à la lettre

ラカン派精神分析・精神病理学に関するいろいろ

NHK文化センターでのオンライン講座(2024年4月~7月)

2024年4月26日から7月26日まで、月1回(全4回)の講座を行います。

  • この講座では、1930年代の精神病理学者たち(いわゆる「第2世代」)の来歴と業績を振り返り、特に精神医療改革運動との関係から位置づけます。
  • その後、中井久夫に焦点をあて、彼の統合失調症論とトラウマ(論)を検討します。
  • レジュメやテクストは講師が準備しますので、それぞれの著作を読んだことが読めない方でも受講していただけます。

オンライン、かつ見逃し配信ありとのことですので、全国各地から受講いただけます。
ご予約は、お早めに。

www.nhk-cul.co.jp


日本ラカン協会のオンラインセミナーも続いています。
セミナー – 日本ラカン協会
https://peatix.com/user/15820039/

朝日カルチャーセンターでのオンライン講座(2024年1月~3月)

2024年1月26日から3月22日まで、月1回(全3回)の講座を行います。

  • この講座では、特に、ラカンや後のラカン派の論者が具体的な精神病理について述べている箇所に注目して、ラカンの議論をなるべくわかりやすく解説してみたいと思います。
  • ラカンの議論の本質が哲学や思想ではなく臨床にあることを理解し、その上で、臨床以外にどのように応用できるのかを考えて行きます。
  • 2023年10-12月の講座とは独立していますので、新たにご参加いただいても問題ありません。
  • なお、ラカンの文章は、講師による日本語訳や、既存の翻訳(に適宜修正を加えたもの)を使いますので、外国語が読めない方でも受講していただけます。

オンライン、かつ見逃し配信ありとのことですので、全国各地から受講いただけます。
ご予約は、お早めに。

www.asahiculture.com


日本ラカン協会のオンラインセミナーも続いています。
セミナー – 日本ラカン協会
https://peatix.com/user/15820039/

朝日カルチャーセンターで2023年最後のオンライン講座

2023年10月27日から12月15日まで、月1回(全3回)の講座を行います。

  • この講座では、特に、ラカンや後のラカン派の論者が具体的な精神病理について述べている箇所に注目して、ラカンの議論をなるべくわかりやすく解説してみたいと思います。
  • ラカンの議論の本質が哲学や思想ではなく臨床にあることを理解し、その上で、臨床以外にどのように応用できるのかを考えて行きます。
  • なお、ラカンの文章は、講師による日本語訳や、既存の翻訳(に適宜修正を加えたもの)を使いますので、外国語が読めない方でも受講していただけます。

オンライン、かつ見逃し配信ありとのことですので、全国各地から受講いただけます。
ご予約は、お早めに。

www.asahiculture.com


日本ラカン協会のオンラインセミナーも始まっています。
セミナー – 日本ラカン協会
https://peatix.com/user/15820039/

NHK文化センターで2023年もオンライン講座をやります

2023年4月21日から7月21日まで、月1回(全4回)の講座を行います。

  • 精神病理学(精神医学)の名著を、現代でもそのまま通用する読みどころに絞って概説していきます。
  • 事前にテキストを準備したり、読んでくる必要はありません。
  • 取り上げるのは、中井久夫が西欧精神医学の理解のためヨーロッパ史にふみこんだ書籍から、現象学ハイデガーに影響を受けて現存在分析をあみだしたビンスワンガー、そのビンスワンガーを継承し深化させたブランケンブルク、そしてメランコリー(うつ病)の研究で知られるテレンバッハの代表作です。

オンライン、かつ「10日間の見逃し配信あり」とのことですので、全国各地から受講いただけます。
ご予約は、お早めに。

https://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_1268795.htmlwww.nhk-cul.co.jp


5月からは、日本ラカン協会のオンラインセミナーも始まります。
セミナー – 日本ラカン協会
https://peatix.com/user/15820039/

はてな記法(TeXコマンド)で性別化の式ほかを書く

入力するコマンド 表示
[tex:\exists x\,\overline{Φ x}] \exists x\,\overline{Φ x}
[tex:\forall x\,Φ x] \forall x\,Φ x
[tex:\overline{\exists x}\,\overline{Φ x}] \overline{\exists x}\,\overline{Φ x}
[tex:\overline{\forall x}\,Φ x] \overline{\forall x}\,Φ x
[tex:\require{cancel}\cancel{S}]*1 \require{cancel}\cancel{S}
[tex:\cancel{La}]*2 \cancel{La}
[tex:\xcancel{あった}]*3 はじめにEXCÈSが\xcancel{あった}

