さんは泰平の前身企業の研究者だったが、自分が作った自浄兵器を破壊されて、ショックのあまり自殺しようと考えた。しかし。混乱の中、一人の赤ん坊を見つけ、その赤ん坊のために身を隠した。山猿組の悪事を倒したクチナワ爺さんはまた自室に引き上げる。実は山猿組に地下地図を売ったのはユウヤだった。彼は山猿組から大金をもらい地上へ出ようと考えていたがすんでのとこで裏切られたのだ。山猿組により地下に落とされかけたユウヤをカガリが助け、二人は無事脱出、山猿組の計画は失敗して物語は終わる。

 

という、そんな話かと思うのですが、「クラユカバ」同様、舞台設定の描写やストーリーテリングが全くできていない脚本なので、60分余りなのに、よくわからない。もっと落ち着いて脚本を練って作れば面白くなりそうなのに勿体無い映画だった。

 

「リンダはチキンが食べたい!」

水彩風の美しい色彩と極力シンプルにした造形がとっても綺麗な絵のアニメーションで、どんどんお話がエスカレートして膨らんでいく展開に翻弄されるのですが、画面が優しいのでいつの間にか癒されて、小さな伏線を回収していくラストがとっても心温まる映画だった。監督はキアラ・マルタ、セバスチャン・ローデンバック

 

幼いリンダが母ポレットと父が作ったパプリカチキンを食べようとする夕食の場面から映画は幕を開ける。ところが突然父がその場で気分が悪くなりそのまま亡くなってしまう。そして時が経ち、リンダは小学生になっていた。この日、ママの指輪をはめたくて、ママに必死で頼むが断られる。それはママがパパから貰った大切な指輪だった。それでもリンダは一晩だけ借りることにする。

 

しかし、翌朝になっても指輪を返さず、そのまま学校へ行き友達に可愛いベレー帽を貸してもらって帰ってくるが、ママは自分の指輪と帽子を交換したのだろうとリンダを責める。そして、お仕置きだと同じ団地の姉のアストリッドのところへ連れていく。ところが家に帰ったポレットは、飼い猫が指輪を飲んでいて吐き出したことから、犯人がリンダではないとわかり、アストリッドのところへリンダを迎えにいく。そして、なんでもいうことを聞くからとリンダに謝るポレットにリンダは、パプリカチキンが食べたいという。

 

しかし、ポレットは料理が苦手だった。とりあえず本を読んで鶏を買いに行くが、なんと世の中はスト中でどの店も開いていない。たまたま鶏を飼っている家を見つけて、その家の息子に分けて欲しいというも断られ、ポレットは鶏を盗んで逃げる。しかし、家に帰ったもののポレットは鶏を絞め殺せない。そこでポレットはアストリッドに助けを求めようと運転しながら携帯電話を触る。しかしそれを警官に見つかり、車を停められる。ところがトランクを開けた途端鶏が逃げ出し、それをポレットとリンダは追いかけていくが、若い巡査もその後を追う。

 

鶏はスイカを運ぶトラックに逃げ込み、ポレットとリンダもそのトラックに乗り込む。その後を若い巡査が自転車で追いかけて、やっと捕まえたが、トラックの運転手は鶏アレルギーだった。運転手は、母なら鶏を絞め殺せるだろうと母の家に向かう。なんとポレットらと同じ団地だった。しかし運転手の母も、みんな父がしていたからできないという。巡査はポレットを捕まえ、手錠をかけ、鍵を飲み込んでしまう。鶏は運転手の母の家から外に飛び出し、木にとまってしまう。

 

ポレットからの電話に出られず、気になったアストリッドがポレットの家にやってくると、鶏が木にとまって大騒ぎで、アストリッドは車の屋根から、巡査に梯子してもらい枝に登ろうとするがうまくいかず、巡査が木に登って鶏を捕まえようとするが、リンダらが釣竿で鶏を捕まえようとして巡査の服を引っ掛けてしまい巡査は降りられなくなる。

 

