涅槃講和讃 その二

≪ 原 文 ・ 現代語訳 ≫

僧伽梨衣を脱去て(ぬぎさけて)     釈尊が大衣を脱ぎ捨てて
紫磨の色身見せしより          紫金色の肉体をお見せになってから
三千界(さんぜんがい)の地(ぢ)の上に この三千世界の大地から
八十種好(しゅごう)かくれにき     八十の優れた特徴を持つ釈尊はお隠れになってしまいました
恨しきかな我こころ           ああ、本当に恨めしい限りです
などかは過去の佛世にて         なんとか釈尊がこの世にいらっしゃった頃に戻って
佛語に随ひ修行して           釈尊の教えに従って修行し
大利を得る事なかりけむ         この上ない悟りを得たいものです
過去は過去とてさて過ぬ         とはいっても過去は過去でもう戻れません
未来は未来遥かなり           また未来は未来で遥か遠いのです
現在はげむ事なくは           とすれば今生きているこの世で一生懸命に修行しなければ
生死の出期(しゅっご)なかるべし    この苦しい輪廻からは解放されないのです
我等は生死の凡夫にて          私達は輪廻の世界に生きる愚か者ですので
一句一偈の縁あれど           釈尊の有り難いお言葉を片言に聞く御縁は有りましても
解脱の道を隔てつつ           とても悟りの道へは近付くことができませんで
かへりて三途に入ぬべし         かえって地獄や餓鬼畜生といった悪い道に落ちてしまいます
但し心に頼むべし            しかし一心に釈尊をお慕いするべきです
釋迦の名号聞つれば           釈尊の御名を聞けば必ず
いまだ發心せざれども          まだ悟りを求める心を起していなくても
菩薩種性(しゅじょう)に定まりぬ    菩薩の修行を積み悟りを得る種を植え付けられるのです
釋迦の讃嘆(さんだん)聞人は      釈尊を褒めたたえるこの講式を聞いた人は
寿盡の時に至るには           天寿を全うした暁に
佛みづから現前し            釈尊がおんみずからお出ましになり
浄土の道をぞ教へける          浄土へと至る道を教えて下さるでしょう
今はかへりて願楽し           さあ今は我が身を振り返って悟りを求め願い
是を生死の終(おわり)とし       今のこの生を輪廻の終わりとして
安養界(あんにょうかい)に往生し    必ず極楽浄土に往生して
弥陀の聖化に漏ざらん          阿弥陀仏のお導きに与ろうではありませんか!
如来涅槃諸功徳             釈尊の涅槃の諸々の功徳は、
甚深広大不可量             あまりに深くあまりに広く量ることのできないほどです。
衆生有感無不応             私達衆生釈尊を頼る心さえあれば必ず釈尊は応じて下さり、
究竟令得大菩提             この上なく有り難い悟りが得られるのです!

≪ 語 句 解 釈 ≫
【僧伽梨衣】(そうがりえ) 大衣・重衣とも・三衣の一つ・九条あるいは二十五条の袈裟。説法・托鉢の時につける
【色身】(しきしん) 肉身・肉体 姿かたちを持った仏の身体
【三千界】(さんぜんがい) 「三千大千世界」のこと。古代インド人の世界観による全宇宙
【八十種好】(はちじゅうしゅごう) 釈尊の面相の特徴
【佛世】(ぶつせ) 仏在世・仏のまします国
【出期】(しゅつご・声明はしゅっご) 生死の苦しみを出離する期限
【凡夫】(ぼんぷ) 愚かな人・一般の人たち
【三途】(さんず) 地獄・餓鬼・畜生の三悪道のこと
【名号】(みょうごう) み名・尊号
【發心】(ほっしん) 求道の念をおこすこと・悟りの智慧を得ようとする志を得ること
【菩薩種性】(ぼさつしゅじょう) 菩薩の修行を積んで必ず悟りに到達できる者
【種性】(しゅじょう) 修行する人の素質・悟りを開く素質
【讃嘆】(さんだん) 褒め讃えること・偈頌等で仏の徳を讃えること
【願楽】(がんぎょう) 知ろうと欲すること・願うこと
【安養界】(あんにょうかい) 阿弥陀の浄土・極楽
【聖化】(しょうけ) 優れた天子が人民に及ぼす仁愛の力

涅槃講和讃 その一

≪ 原 文 ・ 現代語訳 ≫

如来化導事おへて            釈尊の一代八十年のお導きが終わってしまい
婆羅林樹に隠れしに           サラ林にて入滅されてしまったので
衆生の明眼(みょうげん)消はてて    暗闇の私達を導いて下さる燈明が消えてしまい
長夜(じょうや)の闇ぞいと深き     長い輪廻の世界を進もうにも真暗闇です
阿難の七夢を顕して       阿難尊者が見た七つの夢について釈尊がその妄念を諭されましたが
生死の苦相現前す            私達はまさに今その妄念の世界を生きているのです
乞願はくは無上尊            どうか大恩教主釈迦世尊!
我等を捨(すつ)る事なかれ       私達を見捨てることなくお導き下さい
冥より冥に入ぬれば           無知の暗闇からまた暗闇へと私達は歩んでいきますので
佛法僧に逢がたし            有り難い仏の教えや聖者に逢う事が難しいのです
釈尊大利を施して            釈尊、どうか私達をお導き頂きまして
今度(このたび)苦しみ抜たまへ     今度こそ輪廻の苦しみから救って下さいませ
如来在世の當初(そのかみ)は      釈尊がこの世にいらっしゃったあの頃は
人天大會(にんでんだいえ)ことごとく  釈尊の教えに浴した全ての者が
生死の牢獄捨はてて           生まれ変わり死に変わる輪廻の苦しみから解放されて
解脱の宮にぞ遊びける          輪廻を脱した悟りの境地へと赴きました
我等其時しらざりき           しかし残念ながら私達はその時は知らなかったのです
いかなる悪趣に沈みてか      ああ、何という悪業によって釈尊を存じなかったのでしょうか!
大慈悲の利益にも           釈尊の広く大きな御慈悲にさえ
漏てはひとり留るらん          漏れてしまって一人この世に留まってしまったのです
罪業いかなる雲なれば          私達の罪は空にかかった厚い雲のように深く
佛の月輪(がちりん)かたもなく     仏という月が存在するにも拘らず見えなかったのです
生死はいかなる里なれば         生まれては死に輪廻を繰り返すこの世に
如来住事なかるらむ           釈尊が永遠にいらっしゃるはずがありません

