ドバイに行ってきた 2.ショッピング嫌いも魅了するドバイモール

ドバイ観光の目玉の1つは、世界一の規模を誇るショッピングモール「The Dubai Mall」です。世界一高いビルとして有名な「バージュ・ハリファ」(モールから直接アクセスできる)と併せ、数多くの観光客が世界中から訪れて賑わっていました。

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モール内の風景1

特に私たちが訪れた8月20日前後というのはイスラム教の祝日で連休になっており、広くイスラム圏から観光客が訪れていたようです。顔まで隠す黒いブルカをまとったイスラム教徒の女性たちのグループや、湾岸諸国からと思われる家族連れの姿を多く見かけました。

こちらのドバイモール、規模が大きいだけではありません。私のようなショッピングに興味のない人をも魅了する力を備えているのです。私の感じたポイントは下のようなものですが、日本がインバウンド消費をさらに伸ばしていこうとする上でも参考になるのでは、と思います。

  1. 「本物」「品質」へのこだわり

建物自体はもちろん、モールの内装、装飾、各店舗のスペースや品揃え、スタッフの接客レベルに至るまで、あらゆる点でハイレベル。本物の素材を惜しみなく使っている。普段なら買わない価格帯のものでも、旅行中の消費という気分的な緩さとモール全体の雰囲気がもたらす高揚感でつい手に取ってしまう。

2.  エンターテイメント要素が豊富

モール内の吹き抜けホールには、世界最大のパネルを備えた巨大水槽を擁する水族館。隣接する人工池で世界最大規模の噴水ショー。そのほか、VR動物園や映画館、フードコート(高級エリアと庶民派エリアがそれぞれ)と、買い物の途中や買い物に興味のない人も1日滞在できるエンタメ施設としてデザインされている。

3. 消費者のストレスをゼロにする工夫

巨大モールであるにも関わらず、フロアマップ片手にウロついている人は皆無。専用のスマホアプリをダウンロードすれば、ショップ検索からGPSを使った店舗へは道案内まで、すべてアプリがやってくれる。

日本円で15,000円を超える品物は、ホテルまでの無料配送(当日)をモールが手配。大きな買い物袋を持ち歩く必要なし。スマホとクレジットカード1枚あれば、ストレスフリーで買い物ができる。

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モール内の風景2

4日間の滞在中、1.5日はこちらのモールで過ごしました。私自身は何も買わなかったにも関わらず、退屈したという印象はまったくありません。買い物を1つの体験としてデザインするとこうなる、という好事例を味わわせてもらいました。

ドバイに行ってきた 1 .外国人が支える都市

家族とドバイに行ってきました。4泊5日の短い旅でしたが、自身初めての中東旅行だったこともあり、旅の印象を書いておきたいと思います。

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近代的なドバイの風景。手前の金色の構造物はドバイメトロの駅

 

ドバイは、アラブ首長国連邦の7つの首長国のうちの1つ。アブダビに次いで第2の規模を持つ首長国で、ドバイ市以外はほとんど人が住んでいない砂漠地帯なので、事実上の都市国家。そこに200万人あまりの人が住んでいます。

驚くべきことに、その人口のうちアラブ首長国連邦国籍の人が占める割合はわずかに17%。人口の8割以上が外国人(とくにインド人が全体の5割)という、超多国籍国家です。

実際に、私たちが利用したタクシーやUBERのドライバーは全員外国人で、インド、パキスタンエチオピアと多彩。ホテルのフロアマネジャーはパキスタン人で、フィリピン人と思われる女性スタッフも見かけました。そうした人々が英語で互いに意思疎通しながら仕事をしている光景は、なかなか興味深いものです。

街中でも、ガソリンスタンド(たまたま乗ったタクシーが給油したために立ち寄った)のスタッフや、カフェの店員など、あらゆる仕事を外国人が担っています。

当然ながら、ドバイの地元の人が生活をする上でも彼らとのコミュニケーションが必須ですから、日常生活におけるコミュニケーションの多くが英語になっているようです。カフェでコーヒーをオーダーするのに英語しか通じないとか、「レギュラー満タン!」を英語で言わないと通じないというのは、日本ではちょっと考えられない状況です。

