くらのすけの映画日記

「シネマラムール」の管理人くらのすけの映画鑑賞日記です。 なるべく、見た直後の印象を書き込んでいるのでネタバレがある場合があります。その点ご了解ください。

映画感想「碁盤斬り」「湖の女たち」「ミッシング」

「碁盤斬り」

少々脚本が荒っぽいが、なかなかの時代劇の傑作でした。様式美にこだわった絵作りが実に美しいし、物語のうねり、人の心の浮き沈みが丁寧に描かれているのがいい。ラストは古き良き時代劇を彷彿とさせるエンディングがとっても心地良かった。監督は白石和彌

 

長屋でその日暮らしをする浪人の柳田格之進の所に家賃の取り立てが来るところから映画は幕を開ける。なんとか待って欲しいと頼む格之進の家に娘のお絹が戻ってくる。気立てのいいお絹の姿に家主も這々の体で帰っていく。吉原の女郎屋の女将お庚に頼まれた篆刻を仕上げた格之進はそれを届けに行き、お庚に囲碁を指南して一両の金を受け取る。

 

その帰り、囲碁の寄り合い所に立ち寄った格之進は、萬屋源兵衛という男を見かける。彼は両替商で、この辺りではケチで有名な男で、碁が強く、この日賭け碁を打っていた。普段賭け碁はしない格之進だが源兵衛と一局打つことにする。しかし明らかに格之進が勝った流れだったが、途中で勝負を降りてせっかく手にした一両を源兵衛にくれてやる。そんな父を迎えたお絹は父を信頼して、家主に嘘をついて追い返してしまう。

 

ある日、源兵衛の店でいちゃもんをつけていた武士を追い返し、なんの礼も取らず帰った格之進を追って源兵衛と手代の弥吉が格之進の長谷にやって来る。そこで源兵衛は格之進と碁を打ち、以来二人は頻繁に碁を打つようになる。弥吉はすっかりお絹に惚れてしまい、格之進に碁を習えば良いという源兵衛の勧めを真に受けて、格之進の長屋に通うようになる。

 

ある中秋名月の日、源兵衛は自宅で月見をするからと格之進とお絹を招待する。そして、今まで使うことのなかった高価な碁盤を初めて持ち出し、格之進と碁を打ち始める。深夜に及んだ頃、源兵衛に金を借りていた商人が五十両の金を返済に来る。すっかり酔っていた番頭に代わって弥吉が金を受け取り源兵衛に手渡す。

 

源兵衛は碁の途中だったので金を手にしたまま勝負を続ける。途中厠へたつ。同じくして、格之進の元同藩の左門が訪ねてくる。格之進は彦根藩で奉公していた際、彦根藩随一の碁の打手柴田と試合をして、柴田に恥をかかせたため柴田の恨みを買い、刃状沙汰になった過去があった。さらに柴田は格之進を恨み、藩主の家宝の狩野探幽の掛け軸が無くなったのを格之進のせいにして格之進を追い出したのだが、実は掛け軸は柴田が盗んでいたことがわかる。そこで左門は城主から格之進を連れ戻すようにと命を受けたのだという。さらに、格之進の妻は柴田に言い寄られ強引に体を奪われて自殺したのだともう一つの真相を話す。格之進は源兵衛との試合に戻るも気が乗らず中座してしまう。

 

翌日、格之進は柴田を討つべく旅に出ようとするが、萬屋では、昨夜の五十両が見当たらず、源兵衛といたのは格之進だけだったことから、番頭は弥吉に、格之進に五十両の件を問い正しに行かせる。格之進は怒り追い返すが、嫌疑を晴らすために、お絹をお庚のもとへ身売りさせ、五十両を工面して弥吉に返し、もし、金が出てきたら弥吉と源兵衛の首を取ると約束させる。格之進を疑ったと聞いた源兵衛は弥吉と格之進の長屋に行くがもぬけの空だった。

 

格之進は賭け碁をしているという柴田を探すが、途中、掛け軸を取り戻すように命を受けた左門と出会い一緒に柴田を探す事になる。一方、お庚は金を用立てる際、大晦日まではお絹を店に出さないと約束し、年が明けたらお絹を店に出すと格之進に告げていた。お絹が吉原に行ったことを知らない弥吉は、たまたま主人の使いで吉原近辺へ行った際お絹を見かけてしまう。

 

格之進と左門があちこちの会所を回るうち、ある所で、年末に両国で行われる碁の会に柴田らしい男がむかったことを知る。格之進は左門とともに、両国の長兵衛の会所へ乗り込む。格之進は柴田と碁を勝負することにするが、負けが確定した柴田は突然格之進に斬りかかる。しかし、格之進に返り討ちされた末、柴田は介錯を格之進に頼み首を落とされる。その頃、源兵衛は来年の抱負の額を掛け替えようとして額の後ろに隠していた五十両を発見する。あの夜、厠へたった源兵衛は一時額の後ろに金を隠したのを忘れていた。弥吉はその金を持って吉原へ走る。

 

格之進と左門は吉原へ向かうが、時遅く門は閉じられる。そこへ弥吉が駆けつけ、五十両の件を詫びるが、格之進は約束通り、弥吉と源兵衛の首をもらうと萬屋へ向かう。源兵衛は弥吉を庇い弥吉は源兵衛を庇うなか、格之進は二人の目の前の碁盤を斬り二人を助ける。左門はは柴田から掛け軸を取り戻した。しかし格之進は左門に掛け軸を譲って欲しいと頼む。自分が追い出されたことで窮地になった部下たちの生活のための金にし、配ってやりたいという。左門は了解し、格之進は掛け軸を受け取る。

 

年が明け、弥吉とお絹の祝言が挙げられていた。源兵衛はあの時の試合の続きをしようと碁盤を取りに行って格之進のところに戻るが、格之進の姿はなかった。格之進は自分のせいで苦しんでいる部下達を救うため一人何処かへ向かって映画は終わる。

 