これを使うと、

ここできわめて興味深いのは、ラカンが女性の論理の命題(「\overline{\exists x}\,\overline{Φ x}」と「\overline{\forall x}\,Φ x」)を、通常の述語論理ではありえない仕方で記述している点である。通常、述語論理では「∀」や「∃」のような量化記号に否定の記号をつけることはできない(これは、アラン・ソーカルらが『知の欺瞞』のなかでラカンによる論理学の濫用を非難する際に指摘した点のひとつである)。しかし、ここでラカンは、あえて述語論理を逸脱するような量化記号の使用を行い、特に「すべての~」を意味する全称量化記号である「∀」を否定することによって、女性についてまったく新しい規定を行おうとしているのである。ラカンが言わんとしているのは、女性は「すべて」(普遍)を構成しないような論理に依拠している、ということにほかならない。言い換えれば、女性の論理の二番目の命題(「\overline{\forall x}\,Φ x」)は、「すべての女性がファルス関数に従う(去勢されている)わけではない」ことを意味しているのであるが、この場合の否定(「 ̄」)は、「ファルス関数に従う(去勢されている)」ことを否定しているというよりも、むしろ「すべての女性」というものが存在することを否定しているのである。…ゆえにラカンは、女性について「すべてはない(pas-tout)」、あるいは「〔普遍的な「女」と言えるような〕女\cancel{なるもの}は存在しない(\cancel{La} femme n’existe pas)」という規定を与えることになるのである。

みたいに書ける。もちろんTeXでも同じです。


Wordで入力するときはこれ↓を使うと便利です。
https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_contents/detail/240005/b526fc4c2256299c7e8ae47720eb8e17?frame_id=464978

*1:二回目以降は[tex:\cancel{S}]だけで良い。

*2:二回目以降のため前半は省略。

*3:関係ないけどやってみたかっただけ。

ジョーン・リヴィエール「仮装としての女性性」

Joan Riviere, Womanliness as a Masquerade(1929). International Journal of Psycho-Analysis, 10:303-313 の試訳です*1

仮装としての女性性

ジョーン・リヴィエール

精神分析の研究が指摘したすべての方向が、順番にアーネスト・ジョーンズの興味を引いているように思える。そして、ここ数年、女性の性的生活の発達の研究がゆるやかに広まりつつあるが、当然のことながら、私たちはジョーンズによる考察がこの主題へのもっとも重要な諸寄与の一つであると考える。いつものように、ジョーンズは自分の材料に大きな光を当てる。ジョーンズは今まで私たちが持っていた知識を明確にするだけでなく、それに加えて彼自身の新鮮な観察も持っているが、これは彼の独自の才能であろう。

「女性のセクシュアリティの早期発達」についての論文*2で、ジョーンズは女性の発達の諸々のタイプの概略図を描写している。ジョーンズは、まずそれを異性愛と同性愛に分け、つづいて後者の同性愛のグループをさらに二つのタイプに分類している。彼は自分の分類がおおよその図式であるという性質を認めており、数々の中間的諸タイプを仮定している。私がいま関心を持っているのは、これらの中間的タイプのなかの一つである。発達において主に異性愛であったが、逆の性別の特徴を強く明瞭に示す男性と女性の諸タイプが存在する。このような人に日常生活において出会うことは稀ではない。いままでこれは、私たち皆に本質的な両性性[bisexuality]の表現であると判断されてきた。そして、同性愛や異性愛といった性格特性として現れたもの、あるいは性的表明は、葛藤の相互作用の最終結果であって、基礎的ないし基本的傾向から必然的に発生するものではないということを分析は明らかにしてきた。同性愛と異性愛の発達の違いは、発達において対応する効果とともに、不安の度合いにおける差異に起因するのである。フェレンツィは同様の反応を行動において指摘している*3、すなわち、男性同性愛者は自らの異性愛を、同性愛に対する「防衛」として誇張するのだ。私は、男性的であることを望む女性たちが、男性からの懲罰への恐れと不安を回避するために女性性というマスクを身に付けているのだということを示そうと思う。

私が取り扱わなければならないのは、ある特定のタイプの知的な女性である。つい最近まで、女性にとっての知的な追求は、あからさまに男性的なタイプの女性と排他的に関連付けられていた。女性たちは、男性になるという望みや申し立てを隠しはしなかった。しかし、今は違う。専門的な職業に従事している全ての女性について、彼女らの生活の様態と生活が男性的であるよりもずっと女性的であるかどうかをいうことは難しいであろうが、大学生活や科学の専門家、そしてビジネスの世界において、完全な女性的発達のすべての基準を満たすであろう女性に出会うことは頻繁である。彼女たちは素晴らしい妻であり、母であり、能力ある主婦である。彼女たちは社会生活を保ち、また文化を支援している。彼女たちは、個人的な見かけにおいても女性的な興味に欠けることがない。そして、人が訪問してきた時でも、彼女たちは親類と友人の広い輪のなかで献身的で無欲な母親-代理の役割を演じることに時間を割く。同時に、彼女たちは平均的な男性と同様の仕事の義務を果たす。このようなタイプをどのように心理学的に分類するかを知ることは非常に難しい問題である。