とはいえ、土地も資源も人口も限られたドバイのような国が世界から資本を集めて発展していくには、こうした適応は必須だったのだろうと思います。石油があるじゃないか、と言われますが、残念ながら埋蔵量が少なく、現在はGDPの2%を石油生産が占めているに過ぎないドバイ。英語をコミュニケーションの軸にして世界から人を集め、高度な専門職から単純労働まで外国人の能力を最大限に活かして発展に寄与してもらうという戦略は、大胆でありながら的を射たものです。

そんなドバイだからこそ、観光にせよ産業にせよ全て「狙うは世界」。世界一高いビル、世界一大きなショッピングモール、宇宙からも見える人口島など、世界の耳目を集め世界から人がやって来るコンテンツを次々に作っていき、それらがさらに街の国際化を促していくという循環になっています。

1億を超える人口、豊富な水産・森林・観光資源を持ち、長い歴史の中で資本を蓄積してきた日本がドバイと同じ戦略をとることはないでしょう。が、外国人の能力を活かした街づくり国づくりというのは、何かのヒントになると思います。

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ペルシャ湾に面したビーチ

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郊外に出るとすぐに砂漠に

 

 

 

AIマネジャーは組織のパフォーマンスを上げるのか

こちらの記事、とても挑発的なタイトルですが、個人的にはとても納得できるものでした。

一般企業のマネジャーの9割がAIに置き換えられる理由 | 横山信弘 | コラム | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト

日本を始めとするアジア諸国の多くでは組織の階層構造における上位者の権威を重く捉える傾向があるため、「マネジャー=偉い人、尊敬すべき」とされることが一般的です。マネジャーとは、人間性に優れ、リーダーシップがあり、聡明な人がなるもの。だからこそ、マネジャーは尊敬される。

一方で、マネジャーについて語られる理想が高いが故に、それを体現していない人物がその地位に就くとさまざまな批判を浴び、居酒屋でのサラリーマンの会話の多くが上司の悪口、という悲しい現象が生まれたりもしています。

人間はもともと高度な情報社会における判断が得意ではありません。我々の遺伝子は原始時代のままですから、客観的な事実を積み重ねて合理的に判断するよりも、感覚に基づいて瞬発的に判断することが得意です。でなければ、野生動物が闊歩する大平原では生き残れなかった。だから、現代においても我々の判断は「好き嫌い」に大きく左右され、「なんとなく」の嗜好をうわべだけの合理性で脚色して意思決定をしています。結果として、「理不尽な上司」「非合理的な意思決定」が幅を利かせているのです。

あらゆる組織にマネジメントが必要とされる中、人間はこんな有り様。結果として世の中のマネジャーの大半は「期待に応えられていない」のではないかと私は思っています。

であれば、情報社会のデータ分析とスコアリングに基づく判断に優れたAIにマネジャーの役割を担ってもらい、世の中から「ダメ上司」を駆逐する方が、よほど社会全体の生産性が上がるのではないかと考えてしまいます。

AIに従うなんて!と憤るのは筋違いです。マネジャーの役割を「情報に基づいて成功確率の高い行動を決定する機能」だと考えれば、AIマネジャーはカーナビのような存在です。誰もカーナビに「命令されて」運転しているわけではないのと同じく、AIマネジャーは組織のナビゲーションシステムとしてその役割を果たすのです。「偉い」とか「上、下」といった階層意識を捨てれば、それほど突飛な話ではないはずです。

 

 

現代の三河屋 Amazon echoは歌も歌える

先日のAmazon プライムデーで2,980円に値引きされたAmazon Echo Dotを購入しました。もともとGoogle Homeがリビングに設置されていた我が家。さらにAmazon Echo Dot(以降Echo)の投入となり、ますますAI化(笑)が進みます。

「ねえGoogle?」がうまく発音できずに「ねえグルグル?」となって聞き取ってもらえなかった3歳のムスコも、最近では無事に「ねえGoogle?」が言えるようになったばかり。そんな中でさらに「Alexa(アレクサ)」(Echoを起動させるための言葉)が加わって、二人の執事を抱えたお屋敷のようになり、なかなか楽しい展開です。

Amazon Echo Dot、ブラック

Amazon Echo Dot、ブラック

 