弥吉が、お絹が吉原へ行ったことを気づかせる時の色彩と映像を使った演出や、横長の画面に斜めに顔のアップを入れたり、至る所に映像演出を散りばめて物語を語らせているのがとっても美しい。やや唐突な展開とモダンな雰囲気がないわけでもないけれど、様式美にこだわった映像がとにかく秀逸。見事な映画でした。

 

「湖の女たち」

イライラするほどに重苦しくて暗い映画だった。ミステリー部分をもうちょっと表に出せば、もっと見やすくなったのだけれど、世の中への不平不満を押し付けてくるような強烈なメッセージ性にぐったりしてしまいました。松本まりかの体当たりシーン、福士蒼汰のわざとらしい生気のない演技、浅野忠信のオーバーアクトな演技などどれもがチグハグにまとまらず映画が雑多で方向が見えなかった。監督は大森立嗣。

 

明け方の湖、釣りをする男、岸に止めた車の中で一人の女が下着の中に手を入れる場面から映画は幕を開ける。近くの介護施設で100歳になる老人が謎の死を遂げる。どうやら人工呼吸器を故意に止められたらしいと、ベテランの伊佐美と若い濱中刑事が捜査を始める。伊佐美は、17年前、薬害訴訟の捜査の際に上層部の強引な中止命令でいたたまれない思いをした過去があった。そのせいか、今では強引で横柄な取調べをするようになり、疑問を感じながらも、濱中は子供が生まれる事もあり従っていた。

 

犯人としたのは施設の看護職員松本だったが、全く証拠もない中濱中と伊佐美が長時間の聴取と拘束で彼女を追い詰めていく。介護士の豊田は、たまたま濱中と知り合うことがあり、以来豊田は濱中に溺れていたが、濱中は捜査のストレスを豊田を辱めることで発散、豊田もまた自虐的な性格で濱中に近づくようになっていた。

 

死んだ患者が、かつて薬害訴訟に重要な証人としての立場にいた人物であり、戦時中生態実験をしていた731部隊の生き残りということもあり、池田という記者が今回の事件との関連を求めて調べ始める。映画は、池田の姿、豊田と濱中のドラマ、伊佐美の過去の苦悩を交互に描いていくが、今一つ核になる何者かが見えないままに平行線で描かれるので、視点が定まらない。

 

まもなくして、松本が精神的に参って事故を起こしてしまう。濱中らは警察署長らから叱咤されるが、伊佐美、濱中は意に介せずという雰囲気だった。しかし、松本は二人を告訴することになる。豊田は濱中に会いたいがために、そして濱中の注意を引くために、自分が犯人だと言ったろする。

 

そんな時、謎の動画が発見される。それは殺された患者の部屋の前まで撮った動画だった。それを伊佐美から教えてもらった池田は、そこに写っている車から、介護士の服部の娘が、事件の介護施設のそばでバードウォッチングをしていて、彼女が怪しいと判断し、付近の防犯カメラを伊佐美に調べてもらうが、怪しい人物はいなかったと言われる。

 

そんな時、池田は編集長から、薬害訴訟の事件を追うのを止めるように圧力がかかったと言われる。池田は単独で服部の家に行き、娘を問い詰めるが、結局追い返されてしまう。しかし池田は、以前の取材で殺された老人の妻のところに行った際、妻が若き日、日本人の子供たちが制裁と称してロシア人を殺すのを見たという話から、服部の娘も同様のことをしてるのではないかと判断する。一方、濱中と伊佐美は告訴の内容を認め、刑事を辞める。夜明け前の湖畔、池田、濱中らの前で服部の娘ら中学生らしい人物数人が介護施設へ向かうのを写して映画は幕を閉じる。

 

どれもこれも、ラストシーンにうまく結びつかないエピソードの連続になっていて、映画全体にまとまりがないのがちょっと残念。訴えたいことは見えなくもないのですが、なぜ豊田があれほど自虐的になっているのか、父親は何だったのか、濱田や伊佐美の心の苦悩も今一つ覇気に欠ける。とにかく誰も彼もセリフが暗いし、ボソボソするだけで、どうにも重苦しい映画だった。

 

「ミッシング」

子供が行方不明になった夫婦の再生のドラマ。石原さとみが少々オーバーアクトなところもあるものの、次第に狂気じみてくる雰囲気が熱演で、淡々と進む物語にスパイスとなって牽引していくあたりがよくできているし、ありきたりにマスコミやSNSの行儀悪さをしつこく描いていないのもいい。ラストシーンは綺麗にまとめられ、事件が解決する流れにはなっていないものの、かすかな希望が見えた気がしていい映画だった。監督は吉田恵輔

 

公園で遊ぶ幼い少女美羽の姿から、子供が行方不明になり、該当で情報提供のビラを撒く美羽の両親、沙緒里と豊の場面になり映画は幕を開ける。行方不明になり三ヶ月が経ったが情報も何もない。最後に美羽と遊んでいたのが沙緒里の弟圭吾だったが、圭吾は人付き合いができない性格であった。

 

地元のテレビ局の砂田らが美羽の事件を取り上げ、沙緒里や豊、さらに圭吾にも取材を進めるが、テレビ局が美羽の情報より視聴率狙いに傾倒していくことに砂田は疑問だった。沙緒里と豊はことあるごとに喧嘩をし、次第に沙緒里は狂気的になってくる。そして砂田を異常なくらいに頼り始める。沙緒里が美羽のいなくなった日にアイドルのライブに行っているのが明るみになったり、圭吾が美羽と別れた後違法カジノに行っていたのがわかったり、ネットの誹謗中傷や偽の保護連絡まで来るようになり、沙緒里は限界に近かった。しかし、時が流れ次第に周囲からも忘れられてきて、結局進展がないまま二年の月日が経つ。沙緒里は子供の安全のために何かできないかと緑のおばさん的な仕事までやるようになる。

 