≪ 語 句 解 釈 ≫
【化導】(けどう) 人々を教化して悟りに導きいれること
【明眼】(みょうげん) 目利き・聡明で物事に精通した人・物事の道理を見通せる人
【長夜】(じょうや) 凡夫が生死に流転して無明の眠りにさめぬ長い間
【阿難の七夢】    『阿難七夢経』にある阿難尊者が見た夢から釈尊がその妄念を諭したという逸話
【現前】(げんぜん) あらわれること・おこること
【無上尊】(むじょうそん) この上なく尊い人・仏の尊称
【冥】(みょう) 暗闇・無知
大利】(だいり) 大きな利益・衆生を利益すること・涅槃に入ること
【人天】(にんでん) 人間と神々・人間と天との世界の衆生
【大會】(だいえ) 説法の席・説法に集まっている多くの人々
【悪趣】(あくしゅ) 悪い所・悪業の結果として行かねばならない所
【罪業】(ざいごう)
【月輪】(がちりん) 月のこと

涅槃講式 第五段 廻向段

≪ 原 文 ≫

 第五に発願廻向といっぱ、願わくは、この恋慕渇仰の善根(ぜんごん)をもって、必ず見仏聞法(もんぼう)の大願(だいがん)を成就せん。

 それ仏に出没(しゅつもつ)なし。隠顕は縁に従う。閻浮界(えんぶかい)の中には入滅の化儀を示せども、他方刹の内には生身の説法あり。機に契って虧盈(きよう)を施す。日月の四州に出没するがごとし。物に任せて生滅を現ず。衆星(しゅしょう)の昼夜に隠顕するに似たり。

 いま恋慕の声を挙げて無余の空を響かし、悲歎の息を放って、涅槃の窓を叩く。教主釈尊は円寂の室(むろ)を出で、身子(しんじ)目連は大悲の門に趣く。星のごとくに馳せ、雲のごとくに集まる。華厳海会は虚空に住し、霊山聖衆は大地に満てり。証明(しょうみょう)何そ疑わん。知見何そ空しからん。何(いかに)況うや色身 法界に融ず、観智これ仏世なり。体性 実際を極む。機縁これ道場なり。
 
 ここに、大願の船を荘(かざ)って、恋慕の涙(なんだ)に浮べ、正信の帆を挙げて、渇仰の息に馳す。生死苦海は無念の朝(あした)の径、涅槃彼岸は無生の暮(ゆうべ)の棲んなり。その中間 近悪伴儻障(ちうげんごんなくばんとうしょう)を離れて、諸仏菩薩を友とし、不聞正法障(ふもんしょうぼうしょう)を捨てて、無上大法を心とせん。

 乃至(ないし)現当二世、所願円満、鉄囲沙界(てちいしゃかい)、平等利益。
 
 仍て伽陀を唱え礼拝を行ずべし。


(伽陀)如来涅槃諸功徳
    甚深広大不可量
    衆生有感無不応
    究竟令得大菩提

 南無娑羅林中最後寂滅紫金妙体


≪ 現 代 語 訳 ≫
 第五にこの功徳を以って廻向を志します。願わくは釈尊を恋い慕う正しい気持ちをくんで頂いて、どうか必ず釈尊にお会いして説法を聞かせて頂きたいという大きな願いを成就させて下さい。
 
 そもそも仏には生まれるとか亡くなるということは無く、いつでもこの世にいらっしゃるのです。しかし仏が見えたり見えなかったりするのは、その人その人の縁によるのです。私達のいるこの世では釈尊は入滅するというお導きを現わしましたが、仏の世界では生きたお姿で説法されているでしょう。仏はそれぞれの人の機根に応じて月の満ち欠けのように、この世に現れたり消えたりするのです。それはまるで太陽や月が見えたり見えなかったりするようなものです。つまり仏は私達の心の動きによってお出ましになったりお帰りになったり移り変わっていくのです。例えれば星が昼間は見えなくても夜になればきれいに見えるようなものです。

 今釈尊を恋い慕う大きな声は無余涅槃の空に響き渡り、私達の悲しみ歎く吐息は涅槃の境地に達した釈尊にも届かんばかりです。さあ大恩教主釈尊は悟りの世界からお越しになり、弟子の舎利弗尊者・目連尊者も釈尊の慈悲のみもとに集まってきました。まるで星のように速く、雲のように多くたくさんの人々が釈尊の説法に集まって参りました。『華厳経』の教えを聞こうとする多くの人々は虚空に遍在し、『法華経』の教えを聞こうとする人々はこの大地に溢れています。釈尊が証し明かして下さった教えをどうして疑う事があるでしょうか!釈尊のお考えがどうして空しい事がありましょうか!ましてや釈尊の肉体は大宇宙の真理と一体であり、釈尊智慧はそのまま仏のまします国へと誘ってくれます。釈尊の涅槃こそが究極の悟りのお姿なのです。釈尊の教えに出会った時が悟りへの修行のはじまりなのです。

 ここに悟りへと向かう誓願の船を仕立てて、釈尊を恋い慕う涙の海に浮かべて、仏法を信じる力を帆として、釈尊の徳を追い求めて駆け回るのです。生をうけたものは必ず死ぬというこの苦しみの海を進んでいくのも、ひいては妄念の無い悟りの境地へ通じる道であり、その道を進んで最後には住処である空の境地に達した涅槃という悟りの岸に戻っていくのです。とすると、ちょうど今この世とあの世の間に生きている私達は、悪い友と遊ぶ害から離れて、仏や菩薩を心の友として正しく生活せねばなりませんし、正しい教えを聞こうとしない心を捨てて釈尊の徳この上ない教えを肝に銘じなければなりません。
 
 重ねてお願い致します。今この世から来世に至るまで願う所が成就し、この世界に住む者が皆平等に仏の利益に与りますように。
 
 さあ、一緒に伽陀を唱えて釈尊に礼拝しようではありませんか!

