一昨日の日記については
友人に諫められて、自分としても大人げないという自覚はあったので、もう何も言わないでおこうかと思ったのだが、彼の方から、まとめらしきものが述べられているので、こちらとしても一応補足はしておかねばなるまい。
世界開放系
考えるエロ
http://sekai.bblog.jp/entry/237466/
「もしくは」という接続詞が存在していようがいまいが、乱暴な言い方をするなら、はっきり言って私にとってはどうでもいい。というか、「そしてそれと『構造に魅力がない』ことはイコールか?」という挑発のために、敢えて積極的に無視した。どうも彼はそこだけでなく、その一段自体を私の誤読のせいにしたいらしいが、最初に「ポルノ表現手法のなかでエロゲーだけが高度な物語世界を構築しえたのか?」というmixiでの彼の発言ありきだ、ということに自覚はあるのだろうか?これを前提に後の発言を解釈するなら、後の文章は全て「エロゲー最高!」という考えを補強する為の文章だ、となるのが自然ではないか?まとめをよんでみてもやはり、
エロマンガの構造はエロゲーほどに洗練されていないゆえ、エロをとってしまうと、そこに残るのはなんともビミョーな構造のみではないか、、ということです。
などと言っているので、私の持った第一印象は変わっていない、と言っておこう。
あと、今回の彼のエントリーで気になったのは
これはつまりかなりの数のエロゲーにおいてはエロ表現が『分け難くない』、逆にいえば、取ろうと思えば取れてしまう、と言いたかった。
というところ。薄々感じていたのだが、ひょっとして彼がプレイしているエロゲーって、いわゆる「泣きゲー」に分類されているようなものが殆どなんじゃないか*1?言ったそばから同じ失敗*2を繰り返しているように見えるのは気のせいだろうか。
ああ、やっぱりケンカ腰になってしまった。
最後に、「エロマンガは一つのもう終わってしまった物語の結果を描く」というのは、全てのエロマンガに対して言われた言葉ではない。それを言った友人のエロマンガ家が、彼自身の描いているエロマンガを評して言ったものであり、この部分については私の言葉が足らなかった。彼が描くようなタイプのエロマンガであればともかく、例えばレイプものとか調教ものに分類されるエロマンガは、彼の言葉が当て嵌まるとは言い難いかもしれない*3。なお、一つの物語が終わってしまった後にも、新たな物語は存在しうるのだから、彼の発言がエロマンガの物語性を否定するものではないことは、勿論である。この言葉が一人歩きするのは問題あるかもしれないので、補足しておく。
ちなみに、恋愛の過程を描きながら、連載エロマンガとして商業的に要求されること*4を満たし、成功した長編エロマンガと言われて、私が真っ先に思い浮かべるのは魔訶不思議の『猫じゃ猫じゃ』*5である。この辺やっぱりおっさんか?
*1:まあ前のエントリーで述べたように、私は年に2本もエロゲーをプレイすれば良い方な人間なので、断定はできないが、そうじゃない=エロ表現が『分け難い』エロゲーだって沢山あると思うんだが
*2:自分はほんの一部の偏ったエロゲーしかプレイしていないのに、エロゲー全てが分かっているかのような物言いをする、という
*3:ただ、「恋愛感情の極致としてのセックス」という考え方とオタクの思考は親和性が高いとは思われる。参考URL:北村透谷の末裔としてのヲタク 吉田基已『恋風』 (紙屋研究所)
*4:要は毎回エロシーンを入れること
*5:セールスがどうだったかは知らないが、単行本にして4巻分も続いたということは、それなりの人気作であったと判断してよいだろう
無視するのが大人だと思うが
腹が立ったので書いてみる。
世界開放系
なぜエロマンガはエロゲーのような批評の対象たりえないのか?