ある日、美羽によく似た行方不明事件が起こり、沙緒里は同一犯ではないかと行方不明になった子供の情報提供のビラを撒いたりするが、その子はしばらくして母親の元夫という犯人が出て無事保護される。それを聞いた沙緒里は思わず涙ぐんでしまう。街頭でビラを撒いていた沙緒里達の前に、子供が見つかった母親が通りかかり、何か手伝いがしたいと申し出る。その声に豊はその場に泣き崩れてしまう。家で、美羽が壁に落書きした絵に窓から入ってきた光が瓶を通って虹を作っているのを見た沙緒里は、そっと落書きの美羽の頭を撫でて映画は終わる。

 

事件が解決せずに物語が終わるので、ちょっと辛いものがありますが、不幸に遭遇した夫婦とその周囲の人間ドラマ、彼らを取り巻く様々な姿が丁寧に描かれた映像はなかなか優れたものがありました。

映画感想「猿の惑星 キングダム」

猿の惑星 キンギダム」

もはや猿でなくてもいいんじゃないかという感じのシリーズですが、可もなく不可もない普通の映画でした。凝った展開もなく、シリーズものゆえなんとか次に続く展開は挿入されているものの、本編は極めて平凡で、ドラマの面白さも、人間と猿の関係の面白さも見えない。次あたりで最終章にするのか、その前の嵐の静けさ的な映画だった。監督はウェス・ボール

 

知能を得た猿が人間と共存する道を作ったシーザーが亡くなった300年の時が経っていた。この日、猿のイーグル族のノアらは儀式に使う卵をとりに森の鳥の巣にやってきた。なんとか目標の数を手にしたが、夜、ノアは人間の姿を見かけて追いかけるうちに卵を割ってしまう。仕方なく、一人もう一度森へ出かけるが、そこで、猿たちが殺されているのを発見する。殺したのは仮面を被ったプロキシマスら乱暴な猿軍団だった。身を隠してその場を逃れたノアが村に戻ってみると、村は焼かれ、プロキシマスらがイーグル族を拉致して連れ去った。その争いの中、父は殺される。

 

ノアは連れ去られた母たちを助けるためプロキシマスのアジトへ向かうが、途中ラカというオランウータンと出会う。ラカは、かつてエコ=人間が猿を支配していたことを説明する。ノアの後を一人の人間がつけてきた。ラカが声をかけ、ノヴァと名づけるが、実はノヴァは言葉をしゃべることができた。プロキシマスはノヴァを必要として追っていたのだ。そしてノヴァの名前はメイだと自ら名乗る。

 

しかし、追ってきたプロキシマスに追い詰められたノアたちは拉致され、争いの中ラカは川に呑まれて死んでしまう。ノアが連れて行かれた海岸のサイロは、プロキシマスが人間のトラヴェイサンに過去の知識を教えてもらい、シーザーと名乗って王国を築こうとしていた。サイロの扉を開け、中にある人間が作ったものを手に入れれば最強になると信じていたシーザーは拉致していきた猿たちを使って力尽くで開けようとしていたが開かなかった。サイロを開けるためメイの知識が必要だった。

 

サイロの開け方はメイが知っていたが、シーザーに教えなかった。メイはノアらと協力してサイロに侵入して、メイは目的のハードディスクを手に入れる。そして、扉を開いたが、待ち構えていたシーザーらに襲われる。中にあった拳銃を持ち出したメイは窮地を抜け、仕掛けていた爆弾を点火すると、海水を遮っていた堤防が破壊されて大量の海水がサイロへ流れ込む。ノアたちはサイロの上層部へ逃げ、シーザーも逃げてくる。しかし、ノアたちイーグル族に追い詰められ、イーグル族が飼っているワシに襲われたシーザーは海に落ちてしまう。

 

メイは手にしたハードディスクを持って人間の基地へやってくる。そのハードディスクを機械に挿入すると巨大なパラボラアンテナが作動し、全世界の人類に向けてメッセージが流れて映画は終わる。

 

オリジナル版を知るものにとっては、どこまで行ってもテーマやストーリーのスケールの小ささが目についてしまう。特撮や猿の造形は今の技術だとほぼ完全ではあるけれども、映画の作りの面白さはさすがに追いついていない気がします。

 

 

映画感想「パリでかくれんぼ」(4Kリマスター完全版)

「パリでかくれんぼ」

初公開時より10分長い完全版。ミュージカル仕立てなのだが、数曲しかダンスシーンはなく、ダンスホールでのソロでのダンスシーンやステージシーンはたくさんあるが、その辺りが中途半端な組み立てになっている。しかも三人の女性の物語の行末が全て寸切りで終わってしまう。それぞれが絡むようで絡まない。意図した作りなのだろうが、どこか即興演出の如き色合いのある作品でした。監督はジャック・リヴェット

 

一人の男ロベールが洗面所にいるとニノンという女性が入ってきて、分前をよこせと言う、どうやらニノンが男を引っ掛けてそれにイチャモンをつけたロベールが金を巻き上げているらしい。金を奪ったニノンはその場をさって映画は幕を開ける。別のカモに絡んでいたニノンに、ロベールが近づき金を奪おうとするが反撃され、ロベールはその男を刺し殺してしまう。やばいと思ったニノンはその場を去り、部屋を引き払って別のアパートへ行く。

 

5年の昏睡状態から目覚めたルイーズは、アイスクリームを買って、ホテルに部屋を取る。そこへ父親から心配の電話が入る。ルイーズの後ろにいつも謎の男がついてくる。装飾美術博物館の司書をしているイダは、公園の店でサンドイッチを買おうとして、一人の男に、どこかで見かけたと声をかけられ走り去る。彼女には気になる歌があり、住んでいる隣の部屋から聞こえてきたので尋ねると、ラジオからで、古い歌という以外わからない。イダは養子として育てられ、自分が何者かがわからず悩んでいる。

 