(伽陀)釈尊の涅槃の諸々の功徳は、
    あまりに深くあまりに広く量ることのできないほどです。
    私達衆生釈尊を頼る心さえあれば必ず釈尊は応じて下さり、
    この上なく有り難い悟りが得られるのです!

 サラ林の中で涅槃に赴かれようとする釈尊の紫金色の御身体を礼し帰依致します。


≪ 語 句 解 釈 ≫
【発願廻向】 (ほつがんえこう) 願をおこして廻向すること
【廻向】 (えこう) 悟りに向かって進む・善行功徳を悟りに向かって廻らすこと
【善根】 (ぜんごん) 善行・良い報いをうくべき業因
【聞法】 (もんぼう) 仏の教えを聞くこと
【閻浮界】 (えんぶかい) 「閻浮提」に同じ・仏教の世界観で須弥山の南方にある大陸・私達の住んでいる所・この世
【他方刹】 (たほうせつ) 仏の世界
【生身】 (しょうじん) 釈尊の生まれながらの身体・肉身
【虧盈】 (きよう・きえい) 月が欠けることと満ちること
【四州】 (ししゅう) 仏教の世界観で須弥山の四方の海にある四大洲(南贍部洲・東勝身洲・西牛貨洲・北倶盧洲)のこと、転じて全世界のこと
【円寂】 (えんじゃく) 全ての無知と私欲を除いた悟り
【身子】 (しんじ) 釈迦十大弟子の一人である舎利弗のこと・「智慧第一」と称される
【目連】 (もくれん) 釈迦十大弟子の一人・「神通第一」と称される
【華厳海会】 (けごんかいえ) 海印三昧に同じ・仏が『華厳経』を説いた時に入った三昧で過去・現在・未来の一切のものが心中に現れる
【海会聖衆】 (かいえしょうじゅう) 多くの聖者たちの集まり
【霊山】 (りょうぜん) 霊鷲山のこと・王舎城の東北にあり釈尊が『法華経』を説いた場所
【証明】 (しょうみょう) 真実であることを証し明かすこと
【知見】 (ちけん) 智慧によって見ること・知識にもとづいた見解
【法界】 (ほっかい) 世界・宇宙・真理そのものとしての仏陀
【仏世】 (ぶつせ) 仏在世・仏のまします国
【体性】 (たいしょう) 体は実体・本体、性は体が不変であること・本性
【実際】 (じっさい) 究極の根拠・存在の究極的すがた
【機縁】 (きえん) 動機と心構え・機会・修行者が仏や師の導きに接しえた因縁
【道場】 (どうじょう) 修行の場所・悟りの場所
【大願の船】 (だいがんのふね) 衆生を救い悟りの岸へと運ぶ仏の本願を船に例えた語
【正信】 (しょうしん) 正しい信仰・仏法を信じる力
【無念】 (むねん) 妄念のないこと・とらわれのない正しい念慮
【無生】 (むしょう) 空
【中間近悪伴儻障】 (ちゅうげんごんあくばんとうしょう) 『華厳経』巻第三十三普賢菩薩行品第三十一にある様々な修行の差障りの一つ「佛子。菩薩摩訶薩。起瞋恚心。則受百千障礙法門。何等百千。所謂受不見菩提障。不聞正法障。生不淨國障。生惡道障。 生八難處障。多疾病障。多被謗毀障。生闇鈍趣障。失正念障。少智慧障。眼耳鼻舌身意等障。近惡知識障。近惡伴黨障。」
【悪伴】 (あくばん) 悪い友
【不聞正法障】 (ふもんしょうぼうしょう) 同じく『華厳経』に出てくる修行の差障りの一つ
【乃至】 (ないし) 甲から乙に至るまで・すなわち・甲と乙の中間
【現当二世】 (げんとうにせ) この世と来世にわたる幸せの祈り
【現当】 (げんとう) 現世と当来世
【所願】 (しょがん) 願う所・願い
【鉄囲】 (てちい) 鉄囲山のこと・仏教の世界観で最も外側にある鉄でできた山で外側が閻浮提・即ち私達の住む世界のこと
【沙界】 (しゃかい) 恒河沙(数が多い喩え)の世界
【平等利益】 (びょうどうりやく) 平等に益すること
【甚深広大不可量】 法蔵著『法華経探玄記』巻第十六 佛小相光明功徳品第三十に同じ表現がある
衆生有感無不応】 唐・若那跋陀羅訳『大般涅槃経後分』巻下 機感荼毘品第三の偈文からの引用

涅槃講式 第四段 そのニ

「涅槃講式 第四段 その一」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20120130/1327908075

≪ 原 文 ≫

 今、双林涅槃の像を拝見するに、如来頭北面西にして臥し、大衆前後左右に遶(めぐ)れり。師子虎狼、猛悪の威を収め、菩薩声聞、悲啼の貎を低(た)れたり。
 先づ瞻仰(せんごう)を作すに、身の毛且(かつか)つ竪(よだ)ち、次に啓白を致すに、心府忽ちに驟(うぐつ)く。ここに香花を供ずるに、禽獣羅刹に遍うす。最後の遺訓を受くるを貴ぶなり。悲恋を述ぶるに、双林提河に迄べり。如来の遺跡たるを馴(なつかし)うするなり。誠に今日の法式、耳目に触れて哀傷を催す。