この前、このような女性の分析のなかで、私は興味深い発見に行き当たった。彼女はさきほど与えた定義のほとんどすべてに合致する。彼女の夫との素晴らしい関係は、夫婦のあいだの密接な情動的な愛着と、十全で頻繁な性的快楽を伴っていた。彼女は主婦としての熟達に誇りを持っていた。彼女は人生のすべてにおいて著しい成功をもって知的職業に従事していた。彼女は現実に高度に適応し、彼女と係わり合いのあるほとんどすべての人々と、良好で適切な関係を維持しようとしていた。

しかし、彼女の人生における特定の諸反応が、彼女の安定性が思ったより完璧なものではないということを明らかにした。その反応のうちのひとつが、私の論題を例証してくれるであろう。彼女は宣伝の仕事に従事しており、その仕事は主に話すことと書くことであった。彼女の生活のすべてにおいて、ある度合いの不安があり、時に非常に深刻となることもあった。彼女の不安は、人前での発表[performace]、特に聴衆にむけて話したり議論をしたりした等の後に必ず経験された。その後で、知的にも実用的にも疑いようのない成功や能力、聴衆の管理や議論に対処する能力などがあったにもかかわらず、彼女は一晩中興奮し、恐れ、自分は何か不適切なことをしたのではないかという不安と、自信を取り戻させてくれる言葉を求める強迫観念に取り付かれた。自信回復[reassurance]の言葉を求めることは、彼女を衝動的に導き、彼女が参加した会議、あるいは彼女が中心的人物となった会議の終了間際になって、彼女はことあるごとに男性からの注目と称賛を求めるようになった。そのような目的のために選ばれる男性は、つねに紛れも無い父親的人物であることが、すぐに明らかになった。父親的人物でない人が、彼女の発表について判断をしても、あまり意味をなさないことがほとんどであった。このような父親的人物に求める自信回復には、はっきりと区別される二つの種類がある。まず第一に、彼女の発表について称賛する性質をもつ直接的な自信回復である。もう一つは、こちらがより重要なのだが、このような男性から得られる性的注目という性質をもった間接的な自信回復である。大雑把にいえば、彼女の発表のあとの行動についての分析が示しているのは以下のようなことである――おおよそ覆われたやり方で彼らをもてあそび、媚を売ることによって、彼女は特定のタイプの男性から性的な誘いかけを得ることを企てていた。この態度は、彼女の知的な発表のあいだの非個人的かつ客観的な態度と比べて並外れて不釣合いであり、それが速やかにつづくため問題となった。

分析が示すところによれば、この女性は母とのエディプス的ライバル心が極度に深刻であり、満足して解決されたことは一度もなかった。この点については後にまた触れる。しかし、この母との関係における葛藤に加えて、父に対するライバル心も非常に大きかった。彼女の知的な職業は、話すことと書くことという形式をとったが、これは彼女の父親とのあきらかな同一化に基づいている。というのも、彼女の父親ははじめ文学者であり、後に政治的な生活に入ったのである。彼女の思春期は父親に対する意識的な反抗によって特徴付けられており、父の軽蔑と父へのライバル心があった。この心性の夢と空想[phantasy]、つまり夫を去勢することは、分析によって頻繁に暴露された。彼女はライバル心の感情と「父親的人物」に対する彼女の優秀性の要求とをはっきりと意識していた。彼女は自分の発表のあと、「父親的人物」の寵愛を得ようとしていたのである。彼女は自分が彼らと等しくないということを受け入れることを激しく不快に思い、彼らの判断や批判に服従するという考えを(ひそかに)拒絶していた。ここにおいて、彼女はアーネスト・ジョーンズが描写した一つのタイプに明確に対応する。ジョーンズのいう同性愛女性の第一のグループは、他の女性には興味を持たないが、自分の男性性を男性に「承認」してもらうことを望んでおり、男性と等しくなることを要求する。言い換えるなら、男性そのものになろうとするのである。しかし、彼女の不快感は表立って表現されたわけではない。彼女は公的には女性であることの条件を受け入れたのである。