ニノンはバイク便の仕事を見つけるが、事務所の金庫がたまたま開けっぱなしだったので金をくすねてしまう。それを隣の舞台美術のアトリエのロランに見られた気がする。ルイーズは、叔母に会いたいと父に聞くがすでに2年前に亡くなっていて、家をルイーズに残してくれたという。ルイーズがその家に行ってみると、ロランがやってくる。彼は生前叔母から古い机を譲り受けたりしたという。ルイーズは時々めまいがおこる後遺症があった。しかし、ホテルのドアに差し込まれたバックステージというクラブの紹介状を手にその店に行くとそこにガルシアという男がいた。ルイーズはロランにガルシアのことを聞き、ガルシアが開催している地下のカードゲームの場に参加、あわや人殺しゲームに参加したと思いきや手渡された拳銃は空砲で、後をつけてきた男を撃ったことからその男と親しくなる。しかも、それがきっかけでルイーズはめまいの後遺症がなくなる。男の名はリュシアンと言って、ルイーズの父に頼まれたボディガードだった。

 

ニノンが宅配便で花をある屋敷に届けに行くとそれはルイーズの叔母の屋敷で、花の送り主はロランだった。ニノンはそこにいたリュシアンとも出会う。こうしてニノとルイーズは知り合う。リュシアンは、いつの間にかルイーズに恋焦がれてきたことをルイーズに告白する。

 

イダはたまたま図書館に来ていたロランから、気になっている歌がサラという女性が歌う古い歌だと知り、サラのナイトクラブに行き彼女がイダの生みの母だと思い込む。

 

ニノンはロランにルイーズのことを問い詰めると、ロランはルイーズの叔母から購入した机の引き出しにルイーズの父の過去の不正の証拠の書類を見つけたことを話す。ニノンはこのことをリュシアンに話し、リュシアンはルイーズに別れようと切り出すがルイーズは彼を愛していると告白する。

 

ニノンはロランのアトリエから証拠の書類を盗み出し、自室の靴の空箱に隠す。ロランがルイーズに書類を見せようとすると中に何もないので、ロランはニノンの部屋に行き書類を返すように言うがニノンはロランに目を瞑っておくように言って書類を持ってバックステージに行き、そこでルイーズと踊りながら彼女に書類を渡す。

 

ルイーズはホテルに戻り、書類を読んでいるところへ父から心配の電話がかかる。ルイーズは書類を破棄してやってきたリュシアンと踊り出す。ニノンは自室で待っているロランのところへ行き、宅配便の事務所から盗んだ金を見ているロランに、どうしようかと尋ね、ロランはニノンに、思うようにしたらいいと答える。

 

イダはサラの家を訪ねる。間借り人を探していたサラはイダを家に入れて案内するが、イダは少し考えさせてほしいと言って家を出て彼方に走り去って映画は終わる。

 

なんとも唐突なエンディングだが、三人の女性の日常の時間の一瞬を切り取った感のある作品で、今回の三本の中では一番わかりやすかった気がします。

映画感想「バジーノイズ」「無名」

「バジーノイズ」

ベタな話をベタな演出で描いた普通の映画で、心のうねりが全く見えてこないのは役者の力不足か演出力のなさか、なんとも伝わってこない映画でした。監督は風間太樹。

 

スマフォで音を取る主人公清澄の姿から映画は幕を開ける。自宅のアパートの一室で作曲をし、昼は管理人のバイトをしているが、夜中に曲を流すので苦情が来ていて、次やったら出て行ってもらうと言われている。この日、上の階に住む潮が廊下の電気を変えてほしいと管理人の所にやってくる。そして自分の上の階に住む人を教えてもらおうとするが清澄は知らないふりをする。

 

後日、インタホンがなり、潮が彼氏に振られたからと清澄の部屋にやって来て曲を流してほしいと言うが清澄は断る。しかし、結局清澄は音楽を鳴らし始めると、ベランダを壊して潮が入ってくる。その後清澄はアパートを追い出されネットカフェに移るが、潮が自分の部屋に住んでいいと清澄を誘い、二人は親しくなる。清澄が河原で演奏するのを潮が動画に撮ってアップしたらいきなり人気になる。潮は知り合いで音楽プロモーションの会社にいる航太郎を紹介するが清澄は乗ってこなかった。

 

そんな清澄は、かつて一緒にバンドを組んでいた陸が参加しているバンドを見に行くが陸は楽しそうではなかった。陸は清澄の動画から清澄の河原にやってきて、今のバンドに疑問を感じていた陸がバンドを辞め清澄と組むことにする。そしてAZURというバンドを組む。航太郎は今の事務所で次の仕事を進めようとしていたが、社長の沖が清澄に興味をもちはじめる。清澄はAZURの楽曲作成のため陸の部屋に泊まる。楽しそうに陸らとライブをする清澄を見ていた潮は自分の存在はもう不要と考え部屋を出て行ってしまう。

 

突然潮が姿を消したので清澄は落胆、そんな時、沖は清澄を利用することを考え、自社のスタジオに隔離して作曲に専念させることにすり。そして次々と作曲を進める清澄だが、本人は全く楽しくなかった。航太郎は会社を辞め、陸と一緒に潮を探し出して三人で清澄を助け出しに行く。そして沖を説得して清澄を連れ出し、陸、清澄らがライブしている場面で映画は終わる。

 

心の変化が大きくうねったストーリーなのに全くそれが見えてこないのは明らかに演技と演出の力不足でしょうか。音楽がとってもいいにで見ていられるけれど、あとはひたすら淡々と話が進むだけのなんの取り柄もない映画だった。

 

「無名」

時間と空間を前後させたり同じシーンを繰り返したりしながらまるでジグソーパズルのように穴を埋めていく作りは面白いのだが、題名の通り、それぞれの登場人物に名前を呼びかけるセリフがなく、顔だけで物語を追っていくのはなかなか大変だった。これをクオリティの高さだと言いたいが、整理するシチュエーションも作るべきではないかと思うのも正直なところでした。監督はチェン・アル。

 

ベンチに座る一人の男の横からのショットから映画は幕を開ける。このシーンはラストで再度登場するから、いわゆる戦後すぐということらしい。中国汪兆銘政権のスパイであるフーは中国国民党に寝返るというジャンの取調べをし、中国共産党の幹部の名簿を手に入れる。フーは仲間のイエと日中戦争を勝利に導くべく、諜報活動を続けていた。