 又涅槃部の聖教を披(ひら)くに、多く三水(さんずい)口篇の文字あり。これ菩薩声聞啼哭の儀(よそおい)、鬼畜修羅流涙の貎なり。
 若し然らば、三水は涕涙至于膝(ているいしうしつ)周迊五由旬(しゅうそうごゆじゅん)の涙河を湛え、口篇は大衆啼哭声、震動三千界の大声を吐けり。紐を解くに哀傷起り易く、字を見るに悲涙禁じ難きをや。

 何ぞ必ずしも智辯の開演を聞いて恋慕を生(な)し、委細の料簡を待ちて、渇仰を致さんや。
 
 仍って悲涙を拭い、憂悩を抑えて、伽陀を唱え、礼拝を行ずべし。

 
  (伽陀)次往涅槃処
      感仏最後身
      於此雙林下 
      利益群生類

  南無拘尸那城跋提河辺如来入滅娑羅双林

≪ 現 代 語 訳 ≫
 さて、今釈尊涅槃の図を拝見すると、釈尊は枕を北に、御顔を西に向けて横になっており、その周りを仏・弟子・あらゆる生き物が囲んでいます。普段獰猛なトラやオオカミも大人しくしており、菩薩や声聞の御顔も下を向き悲しみに暮れています。
 私もまず涅槃図を仰ぎ奉りますと、すぐに身の毛がよだつほど悲しくなり、次に表白を読み上げますと心臓の鼓動が速くなり、胸が張り裂けそうになります。そして涅槃図に香や花のお供えをして仏菩薩はもちろんのこと、猛獣や羅刹に至るまで遍く供養します。これは猛獣や羅刹達が釈尊の最後の説法を聞いたことを尊敬申し上げるからです。釈尊涅槃の悲しみを申し上げると、我が身はまるで遥か遠いクシナ城のサラ林・跋提河にまで至るようで、釈尊涅槃の遺跡を目の当たりにしているような心地さえします。本当に涅槃講式を聞き、涅槃図を拝みますと、釈尊涅槃の悲しみが一層増してきます。

 釈尊の涅槃の御様子を書いている『大般涅槃経』などの経典類をひも解くと、「さんずい」や「口へん」のついた文字がたくさん出てきます。これは菩薩や声聞が涅槃の悲しみに泣き叫んでいる様子や、猛獣や羅刹が涙を流している様子をあらわしているそうです。
 とするならば、『大般涅槃経』に出てくる「さんずい」は悲しみの涙があたかも周囲五由旬という広い地を膝まで浸す大河になった姿であり、「口へん」はまるで大衆の泣き声がこの三千大千世界を震わすほど響きわたっているかのようです。この涅槃講式を開くたびに涅槃の悲しみの気持ちが起り、字を見れば悲しみの涙を抑えがたいものをどうすればよいのでしょうか!
 
 どうして上手な説法を聞いたから釈尊を恋い慕う気持ちが生まれたと言えるでしょうか。どうして詳しく考え納得したから釈尊を崇拝する気持ちが生まれたと言えるでしょうか。違います!そのような説法や考察に関係なく釈尊を恋慕渇仰するのです!

 ああ、皆さん悲しみの涙をぬぐって、いろいろな心の悩みを抑えて、伽陀を唱えて礼拝しようではありませんか!

 (伽陀) 今まさに涅槃に赴く、
      釈尊の最後の姿を拝ませていただきました!
      沙羅双樹の下で、
      生きとし生けるものをお救い下さるのです!

 インド国クシナ城は跋提河のほとり、大恩教主釈尊が涅槃に入られたサラ林を礼し帰依致します。


≪ 語 句 解 釈 ≫
【声聞】 (しょうもん) 仏の教えを聞いて修行し悟る人
【瞻仰】 (せんごう) 尊み仰ぐ・仰いで尊敬恭敬する・みたてまつる
【且つ】 (かつかつ) 早くも・真っ先に
【啓白】 (けいひゃく) 「表白」と同義。法会の初めにこれから行われることについて本尊に申し上げること
【心府】 (しんぷ) こころ
【驟く】 (うぐつく) はやい・はしる
【法式】 (ほっしき) ここでは四座講式を読む法会、つまり常楽会のこと
【聖教】 (しょうぎょう) 仏の教え・仏の言葉・経典類
【涕涙至于膝周迊五由旬】 (ているいしうしつしゅうそうごゆじゅん) 竺法護訳『佛説方等般泥洹経』にある「悲哀皆啼泣 最後見世尊 諸天龍之類 周匝五由旬 涕流至于膝 除餘諸人民 難頭和難龍 六十億龍倶 皆來共啼哭 最後見世尊」からの引用 
【由旬】 (ゆじゅん) インドの距離の単位
【三千界】 (さんぜんがい) 「三千大千世界」のこと。古代インド人の世界観による全宇宙
智辯】 (ちべん) 自在に説法する働き、転じて上手な説法
【料簡】 (りょうけん) 考察検討すること・考えて選び分別すること
【憂悩】 (うのう) 心の悩み
【次往涅槃処 感仏最後身 於此雙林下 利益群生類】 菩提流支訳『大宝積経』巻第二 三律儀会第一之二の偈文からの引用

涅槃講式 第四段 その一

≪ 原 文 ≫

 第四に双林の遺跡(ゆいせき)を挙ぐといっぱ、我等滅後の悲(かなしみ)に泣く。何の時にか見仏の幸に咲(え)まん。哀悲の剰(あまり)に、嫉(そねみ)を中天の禽獣に懐き、恋慕の至に、恨を辺地(へんじ)の人身(にんじん)に遺(のこ)せり。仍て聊か双林の砌を像(おもいや)って、憖(なまじい)に愁歎の息を憩めん。