http://sekai.bblog.jp/entry/235929/
まず、リンク先のコメントでも指摘されているが、批評の俎上にあげられやすいことと、批評に値することとは別問題。なにやらコメントでフォローしてはいるが、そんな世に出た批評の数の問題じゃなく、この人がエロゲーよりエロマンガを低く見ている(それも訳の分からない理由で)ことは明らかだろう。しかも、この人がはてなでやっている質問を見れば分かるかと思うが、そもそもokamaがエロマンガを描いていた*1ことも知らないようなレベルの知識で、エロマンガ全体が分かっているかのような物言いをすることは明らかに傲慢*2。
以下、重箱の隅をつついてみる。
インタラクティビティというのは、受け手がその世界に干渉可能であるか、積極的に関わることができるか、ということです。
エロゲーは選択肢とか分岐とかいう方法で作品世界へ受け手の意思を反映できる。
これを、エロゲーにはインタラクティビティがある、と言います。
エロマンガにはインタラクティビティはそれほどありません
エロゲーにおいては、プレイヤーの選択によって後の展開は確かに変わる。エロゲーがインタラクティブというのは、まあ間違いではない。でも、「受け手がその世界に干渉可能であるか」というなら、それはエロゲーだってNOだろう。選択肢を選んだ先にあるのは「予め」シナリオライターが用意していた文章*3であり、それを受動的に楽しむプレイヤーでしかない。ゲームにおける分岐はあくまで定められた分岐でしかなく、その外には何もない*4。選択によってプレイヤーが自分の望むとおりの展開にできるエロゲーなんて、聞いたこと無いぞ。いやまあ私は年に2本もやればいい方なくらいエロゲーには疎いので、ひょっとしたらそういうエロゲーがあるのかもしれないが。
たとえばヒットしたエロゲーはかなりの頻度で、エロ表現だけを除いてコンシューマー機へと移植されていますが、エロマンガではこのような例はほとんど見られません。
これは何を意味しているのか、と。
「ほとんど見られません」どころか多分皆無だと思うが、そんなのはビジネスの構造の問題と、制作に要するコストの問題であって、物語の構造とは何の関係もない。逆にエロ要素を追加したPC版が発売される『To Heart2』なんて例もあるわけだが。
これは何を意味しているのか、と。
率直に言って、(一部の)エロゲーにおけるエロ表現は、ただエロゲーという流通経路に物語商品をのせるだけのための物でしかないのではないか、ということです。
ほとんどのエロマンガではこうはいきません。
これは前に書いた、『物語の構造とエロ表現が分け難く結びついている』ということです。
もしくは、構造に魅力がなくてエロを取ったらもう無いも残らない(原文ママ)、ということでしょうw
『物語の構造とエロ表現が分け難く結びついている』ことがそんなに悪いか?それは構造が強固だ、という証なのではないか*5?そしてそれと「構造に魅力がない」ことはイコールか?その上「エロを取ったらもう何も残らない」って語るに落ちてるな。エロのみが構成要素である作品の存在意義を全否定するあたりで、この人が、自分では意識していないかもしれないが、エロマンガをエロゲーの下に置いているだけなく、エロ表現を他の表現の一段下に置いていることが透けて見える。だったら最初からエロマンガもエロゲーも語るな。あと真面目な文章でwを使うな。嘲笑されているようで非常に気分が悪い(まあこれは難癖だな)。
「文化的批評」とやらの代表が東浩紀ですか。そりゃ高尚なこって(まあ、東浩紀は私も嫌いじゃないが)。
まあ最終的に彼に言いたいのは、語りたいならもっとエロマンガ読めよ、という一言だな。
*1:過去形にするべきじゃないか?
*2:okamaのエロマンガ経歴は、まあ最近のファンなんかだと知らないことがあるけど、この人の場合、語っていることの大きさと知識レベルの乖離が大きすぎるので、非難されてしかるべきだろう
*3:とか、「予め」原画師やグラフィッカーが用意していたCGとか、「予め」作曲家が用意していた音楽とか
*4:別にそのことを非難しているわけではない、それが当然の真理だと言いたいだけだ
*5:ここは意図的に誤読している。エロマンガに要求されるのは、限られたリソース=ページ数をいかにうまく活用するか、ということであって、そのためセックスに至る物語部分にページ数を割くことが出来かねる、というのは、エロマンガというビジネスが持っている構造上の弱点である、と言えなくもない。雑誌のカラーページを貰ったエロマンガが、話の流れをぶった切ることになるのを承知で、本来なら後半ページに来るはずのセックスシーンの一部を冒頭に持ってくる、ということもよくある。友人のエロマンガ家は、一般漫画とエロマンガの違いを評して、エロマンガは一つのもう終わってしまった物語の結果を描くのだ、と言ったことがあるが、蓋し名言である