 

フーは日本軍の上海駐在のトップ渡部にイエを信頼させて近づける。フーはその上司タンらと日本料理店で戦況について話し合っていた。時は1941年。そして映画は1937年に遡り、中国国民党中国共産党、そして日本軍の諜報戦が繰り返される様を描いていく。時に終戦後のカットを挿入したり、日本軍の中国での非道を描いたり、さらに日本軍と行動を共にしていた華族の男が殺されるエピソードを挿入したりと時間と空間を前後させながら、やがて真珠湾攻撃からドイツのソ連侵攻、そして日本軍の敗戦へと流れていく。その間、イエの婚約者ファンがタンによって共産党員だという理由で暴行され殺される事件や、フーが国民党の女スパイを助けたことから日本人要人リストを手に入れたりするエピソード、イエがタンを銃殺するエピソードが繰り返されていく。

 

終戦ののち、イエと渡部は一旦収監されるが渡部は国民党に軍事訓練を依頼され、それを断るもイエに殺されるくだりなどが描かれていく。実はフーが段取りをしてイエを渡部に近づけたというシーン、戦後の香港でイエが女スパイだったチェンにコーヒーを奢る場面などが挿入され、フーが雑踏に消える場面で映画は終わっていく。

 

とまあ、さまざまなシーンが短いカットと前後させる編集で描かれていく。凝った作りなのはわかるのですが、ストーリーテリングはもうちょっとちゃんとしてもらえたら、もっとわかりやすかったかもしれません。

映画感想「不死身ラヴァーズ」「またヴィンセントは襲われる」「胸騒ぎ」

不死身ラヴァーズ

シンプルで爽やかな青春ラブストーリーの佳作という感じの映画だった。とにかく、ファンタジックなロケーションとどこかシュールででもどこか心に思い当たるような一瞬を感じさせてくれるからいい。推しの見上愛の元気一杯の演技がとっても好感。素敵で気持ちのいい映画でした。監督は松井大悟。

 

暗闇の中からベッドに眠る7歳の少女の場面になって映画は始まる。間も無く死んでしまうという少女の声、傍に一人の少年が現れ少女の手に花を持たせて、自分は甲野じゅんと名乗る。すると、それまで瀕死の状態だった少女長谷部りのは突然ベッドを起き出して廊下に走りでる。そして彼女は高校生になって遅刻しそうに学校へ向かって走っていた。

 

ところが校門を入ったところで一人の男子高校生とすれ違う。なんと彼は甲野じゅんだと言う。りのは陸上部のリレー大会に出場するべくじゅんを誘い、夏休み、必死で練習するが、持ち前の明るさで参加メンバーはみんな大ノリになる。りのはじゅんに告白するが、次の瞬間じゅんが消えてしまう。その後、軽音楽部でギターを弾く甲野じゅんに出会うが、告白と同時に消える。さらに道で出会った車椅子の少年甲野じゅんにも告白した途端消えてしまう。クリーニング店でバイトを始め、そこの店長甲野じゅんに告白するが消えてしまう。その店にいた従業員花森に事情を話すが、なぜか花森も消えてしまう。りのの側には幼馴染の田中がいつもいた。

 

大学に入ったりのは、学食で、一人の元気な大学生甲野じゅんとまた出会う。新歓バーベキューで仲良くなったが、翌日、甲野じゅんに会うと彼はりのを忘れていた。一晩眠ると記憶が消える後遺症を持った大学生だった。りのは毎朝、じゅんの家に行き一緒に通うことにする。そして、毎日の終わりに告白するようにする。そんなことをバーで働く田中に話したりする。しかし、りのはじゅんに将来の夢で、じゅんと結婚して子供を作り、赤い屋根の家に住み、柴犬を飼うなどと話しても、結局じゅんは忘れてしまうことに虚しくなり始める。

 

ある日、大学の休みにりのとじゅんはデートするが、その後、ふとした事で離れてしまい、じゅんが家に帰っていないとじゅんの母に聞かされる。りのや田中がじゅんを探すが、そこで田中は、消えているのはじゅんではなくてりのの方だと告げられる。りのは人を好きになると強引に迫っていったり、その男性の未来を励ましたり、いろんな理由でみんな彼女の元を離れてしまうのだと言う。しかも、甲野じゅんではなくて皆別々の名前なのだ言われる。そしてその帰り道、りのは気を失って倒れてしまい、田中は病院へ連れていく。ベッドで横になるりののところに甲野じゅんが現れ、摘んできた花を手渡す。時が経ち、りのが理想にしていた赤い屋根の家と庭に柴犬がいる家で二人は暮らしていた。こうして映画は終わる。

 

ファンタジックなお話なのですが、パステル調の家々が並ぶ街並みの反対側に茅葺の甲野じゅんの家が立っていたりと舞台設定はなかなか面白くて、細かい絵作りの面白さと、不可思議な物語のフィクション感がなかなか面白い作品でした。

 

「またヴィンセントは襲われる」

ネタは思いついたもののその先はイメージが膨らまなかったと言う感じの適当そのものの映画だった。シチュエーションを変えたゾンビ映画という雰囲気の一本で、実につまらなかった。監督はステファン・カスタン。

 

パソコンの画面から会社で働く主人公ヴィンセントの姿になって映画は幕を開ける。どうやら建築関係の会社のようで、突然実習生の男が彼に襲いかかってくる。さらに、上司がボールペンで彼を刺しにくるが、しばらくすると、平静に戻っていた。ヴィンセントは、街で出会い系の女性と食事をしているとヴィンセントと目があった浮浪者がフラフラ近づいて来る。どうやら自分と目があった人間は自分に襲いかかってくることがわかる。

 

自宅の近所の子供にも襲われ、いられなくなって父親の家に行き、車を借り、別荘へ避難する。コンビニのそばで食事をしていて、一人の男に声をかけられる。同じ境遇だというその男は歩哨というサイトで情報を共有、犬を飼ったらいいととアドバイスして去る。ヴィンセントはある食堂でテイクアウトを依頼する。ヴィンセントは、自分に危害を加えられそうになりと飼っている犬が唸ることに気がつく。食堂で、注文品を届けにきた店員マルゴーにヴィンセントは惹かれる。