分析は彼女の強迫的な色目使いや媚を売ること――実際彼女は分析がそれを表明する以前にはほとんどこのことに気づいていなかった――をはっきりと説明した。それは以下の通りである。彼女の知的な発表の後には、父親的人物からの報復が予期されるという理由から、結果として不安が起こる。彼女の強迫的な色目使いや媚を売ることは、その不安を退ける無意識の意図だったのである。彼女の知的な熟練を公衆の面前で提示することは、それ自体は成功するのであるが、父を去勢してそのペニスを所有した彼女自身を提示することを意味していた。このことが一度示されると、そのとき父が報復を要求する。彼女はその報復の身の毛もよだつ恐怖に襲われる。これは明らかに、復讐者をなだめることから、彼女自身を性的に彼に提示しようとする努力への進歩である。この空想は、彼女がアメリカの南の州で過ごした幼年期と青年期にも非常に共通して現れたものである。黒人が彼女に攻撃をしかけてきたら、彼女は彼にキスをして彼女を愛させるようにして自らを防衛しようと考えた(これによって彼女は最終的に彼を裁判にかけることが出来た)。しかし、ここには後の強迫行動の決定因子があった。この子供時代の空想にかなり似通った内容をもつ夢のなかで、彼女は家の中で一人でおびえていた。そこに、一人の黒人が入ってきて、彼女が服を洗濯しているところに出くわす。そのとき彼女は袖を捲り上げて腕を露出させている。彼女は彼に抵抗しつつも、彼を性的に魅惑しようという隠された意図を持っていた。そして、黒人は彼女の腕に見とれ、腕と胸を愛撫しはじめた。

この夢の意味はこうである。彼女は父と母を殺しすべてを彼女のものにした(家に一人で居る)が、父と母の報復におびえている(窓から発砲されることの予期)、そして使用人の仕事(洗濯)をすることによって自分を防衛し、汚れと汗を洗い落とすことによって罪と血、そして行為〔=父と母の殺害〕によって彼女が得たもの全てを洗い落とし、自分自身を去勢された女性にすぎないものとして偽装する。このような見せ掛けがあれば、男性は彼女から盗むべき所有物を見つけられず、攻撃したものの考え直し、さらには彼女が愛の対象として魅力的であることを理解する。このように、強迫の目的は、男性に彼女への好意的感情を喚起して、単に彼女の自信回復を確実なものにするということだけではない。その目的は主に、罪なく無垢なもののように仮装することによって、安全を確かなものにすることなのである。これは彼女の知的な発表[performance]の強迫的な裏返しであった。彼女の人生が全体として男性的活動と女性的活動の交互性によって構成されているのと同じように、この二つのものが一緒になって強迫行為の二重行動を形成したのである。

この夢より前に、彼女は人々が災難を避けるために顔にマスクをつけている夢を何度か見ていた。これらの夢の一つは、丘の上の高い塔が押し倒され、下の村の居住者の上に倒れ落ちるが、人々はマスクをつけており、負傷を免れるというものであった。

それゆえ、女性性とはマスクとして身につけられ装われるものなのではないだろうか。男性性の所有を隠すため、そして女性が男性性を持っていると知られたときに予期される報復を避けるというため、この両方のためにマスクが身につけられるのである。これは、盗人がポケットを裏返し、盗んだものを何も持っていないことを証明するためにポケットを探るように求めるのと同じである。読者はいまや私がどのように女性性を定義するのかと問うかもしれない。あるいは私が正真の女性性と「仮装」のあいだをどこで線引きするのかと問うかもしれない。しかし、私の主張は、根源的にも、表面的にも、この二つのあいだに違いは何もないということである。女性性の資格はこの女性にもある――そして、ほとんどの同性愛女性にも女性性が存在するとすらいいうるだろう――、しかし彼女の諸々の葛藤のため、それは彼女の中心的な発達を表しておらず、性的快楽の原初的様態としてよりも、不安を避ける手段としてはるかに多く使われているのだ。