万葉の政策
早速市役所へ出かけて選挙公報を貰ってきた。以下山下万葉の「私が取り組む主な政策」より引用
◎学校・いじめ問題
私は多摩大聖ヶ丘中学校の入学式から暴行を受けました。いじめは人間の存在と人格を否定する狂気です。文科省の責任で全てのいじめ経験者に人生の補償を行わせます。又いじめに対する教師の意識改革を行います。更に加害者の歪んだ性格を直す特別プログラムを組みます。元被害者を除く加害者に被害者の苦しみや孤独を理解させる教育を行います。いじめ・体罰の悲劇を拒絶する社会を目指します。◎アニメ・声優界改革による若者の雇用確保
志望者全員が確実に声優になれるよう、国が作る公設民営人材バンクを創設します。またアニメ文化の更なる発展を図り、作品の数を増やし、アニメ専門のTV局を国営で作ります。声優業界の体質を改善し世代の淘汰を図ります。既存の劇団、プロダクションそして悪名高き専門学校と養成所の廃止を目指します。◎性風俗対策・グループホームの整備
風俗店で働く女性たちの心のトラウマは深刻です。彼女たちの生い立ちに原因があります。心と身体を癒す同じ仲間同士で過ごせるグループホームを整備します。また彼女たちをいたわる、肉体関係を結ばないことを前提とした優秀で優しい男性の世話人を確保します。又性風俗問題の社会全体への啓発を図ります。◎ディズニーの女性問題と外交親善使節団結成
東京ディズニーリゾートをはじめ、全国の遊園地で接客をしている若い女性の地位向上を図るため、彼女たちが直接運営する様々な歌劇団や野球をはじめとしたスポーツチームを創ります。また外務省に、ディズニーランドに多い童顔で天真爛漫な美しい女性でつくる外光*1親善使節団を創り、日本外交の要に据えます。更に各企業の女性で作る女子プロ*2野球チームと統合し、編成し、日本に女子プロ野球リーグを誕生させます。これを女子野球に打ち込む少女たちの将来の受け皿とします。◎青少年の居場所づくりと部活動活性化
青少年が様々な遊びをし、自然の中を冒険する青少年施設を全ての市町村に造ります。小学校から青年までの幅広い多世代が、確実に集まり、心の触れ合う喜びを高める方策を実現します。また放課後の部活動に子供と一緒に遊ぶ相手役としてディズニーランドの若い女性キャストを招きます。心優しいディズニーのキャストを教師に登用します。
実はこの政策の前に書かれた文章がまた、かなりゆんゆん飛ばしているのだが、恐ろしく意味が取りづらい上に、それなりに長くて引用するのだるいので割愛。
つうかポスターにあった「巫女さん政策」は? どんな政策なのか知りてえなあ。
彼がどっかおかしい(もう少し穏当な言い方をすれば思いこみが相当激しい)、という考えは変わらないし、彼の主張は全部が全部どこかしら変でとても賛同できるようなものではない。当然私の一票を彼に投じるようなことは100%あり得ないが、まあ彼がいじめを憎み、大好きなアニメの将来を憂い、大好きなディズニーランドで働くかわいい女性たちのためを思い、行きつけの風俗店にいるお気に入りの姫の身の上話を不憫に思い、彼なりの正義感を持って立ち上がったことは確かなのだろう。いやまあ全部想像だが。
この選挙公報を読みながら友人と話していたのだが、これを読むだけで彼の半生がなんとなく想像できるのは微笑ましい。ちょっと前にはやった「バカ日本地図」の山下万葉バージョンなんてのも容易に想像できる*3。
こういうことがあって改めて考えるのは、オタクの利害を代弁する議員、ってのはいてもいいような気がするなあ、ということだ。もちろん万葉みたいなアレじゃダメだが。例えばコミケの米澤代表みたいに、オタクの中で知名度の高い人を中心とした政党が、参院比例区から出たら、一人くらいは当選させられなくもないだろうし。青少年健全育成を建前にした「有害」情報規制とか、あほなことが画策されている状況を鑑みても、我々がその気になれば議員の一人くらい送り込めるんだぞ、と示すことには意義があるだろう。
…とここまで考えて気づいたのだが、一言でオタクの利害と言ってみたところで、オタクは職業じゃないんだから、簡単には一致しないわな。業界団体が議員を推薦するようなわけにはいかないか。
もうニュー速とか議員・選挙板にスレが立ってるけど
東京22区から立候補している「山下万葉(やましたばんば)」という候補者、さっきポスターが貼られていたのを見たのだが、こいつは変だ。
ポスターに書かれた選挙公約はこう(わざわざ家までメモ帳取りに引き返した)。
- ディズニーランドの乙女達を外交親善大使に!