 

マルゴーは、嫌な男に追われているからとヴィンセントの車で一時避難したことがきっかけで急速に親しくなり、彼女の自宅兼ヨットでSEXするが、マルゴーが襲ってこないように手錠を準備する。やがて世間では暴力事件が起こり始め、どうやらヴィンセントが巻き込まれたのはなんらかの原因があるようだった。いつのまにかヴィンセントは襲われなくなったのだが、今度はマルゴーを襲ってしまうようになる。ヴィンセントに目隠しをし、マルゴーは自分の船に乗せてどこかへ旅立って映画は終わる。

 

とまあ、導入部のストーリー展開が、結局なんの進展も、なんの鮮やかな謎解きもなく、そのまま二人はどこかへ去って終わるというのはいかにも芸がない。しかも、登場する脇役キャラクターがなんの意味もなしていない脚本も雑だし、B級と割り切ればそれまでだが、正直全く面白くなかった。

 

「胸騒ぎ」

なんとも後味の悪い最低の映画でした。サイコホラーや悪魔付き映画の方がよっぽどマシ。子供をああいう風に扱うのは北欧の国柄なのかもしれないが、いかにも観客の感情を逆撫でする展開には終始気分が悪かった。監督はクリスチャン・タフドルップ。 

 

暗闇の中、車が走っていく車内の場面から映画は幕を開ける。イタリア旅行にデンマークから来たビャアン、妻のルイーセ、娘のアウネス。アウネスがお気に入りのウサギのぬいぐるみをどこかに忘れたと言ったのでビャアンが探しに行き、戻ってきたら、ルイーセらはオランダから来たというパトリックと妻のカリン、息子のアベールらと親しげに話をしていた。そして二組の家族は一緒に食事をして、それぞれ帰っていく。

 

しばらくして、ビャアンはパトリックからの手紙を見つける。そこにはオランダの自宅に招待するというものだった。ビャアンたちは最初は戸惑うが、週末だけならということで車で8時間の道のりを出かけることにする。旅で知り合っただけのパトリックたちはビャアン達を大歓迎するが、初日から何か不穏なものをルイーセは感じる。

 

パトリックたちの息子アベールは、生まれつき舌がなくて喋れない。アウネスのベッドは床だし、ベジタリアンだというルイーセに強引に猪の肉を食べさせたりする。さらに、近所の居酒屋に食事に行くことになるが、パトリックたちは勝手にアウネスをベビーシッターの預けて家に残してしまう。

 

夫婦同士で出かけた居酒屋では、パトリックたちは勝手にイチャイチャするし、勘定もビャアンに奢らせる始末。しかも帰りの車ではパトリックは大音響で音楽をかけ、泥酔い運転。帰ってから、ビャアンとルイーセがSEXをしているのをパトリックがのぞいていたり、ルイーセがシャワーを浴びているそばでパトリックが歯を磨いていたりする。さらに、ビャアンたちのベッドで寝たいというアウネスを勝手に自分たちのベッドに寝かせたりする。

 

パトリックたちの異常さを恐れたルイーセは、早朝にビャアンとアウネスを連れて帰ることを決意し車を出すが、途中、アウネスがぬいぐるみを忘れたと泣き出し仕方なく引き返し、パトリックらと遭遇する。謝罪するパトリックらの姿につい絆されたビャアンたちは後1日一緒に過ごすことにし、パトリックとビャアンは何故か意気投合する。一見、丸く治ったかに見えたが、アウネスがアベールを誘って両親の前でダンスを披露すると、パトリックはアベールを異常なくらい罵倒し、ルイーセは耐えられなくなり外に出てしまう。

 

その夜、明日の帰宅の準備をしてビャアンたちは眠るが、気になるビャアンが離れのプールを見に行き、アベールが死んでいるのを発見、さらに壁に無数に貼られた家族の写真に異常な違和感を覚え、この家を脱出することを決意する。そして三人で車を出すが、途中で車がクラッシュして立ち往生してしまう。そこへパトリックらが駆けつけ、ビャアンら家族を乗せて引き返すが、いつのまにか遠回りし、気がつくと、何やら別の男が彼らの車を迎え、アウネスを無理やり連れ去ってしまう。ビャアンとルイーセは、別の場所に連れて行かれ服を脱がされて殺されてしまう。アウネスが何処かへ連れて行かれる車内で映画は終わる。

 

結局、人身売買に巻き込まれたバカな家族の話で、一番怖いのは人間だと言わんばかりの犯罪映画だった。とは言っても、犯罪の違法性を訴えるわけではなく、ホラー形式で子供が犠牲になる展開は受け入れ難い嫌悪感を抱いてしまう。冒頭からいかにもな音楽を背後に不用意に挿入する作りも今ひとつ気持ちが良くないし、個人的には最低の映画でした。

映画感想「青春18×2 君へと続く道」「鬼平犯科帳 決闘」

青春18×2 君へと続く道」

一級品の出来栄えではないけれど、清原果耶の実力を目の当たりにするキュンキュンのラブストーリーでした。岩井俊二の「LOVE  LETTER」をキーワードにしているだけあって、あちこちにそれらしいシーンがあるけれど、シンプルで、やや懐かしい物語ながら素直に涙ぐんでしまいました。良かったなあ。監督は藤井道人

 

会社の役員会議でしょうか、主人公ジミーが会社から追い出されるくだりから映画は幕を開ける。どうやらジミーはゲームソフトの開発をしてきて成功したらしい。何もかも失ったジミーは18年前もらった一通の手紙を見て日本へ行くことにする。そして映画は18年前、ジミーが大学受験の頃に戻る。

 

