島田雅彦『自由死刑』(集英社文庫)

自由死刑 (集英社文庫)

自由死刑 (集英社文庫)


@小説に与えられた重要な役割の一つに、「思考実験」があると思うのだが、
 1999年発表のこの作は、その意味で、まさに「贈与というテロ」の実験小説だと言える。


 ひとは自由の刑に処せられている、と云ったのは、たしかサルトルだった(よね?)が、
 ほんとうに自分で自由に死んでいい、となったら、人はいったい何をするのか。


 食欲と性欲と睡眠欲を満たすこと。ただそれだけ?


 おそらく、多くのひとは、自分の名前を歴史に残すこと、を考えるだろう。
 その手っ取り早いやり方は、犯罪。

 だから、記憶されることだけを目的に、社会的な犯罪が起こることもある。

 
 でも、あくまで無名性のままで、匿名の一人の人間として、死ぬ。そんな潔い選択だってある。


 この物語の主人公、喜多善男(善男、というと柄谷行人の本名みたいだけど)は、
 成り行きもあるのだけれど、一人の抑圧された肉体労働者=プロレタリアートを解放する。


 その肉体労働者=プロレタリアートは、じぶんの商品価値を徹底的に利用することで、
 じぶんじしんに何ができるのか、そして、じぶんという存在を徹底的に社会から切りはなすことで、
 ほんとうにじぶんじしんが欲していることは何かを、つかみとっていく(つかみとろうとする)。


 そんな成り行きを、あるいは、じぶんがしでかしたことを、喜多善男は知らない。
 知らないまま、匿名の男として死んでいく。


 人とかかわっているということは、人知れず、なにかしらの迷惑を与え合っているということだ。


 そして、それが、誰かにとって、かけがえのない出会いになっている可能性もある。
 それをしよう、自分から作ってやろうとする奴はさもしいけれども。


 

円地文子『朱を奪うもの』(新潮文庫)

朱(あけ)を奪うもの (新潮文庫 え 2-3)

朱(あけ)を奪うもの (新潮文庫 え 2-3)


@「宗像滋子」ものの第1作(初出1955-1956)。そういえばこの時期の作家の作品は、
 ある人物を主人公にしたシリーズものが多いな。『鳴海仙吉』とか。


 ひらたくいってしまえば、女性版の教養小説である。


 演劇の指導者だった父を持ち、父に早く死別したのちは、大審院・枢密顧問官の伯父のもとで育てられた
 主人公が、大正〜昭和初期の社会的・文化的な風潮に棹さしながら、演劇に目覚め、
 左翼思想に傾斜し、ひとなみにデカダンな肉体関係も取り結びながら、満鉄研究所の考古学者と、
 仮面をかぶった結婚を決意する。……


 さすがの筆力でなかなか読ませる。
 ちょっと説明がくどい部分があるし、それこそ書き手の教養が邪魔してしまって、余計な(あるいは、意味のない)心理描写が
 入ったりすることもある。また、「本格小説」を目指したかったのだろう当時の文学的な風潮を受けてだろうか、
 人物を、ひとつの典型・類型として描きたい、という思いも、強く感じられる。

 
 女性のセクシュアリティの歴史を考えるときにも、欠かせない文献であろう。



 でも、僕にとって興味深かったのは、背景として描かれる世相や風俗。



 おそらく坪内逍遥であろう人、おそらく小山内薫であろう人、などなど、いろんな「著名人」が、
 深窓の令嬢の目線から語られる。また、プリンス・オブ・ウェールズの来日のときの園遊会の様子など、
 なかなか面白い描写が続く。


 ヒロヒト(当時摂政宮)もちゃんと出て来る。やっぱり、見た目は貧相だった、と語られています。

あのボールはサッカーの質を変えた。

チームガイスト - Wikipedia


@国家代表単位のサッカー/フットボールはあまり見ないのだけれど、それでもこれだけアホのように報道していれば
 前半だけ、後半だけ、と試合を見ることはあって、そこで思ったこと。


 このボール、サッカーを変えてしまっている、ということ。


 サッカーというスポーツは、かなり早い段階で「形式」が決まってしまい、ルールもシンプルで非常に少ないこともあって、
 1チームの人数、ピッチのサイズ、ゴールの大きさ、ボールの大きさ、などといった「外的な要因」によって
 ゲームの質が変わることが、たいへん少なかった、ということができる。