このことを例証するために、いくつかの概要を個々に見てみよう。彼女の結婚は遅く、29歳の時であった。彼女は処女喪失に非常に不安を持っており、結婚前に女性医師に処女膜を伸ばすか細長く切ってもらっていた。快楽と喜びを持つ女性たちがいることを彼女は知っており、結婚前の彼女は、性交に対して、快楽と喜び、またオーガズムを経験し、得たいと決心していた。彼女はまさに男性と同じように、不能におびえていたのである。これは、部分的には、冷感症であった母親像を乗り越えるための決心であったが、より深いレベルにおいてそれは男性に負けたくないがゆえの決心であった*4。結果として、性的快楽は十全で頻繁なものとなり、完全なオーガズムを伴っていた。しかし、それが引き起こす満足は自信回復と失われたものの返還という性質をもっており、究極的に純粋な快楽ではないという事実が明らかになった。男性の愛は彼女に自尊心を取り戻させる。分析のあいだ、夫に対する敵対的去勢衝動が明るみに出る過程の一方で、性交への欲望は非常に減少し、彼女は一定期間のあいだ比較的に不感症になった。女性性のマスクが剥ぎ落とされ、彼女は去勢された(生気が無く、快楽を得ることができない)か、去勢を望む(それゆえペニスを受け取ったり、満足によってペニスを迎え入れたりする)かであることが明らかになった。一度、ある期間、彼女の夫は他の女性と情事をもったことがあったが、彼女はライバルの女性に関して、夫への極度の同一化に気づいた。彼女が(思春期以前における妹との関係以来)同性愛的経験を一切していないことは特筆すべきことである。しかし、分析のなかで、極度のオーガズムを伴う同性愛的な夢を頻繁に見ることによってこの欠如は補われていた。

日常生活の中で、女性らしさ[femininity]のマスクが興味深い形態をとっていることを観察することがある。私の知り合いの優秀な主婦は、非常に能力の高い女性であり、また典型的に男性的な事柄に関心を持っていた。しかし、例えば、建築業者や内装業者が訪問してきたときなど、彼女は業者に対して彼女の技術的知識をすべて隠す強迫衝動にかられ、業者に対する防衛を示し、あてずっぽうのように無邪気で素朴な様子で提案をしたりした。彼女が私に告白してくれたところでは、肉屋やパン屋に対してでさえ、彼女は現実に圧制を行っており、確固としたまっすぐな態度を公然ととることができないということだった。つまり、彼女は自分自身「芝居を打っている」かのように感じていたのであり、必要以上に無学で馬鹿で混乱した女性のみせかけ[semblance]をとっていた。しかし最終的にはいつも自分の主張を通すのだ。人生におけるそのほか全ての関係においては、この女性は上品で教養ある女性であり、有能かつ物知りで、言い訳することなしに思慮深く合理的な行動によって自分の仕事をこなすことが出来ていた。この女性は今では50歳であるが、若い女性と同じように、運送屋、給仕人、タクシー運転手、職人、あるいはその他の潜在的に敵対する父親的人物(例えば、医者、建築業者、法律家など)と関わりを持つ際に強い不安を持っていることを私に語ってくれた。そのうえ、このような男性と口げんかや激しい口論をすることも多々あり、彼らが彼女に詐欺を働いたとして告発もしていた。

日常の観察からのもう一つの例は、利口な女性のものである。彼女は妻であり母であり、女性が惹きつけられることの少ない難解な科目を大学で講義していた。講義の最中、学生ではなく同僚を相手にするとき、彼女は特に女性的な服を選ぶ。このような機会における彼女の行動もまた不適切な特徴をもっている。彼女は軽率で冗談っぽくなり、そのために意見されたり叱責されたりした。彼女は自身の男性性を男性に対して示す状況を「ゲーム」として、つまり現実ではないもの、「冗談」として捉えなければならなかったのである。彼女は自分と、自分の主体を真剣に捉えることができず、自分を男性たちと同等であると考えることが出来なかった。そのうえ、彼女の軽率な態度は彼女のサディズムをいくぶん逃すことを可能にしていた。そのため、攻撃が引き起こされたのであった。

そのほかにも多数の事例を引用することが出来るであろう。明らかな同性愛男性の分析において、私は同様の機制に出会った。深刻な制止と不安を持ったこの男性は、同性愛的活動が二の次となっており、性的満足の大きな源泉は特定の状況下で実際にマスターベーションを行うことにあった。すなわち、特定のやり方で着飾り、鏡の前で、髪の毛を真ん中で分け、蝶ネクタイを結んだ自分自身を見ることによって、興奮が作り出されていたのである。この並外れた「フェティッシュ」は彼の妹として自分自身を変装させることを表していることが明らかになった。髪の毛と蝶ネクタイは妹から取られたものであったのだ。同性愛的関係は、無意識的な男性へのライバル心に基づいており、まったくサディズム的であることが明らかとなった。サディズムの空想と「ペニスを持つこと」が満足させられるのは、彼が安全に女性として変装し、不安に対する自信回復が鏡から得られているあいだだけであった。

最初に記述した症例に戻ろう。彼女の明白で申し分のない異性愛の表面の下には、よく知られた去勢コンプレックスの徴候があることは明らかである。ホーナイはエディプス状況におけるこのコンプレックスの源泉を指摘することのできた最初の人々のうちの一人である。女性性がマスクとして引き受けられるという事実は、女性の発達の分析というこの方向にさらなる寄与ができると私は信じている。この観点から、この症例における早期のリビード発達を描写してみよう。

