敗者への共感

昨日は横浜で、「頼政」をテーマにした平曲、狂言、能を観る。

義仲の息子であった彼と、高倉宮とで平家討伐をたくらむが、兵を挙げたものの宇治平等院の戦いで敗れ、命を落とす。

能のテーマには、このように無念の情を残したまま亡くなった人物が現われれて物語るということが結構ある。

ちょうど終戦=敗戦をめぐる時期でもあるので、はたっと思ったのは、無念な思いで亡くなった者へのある種の共感めいたものが、結構昔から、この日本社会では受容されてきたのではないかという点だ。

頼政などは、平家を討伐せんと自分で兵を挙げ、失敗しただけで、確かに父親と平家との因縁があるから、その気持ちも分かるけれども、どこか素直に、その無念さを共有できないところがある。

勝敗は兵家の常という醒めた認識からは程遠く、義もなく、ただ人間的な情の部分でのみ、血気盛んに動いたというだけのように思えるからだ。

結局、なぜ戦を起こしたのか、どれだけの惨禍を招いたのかということへの反省は、こうした物語からはすべて脱落している。

つまり単に無念の死という一般的な現象へと横すべりしてしまって、その個別の意味が抜き取られているようにも思う。

これが、日本が関わった戦争への一般的な反省の態度にも大きく影響しているのではないかと感じた番組だった。

8.15

朝日新聞でのインタビューもあり佐藤『八月十五日の神話』を少し読み返してみた。この本が出版されたのは2005年だ。その直後くらいに友人らに8月15日の親和性を話すと、一様に、否定的な態度だったことを覚えている。

さて、そこで指摘されているように、終戦記念日が8.15と決められたのは1963年5月14日、「戦没者を追悼し平和を祈念する日」という名称は、1982年4月13日。まさに戦後のことであり、いつが終戦、敗戦かを決めるのは事後的なものであるにせよ、いつを終わりと考えるかは戦後史を考える上で重要な意味をもっている。

8・15の神話は左右両陣営から歓迎されたが、米谷氏の論文そのほかから明らかなように、丸山の有名な論文もまさにその執筆過程から、8.15を捏造してしまう。あれを捏造と呼ぶか、有用なフィクションと考えるかは意見が分かれる。

ただ8・15を終戦=敗戦だとする認識は、まさに国内の、それも本土にのみ自閉して戦争を考える態度を醸成してしまったことは否めないだろう。

ポツダム宣言受諾の8.14、降伏調印の9.2が日付としてよいのか。佐藤氏のように、戦没者を追悼する日を8.15、平和を祈念する日を9.2としてもよいだろう。

毎年8.15を中心として、メディアで大量に流される個人的な経験の洪水は、ナラティヴの重要性を否定するつもりはないけれども、真摯にあの戦争に向き合う態度を醸成するか疑問だし、戦争を運命的なものに解消してしまうだけのようにも思われる。

佐藤氏が紹介している坂野氏の言は、8.15を考える上で、改めて重要かもしれない。

「八月十五日にみんな二度と戦争をしないと誓います。あれは日本が戦争をやって、こてんぱんにまけた日です。やってみて負けた日に、「もう、懲りた」と言うのは不戦の誓いですか。せめて不戦の誓いをするなら十二月八日のパール・ハーバーとか、九月十八日、七月七日。覚えきれないくらい侵略しています。・・・。・・・八月十五日に大胸はって、「もう二度と戦争はしない」と言うのはちょっと格好悪いんじゃないですか。調子に乗って言うと、ちょっと卑怯なんじゃないでしょうか。」