団地の子供達が集まってきて、ジャージや靴を投げて鶏を落とそうとするがうまくいかず、その頃、リンダの友達の弟が、団地の犬に乗ってスイカのトラックに行き、スイカをサッカーボールのようにして外に投げる。それが子供達のところへ行って大騒ぎになる。リンダの友達は、先にパプリカを焼こうとレンジに入れっぱなしにしていて焦げ付いて煙を出し、団地の広場は煙に包まれ、巡査を追ってきた上司の警官も翻弄される。

 

鶏はなんとかリンダの所に行き、リンダは鶏に、父の得意料理だったからと涙で訴え、見事パプリカチキンは出来上がり、集まった子供達やアストリッドらに配られる。ポレットはトラック運転手と仲良くなり、若い巡査は、実は手品師になりたかったと、背中から鍵を取り出し、アストリッドと仲良く木の上で話す。鶏を盗まれた家の若者はポレットにお金をもらい、大騒ぎも楽しかったと答える。こうして何もかも心温まる流れになって映画は終わる。

 

本当に優しい作品で、どうなることかとハラハラドキドキが次第に癒される展開で締めくくるのがとっても良い。絵も美しいし、こういうアニメもありかと思える一本でした。

映画感想「河内ぞろ どけち虫」「漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻」

「河内ぞろ どけち虫」

全編河内弁で突っ走る機関車のような作品で、何がどうという中身もないのだが、ひたすら喧嘩と怒声が画面を覆って行く。痛快そのものであれよあれよと展開していき、ラストのほんのりした兄弟愛に、楽しい映画を見たという感慨に耽ってしまいました。これぞ娯楽映画ですね。監督は舛田利雄

 

河内の藪下、父の葬儀の葬列から映画は幕を開ける。この父親の息子、仁助、多度吉、永三は揃いも揃って喧嘩好きで、何かにつけ兄弟喧嘩をし始める地元でも有名な男たちだった。この日も例によって喧嘩を始め、物語は彼らの少年時代に遡る。

 

三人の父親文吾は、女の子を産んで欲しいと思っていたが生まれるのは皆男で、その度に悪態をついていた。しかし、とうとう諦めてしまう。やがて三人は少年になる。闘鶏の人混みに紛れ込む少年時代の仁助らは、大人にも一目置かれ、勝手に軍鶏を買ってきたものの文吾に怒られて、仁助の軍鶏は文吾に殺されて食われてしまう。そんな三人はやがて成人になり、地元の祭りでも喧嘩三昧。

 

二十歳になった仁助は、この地の慣わしで伊勢神宮へ徒歩で参拝に行き、その帰りに女郎買をすることになる。しかし、仁助は持ち前のドケチと才覚で、博打場で大儲けをしても仲間に酒を奢らせる。

 

そんな仁助は、居酒屋のお沢と良い仲になりやがて世帯を持つ。その地の相撲大会を罵倒したついでにその相撲大会に出た仁助は、地元の力士らを倒して名をあげ、やがてこの地放出の親分格になる。その頃永三は、船乗りになると家を飛び出し、一人残った多度吉が両親のもとで百姓をすることになる。しかし、多度吉は地元で次第に名を挙げやがて藪下の親分という地位になる。

 

文吾の葬儀の後、仁助は急病に倒れ、その隙をついて縄張りを狙っていた林蔵が仁助の賭場を仕切り始める。困った仁助の子分は多度吉に助けを求め、多度吉は林蔵の賭場に殴り込んで、まんまと金を巻き上げて林蔵を追い出す。やがて病が癒えた仁助はそのことを聞く。

 

間も無く文吾の四十九日の日、林蔵が単身でピストルで殴り込みにくるが、仁助、多度吉、永三らに逆に反撃され、方法の定で逃げ帰ってしまう。仁助と多度吉はまた喧嘩を始める、それを笑ってみる永三の場面で映画は終わる。

 

とにかく最初から最後まで痛快そのものでめちゃくちゃに楽しい。機関銃のような河内弁の応酬と喧嘩三昧に展開の中に、さりげなく物語が埋め込まれた脚本も上手い。娯楽映画を堪能した、そんな感想の一本でした。

 