 拘尸那城の西北、跋提河の西岸に娑羅林あり。その樹槲(こがしわ)に似て、皮は青く葉は白し。四樹特(こと)に高し。如来寂滅の所なり。
 経に云く。
 大覚世尊涅槃に入り已りたもうに、その娑羅林、東西二双合(がっ)して一樹となり。南北の二双合して一樹となる。宝床に垂り下って、如来を覆陰(ふおん)す。その樹惨然として変じて白し。猶し白鶴の如し。枝葉花菓瀑裂堕落(ぼれっだらく)して、漸々に枯衰す。摧折して余なし と。
 或記に云く。
 その樹高さ五丈、下の根は相連り、上の枝は相合して、連理せるに相似たり。その葉豊欝(ぶうつ)にして、花車輪の如し。菓(このみ)大きにして瓶の如し。その味(あじわい)甘きこと蜜の如しと。

 摩耶夫人天より降って如来に哭せし処、執金剛神、地に躄れて金杵を捨てし跡。かくのごとくの遺跡、連々隣次せり。
 城の北、河を渡って三百余歩して、如来焚身の処あり。地今に黄黒なり。土に灰炭雑(まじわ)れり。誠を至して求請(ぐしょう)すれば、あるいは舎利を得。

 かの燈法師(とうほっし)の如きは、流沙の広蕩たるを渉(わた)り、雪嶺の嶔峯を陟(こ)えて情(なさけ)を六親に辞し、命を双林に終えき。見る人悲涙を流し、聞く者哀傷を催す。

≪ 現 代 語 訳 ≫
 第四にサラ林中での釈尊入滅の御様子を偲んでみましょう。私達衆生釈尊の入滅を思うだに、その悲しみに涙がこぼれます。私達も釈尊のいらっしゃった頃に生まれて、その御尊顔を拝す喜びを得たかった!悲しみのあまりに、かのインドの地で釈尊にお会いできた動物にさえ嫉妬し、恋しさのあまりに、私達がこの辺境の日本に生まれたことを恨み無念にさえ思ってしまいます。ですからその恋しく無念な気持ちをくんで、せめてサラ林での釈尊涅槃の御様子に思いを馳せて、少しは歎きを慰めましょう。

 クシナ城の西北、跋提河の西の岸にサラの林がありました。サラの樹はカシワの樹に似ていて、木の皮は青く白い葉をつけます。四本のサラの樹は特に高い樹で、この四本の樹の間が釈尊涅槃の場所です。
 『大般涅槃経後分』にはサラの樹について次のようにあります。
 「大いなる悟りを開いた釈尊が涅槃に入り息を引き取った時、四本のサラの樹は東西の二本の樹が垂れ下がって交叉し一本の樹となり、また南北の二本の樹も垂れ下がり交叉して一本の樹となりました。そのサラの樹は釈尊の伏した床に垂れ下がって釈尊の御体を覆ってしまいました。サラの樹は無惨にも白く枯れてしまいまるで白い鶴のようです。枝も葉も花も実もすべて枯れ落ちて、だんだんに木が枯れてゆき、ついに全て倒れ果ててしまいました」
 また『大般涅槃経疏』にも次のようにあります。
 「サラの樹の高さは五丈(約15メートル)もあり、木の根は合わさり、上の方の枝は垂れ下がって交叉して一つになっているようです。葉は鬱蒼と茂り、花は大きく車輪のように咲きます。果実は大きくて瓶のようで、甘くて蜜のような味がします」

 サラ林には釈尊涅槃を聞いて、お母様である摩耶夫人が忉利天から降りてこられて釈尊との別れを嘆いた場所や、執金剛神が悲しみのあまり大地に倒れて、持っていた金剛杵を投げ捨てた所といった遺跡が随所にあります。
 クシナ城の北、跋提河を渡って三百歩ほど歩いた所に、釈尊を荼毘に付した所があります。地面は今もなお黄黒色で、土には灰や炭が交っているそうです。真心を尽くして供養し、釈尊におすがりすれば、或は仏舎利を得ることが出来るかもしれません。
 
 かの唐の大乗燈法師は広大な流沙を渡り、ヒマラヤのように高く聳え立ち雪に閉ざされた険を越えて、親兄弟・縁者に今生の別れを告げてインドへ求法し、ついにクシナ城のサラ林でその命を終えました。大乗燈法師の最期を知る者は悲しみの涙を流し、その話を聞いた者は哀れに思ったものです。

≪ 語 句 解 釈 ≫
【双林】 (そうりん) 沙羅双樹のこと。鶴林・堅固林ともいう
【中天】 (ちゅうてん) ここでは中天竺の略。即ちインドのこと
【辺地】 (へんじ) 辺鄙な地・偏った土地(インドに対して中国を言う)この場合は日本のこと
【人身】 (にんじん) 人の身・人間としての身体
【憖に】 (なまじいに) 気がすすまないのにつとめて・しなくてよいのに無理して
【愁歎】 (しゅうたん) なげき悲しむこと
【拘尸那城】 インドの北部クシナガラのこと 釈尊が前世に王としてこの地を治めていた因縁で入滅の場所となった
【跋提河】 (ばつだいが;声明では「ばっだいが」)ガンジス川の支流
【娑羅林】(しゃらりん) 沙羅樹の林。クシナガラ釈尊入滅の地のこと
【槲】 (こがしわ) カシワのこと・日本では栢・檞の字もあてる
【大覚世尊涅槃に入り已りたもうに…】唐・若那跋陀羅訳『大般涅槃経後分』にある「大覺世尊入涅槃已。其娑羅林東西二雙合爲一樹。南北二雙合爲一樹。垂覆寶床蓋於如來。其樹即時慘然變白猶如白鶴。枝葉花果皮幹悉皆爆裂墮落。漸慚枯悴摧折無餘。」からの引用
【大覚】 大いなる悟りを開いた人・仏のこと
【その樹高さ五丈、下の根は相連り…】『大般涅槃経疏』にある「娑羅雙樹者。此翻堅固。株四方八株。悉高五丈。四枯四榮。下根相連上枝相合。相合似連理。榮枯似交讓。其葉豐蔚。華如車輪。果大如缾。其甘如蜜。色香味具。」からの引用
【連理】 (れんり) 一樹の枝が他の木と連なって一つになること
【摩耶夫人】 (まやぶにん・梵:Maha-maya) 釈尊の母親。涅槃図では忉利天から降りてくる様子が描かれる
【執金剛神】 (しゅうこんごうじん)「密迹力士」と同義。金剛杵を持って仏を護衛する神
【金杵】 (きんしょ) 金剛杵のこと。古代インドの武器で堅固であらゆるものを打ち砕く
【燈法師】 (とうほっし) 唐代の僧、大乗燈のこと。義浄の『南海寄帰内法伝』・『大唐西域求法高僧伝』にその名が見える。『大唐西域求法高僧伝』によると、愛州(現在のベトナム北部・ハノイ周辺)出身で、梵名:莫訶夜那鉢地已波。幼少の時に中国に入り玄奘の弟子となり、その後インドへ求法の旅に出て、クシナガラの涅槃寺で没した。
【広蕩】 (こうとう) 広く大きな
【嶔峯】 (きんぽう) 高くそびえる峰