しかしその前に、他の女性たちに対する彼女の関係を説明しておかなければならない。彼女は容姿が良い女性や知的に気取っている女性のほとんどすべてにライバル心を持っていた。彼女はかかわりのある女性のほとんどすべてに嫌悪感を意識していたが、常にかかわる近しい関係にある女性との関係では、彼女はそれでもなおしっかりとした満足を構築していた。彼女は無意識的に何らかの方法で彼女ら女性たちより自分の方が優れているという感情を持つことによって、このことをほとんどやり遂げていた(彼女は、自分より目下の者とは一様に素晴らしい関係を作っていた)。彼女の主婦としての熟練はこのことにその根を持っている。これによって彼女は自分の母親を乗り越え、ライバルである「女性的[feminine]」女性のなかでの彼女の優位性を証明し、自分自身の承認を勝ち取っていたのだ。彼女の知的な到達が一部分において同じ対象を持っていることは疑いのないことである。知的な到達は彼女の母親に対する優位性をも証明するものであった。彼女が女性らしさ[womanhood]にたどり着いてから、彼女の女性たちへのライバル心は、美の観点より、知的なものの観点においてより深刻になったと考えることができるであろう。なぜなら、美が問題になる所で、彼女は自分の頭脳の優秀さに逃げ場を求めることがたびたびだったのだから。

分析が示したところによると、これらの反応すべての起源は、男性に対しても女性に対しても、口唇サディズム期における両親に対する反応にある。これらの反応はメラニー・クラインが1927年の会議の際の論文で描写した*5空想という形式をとる。吸啜と離乳のあいだの失望や欲求不満の結果、原光景における経験と連結され、口唇的用語を用いるなら、両親の両方に対する極度に激しいサディズムが発達したと解釈される*6。乳首を食いちぎる欲望がシフトし、破壊への欲望が母親を貫き、母親の臓物を取り除き、母親を貪り食い、母親の身体の内容物を貪ることがそれにつづく。この母親の内容物には父のペニスと彼女の糞便、そして彼女の子供も含まれる。つまり、彼女の所有物と愛情対象のすべてが、母の身体の中にあると想像されているのである*7

乳首を噛み切る欲望はまた、よく知られているように、ペニスを噛み切ることによって父を去勢する欲望にシフトする。この段階では両親の両方がライバルであり、ともに欲望の対象を所有している。サディズムは両方に対して向けられ、両方からの復讐が恐れられる。しかし、女性にはよくあることだが、母親がより嫌われ、結果としてより恐れられる。母親は罪に見合う罰を執行するであろう――少女の身体、美しさ、子供、子供を持つ能力を破壊し、少女を切断し、貪り食い、拷問し、殺してしまう。この恐るべき苦境において、少女のとりうる唯一の安全策は、母親をなだめ、自分の罪を償うことである。少女は母親とのライバル関係から撤退しなければならず、もしそれができたなら、少女は奪われたものを母親に返すことに成功することになる。よく知られているように、少女は自らを父親と同一化している。そのため、少女は男性性を使用するのだが、彼女はそれを母親の役に立つようにすることによって手に入れる。少女は父親になり、父親の場所を占める。そのようにして少女は父親を母親のところに「返還する」ことができるのだ。このポジションが、私の患者の人生における多くの典型的状況であることは明らかである。彼女は弱く頼りない女性たちを助け、援助する素晴らしい実践的能力を使うことに喜びを感じており、ライバル心が強く出過ぎないあいだはこの態度を維持することが出来た。しかし、この返還はある条件のもとでのみ可能である。つまり、感謝と「承認」の形で、惜しみない見返りを与えなければならないのだ。欲望された承認は彼女の自己犠牲によって成り立つものとして考えられている。より無意識的には、彼女が主張しているのは、ペニスを取り戻したという点での優位性の承認なのである。もし彼女の優位性が認められなければ、ライバル心はすぐさま深刻になる。つまり、もし感謝と承認が差し控えられたなら、彼女のサディズムが十全の力をもって出現し、彼女はこっそりと口唇サディズム的憤怒の発作に従属し、まさに暴れる子供のようになる。