「漫画横丁 アトミックのおぼん 女親分対決の巻」

アトミックのおぼんシリーズ第二弾。軽快に進むお気楽なスラップスティックコメディという感じの一本で、全編笑いに包まれながら、娯楽としての映画を楽しめる陽気な作品だった。次々とあんな俳優こんな俳優の若き日を楽しむのも、当時の街の風景を楽しむのも一興の幸せなひとときだった。監督は佐伯幸三。

 

駅の改札、一人のスリが獲物を物色している場面から映画は幕を開ける。財布をすったものの別の老婆風のスリにすり返され、さらに別のスリにすられて財布は元の持ち主へ。老婆風のスリは大阪から東京へ来たヌーベル婆さんというベテランのスリ、彼女をすり替えしたのはこの地のスリ親分アトミックのおぼんという女だった。ヌーベル婆さんはアトミックのおぼんを見返してやろうと画策を始める。

 

おぼんには結婚を約束した正木という青年がいたが、おぼんがスリをやめることが条件だった。おぼんは弟子のインスタントのおちからに堅気になってバーを経営してもらおうと、バーの出物を探していた。そんなおぼんの思いを逆手に取ってやろうと、地元ヤクザの大江山は子分の坂本を使って坂本の恋人のおちかを騙して、売り物のバーを手配させ、金を受け取って、権利証をスリ返す計画を立てる。そのスリ返すのにヌーベル婆さんを使うが、結局うまくいかなかった。

 

大江山は、正木の上司の社長のスキャンダルをネタに金を手にしようとするが、おぼんに邪魔されてしまう。しかし、大江山が権利証の交渉でやってきたおちかに乱暴をしようとして逆におぼんに反撃され、権利証も借金の領収書も奪い返す。ところがその帰り、ヌーベル婆さんに権利証をぬすまれる。

 

ヌーベル婆さんは、おぼんに、スリ合戦をして勝ったら権利証を返してやると提案して、駅でハンカチのスリ合戦を始めるが、正木はおぼんのそばに張り付いておぼんにスリをさせなくする。結局、ヌーベル婆さんが勝つのだが、落胆するおぼんのところに、ヌーベル婆さんは権利証を持ってきて、そのまま警察に自首する。大江山らも警察に捕まる。正木とおぼん、坂本とおちかも仲が戻ってハッピーエンドで映画は終わって行く。

 

コマ落としを多用したコミカルな映像と、心地よいストーリー展開はまさに娯楽映画の王道という仕上がりで、単純に楽しめる映画だった。

映画感想「プリシラ」

プリシラ

エルヴィス・プレスリーの元妻プリシラプレスリーの半生を描いているのですが、エルヴィスよりもプリシラの一人の女性としての繊細な気持ちを切なく淡々と描写していく展開が、見終わった後不思議なほどに胸に染み渡ってきました。女性目線というより少女目線の心の機微がとってもセンス良くモダンに映し出されていていい映画だった。こういうのを描かせると本当にソフィア・コッポラ監督、うまいですね。

 

ふかふかの絨毯を踏む足、つけまつげをつける女性のアップの場面にメインタイトルが被って、物語は1959年、西ドイツのアメリカ空軍基地に舞台が移って映画は始まる。カフェでくつろいでいた14歳の少女プリシラは、テリーという軍人に声をかけられる。エルヴィス・プレスリーと親しいのだが、彼のパーティに来てみないかというものだった。エルヴィスもまたこの基地に徴兵されて赴任していた。もちろん本国では引く手数多の大スターである。エルヴィスの大ファンでもあるプリシラは是非行きたいと思うが、両親は大反対をする。それでもテリーが紳士的に説明して、自分の妻と自分とでサポートすることを条件にパーティに行くことになる。

 

夢のような気持ちでエルヴィスのパーティに来たプリシラは、同じアメリカ本国出身者ということもあり、エルヴィスに親しく話しかけられる。すっかりエルヴィスに気に入られたプリシラは再びパーティに誘われ、エルヴィスの部屋で二人きりでアメリカ本土の話に花を咲かせるが、エルヴィスはまだ幼なげなプリシラにはキス以上のことは決して求めなかった。やがてエルヴィスは本国へ戻ることになり、一緒に行きたいというプリシラを残して帰っていく。