- より良き人間関係を創る友達バンクを!
- 性風俗問題を啓発する法律の制定とグループホームを!
- アニメ・声優界を変える!人材バンクの設立を!
- 巫女さんの将来に希望のもてるサポート体制を!
- ストップ・ザ・矢野!狛江市長の偏狭なナショナリズムを許さない!
唯一神のような一目でアレとわかる派手さはないが、いきなり巫女さんが出てきたかと思ったら、国政選挙なのに狛江市長の攻撃をしてみたり(どうもこの山下万葉、狛江市の矢野市長の Web サイトの掲示板で大暴れしていたようで…*1
*2)、深く静かにアレだ。いや、何気なく歩いていてふと目にしたポスター(その次点で奇天烈な公約までは目に入らなかった)が気になって引き返す、という行動を取らされたことを考えると、やっぱり一目でわかるアレなのかもしれん。
しかもこいつ25歳。なんも活動しないにしても(まあポスターは作ったわけだが)、供託金は取られるわけで、どっから選挙資金が出てるんだろう。
知らないことは罪じゃない…けど
向こうから辿られてしまうのは嫌なので敢えてトラックバックはしないで
ttp://d.hatena.ne.jp/rain666/20050714#p2
『げんしけん』6巻特装版の付録同人誌に執筆している作家陣に対する言及である。先月末の発売前後から、2chの『げんしけん』スレやはてなでの言及を観察していて、色々思うところはあったのだが*1、この人の知らなさ加減、そして知ろうとしない態度は私が見てきた中では群を抜いている、と思う。たとえば
|・)あさりよしとお
|・)今まで「あさとりよしお」だと思ってました
|・)でも名前覚えてる(間違ってたけど)だけで、何もシリマセン
|・)…と思ったんですが、絵を見るとどっかで見たような
|・)宇宙家族カールビンソンが代表作なようです
|・)まぁやっぱり良く知りません
とか、
|・)二宮ひかる
|・)これまた全然わからない
|・)調べてもいまいち、、ヤングアニマルの人なのかな
|・)萌えなのか燃えなのかわけわからない雑誌
|・)チャンピオンっぽいですね、バキとエイケンみたいな
|・)エイケン終わったはずだけど
とか、
|・)TAGRO
|・)知りません
|・)調べると、、Gファンタジーですかぁ
|・)ガンガン系は、なんか分裂しすぎて
|・)追っかけるのも面倒なんですよねぇ
|・)コミックブレイドかなんかの、御家分断騒ぎが
|・)さらにややこしいというかなんというか
|・)Gファンタジーはなんと言うか
|・)あのこぎれいな絵が嫌いです、ゲットバッカーズみたいな
|・)そういうのが好きな方ゴメンナサイ
とか。きりがないのでこのへんにしておくが。
知らないこと自体は別に罪ではない*2。マンガ好きであれば、あの付録同人誌の作家陣は作品を直接読んではいなくても名前くらいは全員知っている*3、というものだとは思うが、5巻までで累計150万部、単純計算して1巻当たり30万部という数字は、アフタヌーンの発行部数より多いのだから*4、マンガ好きには当てはまらない読者も相当数いるだろうし、中高生くらいだったらマンガ好きをはじめて自覚したマンガが『げんしけん』という可能性もあるかもしれない。
つうか『調べてみた』と言いつつこの『わかりません』のオンパレード。『ガルフォースの古い資料探して、古本屋回ったもんです(略)ビデオ借りるほど裕福ではありませんでした、当時』と書いてあるところを見ると、そんなに凄く若い人って事もなさそうだし、ひょっとして韜晦してんのかなあ、でもこんなところで韜晦するメリットって絶無だよなあ、とか思ったり。この作家陣だったら、Google検索すれば本人サイトか熱心なファンサイトか作品に関する言及に当たるだろう、とかそもそも全員はてなでキーワードになってるだろう、と思うと、いったいこの人の言う「調べた」ってのは一体なんなんだろう、と。
繰り返しになってしまうが、知らないこと自体は罪ではないし、逆に知っていることが偉い訳でもない。単にちょっと早くそのことに興味を持っていたとか、環境がちょっと恵まれていたとか、そういう条件が整っていただけにすぎない。それに自分だって興味を持っていないことは全然知らなかったりするわけだから。でも、自分が無知であることに無自覚にその情報を世界に向けて発信することは、罪というかはっきり言ってリソースの無駄というか、少なくともこんな「わからない」だらけの情報を何の芸もなく垂れ流すことは、世界にとって有益でないばかりか自分の恥をさらす以外の何物でもないよなあ。でもこの人の自己評価によると