複数形への違和感

『テロワールとワインの造り手たち』という面白そうな本が出た。一段落したら読んでみたい本だ。

ところで、このタイトル。違和感がある。「たち」という「複数形」。この場合、自然な日本語では、「造り手」だろう。

欧語はたいてい単数か複数かを明示しなければ気がすまない言語だから、そのあたりの区別は結構うるさい。

それにひきかえ、日本語にはその点の区別が結構緩やかだ。

もちろん、山々、峰々、人々といった言い方もある。一方で、「人の声がする」と言ったからとて、声の主体が何人なのかは状況依存的だ。

複数形で表現することが流行になっているのは、集団であることを強調したいからだろう。日本的な共同性などというものとは無関係なのだろうけれども、ことさら「たち」と表現されると、どうも違和感を感じる。

久々の能

昨日は、久々に、国立能楽堂へ。櫻間会の例会で、創作能 大友宗麟と、狂言 鈍太郎を。

狂言は本妻と妾をめぐる鈍太郎の話。野村万作氏は相変わらず上手。話の筋は鈍太郎が遠くに旅をして戻ってきたら、本妻と妾の二人とも鈍太郎本人とは気づいてくれず、家に入れずに追い払われたので、出家してしまう。そこでようやく本人ときづいた本妻と妾の二人が還俗してほしいと鈍太郎に頼むので、では戻ってやるかと調子に乗るというもの。

相変わらず狂言は、当時は常識だった女性差別的なものをそのまま再演する。盲目の人物が揶揄されたりもする。今の時代の価値基準からすれば妥当ではないということではなく、観客の側が、ある程度、そうした状況を差別と考えるようになってしまっているのに、いまだにそうした状況を常識と考えている観客を相手にしているようで、違和感が残るので、狂言ながら素直には笑えない。

もちろん筋書きを勝手に変えるわけにはいかないから、再演する場合には、工夫はすこぶる難しい。伝統芸能の客層が、なかなか若い人に広がらないのは、見た目の分かりやすさがないのも事実だが、どうも、こうした内容にも問題があるのではないかなとも思う。

創作能のできはよいように感じられる。ただやはり古典的なものとは異なって、これから練られていくのだろうと思う。地歌や囃子の調子も、まだ自然なものにはなっていないように感じられた。

大友宗麟に扮する櫻間氏の舞はなかなか見事。ただどうもゆっくりした動作の際に見られる不安定さは、以前から気になっていた。昔は、橋掛かりを歩いてくる際は、本当に上下動がなく、左右にもぶれずに、スーーと歩いてきたはずだが、昨今、それがない。。。

今回はしかし謡う声がとても明瞭に聴こえてきたのが素晴らしかった。その声に酔いしれつつ、キリシタン大名大友宗麟の在りし日のことに思いをめぐらすよい時間となった。

座り方と華

電車に乗って、たまにハッとさせられる時がある。それは美しい佇まいの人に出逢った時だ。着こなしが優れていることもあれば、所作が美しいこともある。

そうした美しさが際立つのは、逆にそうでない人が多くいるからでもある(自分も客観的に見れば、そうだろう)。

さて、電車内で、最近気づくのは、女性で膝をつけて座っている人がほとんどいないことだ。これは正直見苦しい。

こちらでは、両足をキッチリ揃えて座るのはポピュラーな座り方と言うが(そして妙な心理判断もひどいが)、そんな人にはまずお目にかからない。

膝をつける座り方をしているのは、若年層に多いX開脚と言われる、かつてはふしだら(!)だとも言われた、これまた見苦しい座り方だ。

女性の座り方に難癖をつけるのは、家父長制社会の典型例でもある。しかし、せっかく外見的に美を表出しやすい存在であるのだから、勝手な言い分は承知の上で、「華」を忘れないでほしいものだと言いたくなる。

いただきもの

Biomedical Ethics in Asia
昨年、著者3人で長い時間をかけて討議されていたものが本として公刊されたもの。

助川幸逸郎『文学理論の冒険』東海大学出版会
某企画でご一緒している著者からの頂き物。冒頭の「絶望より不安の方が、人間が生きていくことを遥かに困難にする」という話は興味深い。

只腰 親和、佐々木 憲介編著『イギリス経済学における方法論の展開』指導教授と編者のお一人からいただく。このようなちゃんとした古典研究を心がけなければ。