台南に暮らすジミーは大学受験を終え、徹夜でゲームをしていてバイト先のカラオケ店にいくのが遅れてしまう。店長らに怒られたものの、アットホームなカラオケ店だった。流行っていないカラオケ店なので庭でバスケットで遊んでいたジミーは、一人の日本人の女性が訪ねてきたのに遭遇する。訪ねてきたのは日本から一人旅できたアミだった。アミは旅先で財布を無くしてしまい、バイトさせて欲しいと頼んでくる。ここの店長は神戸からここへ移ってきた人で日本語を話せるのだった。

 

アミがバイトを始めると、彼女目当てに客が押し寄せ、カラオケ店は大繁盛し始める。彼女の歓迎会が催され、アミは旅の目的として、自分にしか描けない絵を描くためだと旅のスケッチを見せる。それを見たジミーはカラオケ店の壁のダサい絵を描き直してもらおうと提案する。やがてアミは壁の絵を描き始める。そんなアミにジミーは次第に惹かれ始める。歓迎会の帰り、ジミーは自分の大好きな夜景の見える展望台へバイクに二人乗りで連れていく。

 

ジミーはアミに交際を申し込むべく「LOVE LETTER」の映画に誘うが、映画に感動しすぎてタイミングを逃してしまう。現代のジミーはアミの故郷福島県只見を目指して列車に乗る。そこで幸次という若者と知り合い、途中下車して、雪景色の中に「LOVE LETTER」を思い出し映画について聞かせる。

 

18年前のある日、アミはそろそろ帰国すると言い出す。ジミーは落ち込んでしまうが、父の励ましもあり、気を取り直し、アミが見たがっていたランタン祭りに誘い出す。そしてそこで手を握り、アミは抱擁を返す。現代のジミーは列車の終点の駅について、深夜ネットカフェに立ち寄るが、そこで由紀子と出会う。そして、たまたま見たポスターからこの地にもあるランタン祭りに行くことにする。18年前のアミと出かけたランタン祭りの夜と交錯する。

 

その後ジミーは一路只見へ向かう。そして地元の人の案内でアミの実家へやってきたジミーはアミの母裕子に会う。そこで、アミが残した台湾でのスケッチブックを手渡される。アミは心臓病で余命いくばくもない中で台湾へ旅行に来ていたのだ。そして次はブラジルへという中亡くなった。そして、18年前にアミが帰国してからが、スケッチブックを見直すジミーの姿に被り、二人の物語としてフラッシュバックと共に描かれていく。その後、ジミーは日本を後にし、新たな旅立ちを決意して映画は終わっていく。

 

ベタなストーリーと言えばそれまでだが、岩井俊二の「LOVE LETTER」へのオマージュ満載で描かれるオーソドックスなラブストーリーは、真っ直ぐに心に染み込んでくる感動を生んでくれます。シンプルこそベストという典型的な映画でとっても良かった。

 

鬼平犯科帳 決闘」

古き良き時代劇を堪能させてくれる面白さだった。池波正太郎の原作がいいのだろうが、芸達者な役者陣を揃え、オーソドックスな台詞回しと間合い、そして勧善懲悪な展開の中に、人間味あふれるドラマの機微が散りばめられた脚本がとっても素晴らしく、特に前半は秀逸。後半から終盤、若干もたつくのが残念ですが、それぞれのキャラクターも立っているし、本当に楽しめました。監督は山下智彦

 

若き日の長谷川平蔵は本庄鬼と呼ばれるほど無頼の徒だった。彼があるヤクザもののところに殴り込みに行くところからジャンプカットして現在の鬼平となった平蔵の姿で火付盗賊改で乗り込むところへ移って映画は幕を開ける。夜、闇夜を走る一人働の九平はこの日も一軒の蔵に忍び込み小判を手にしていた。そこへ、網切りの甚五郎の一味が押し入り、主人ら家族を皆殺しにして蔵に押し入ってくる。そしてその様子を九平は目撃する。

 

長谷川平蔵の邸宅にかつての知り合いの娘で一時盗人をしていたおまさがやってきて犬=密偵にして欲しいという。しかし平蔵は足を洗ったおまさを犬にすることは承知しなかった。たまたま平蔵は勧められて芋酒を振る舞う店に立ち寄った際、一人の遊女おりんと知り合う。さらに芋酒の店の主人は九平だったが、平蔵は知る由もなかった。九平は密かに帰る平蔵をつけるが、平蔵に気づかれたので身を隠してしまう。

 

平蔵は、九平が先日の押し入り強盗の何かを知っていると踏んで探し始めるが、おまさが九平のことを探す代わりに犬にしてもらうことを提案する。実はおまさは九平のことを知っていた。九平は押し入り強盗を目撃した際、引き込み女を目撃、それはおりんだった。さらに主人を殺した甚五郎はその血で鬼平の文字を床に刻んでいた。おまさと九平は甚五郎のアジトを突き止めるが逆に捕まってしまう。二人は窮地を逃れるため仲間になりたいと申し出る。おまさはそこでおりんと言葉を交わすが、おりんが平蔵への憎しみはすでにないと告白したのを甚五郎に聞かれ殺されてしまう。甚五郎は執拗に平蔵を憎んでいた。

 

甚五郎は、次に押し入る店を段取りし始め、おまさは平蔵に連絡するべく九平に手紙を託す。そしておまさが引き込み女として準備するが、情報を聞いた平蔵ら火付盗賊改が甚五郎らを取り囲む。甚五郎はおまさや九平が裏切り者と知ったが、その場は逃げてしまい平蔵は甚五郎を取り逃す。

 

おまさは甚五郎の次のアジトを探すために自ら囮になって捕まり、九平に平蔵にアジトを連絡させる。平蔵はおまさを助けるべく単身乗り込みおまさを助けるがまたも甚五郎は逃げてしまう。甚五郎は平蔵が若き日に惚れていたおりくに手傷を負わせた男の息子で、若き日に平蔵はおりくの敵討ちにその男を殺した。これが冒頭の殴り込みシーンである。

 