「涅槃講式 第四段 そのニ」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20120131

京師櫟谷七野神社之事

「京師賀茂祭之事 後篇」http://d.hatena.ne.jp/kuzanbou/20110518/1305719658

 葵祭の記事で少しふれた櫟谷七野神社ですが、先日京都に行った際にひょんなことから訪ねてきました。

 …とその前に訂正です。前回の葵祭巡行路の地図は現在の京都御所の位置から斎院のある西陣、勅使との集合場所である一条大宮を記していました。しかし考えれば平安時代大内裏は現在と位置が違いますから全く見当はずれです。訂正しておきます。正確には誤差があるでしょうが、だいたい大内裏の北限を一条通、西限を大宮通として記しています。

 さて櫟谷七野神社(いちいだにななのじんじゃ)、場所を申しますと「京都市上京区大宮通芦山寺上ル西入社横町」…京都に通じておられる方でも想像しにくいと思います。
筆者空山房は別にこの神社目的で行ったわけではありません。学生時代によく行っていた鳥岩楼という老舗で昼の親子丼(800円)を久々に食べようと西陣五辻通りに行ったのですが、11時からと思っていたら12時からだった為に時間が余ったからです。…ということで一番わかりやすい行き方は、今出川大宮(交番がある小さな交差点)を北へずっと上がってかなり歩くともう一つ交番があります。そこを東に入っていくと、袋小路のようになっていて民家の間に鳥居があります。その先が駐車場になっていて奥が櫟谷七野神社です。

 境内に「賀茂斎院跡」の碑もあり、案内板には以下のように書かれていました。

 賀茂斎院跡
 賀茂斎院は、賀茂神社に奉仕する斎王の常の御所であった。
それは平安宮の北方の紫野、すなわち大宮末路の西、安居院大路の北(現在の上京区大宮通の西、廬山寺通の北)に位置し、約五十メートル四方の地を占めていた。斎王は嵯峨天皇の皇女・有智子内親王を初代とし(弘仁元年に卜定)、歴世皇女(内親王に適任者を欠く場合には女王)が補されたが、伊勢の斎宮とは異なり、天皇崩御または譲位があっても必ずしも退下しなかった。
 斎院は内院と外院から構成され、内院には神殿、斎王の起居する寝殿等があり、外院には斎院司、客殿、炊殿等があった。
 毎年四月、中の酉の日に催される賀茂の祭(葵祭)には、斎王は斎院を出御し、勅使の行列と一条大宮で合流し、一条大路を東行して両賀茂社に参拝した。斎王のみは上賀茂の神舘に宿泊され、翌日はまた行列をなして斎院に還御されたが、それは「祭の帰えさ」と呼ばれ、これまた見物対象となっていた。代々の斎王はここで清浄な生活を送り、第35代礼子内親王後鳥羽天皇皇女)に至った。この内親王は建暦ニ年(西紀 一二一二年)に病の為退下されたが、以後は財政的な理由から斎院は廃絶した。
 歴代の斎王に侍る女房には才媛が少なからず、ために斎院は歌壇としても知られていた。斎院の停廃後、その敷地は廬山寺に施入され、応仁・文明の乱(一四六七〜一四七七)の後、都の荒廃とともに歴史の中に 埋もれてしまったのである。

  平成十三年十一月
            財団法人古代学協会
                      角田文衞

 角田文衞博士(1913−2008)は京都大学の出身で濱田耕作門下の歴史学者です。古代史の大家で考古学から西洋史学まで大変範囲の広い博学でした。紫式部の研究でも知られ、現在の廬山寺の場所を紫式部邸宅跡だと論証されたのも氏です。(実にややこしいのですが、廬山寺は安土桃山時代まで櫟谷七野神社のある西陣にあり、秀吉の京都改造によって寺町に移りました。なので賀茂斎院跡→紫式部邸宅跡に移ったことになります)

 佐々木昇氏の『知識ゼロからの京都の神社』(幻冬舎・2010年)によりますと以下のようにあります。

 祭神:武甕槌命経津主命天児屋根命・比売命
  昔は七野社といった。平安時代の前期、染殿皇后の祈願により、奈良・三笠山の春日明神を勧請した。その後、伊勢・石清水・稲荷・賀茂・松尾・平野の六神を勧請し、「七の社」と号したという。
  また異説に、洛北にある北野・平野・蓮台野など、「野」の付く七つの地名、七野の惣社とも伝わる。
  江戸初期の『雍州府誌』には次の逸話がある。宇多天皇の皇后である藤原温子(東七条后)が、帝の愛が薄れたと感じていた時、夢でこの社の前に白砂で三笠山の形を作って願えばその思いが届くというお告げが あり、その通りにすると寵愛が戻った。それ以来本殿前に盛る白砂の山を「高砂山」と呼び、浮気の虫封じぶ霊験があるとされる。