父親に関していえば、父親に対する敵意は二つの方法で生じる。(1)原光景のあいだ、父親は母からミルクを奪う等しており、子供はそれを得られなかった。(2)同時に、父親は母親にペニスあるいは子供を与えており、それは彼女に与えられているではなく、彼女の代わりに母親に与えられていた。それゆえ、父親が持っているもの、あるいは取ったものとの全てが、彼女によって父親から取られるべきなのである。父親は去勢され、母のように無に帰される。父親の恐怖は、母親の恐怖ほどは深刻ではないが、存在し続ける。部分的に、父親の死の報復と母親の破壊が期待されるためである。それゆえ父親をなだめたり和らげたりしなければならない。これは父親に対して女性的なみかけで仮装することによってなされるが、これは父親に彼女の「愛」と罪のなさを示すことである。この女性のマスクは他の女性たちにとっては見えすいたものであるが、男性たちに対しては成功し、その目的を十分に達成するということは意義深いことである。多くの男性はこのようなやり方に魅了され、彼女に好意を示すことによって自信回復を与える。仔細な検討が明らかにしたところによれば、このような男性たちは、超-女性的女性[ultra-womanly woman]を恐れているタイプの男性である。彼ら男性たちは男性的属性をもっている女性を好む。なぜなら、そういう女性たちは、彼ら男性たちに対する要求が少ないからである。

原光景において、両親の両方が所有するタリスマン[お守り]、そして彼女に欠けているものは父のペニスである。それゆえ、彼女の怒り、恐怖、そして無力さが生じる *8。父親からペニスを剥奪し、それを彼女が所有することによって、彼女はタリスマンを獲得する――これは無敵の剣、サディズムの器官である。父親は力なく、無力になる(彼女の優しい夫)が、しかし、彼女はそれでも彼に対して女性的な従属性のマスクを身に着けることによって攻撃から防御している。このスクリーンの下で、彼の男性的機能の多くを彼女自身が果たしている[performing]――彼のために――(彼女の実践的能力と管理能力)。母親についても同様である。つまり、母からペニスを盗み、破壊し、惨めな劣等性におとし、彼女は母に勝利するが、それはやはり秘密裏のことなのである。彼女は、外見上は「女性的」女性たちの美徳を称賛し承認している。しかし、自分自身を女性の報復から守ることは男性からの報復から身を守る場合よりも難しい。彼女のなだめようとする努力、そしてペニスを母の役に立つよう使い、母に戻すことによって償おうとする努力は、いくらやってもきりがない。つまり、この装置は死にむかって働かされているのであり、時には彼女を死へと導きそうになることすらあるのだ。

明らかになったのは以下のようなことである――彼女は、自分が優れたものとなり、彼女に害が及ぼされないような状況を空想のなかで作った。そして、その空想を作ることによって、彼女は、両親の両方に対しての彼女のサディズム的激怒から帰結する耐え難い不安から自分自身を守ったのだ。この空想の本質は、両親-対象に対する彼女の優位性である。それによって、彼女のサディズムが満足させられ、彼女はそれに打ち勝つことが出来た。この優位性はまた、彼女が両親の復讐を回避することを成功させる。そのために彼女がとる手段は、彼女の反応形成と敵意の隠蔽である。このようにして彼女は自らのエス衝動とナルシシズム的自我、そして超自我を同時に満足させることが出来た。空想は彼女の人生と生活全体の原動力であり、完璧を目指すことを通してそれをかろうじて成し遂げた。しかし、この空想の弱点は、あらゆる変装を駆使して優位性をもとめるという誇大妄想的な性格にある。もし、分析の途上でこの優位性が真剣に動揺させられたなら、彼女は深い不安、激怒と絶望的なうつ状態に陥る。つまり、分析を前にして、病気になってしまうのである。