 だから、サッカーにかかわる人たちは、「システム」「戦術」といった、いわば、ゲームの「内容」的な側面に、
 サッカーの質的な深化・進化を追求してきたのだ、とも言えるだろう。



 オフサイド・ルールは、もちろん歴史的に変化したが、観客やプレイヤーが戸惑うほどの変質は起きなかった。
 むしろ、大きな影響を与えたルール変更は、92年のEURO以降の、「GKへのバックパス禁止」のほうだろう。


 このボールが何をもたらしたか。
 暴力的に言えば、「しっかり守ってカウンター」という、弱者の戦術を事実上不可能にしてしまった、ということではないか。


 ここ数年間のフットボール・シーンを席巻したやり方として、ペナルティ・ボックスのあたりで最終ラインを設定、
 守備的な中盤のライン(3枚)を深めに設定して、トップには、足の速い選手・背の高い選手・ドリブルのうまい選手のいずれかを
 置いておく。深めの場所で奪ったボールを、なるべく長いボールですばやくトップの選手に当てて、驚異的な運動量を誇る
 中盤の選手達が一斉に押し上げていく……、というリアクション・サッカーをあげることができると思う
 (もっとも洗練されているのがモウリーニョチェルシー)が、そのやり方が、たいへんに難しくなったのではないか、ということだ。


 たとえば、セルビア・モンテネグロアメリカ、チェコ。怪我人やコンディショニングの問題もあったとはいえ、
 固い守備をベースに置いたチームの苦戦は、「しっかり守る」以前に、ミドル・ロングでDFラインを破られてしまう、という
 今大会の顕著な傾向となってあらわれている(日本だって守れなかったでしょう)。


 いままで、ミドルやロングレンジのシュートは、DFがクッションになって入ることはあったけれども、基本的には、
 大型化し、筋力が強くなったGKがポジショニングのミスをするか、 あるいは、よっぽどのコースとタイミングを狙われなければ、入らなかった。
 
 
 それが、周知の通り、ぼこぼこ入っているでしょ?



 代表チームだと、練習時間がみじかいから、より個人の力がクローズ・アップされる、ということはあるかもしれない。

 だからこそ、来たるべきシーズン、クラブ・チームレベルでのフットボール・シーンがどう変わるのか、じっくりと見定めたい。
 

島田雅彦『亡命旅行者は叫び呟く』(福武文庫)


亡命旅行者は叫び呟く (福武文庫)

亡命旅行者は叫び呟く (福武文庫)


@現実逃避の読書、その2。


 憂国の人、島田雅彦の2番目の著作が、地下鉄駅内の古書店で売られており、思わず手に取る。



 物語は、「戦後日本人」の二つの典型(「ウチ」では従順で、「ソト」では性欲の満足しか考えないしがない公務員と、
 マザコンアナーキズムシニシズムとが渾然一体となった、旅人きどりのお坊ちゃん)との二人を軸としながら、
 それぞれが、それぞれのかたちで「伴侶」を得ていくまでが語られる。


 妙な感慨になるけど、読了し、「ああ、村上龍島田雅彦とは同世代の作家なんだ」と感じてしまったのだった。

 

 日本人とは、近代というハリボテばかりが所狭しと並べられた舞台の上で、スタニスラフスキーシステムか何かで
 精一杯現実に近づこうと演技する役者のことだ。欧米直輸入の近代に合成着色料めいた大和民族のロマンを混ぜた
 偽ブランド近代にすがる人々のドラマは感動的でさえある。戦後になると、ハリボテの近代が自業自得で破損する
 のを見るや、日本人は開き直ってフェティシズムへ走った。神器とまでいわれた家庭電化製品、自動車。物が日本
 を代弁してくれるまでになった。物に埋まって我を忘れかかっていた時、ある日本人は気づいた、「そういえば俺
 は人間だった」と。 (122頁)


@こんな風に、「日本」を一つの主語として、その「日本」の物語を語る、という発想(この物語は、
 言葉を換えたら、ちょっとウヨクっぽい、あるいは、日本のネオ・ナショナリストっぽい感じだ)が、
 いかにも先鋭的なものとして許された時代ってあったんだなあ、という印象。