 染殿皇后といえば文徳天皇の后ですから、斎院が出来た年代より後になります。しかし賀茂斎院自体が角田博士の記されているように「歴史の中に埋もれてしまった」ので七野社の付けたりになっているのはいたしかたないことかもしれません。
 …京都に関しては何回行っても新しい発見があり、そのたびに勉強になります。

河原林雄太陸軍少尉の履歴書 前篇

福岡縣士族 元小倉縣
河原林雄太
嘉永元年(1848)八月十五日生

明治三年七月十五日(1870) 常備五番小隊半隊長被申付 豊津藩
同年八月一日        東京為御警備上京外櫻田日比谷両御門警衞被申付 豊津藩
明治四年(1871)四月五日  歸藩被申付 豊津藩
同年五月十六日       練兵御用掛被申付 豊津藩
同年六月五日        練兵御用掛被免 豊津藩
同年六月十五日       西海道鎮台第二大隊豊後日田出張被申付 豊津藩
同年六月廿八日       分隊長教官助被申付 豊津藩
同年九月五日        久留米出張被申付 豊津藩
同年十月十九日       鎮台解兵ニ付皈縣被申付 豊津藩
同年十一月十四日      被本官免 豊津藩
同年十一月二十七日     鎮西鎮台召集ニ付軍曹心得ニテ熊本縣出張被申付 豊津藩
同年十二月廿四日      入営被申付 熊本鎮臺
明治五年(1872)正月廿五日 四等軍曹被申付 鎮西鎮臺
同年四月十三日       三等軍曹被申付 鎮西鎮台
同年六月十二日       歩兵第十二大隊一番小隊付被申付 鎮西鎮臺
同年八月八日        長嵜出張被申付 鎮西鎮臺
同年十月十四日       皈臺被申付 熊本鎮台
同年十月廿二日       二等軍曹被申付 熊本鎮台
同六年(1873)五月一日   一等軍曹被申付 熊本鎮台
明治六年六月十四日     福岡縣農民暴擧ニ付同縣出張被申付 熊本鎮台
同年八月十五日       歸台被申付
同年九月一日        歩兵第十一大隊第一中隊付被申付 熊本鎮台
同年九月三日        曹長勤務被申付
同七年(1874)二月十四日  佐賀縣貫属暴動ニ付同縣出張被申付 熊本鎮台
同年二月廿二日ヨリ同年三月一日迠  戦闘
同年三月九日        帰台被申付
明治七年四月五日      東伏見宮為御守衞佐賀縣出張被申付 熊本鎮台
同年四月五日        被任陸軍少尉
同年四月十八日       歩兵第十一大隊第一中隊付被仰付
同年四月廿五日       皈臺被仰付
同年八月廿八日       台湾蕃地出張被被仰付
同年十一月十日       依病気為養生長嵜病院迠差遣 蕃地都督府
同年十一月十五日      長嵜着港
同年十二月         病気全快ニ付皈台
同年十二月十二日      歩兵第十一大隊病気全快ノ者為取締福岡縣博多出張被仰付
同年十二月十七日      福岡縣管下博多屯在被仰付
明治八年(1875)三月廿九日 歩兵第十一大隊第一中隊付被免更ニ同第十四聯隊旗手被仰付
同年六月三十日       被叙正八位
同年七月廿一日       軍旗為拝受上京被仰付
同年九月九日        軍旗御授與相成即日皈隊
同年九月廿日        熊本着臺同■滞在被仰付
明治八年九月廿二日     皈隊被仰付 熊本鎮台
同年九月廿八日       為迎旗出臺被仰付

※(西暦)は参考として付与した。

 縁あってある史料に出会いました。「河原林雄太陸軍少尉履歴書」です。
 河原林少尉といっても現代には馴染みの薄い名前かもしれません。しかし、戦前では大変著名でした。明治十年、西郷隆盛の上京を機に起きた西南戦争において政府軍の将校として出征した人物なのですが、この時の詳しい話は後篇に譲ります。

 さて、この史料を見ると明治初年にどのようにして旧来の武士(士族)が鎮台兵(明治新政府の正規軍)に取り込まれていったのかがわかります。
 河原林少尉(以下この通称を用います)の出身藩である豊前小倉藩(小笠原氏・十五万石)は慶応二年(1866)六月、第二次長州征伐の荒波に飲みこまれます。当時小倉藩は藩主小笠原忠幹が前年の慶応元年に死去し、嗣子豊千代丸は四歳ということで、維新の嵐の中藩論の全く定まらない状況でした。とはいえ小笠原家は徳川家康の外曾孫にあたる家系ですし、特に「九州探題」を名乗っていたこともありもちろん佐幕藩でした。第二次長州征伐に際しては幕府の代表として老中小笠原長行唐津藩・小笠原分家)が九州方面総督として小倉で九州諸藩の指揮をとりました。しかし、逆に高杉晋作山県有朋率いる長州軍に小倉に上陸され、小笠原長行の撤退・九州諸藩の離反の中、小倉藩勢は自ら小倉城に火をかけ香春(現在の田川郡香春町)に落ち延びます。
 その後の講和の結果小倉城を中心とする企救郡長州藩に奪われ、明治になっても廃藩置県まで国の直轄地になってしまいます。小笠原家は藩庁を豊津(現在の行橋市)に移し豊津藩と称しますが、藩祖忠真公以来の小倉の地を去った藩士達は佐幕藩の苦労を嫌というほど味わうのです。戊辰戦争に際しても十五万石並の軍役や軍用金を申付けられましたから、藩士が貧乏しない訳がありません。