|・)こんなもんですか、実はまぁまぁ知ってたのが驚き
「まぁまぁ知ってた」という結論に達してしまえることが驚きです。
ありえねー
本棚に何故か同じ本が2冊あったりすることがある。大長編マンガをちびちび買っていたらどこまで買ったか忘れてしまったとか、買ったはずなのにどうしても見つからない本を「捜すのが面倒くさいから」ともう1冊買ったら今までどこを捜しても見つからなかった本がとたんに見つかったりとか、オンライン書店で注文した本が全然届かないので「品切れ?」と不安になって店頭で見掛けたときについ買ってしまったりとか、まあ理由はいろいろだ。どの理由にしてもダメダメなのは変わりないが。
なんでこんな事を書いているのかというと、ようやく色々と一段落ついたので、とりあえずは生活スペースを大幅に浸食している本をすこし整理しようと本棚の整理をはじめてみたところ、いきなり『クロマティ・ハラショー』*1が2冊ずつあるのを発見してしまったからなのだが。つうか何が当時の私をここまで突き動かしたのかは、今となっては完全に謎、つうかありえねーだろそれ。
*1:考えてみるとこのマンガが描かれた頃はまさしく、今話題のウォーレン・クロマティの全盛期だったわけですが
松文館裁判
第一審の時は2回(斉藤環氏と藤本由香里氏が証人に立った第7回と、奥平康弘氏が証言に立った第8回)、控訴審では1回(ちばてつや氏が証言に立った第4回)の計3回傍聴に行った松文館裁判の控訴審判決が出た。
報道されている通り、判決内容は、第一審判決(懲役1年執行猶予3年)を破棄し、罰金150万円に処する、というものだった。『蜜室』はわいせつか?とという点については、チャタレイ裁判で示されたいわゆるチャタレイの三要素(50年前のもの)に、四畳半裁判で示された基準(30年前のもの)を加味した判断だったそうで、第一審の中谷裁判長(どうでもいい情報だがこの人あのスーパーフリー裁判で、和田サンはじめ何人かの裁判を担当した)が「わいせつかどうかは裁判所が決めるんじゃ文句あるか(大意)!」と言っていたのと比べるとわいせつの認定については一歩前進ともとれるようだが、今の時代状況に即したわいせつの基準を出させたい(第一審から一貫してゾーニング論を主張してきたのも、その辺を睨んでのことだろう)、という弁護側の目論見は外れたということになるよなあ、やっぱ。
この事件に興味を持っている人なら大抵知っていることだが、一連の出来事は平沢勝栄議員が警察に圧力をかけたことから始まったもので、別に『蜜室』自体が同時期の他のエロマンガと比べて特別に過激だったという事実はない(修正だけを基準にしても、もっと薄いものは沢山あったし)。それはつまり『蜜室』レベルのエロさがあれば、いやあれよりエロくなくても、警察の裁量次第でどのエロマンガ家も逮捕されかねない、という状況は大して変わってない、ということになる。ちばてつや氏が証言した控訴審の第4回公判終了後の説明会で、山口貴志弁護士は、活字のわいせつに対する基準をそのままマンガに当てはめたような第一審の判断基準では、ヤングジャンプに掲載されているマンガレベルのエロでも、当局のさじ加減一つで摘発されかねない(まあ実際にそこまでの事態にはならないだろうが)、という危機感をもってやっている、というようなことを言っていたが(あくまで私の私見だが、控訴審に入ってからは、無罪判決は勝ち取れないにしてもわいせつの新基準だけは引き出したい、という戦略を取っているような印象を受けた)、結局その懸念を払拭するには至らなかった、ということじゃなかろうか(これも細かいところはよく分からないのでかなり憶測ではあるが)。
松文館に関わっているマンガ家が受けている仕打ち(主に印税のピンハネ)を思うと、あの社長を始めとする松文館の経営陣には好感は持てないんだが、ここはいっちょう、今まで食い物にしてきたマンガ家たちのためにも、現実的には罰金払ってしまった方が良いんだろうけど、最高裁まで頑張って欲しいところだ。この裁判に限っては応援するよ。
もちろん、私が応援したところで大勢に変わりがあるわけないんだが。