 

すぐに手紙や電話をすると言っていたエルヴィスだがプリシラには何の音沙汰もなく一年の月日が流れる。そしてようやく連絡が来て、本国へ戻った途端目まぐるしく忙しかったというのがエルヴィスの言葉だった。そして、メンフィスの自宅に来て欲しいとエルヴィスは言うものの、プリシラの両親は決して許さなかった。エルヴィスは直接プリシラの父に電話をして了解をもらい、プリシラは父とともにエルヴィスの家にやってくる。そしてエルヴィスの提案で、プリシラをメンフィスの学校に転校させ、卒業まで責任を持つから一緒に暮らしたいと言う。プリシラの父もそれを許し、プリシラはエルヴィスの家で暮らすようになる。

 

しかし、ツアーや映画の撮影でエルヴィスはほとんど自宅にいることはなく、プリシラは寂しい日々を暮らす。それでもエルヴィスの家族らは彼女に優しく、エルヴィスも帰ってきたらプリシラを第一に大事にしてくれるのでプリシラは別れている時の寂しさを紛らわせるのだった。そんな中、プリシラの求めに対しエルヴィスは決して彼女を抱こうとせず、ベッドを共にしてもキス以上のことはしなかった。やがてプリシラが学校を卒業した日、エルヴィスは彼女にプロポーズし二人は結婚、ようやくエルヴィスはプリシアを抱くのだが、すぐに以前のように家を空ける。

 

プリシラは、エルヴィスがツアー先やロケ先での女優らとのスキャンダルの記事を見るたびに、嫉妬よりも寂しさを覚える。やがてプリシラは妊娠し、娘リサが生まれる。エルヴィスも大喜びするが、エルヴィスは仕事のストレスから次第に薬に溺れるようになり、時にプリシラに暴力的な振る舞いをするようになる。それでも、エルヴィスはプリシラに優しかった。しかし、プリシラの寂しさは次第に心の中に蓄積し、リサと一緒に別居することになるにつけ、とうとう離婚を決意しプリシラはエルヴィスの家を出て行く。一人車を運転し門を出る彼女の姿で映画は幕を閉じる。

 

エルヴィス自身も孤独の中に沈んでいっているのだが、この作品はプリシラの孤独に焦点を当てる描き方になっていて、まだ十七歳にもならない幼いプリシラを大事にする大人の振る舞いのエルヴィスに、素直に抱いてほしいと寂しい思いをするプリシラの女心がたまらなく切なく思えてくる。ハイキーな背景で逆光を多用した絵作りと1960年代、70年代の空気感を醸し出すプリシラの心の変遷と外見の変化がとっても繊細に描かれているのが素敵な作品でした。主演のケイリー・スピーニーがとってもキュートで可愛らしかった。

映画感想「オーメン ザ・ファースト」

オーメン ザ・ファースト」

丁寧に作り込まれた脚本とストーリー展開がサスペンスとして面白い作品に仕上がっていました。オーメン三部作を知っていれば十分楽しめるし、知らなくても、それなりに楽しめる映画だった。監督はアルカシャ・スティーブンソン。

 

一人の神父ブレナンがハリス神父を訪ねてくるところから映画は幕を開ける。教会の修復の現場にいるハリス神父に懺悔するが、ハリス神父は全て終わらせるためだと呟く。そして外に出る二人の頭上から破壊されたステンドグラスが降ってきてハリス神父の頭が裂かれる。

 

1971年ローマ、司祭ローレンスに呼ばれてアメリカから修道女になるためにマーガレットが空港に降り立つ。目的の修道院に着いたマーガレットは以前から幻覚か現実かわからない夢を見るようになっていた。拘束され、顔に黒い布を被せられて、何やら獣のような息遣いに迫られる夢だった。

 

修道院に着いてシルヴァ修道院長に案内されている途中、一室でうずくまるカルリータという少女と出会う。不気味な絵を描き、危険だからと個室で暮らしているカルリータにマーガレットは不審に思う。マーガレットはルスという修道女志望の女性と同室になり、彼女に、宣誓式の前に夜遊びしようと誘われて、パオロという青年と出会う。その際、羽目を外して意識をなくしたマーガレットは目覚めると自室だった。