しばらくして、平蔵のところに、旧知の京極備前守から使者が来て、料亭での会食に誘われる。平蔵が家を空けると知った妻の久栄は、おまさを自宅に呼んで一緒に夕食を食べようということにする。ところが、久栄から平蔵が行った料亭の名前を聞いたおまさは、甚五郎のアジトで見た絵図面にその料亭の名があったことを思い出す。その頃平蔵は招かれた料亭で甚五郎と対峙していた。甚五郎の罠だったのだ。

 

平蔵は刀を預け座敷に入った上、弓に狙われて窮地に立つ。そして必死の応戦をしているところへなんとか火付盗賊改の面々が駆けつける。竹藪に逃げた平蔵を追って甚五郎が襲いかかるが、おまさの機転もあり、平蔵は甚五郎を倒す。晴れておまさは平蔵に密偵となることが許され映画は終わっていく。

 

往時の時代劇ほどのスケールの大きさこそ見られないし、久世龍がいた頃の殺陣アクションの華麗さこそないものの、しっかりとした間合いと映像で見せる骨太のオーソドックスな時代劇の風格が十分出ていた作品でした。

映画感想「水深ゼロメートルから」「ミセス・クルナスvs.ジョージ・W・ブッシュ」

「水深ゼロメートルから」

高校演劇の映画化なのですが空間を広げすぎた演出が、女子高生の細かい心の機微を表現する原作の意図を散漫にしてしまった気がします。決して悪い作品ではないし、不思議な感動を見せてくれるように思えるのですが、砂だらけのプールという空間が主人公の女生徒たちへの気持ちに集中出来ない結果になったのはちょっと残念です。監督は山下敦弘

 

8月を目前にした高校のプール、そこに砂が溜まっていて一人の女子高生ミクが何やらイヤホンをつけてプールの底で踊り始めるところから映画は幕を開ける。そこへもう一人チヅルがやってきて空っぽのプールで泳ぎ始める。ミクはヤマモト先生の指示で補習としてプールの砂の掃除をすることになっていた。そこへミクと同じく補習を受けるココロがやってくる。

 

チヅルは補習をする必要はないが、泳ぐ真似をしている。彼女は水泳部だが男子水泳部はインターハイに出かけている。ミクは間も無く行われる阿波踊りに男踊りを披露する予定だが、かすかに悩んでいた。チヅルは野球部のエースクスノキのことが好きらしい。しかし、野球部が練習しているためにその砂埃がプールに飛んできているのだった。

 

ココロはメイクが好きでそれを咎められて今回の補習になったようである。映画はココロ、ミク、チヅルの三人の会話で淡々と進んでいくが、中盤、元水泳部キャプテンのユイも参加することになる。ココロは途中で生理だからとトイレにはけ、ミクは飲み物を買ってくるとその場を離れるが、そこで野球部のマネージャーをしているレイカと出会う。レイカの話ではチヅルも野球部マネージャーを志望したが面接で落ちたらしかった。

 

飲み物を買った帰り、ミクはユイに会う。ユイはプールでチヅルに、自分より遅いことを責められ落ち込んでいた。ユイはチヅルが凄いと呟き、自分は特に好きでもなく水泳部にいるのだと告白する。ヤマモト先生が途中で作業状況を見にくるが、ベンチで横になっているココロと言い争いになりつい感情的になってしまうものの、直前で冷静になって戻っていく。

 

8月にプールの改修作業があり、それを知ってプールに入らなくてもいいようにヤマモト先生はこの日補習を決めたらしい。チヅルはどうやらクスノキに競泳で負けたことが気になっているらしい。男であること女であることにこだわるミクやココロとも言い争う。チヅルは集めた砂を持って、宣戦布告だ!と叫んで校庭のマウンドに砂をぶち撒けて帰ってくる。まもなくして雨が降り出す。ココロが慌てて屋根の下に隠れるが、意を決したようにミクが阿波踊りを踊り出して映画は終わる。

 

まさに舞台劇という様相なのですが、ちょっと空間を広げすぎた感じで、広いプール、校庭、中庭と移るカメラ、クローズアップを控えほとんどフルショットで捉える主人公たちの姿が、あまりに繊細な彼女たちの心を捉えきれなかった感じがします。いい作品なのは分かるのですが、原作の味を百パーセント映像に昇華できなかった感じでした。

 

「ミセス・クルナスvs.ジョージ・W・ブッシュ

実話を元にした作品なのですが、映画としてのストーリー構成は無視して、淡々と出来事を羅列する造りなので、次第に退屈になってくる。しかし、主演のラビエ・クルナスを、ひたすら悲壮感で覆った描写をせず、能天気なくらいに明るく描いた演出はうまいと思える映画でした。監督はアンドレアス・ドレーゼン。

 

2001年、いつものようにラビエは息子のムラートを部屋に起こしにいくところから映画は幕を開ける。ところがムラートの姿はなく、どうやら友人と出かけたらしい。しかし、いつまでも戻らないので警察に相談したりモスクに行ったりしたら、どうやら海外へ向かったらしいとわかり、まもなくしてキューバにあるグアンタナモアメリカ軍の収容所に拘束されたことがわかる。

 

ラビエは息子を取り戻すべく画策するも埒があかず、たまたま電話帳で見つけたドッケという人権弁護士に強引に会いに行って懇願、ドッケもラビエの苦境を察知して、無償で仕事を受けることにする。ラビエはドッケのアドバイスアメリカのブッシュ大統領を相手にアメリカ合衆国最高裁判所で訴訟を起こすことにする。

 

そして、周囲や関係団体の力もあり、勝訴するが、政治的な駆け引きの中、ドイツがムラートの帰国を拒否する。しかし、まもなくしてドイツ首相が変わり、考え方が正反対になって急転換、無事ムラートは帰国するがすでに5年以上の月日が経っていた。ムラートの妻は離婚し、ムラートは戻ってきたが複雑な思いを抱くことになり映画は幕を閉じる。

 

淡々と描く物語は、ある意味面白いのですが、いかんせん、映像作品としての仕上がりにまとまり切らず、作品としては普通の仕上がりだったように思います。