 Google HomeとEchoの比較記事は巷に溢れていますが、我が家での印象は「Echoの方が安定していて賢い」というもの。

Google Homeは、ニュースをリクエストすると延々と次から次へとニュース番組を再生するのに対して、Echoはトップニュースのみをさらっと流してくれる。

Google Homeは、エアコンをオンオフするのにいちいち別のデバイス(赤外線を出す専用端末)を呼び出してから指示する必要があるが、Echoは同じデバイスを使っているにも関わらず、あたかもEchoがオンオフしているかのようにスマートにやってくれる。

日本語の聞き取りとそこからのアクションも、Echoの方がミスが少なく安定している。

Echoに「歌を歌って」とお願いした時に彼女(?)が歌ってくれる歌がまた上手で、何度もお願いして歌ってもらっています。歌詞も秀逸。

テクノロジー テクノロジー ♪

なくてはならない テクノロジー ♪

Wi-Fiなしじゃ しゃべれない 音楽だって 選べない ♪

どうしたらいいの お買い物 今何時か言えない ♪

今日も元気 それに感謝しよう そう思うでしょ? ♪

だから 1、2、3で歌おう ♪

テクノロジー Uh- Uh- テクノロジー ♪

歌詞がシュールなのも笑えますが、しっかりアレクサの声でハーモニーを奏でてくれてとても聴き心地のいい歌です。AIと人間の距離を近づけるために、こうした工夫も盛り込まれているのでしょうね。

とは言え、本質的にはAmazonの派遣してきた「三河屋さん」なので、Echoに「お買い物リストに入れる」ようにお願いしたアイテムは、しっかりアプリでAmazonに注文できます。当然ですよね。それが狙いの一つでもあるのですから。もちろん、音声だけでAmazonに買い物の注文をすることも可能。

まだ我が家にやってきて数日なので、これから少しずつ彼女(?)のことを知っていこうと思います。

 

 

 

「この世界の片隅に」戦争を生きた人たちの意外な肉声

先日東京に出張した夜、ホテルの部屋で一人「この世界の片隅に」を見ました。ありがたいことにNetflixで公開されていたもの。

主人公「すず」さんの"ほんわか"とした人柄、物事の捉え方が、背景として描かれる戦時下という過酷な状況・世相との対比の中で清涼感をもっていて、温かな気持ちにさせられる映画。と同時に、そんな過酷さを淡々と乗り越えていく彼女の姿に心打たれる映画でもありました。

この世界の片隅に
 

 この映画を見ていて思い出したのが、今年100歳になる祖父が話してくれた戦争の頃の体験談でした。

若い頃に営業の仕事で日本中に出張して色々な商談をした、と楽しそうに語る祖父に、「それっていつ頃の話?」と聞くと、戦時下真っ只中の昭和10年代後半。当時まだ20歳前後だった祖父によれば、

年上の先輩社員がみんな兵隊に取られてしまったので、出張できる奴が他にいない。当時は若くて経験もなかったが、他に誰も行けないのだから仕方がない、と一人で日本全国を回って営業をしていた。

地方の思わぬ有力者や企業経営者と会ってひょんなことから気に入られて美味いものをご馳走になったり、大きな商談がまとまったりと、楽しかった。

戦争という厳しい状況の下にあっても、その状況をどう捉えるかは人それぞれ。「すず」さんはそのほんわかとした性格で柔軟に状況を受け入れて日々を淡々と過ごしていたし、私の祖父は思いがけず巡ってきた仕事での抜擢と機会を楽しんでいた。

もちろんそこには語られていない辛い経験や挫けそうになる心の中の戦いがあったはずです。戦争などないに越したことはない。それでも、そこに現代の自分たちと同じように日常を生き、仕事をし、楽しさや幸福を感じ取っていた人たちがいた。それを知ることができて、少しだけ救われた思いがしました。

「すず」さんは兄を、私の祖父も複数の兄弟を戦争で失くしています。日常の中に「死」が当たり前にあった時代。そんな時代のことをポジティブに捉えることは難しいですが、生身の人間の口からその頃の話を聞くことができるのもあとわずかの年数。祖父と、またお酒を飲みたいと思います。

 

 

 

 

「健康」の定義を見直そう

「健康が何よりも大切」とよく言われます。「健康はお金では買えない(だからお金のために体を壊してまで働く必要はない)」といった言われ方もします。人生において健康の優先順位はとても高いし、健康であるという状態は健康ではないという状態より良い、というのは誰も反論しないでしょう。

