「犬身」論・論争 あるいは若手批評家の父殺し

先夜、ぶらりと立ち寄った新宿のとあるバーで、奇妙な光景に遭遇した。なにやら、50過ぎの中肉中背の男がわめいている。止まり木から耳を傾けていると、どうやら弟子筋にあたる若手批評家に、文句があるらしい。



さらに聞いていると、松浦理英子の『犬身』をめぐる評価が割れていて、師匠風の男は、これをイマイチ評価していないようだ。ところが、弟子の批評家は、これを大評価。かたわらにいた「小説T」の編集者に、すでに書き始めた50枚ほどの『犬身』論を見せ、よければ12月に出る号に掲載とのこと。それを聞きつけた師匠が、それなら自分に、弟子の批評に対する反論を書かせろ、とうるさいこと。しかも、弟子の批評を読む前から、反論とは。



さらに、「小説T」の同じ号には、蓮實重彦による『犬身』論の長い書評(20枚とか聞いた気がする)も出るという。師匠風の男、いわく。蓮實重彦は、おじいちゃんだから、『犬身』をほめようがどうしようが反論はしないという。しかし若手批評家については、いわば息子も同然だから、父親としてしっかり言ってやらねばならない、とのこと。どうして、松浦理英子の小説を批評するのに、こんなオイディプス的でマッチョな姿勢なのか。ともあれ、次号の「小説T」が楽しみだ。



あとでみなさんが帰ってから、隣の客に聞いたら、マッチョな父親の名は、渡部直己、若手の息子の名は、前田塁とか。はたしてこの論争で、息子・塁クンは、無事に父親殺しが果たせるかどうか。酒の肴としては、なんだか渡部直己の老父ぶりが際立つやりとりではあった。自立を阻む父親はどこにでもいる、ということか。やれやれ。*1



犬身

犬身

*1:追伸:ところで、前田塁の「犬身」論は、「小説T」には掲載にならないようだ。読む前から渡部直己の批判付き、というのは、やはり妙だモノ。その論考は、来年に出る前田塁の第一批評集にどうやら収録されるらしい。前田と渡部の「親子ゲンカ」は、その後のお楽しみということか。

古井由吉さんと飲み、食べ、話す

littoral2007-10-31





日曜日の夕刻、中野の北アフリカ料理の店で、久しぶりに古井さんにお会いし、歓談する。5人で赤ワインを5本あけるが、半分以上を二人で飲む。

互いにそれとなく近況を話すうち、ともに入院話となる。「蝙蝠ではないけれど」*1に書かれた16年前の手術ほど大変ではなかったらしい。翌日にはもう歩いていたとか。肩の凝らない原稿から、執筆を再開されたようで、間もなく、連載も始められるようだ。

そしてこんな興味深い話を聞いた。黄昏と暁の一瞬が、相互に似た空を差しだすように、老年と幼児には、傾きは異なるものの、ある種の対称性があるという。とりわけそれまでに獲得した言語との関係において、崩れともいうべき事態が起こりうる。ちょうど幼児が、その崩れを逆向きに実践しながら、言語の獲得に向けて歩むように。

その崩れの様を、古井さんは書いてみたいという。すごいコトになってきた。あれだけの日本語の使い手が、その身体から言葉が剥がれてゆく様を書きながら見とどけるとは。

それから、12月の頭(しかし、やや酩酊していて不確かなので、要確認のこと)に、「K」で朗読会をやるという。お相手は、柄谷行人氏らしい。以前、いちど聞いているが、柄谷さんのねじれながらせりあがってゆく文は、じつに耳にとってパトスのような快感をもたらしてくれる。

*1:

陽気な夜まわり

陽気な夜まわり

空位時代の長距離走者 堀江敏幸の孤独な走り

littoral2007-10-14





文學界」(07年11月号)掲載の堀江敏幸の「果樹園」を読みながら、作品への印象とともに、近代文学館の夏の催し「作家の誕生」で、本人がデビュー作『郊外へ』の頃を語っていたことを思いだす。まだ、40歳を越えたばかりで、もうデビュー作の回顧にひっぱり出される気分は、おそらく辛いものがあるだろう。

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

郊外へ (白水Uブックス―エッセイの小径)

文学界 2007年 11月号 [雑誌]

文学界 2007年 11月号 [雑誌]



それは、主催者側の配慮のなさか、批評性の現れなのか。おそらく、前者だろうという気がするが、それでも、堀江氏の受賞歴をみれば、文芸関係の主要な賞はとりつくした感がある以上、デビュー作を振り返るよう求められても仕方ないのかもしれない。


しかし、きつい。そのきつさは、当人にしか分からないだろうが、周回遅れとは逆の、他のランナーを何周も引き離した走者のきつさだ。別に文学賞のために走っているわけではないことは承知だが、それでも三島賞*1芥川賞*2川端康成文学賞から谷崎賞*3読売文学賞*4まで獲れば、そのあと何をメルクマールに走るのか、しかしそれでも走りは終わらない。そういったきつさだ。


しかも、その作風は、長距離ランナーのものではない。中上健次なきあとの、メジャーな物語の、いわば空位の時代の走者なのだ。その味わいは、マイナー・ポエトリーにある。それが長距離走者のような走りを周囲から期待され、ここまで堅調なハイスピードで走ってきた。そういう、走りの特性と種目のずれから生じるきつさもあるのかもしれない。  


で、今回の「果樹園」。交通事故で繊維関係の仕事を離れて実家にもどって、レタスとオクラという名の二匹の犬の散歩を代行することになった中年男の、犬を散歩させながらの回想を織りまぜた話だ。