 河原林少尉は嘉永元年(1848)の生まれですから、第二次長州征伐の時点で数えの19歳、おそらくは若い藩士として苦労を味わったでしょう。
 そして維新の嵐も過ぎ去り旧藩主がそのまま知藩事となっていた明治三年(22歳)、豊津藩の常備五番小隊半隊長となっています。この年から翌明治四年にかけては東京で皇居警備の任についていますから、御親兵薩長土を中心に明治四年に集められた近衛兵の前身)以外にもこういう任務があったようです。小倉に帰ると今度は西海道鎮台日田分営に出ています。
 明治政府は明治四年に御親兵東山道鎮台(石巻)・西海道鎮台(小倉)を設置し、この武力を背景に廃藩置県を行いました。これによって全国を直轄地としたわけですが、この時点の鎮台というのは各藩に戦力を割り当てて出させたようで、豊津藩は日田分営の要員にあてられました。この履歴書でも「日田出張被申付 豊津藩」とあり、あくまで旧藩からの出向といったところでしょうか。こう見ると自分で書いててなんですが廃藩置県の背景に鎮台の武力は余り関係していないでしょう。
 とはいえこの日田出向は小倉藩士のその後を変えます。明治四年八月には西海道鎮台は廃止され、東京・仙台・大阪・熊本に鎮台が置かれます。これに伴って河原林少尉も十二月熊本鎮台(明治五年四月までは鎮西鎮台と称した)に軍曹心得として召集されます。ここでようやく「豊津藩」の人間ではなくなったのです。武士から士族へ…という意識の変化はこのあたりでしょうか。

 明治五年正月に「四等軍曹」となっています。この名称が調べてもよくわからないのですが…「一等軍曹」・「二等軍曹」という呼称は見当たるのですが。わかり次第補足します。その後順調に任官され、明治六年の筑前竹槍一揆(史料では「福岡縣農民暴擧」)、明治七年の佐賀の乱(史料では「佐賀縣貫属暴動」)、同じく明治七年の台湾征討(史料では「台湾蕃地出張」)と治安出動・出征しています。そして明治八年、少尉に任官され新設の歩兵第十四連隊の連隊旗旗手に任じられます。第十四連隊が新設されたのは河原林少尉の故地小倉。19歳の時に長州藩に小倉から追われた河原林少尉にとっては感無量だったでしょう。運命の西南戦争のはじまる二年前でした。


 ここまで河原林少尉を通じて佐幕藩の藩士日本陸軍将校へと移行する様子を見てきました。この小倉藩、草創期の日本陸軍にかなりの人物を輩出しています。その代表的な二人の人物の経歴をみて河原林少尉と比べてみたいと思います。

 一人目は河原林少尉と同じく嘉永元年生まれの小川又次陸軍大将を見ましょう。小川大将は「今謙信」と称され、日本陸軍の祖メッケル少佐にその才能を称賛された優秀な将軍でした。小倉藩出身ながら山県有朋に重用され日清戦争では第一軍参謀長、日露戦争では第四師団師団長として出征した日本陸軍史に輝く人物です。

小川又次
嘉永元年(1848)七月二十四日生
明治三年七月 兵学寮生徒
明治四年一月 権曹長心得
明治四年十二月 少尉心得
明治五年二月 少尉
明治五年五月 中尉
明治六年四月 大尉
明治七年四月 台湾征討従軍
明治八年一月 東京鎮台第一連隊付
明治九年四月 歩兵十三連隊大隊長心得
明治十年二月 西南戦争従軍

 小川大将の経歴を見ると、明治初年から陸軍士官学校の前身、兵学寮に入っており、河原林少尉とは比べられない速さの任官です。端的にいえば草創期の陸軍において、同年齢であっても当初の学歴・戦歴によってこれほど相違があるということです。もちろん小川大将が優秀だったことは間違えないのですが…

 二人目は奥保鞏元帥陸軍大将です。奥元帥は日本陸軍屈指の指揮能力と古武士の風格を持ち、皇族・薩摩藩長州藩出身者を除いて初めて元帥に任命されました。日清戦争では第五師団長、日露戦争では第二軍司令官として出征しました。特に日露戦争では薩摩・長州出身以外で唯一の軍司令官であり、参謀なしで近代軍事戦術を理解できる将軍でした。後には伯爵・参謀総長にまでなっている大人物です。河原林少尉よりは2歳年上で、小倉藩でも三〇〇石の家柄の上士でした。

奥 保鞏
弘化三年(1846)十一月十九日生
明治二年一月 足軽隊長
同年二月 東京遊学
明治四年五月 豊津藩常備四番小隊長
同年六月 西海鎮台二番大隊小隊長
同年十一月 陸軍大尉心得・西海鎮台
明治五年四月 大尉・鹿児島分営所
明治六年八月 熊本鎮台中隊長
明治七年二月 佐賀の乱出征
明治七年六月 少佐・歩兵第十一大隊長
明治七年八月 台湾征討出征
明治八年二月 歩兵十三連隊大隊長
明治十年二月 西南戦争出征
明治十年四月 熊本鎮台歩兵第十四連隊長心得
明治十一年十一月 中佐・歩兵第十四連隊長

 もちろん階級は奥元帥の方が上ですが、かなり河原林少尉と経歴が似ています。特に明治七年六月からは同じ歩兵第十一大隊で勤務し台湾にも同じ部隊で出征しています。佐幕藩の藩士が鎮台兵となり、日本陸軍の草創に関わっていく過程がよくわかります。

 次回は河原林少尉と西南戦争について書きます。

〜河原林少尉の出生年に関して〜 
 今回見た史料によると河原林少尉の生年月日は嘉永元年(1848)八月十五日となっています。しかし、秦郁彦氏編の『日本陸海軍総合事典』(東京大学出版会・1991年)には「慶応元年3月9日」とあります。どのような史料を参考にされたかは不明ですが、慶応元年というと西暦1865年、鎮台召集時点で6歳となり完全な間違いであると考えます。今回見た史料は大正年間に小倉市役所に提出されたものの写しと考えられますので、嘉永元年生を適当と判断します。


《参考文献》
・歩兵第十四連隊史編纂委員会編『歩兵第十四連隊史』(1987年)
・米津三郎編『読む絵巻 小倉』(1990年)
半藤一利・横山恵一・秦郁彦・原剛『歴代陸軍大将全覧 明治編』(2009年・中公新書