 

修道院で生活を始めたある日、カルリータに接触していた不可思議な一人の修道女が炎に包まれて自殺してしまう。さらに、修道院内にいる妊婦たちの出産も垣間見て、その異様さにマーガレットは気を失ってしまう。

 

そんなある日、ブレナン神父が接触してきてカルリータとは関わらない方が良いと言う。そして、話をしたいからとある修道院の一室に招かれる。そこでマーガレットは、キリスト教に仕える人々が二つに分かれ、一方は正当にキリストを敬うがもう一方はひとびとの信仰心を取り戻すために反キリストを誕生させて人類を目覚めさせようとしていると告げる。

 

過去に反キリストの生誕のために強制的に受胎させてスキアーナというコードネームをつけ管理してきたが、全て死産か異常出産で、唯一成功したのがカルリータだった。ブレナン神父はカルリータの出生の資料を持ち出すようにマーガレットに言うが、マーガレットは拒否する。

 

カルリータが別室で拷問されているかに疑いを持ったマーガレットはカルリータを救うべく、同室のルスの宣誓式で院長らの留守を見計らってカルリータの資料を持ち出そうとする。しかし、すんでのところで見つかり拉致されてしまう。その争いの中、カルリータの喉の奥に666に数字を認める。

 

マーガレットは拉致されたが、修道院の若き神父ガブリエルがマーガレットを救い出し、資料とともにブレナン神父の部屋に向かう。そして、過去に反キリスト出産のために生まれた赤ん坊のリストを再確認していて、母となるべく悪魔の獣に妊娠させられた女性は喉ではなく頭に666の数字が浮き出ているのを発見、そしてその666の数字はマーガレットの頭にあった。マーガレットもまたスキアーナで、しかもカルリータの姉だった。しかもマーガレットはすでに妊娠していた。おそらくルスに誘われた夜に儀式が行われたのだろう。

 

反キリストの出産を阻止するべくマーガレット、ブレナン神父、ガブリエル神父は知人の医師に堕胎してもらうべく車で急ぐが、途中、修道院の妨害に遭い、ブレナン神父らは気を失ってしまう。時間は6月6日6時となり、残されたマーガレットのお腹は急に大きくなりそのまま絶叫して気を失う。そして修道院に連れ戻され、出産することになる。

 

生まれてきたのは男女の双子で、待望の男子誕生で院長は抱き上げる。マーガレットは赤ん坊を抱かせてもらい、手渡すまいとロレンス神父を刺し殺すが、飛び込んできたルスによって赤ん坊は院長に奪い取られ、さらに、院長らの指示で火を放たれてしまう。そこへカルリータが現れ、マーガレットと、残された女の子の赤ん坊を連れて脱出。

 

院長らは車の中で、赤ん坊を誰に託すか物色して、「オーメン」一作目のローマ大使ロバート=グレゴリー・ペックの写真を見て決める。時が経ち、マーガレット、娘、カルリータは三人で暮らしていた。そこへブレナン神父が現れ、いずれ修道院から追っ手が来ること、そして生まれた男の子はダミアンと名付けられたことを告げて映画は終わる。

 

誰が悪魔の子の母親なのかと言うサスペンスを主軸に、いかにしてダミアンがこの世に生まれたかを理由づけして丁寧に描いた作品で、真面目すぎると言えばそれまでだが、今回のラストの話に続く本編を見たくなる展開のよくできたホラー映画だった。、

映画感想「のんき裁判」「パスト ライブス 再会」

「のんき裁判」

当時の映画スターが総動員で出てくる珍品的な娯楽映画で、スターがそのままの名前で出てくるので混乱はないけれど、即興劇で展開する様はまるでテレビバラエティの如くだった。監督は渡辺邦男

 

のんき裁判という裁判所があって、そこで、ハート泥棒をしたという高島忠夫小林桂樹が被告として出てくるところから幕を開ける。裁判官は藤田進で弁護士は笠置シヅ子で、検察官は田崎潤。そして次々と被告が入れ替わり、人々を笑わせすぎただの、映画の中で大量殺人をしただのコミカルな展開をし、それぞれに大スターが証人になったり、裁判官が入れ替わったりを繰り返していって、ラストはみんな勢揃いで大笑いしてエンディング。