アーネスト・ジョーンズの同性愛女性のタイプについて一言述べておくべきだろう。このタイプの女性の目的は、男性に自分の男性性を「承認」してもらうことである。このタイプにおける承認の欲求は、私が記述した症例と違った風に(演じられた任務[services performed]に対する承認)作動しているとしても、同じ欲求の機制と繋がっているのだろうか、という問いが浮上してくる。私の症例ではペニスを所有していることの直接的な承認がはっきりと主張されたわけではなかった。ペニスの所有が可能にすることを通してのみ、反応形成が求められたのである。それゆえ、間接的にではあるが、承認はそれでもなおペニスを求めてのことなのである。この間接性は、彼女のペニスの所有が「承認され」てはならない、言い換えれば「見つからないように」するためのものだと理解することが出来る。私の患者はペニスを所有していることを男性に承認してもらうことを公然と求めることにはあまり不安を持っておらず、アーネスト・ジョーンズの諸症例のように、このような直接的な承認が欠けることを実際はひそかにひどく嫌がっている。ジョーンズの諸症例においては、原初的サディズムがより満足を得ていることは明らかである。つまり、父親は去勢され、自分の欠点を認めすらしている。では、そういった女性たちは、どのようにして不安を避けたのだろうか? 母親〔からの報復の不安〕について考えれば、これは当然、母の存在を否定することによってなされる。私が行った諸々の分析の示唆から判断するなら、以下のように結論できる。第一に、ジョーンズが示唆しているように、これは、欲望された対象、つまり乳首、ミルク、ペニスはすぐさま明け渡されなければならないという原初的なサディズム的要求の移動[displacement]に過ぎない。第二に、承認の欲求は概して赦免の欲求である。いまや母親が辺獄へ追いやられる。つまり、母親との関係はまったく不可能になる。母親の存在は否定されているようにみえるが、実際には母親の存在が恐れられすぎているのである。それゆえ、両親に勝利したことの罪は父親によってのみ赦される。もし父親が彼女のペニスの所有を認め、認可するならば、彼女は安全である。彼女に承認を与えることによって、父親は彼女にペニスを与える。しかも母親に与えるのではなく、彼女に与えるのである。彼女はペニスを持つのであり、また持っていてもかまわないのであり、それで全て順調なのである。「承認」とはつねにある部分では自信回復[reassurance]であり、認可[sanction]であり、愛[love]である。さらにすすんで、承認は彼女を再び優れたものにする。父親がそのことをあまり知らずとも、彼女に対して男性は自分の欠陥を認めることになる。その内容において女性の父親への空想-関係は通常のエディプスのそれと似通っている。違いは、それがサディズムという基盤の上に置かれていることである。彼女は母親を実際に殺害したが、それによって彼女は母親が持っていたたくさんの楽しみから除外されてしまうため、彼女は父親から得られるものを大いに巻き上げ、引き出さなければならなくなるのである。

これらの結論は、さらに以下の問いを強いることになる。完全に発達した女性らしさ[femininity]の本質的性質とはなんであろうか? das ewig Weibliche(永遠に女性的なるもの)とは何か? マスクとしての女性性[womanliness]という概念は、男性がその背後に隠された危険を想定するものであり、謎に少々の光をあててくれる。ヘレーネ・ドイチュやアーネスト・ジョーンズが述べたように、完全に発達した女性性は口唇-吸乳期[oral-sucking stage]の上に基礎づけられる。その原初的秩序の満足はただひとつ、(乳首、ミルク)ペニス、精液、子供を父親から受け取ることの満足である。それ以外のものにおいては、満足は諸々の反応形成に依存している。「去勢」の受け入れ、謙虚さ、男性への尊敬は、口唇-吸乳的平面の対象の過大評価に由来する部分もあるが、主となるのは、後の口唇-噛みつきレベル[oral-biting level]に由来するサディズム的な去勢願望の断念(強度の低下)である。「私はとってはいけない、頼まれたとしてもとってはいけない、それは私に与えられなければならない」のだ。自己犠牲、献身的愛情、自己否定の能力は、母親的人物、あるいは父親的人物に、彼らからとったものを返済し回復しようという努力を表現している。これはまた、ラドが高い価値を持つ「ナルシシズム的保険 [narcissistic insurance]」と呼んだものである。

完全な異性愛への到達がいかに性器性欲と同時に発生するかが明らかになった。そして私たちがまたしても観察することになったのは、アブラハムが初めて述べたように、性器性欲はポスト-両義的状態への到達という意味を含んでいるということである。「正常な」女性と同性愛者の両方が、父のペニスを、そして欲求不満(あるいは去勢)に対する反抗を欲望している。しかし、「正常な」女性と同性愛者の違いの一つは、サディズムの度合いと、サディズムが二つのタイプの女性に引き起こす不安と、それがもたらす不安の両方に対処する力の違いにある。

*1:〔学部生時代に作った(今となってはできの悪い)翻訳でしたが、意外に参照されているようなので、明らかな誤訳など最小限の修正だけ行ってアップしておきます。まだ色々難点がありますが、それを直そうとするとだいぶ時間がかかるので、どなたかやってください…。〕

*2:E. Jones, 'The early development of female sexuality, IJPA, vol. 8 (1927).

*3:S. Ferenczi, 'The nosology of male homosexuality, in Contributions to Psychoanalysis, 1916.

*4:私は、幾人かの女性分析主体におけるこのような態度と、処女喪失を自ら定める傾向を、ほとんどすべて(5症例)において見つけた。フロイトの「処女性のタブー」を考慮すれば、後者の症状行為は教訓的なものである。

*5:M. Klein, 'Early stages of the Oedipus conflict', IJ PA, vol. 9 (1928)

*6:E. Jones. op. cit. p. 469は、女性における同性愛的発達の中心的特徴としての口唇サディズム期の強化とみなしている。

*7:これは私の議論にとって本質的ではないため、私は子供への関係のそれ以降の発達への参照をすべてオミットした。

*8:cf. N. Searl, 'Danger situations or the immature ego', Oxford Congress, 1929