 ともあれ、確認されたこと。島田氏の描くストーリーは、いつも、つねに1960年代生まれの人物の精神史
 という様相を呈している。映画作家を輩出した韓国の386世代(註、PC-9801ではない)と比べると、
 日本の1960年代生まれの人々がたどっている軌跡は、たしかに、歴史的な問題を内包していると言えなくはない。

高橋和巳『悲の器』(新潮文庫)

悲の器 (新潮文庫 (た-13-1))

悲の器 (新潮文庫 (た-13-1))

@書かなければいけない原稿を抱えつつ、現実逃避の一冊。



いま読み返すと、「なんでこの人の作品が人気あったのだろう?」と疑問になる書き手がいる。
たぶん、高橋和巳もその一人であろう。恥ずかしながら初読である。



@話としては、ようするに、世間知らずのおっちゃん(東大法学部教授)が、
病妻がいながら、家政婦に手を出し、寡婦だった彼女に後妻になれそうだ、という夢を与えておきながら、
さっさと、知的で教養ある若い女性との婚約を発表したため、家政婦によって訴えられたことから、
スキャンダルに巻き込まれていく……、という、1クールの帯ドラマ的展開。


こうまとめてしまうと、なんとも情け無い話なのだが、文体が、「いかにもアカデミズム」という 
主人公の独白体で書かれているので、そのズレが、なんだかそこはかとないユーモアになる。
自分の居場所は書斎にしかなく、誰にも心を開いたことはなく、研究室が一番落ち着く……、などと平気で書いているのだ。


  • アカポスを狙う男だったら、ぜったいに憧れる生活が描かれている作。だけれども、

アカデミズムにおける女性差別の問題を考えていくときには、格好の資料となるテクストだろう。


実は結構面白く読んだのかも。


 

舞城王太郎『世界は密室でできている THE WORLD IS MADE OUT OF CLOSED ROOMS.』(講談社文庫)


世界は密室でできている。 (講談社文庫)

世界は密室でできている。 (講談社文庫)



@舞城王太郎がどのように評価され、批評されているのか、業界の事情はわからない
(興味もまったくない)が、「手練れ」の書き手であることは、間違いのないことだろう。


@それにしても、僕が読んだ舞城は文庫になったものだけなのだが、
よい意味でも、悪い意味でも、山田詠美のように教師だなあ、という読後感。

高校生に読んでもらいたい作。とくに、ちょっと繊細で臆病な男子に。

「教育実習」が出来なくなる。

母校での教育実習、原則廃止を・中教審専門家
 教員免許の取得を目指す学生が自分の出身校で教育実習を受ける「母校実習」は、評価が甘くなるなど問題があるとして、原則廃止すべきだとする検討結果を中教審の専門家グループが15日までにまとめた。今夏にも出される中教審教員養成部会の答申に盛り込まれる見通し。

 文部科学省によると、教育学部などの学生には付属校を実習校として紹介する大学もあるが、大半の学生は自分で受け入れ校を探すため、出身校で実習を受けることが多いという。

 専門家グループはこうした母校実習は「評価の客観性が確保できない」と指摘。(1)一般学部の学生は大学と同じ都道府県内の学校で実習を受けるのが基本(2)母校実習がやむを得ない場合は、大学が実習に関与することが必要――として、母校に過大な負担をかけないよう求めた。〔共同〕 (19:28)
http://www.nikkei.co.jp/news/shakai/20060615STXKE040315062006.html


中教審の「専門家」とは、いったい誰のことなのだ?


これは、明らかに、教育学部を持つ地方国公立大学の救済策だろう。

あるいは、年間30週確保=授業実施を半ば強制している文科省の政策との、整合性の問題でもあろう。


たしかに、現場からみれば、実習生なんて、邪魔で仕方がない存在。
でも、まったく見ず知らずの環境に入っていくより、ある程度「なじみ」のある場の方が
やりやすいに決まっている。あくまで実習生は「インターン」なんですから。


生徒の側からしても、実習生は、身近な「先輩」であり、「目標」でもある。
そして、そのような存在であるからこそ、生徒の側も、わざわざ下手クソで退屈な
実習生に、自分たちの授業の時間を提供してもよいと思うのではないか。


そのような現場の声を、いったい「専門家」と称する連中は、一度でも聞いているのだろうか。
そんな連中のくだらぬ思い付きが制度設計の根本に据えられるなんて、


たまったものではない(怒)