 

まさに、並ぶスタジオの一角で、本編撮影の合間に顔を出しながら作った感満載の映画産業絶頂期の作品ですが、これだけのスターを一度に見れる贅沢感はこれはこれで相当に楽しめる映画だったと思いました。

 

「パスト ライブス 再会」

美しいカメラと淡々と進むシンプルなストーリー、素朴な作品ですが、堪らなく切なくなる物語に引き込まれていく魅力がある映画でした。監督はセリーヌ・ソン。

 

ニューヨークの一軒のバー、東洋人の男性と女性、そして西洋人の男性がカウンターに座っている。彼らはどういう関係だろうという客の声で映画は幕を開ける。そして24年前韓国、12歳のヘソンとナヨンが歩いている。ナヨンはヘソンにテストの成績を抜かされて泣いている。ヘソンとナヨンは幼馴染でお互い恋人同士のつもりをしていて、将来結婚することも考えている。そんな二人を応援するように両方の母親が二人を公園に連れていってデートさせてやる。実は近日、ナヨンの家族はカナダトロントへ移住することが決まっていた。ナヨンは作家を目指していて韓国ではノーベル文学賞は取れないなどと言っていた。

 

ナヨンは移住先でノラという英語名を名乗るようになる。そして12年が経つ。ヘソンはあれからもナヨンを探していた。たまたま映画監督をしているナヨン=ノラの父親のfacebookを見ていたノラは、そこにヘソンの書き込みを見つける。ノラはニューヨークに移っていた。早速友達申請して二人はネットを通じて再会、それぞれの12年間を話すようになる。ヘソンはいつ韓国に来るのかとノラに尋ねノラはいつニューヨークに来るのかとヘソンに尋ねる。ヘソンは今もノラが好きだった。しかし、お互いにお互いのところへ行くのは一年以上先だと告げる。

 

作家を目指すノラは作家招聘のサークルに参加することになり一人生活に入るが、そこでアーサーと知り合う。作家を本気で目指すノラはヘソンに、ネットでの会話を辞めようと告げる。そしてさらに12年の月日が流れる。ヘソンにも恋人はできるが、すぐに疎遠になってしまう。ヘソンは仕事の休暇でニューヨークのノラに会いに行くことにする。ノラはアーサーと7年前に結婚していた。ノラはアーサーにヘソンと会う旨を話す。

 

ニューヨークにやってきたヘソンはノラとひと時を過ごす。そして帰国する前の夜、アーサーに会うことになる。ヘソンはノラたちの家に行き、アーサーと一緒に食事に出てその後バーに立ち寄る。冒頭の場面である。ノラはヘソンに、前世の縁=イニョンについて話し、二人は前世でも結ばれない運命だったこと、こうしてアーサーと出会うことの奇跡の出会いを韓国語で話す。その姿をどこか寂しげに聞くアーサーだった。

 

バーを出て野良の自宅に戻った三人は、ヘソンがタクシーに乗る場所までノラは送っていくと言い、アーサーは見送る。タクシーが来るまでの2分間、ヘソンとノラはじっと見つめ合う。それは近いようで遠い距離だった。二人は抱きしめ合い。そこへタクシーが来てヘソンは乗って去っていく。一人アパートへ戻るノラ、自宅前で待つアーサーに抱きしめられノラは思わず泣いてしまう。こうして映画は終わる。

 

24年間のプラトニックな切ないラブストーリーを縁という東洋的なテーマを盛り込んで描く美しい物語は、決して仰々しい展開も派手な映像も見られないけれど心に染み渡る感動を呼び起こしてくれます。アーサーが韓国語を話せず、ヘソンも英語は苦手で、さらにノラの寝言が韓国語だけだとアーサーが寂しげに言う場面など、さりげないセリフや展開の中に心の機微が盛り込まれた脚本が上手い。残念ながらアカデミー賞作品賞を取るにはしんどいかもしれないけれど良質の映画だったと思います。