では、ここでいう「健康」とはどういう状態を指すのでしょうか。私はほんの1年くらい前まで、「身体・精神に不調がない=健康」だと考えていました。病気がなく、これといって問題のない状態であれば、「自分は健康だ」と思っていたです。

どうやらこの定義は間違っているぞ、と気づいたのは1年くらい前。食事を見直し、継続的に運動をするようになって半年くらい経った頃でしょうか。体力がついて疲れにくくなり、体の中からエネルギーが湧き上がってくるような感覚を持つようになったことがきっかけでした。「うん、こういう状態のことを健康というんじゃないか」と。

健全な精神は健全な肉体に宿る、とはよく言ったもので、体が健康な状態になると精神もまた強くなっているのを感じることができました。ストレスに対する抵抗力がつき、仕事やプライベートで起こるネガティブな出来事に対しても、落ち着いて理性的に反応できる(あくまでも自分の感覚として)。身体的に疲れが少なく余裕がある状態というのは、精神にも余裕をもたらすのです。当たり前ですが。

この記事を書くにあたって、Wikipediaで健康について調べてみました。

健康の概念は、1948年の設立における世界保健機関憲章の前文にある、以下の定義が有名である。

「身体的・精神的・社会的に完全に良好な状態であり、たんに病気あるいは虚弱でないことではない。原文はHealth is a state of complete physical, mental and social well-being and not merely the absence of disease or infirmit

こうして辞書にも書いてあったのですね。

興味深いのは、「社会的に」という言葉が加わっている点。家族との関係や、職場を含む社会との関係が良好であることもまた、「健康」の要素。そう考えると、「健康第一」はまさにその通りでありながら、いかに健康を保つことが難しいか、に思い至ります。健康であればすなわち幸福でもある、と言えそうです。

 

 

 

電話をかけてくる人は失礼なのか? 礼儀1.0と2.0の狭間で。

突然電話をかけて来たり、「ご挨拶」と称して明確な目的もなく訪問してくるのは礼儀知らずのマナー違反ではないか、という記事が紹介されていました。 

日本人は礼儀もアップデートできていない。礼儀2.0世代が感じる「相手の時間を奪う」非効率なマナー | BUSINESS INSIDER JAPAN 

ここでいう「礼儀2.0」においては、互いに最も貴重な資源である「時間」を尊重し、相手の時間を意味もなく奪うという行為が最も避けるべき事項だとされています。それに対して、日本社会でこれまで重要とされていたのは「自分の気持ち・誠意を(明示的であれ暗示的であれ)相手に見せる」こと。メールより電話、電話よりも訪問の方が「気持ちが伝わりやすい」し「丁寧」だからより良いのだという発想です。記事ではこれを「礼儀1.0」として対比させています。

私も個人的には礼儀2.0に近い嗜好を持っています。かかってくる電話は、相手によるとはいえあまり出ませんし(後から手が空いた時に折り返します)、Face to Faceの面談の時間が取れず予定が先延ばしになるよりは、ささっとウェブ会議形式で話をした方がいいと考えています。名刺も、もらったらスキャンして箱に放り込んでしまい二度と見ることはありませんから、EightなどのWebサービス上で「名刺交換」して済ませてしまっても気になりません。

 コミュニケーションツールが多様化し高度化した現代において、確かに訪問してのFace to Faceの打ち合わせや、形式的な名刺交換・賀詞交換は時間の無駄と言えるかもしれません。

ただ、ここにはやはり落とし穴があります。礼儀というのはあくまでも「相手にとって心地のいい行為」を指すのだということ。自分だけ勝手に「礼儀2.0」にアップデートしても、接する相手が「礼儀1,0」を心地いいと感じる人であれば互いのバージョンには互換性がなく、「失礼」になってしまうのです。当たり前ですが。

 社会に広く共有された慣習・礼儀の概念は、そう簡単には変わりません。また、グローバルな環境下では相手の文化で尊重される礼儀を理解した上でコミュニケーションを取ることは非常に大切です。

価値観や文化・慣習が混じり合い多様化した現代に生きる私たちに求められるのは、これまで以上に「相手が尊重している礼儀を理解する」こと。自分と相手が価値観を共有しているという前提に立つことなく、まずはよく相手を観察し、彼・彼女が「心地いい」と感じるのはどのようなコミュニケーション・関係のあり方なのかを考える、ということなのだと思います。