オクラは足の不自由な犬で、左へと斜行するクセがある。それを、レタスがかばうのだが、主人公も交通事故で、「左足に軽い痺れ」がある。そういえば、飼い主も、「私とおなじ左足」を捻って、まだ膝の具合がよろしくない。みんな左足に問題アリ! その飼い主をかばうように、散歩の代役のアルバイトを主人公は引き受けたのだ。そして主人公は散歩させながら、リードの先の二匹の犬に、リハビリを手伝ってもらっている。しかし、いかに足に問題を集めているからといって、散歩途中で落ちていた汚れのない「右足」のベビー靴を主人公に拾わせ、交番にとどけさせるだろうか。そうした小さな事件ともいえない事件を、散歩の途中に置かなければならないほど、この二匹の犬に牽引された語りはつらいのだ。そうか、走りつづけるには、そうした小さな障害が必要なのだ、でもそれって、この走りがいつのまにか、小さな障害物競走になったということ? そんな疑問がわいてくる。


しかし、こういうときこそ、作家にとっての特権なのだ。作家としては、さらなる生成へのきっかけを与えられたようなものなのだから。川上弘美が『真鶴』*5で、それまでの作品の空気を変えたように、堀江敏幸にもいま何かが求められている。これからの、作品の一作ごとに、どんな一歩が刻まれ、どんな新たな走りをみせてくれるのか、注目!

*1:おぱらばん

*2:熊の敷石

*3:雪沼とその周辺

*4:河岸忘日抄

*5:真鶴

俗流を離れて、京都でフロイトにひたる

littoral2007-09-20






京大会館で行われた「第一回フロイト思想研究会」にでかける。
新宮一成氏の発表は、「精神分析はエディプスコンプレクスと運命を共にするのか?」という発表。男女の性関係に還元される「俗流のエディ・コン」は、現実界を埋め合わせしてしまうのに対し、ラカンは、「性関係がない」というかたちで現実界を定位したという説明に納得。


そのほか、印象的だったのが、フロイトが『夢解釈』で報告している、「子どもがだれかにぶたれている」という受動の報告と「父がだれかをぶっている」という能動の報告の中間に、「私が父にぶたれている」という第二の段階を読みとっているが、この現実にはないのに分析によって構成され段階こそが、シニフィアンの導入になっているという示唆(ラカンによる)であるが、そこから、この分析による第二の段階の生成を、物語という言語(シニフィアン)の生成として敷衍できるだろうという気がした。


さらに、坂部恵氏の、ラカンの言説のうちに、スコラ的な「概念実在論」を、ベンヤミンを経由しながらとりだす作業も、じつに刺激的だった。ラカンのテクストに秘められたポリフォニーを聴取可能にしてくれた。

 
また、シンポジム後の懇親会で、両氏のほか、寺山修司ラカンで読んだ野島直子氏*1とも歓談する。

*1:ラカンで読む寺山修司の世界

こんな夢を見た

ふだんは、あまり夢を見ない。いや、見ていても覚えていない、というべきだろうか。ましてや、夢分析などしない。好きではない。しかし、こんな夢を見た。

私はガラスのはめ込まれたドアの外にいて、内部を見ている。その建物には、もう一つの端に同じようなドアがり、そこには妻がいて、やはり内部を見ているようだ。建物の内部は、まるでコンビニみたいに、いろんなモノがびっしりつまった棚がいくつも並んでいる。その端の方(妻の立っているドアの近く)に、おそらく本や雑誌のコーナーだろうか、一人の赤ん坊がいる。身体は小さいが、顔は妙にどこか大人びている。いつ生まれたのか分からないが、自分の子どもだとわかる。声をかけようとして、思いがけずに、
「***か?」とドアのガラス越しに発している。
なぜ***なのか、自分でもわからない。大声ではないが、建物のなかまで聞こえているようで、赤ん坊は、赤ん坊であるにもかかわらず、
「ちがうよ」とはっきり答える。
そして私は、これは夢だな、と思う。


じつは、これは、入院して手術を受けた翌日の夜から朝にかけて見た短い夢だ。術後の夜は、全身麻酔が切れて、痛みと、身体にメスが入ったことによる生体の疲労と興奮のせいで、ほとんど眠れなかった。眠気に襲われ、それに身をゆだねても、二時間置きの検温やら点滴やらで、眠りを奪われてしまう。だから、実質的に、この夢は術後に最初に見た夢だ。

分析はやらない。でも、分かったことがある。このコンビニみたいな空間は、じつは病院の一階奥にある売店に近い。そしてその建物じたいは、病院そのものを意味しているということだ。とすれば、その内部にいる赤ん坊は自分ということになる。内部にいる自分を、外にいる自分が見ている……。そこまで考えた私は、フロイトの、「子供時代は、そのものじたいとしては、もうない」というセリフを思い浮かべる。そしてこれを、村上春樹論のまえがきかあとがきに使おうと考える。

ヒップホップを観る

littoral2007-08-14




ヒップホップのダンス・グループRockwilder(いわゆるRock wilderではない)のパフォーマンスを観る。中心のMAAさん、少し太った印象だが、切れは相変わらず。ユーモアを込めたサーヴィス精神にあふれている。アレンジメントは抜群。

何か変だよ、文芸誌「すばる」

littoral2007-08-03




「すばる」8月号がどうもオカシイ。じわじわと、読後の残像が、そう語りかけてくる。どこが?? 奥付を見ると、編集長が代わっている。だから? ってわけだかどうか分からないが、なんかチガウ雑誌に見える。パワーがない。お座なりの、講演でも聞かされた感じだ。
そしてついにその理由を発見。そう、講演だらけなのだ。

すばる 2007年 08月号 [雑誌]

すばる 2007年 08月号 [雑誌]

大江健三郎「知識人となるために」p24-42・・・「東京大学創立百三十周年記念講演 ・二〇〇七年五月十八日」
柴田元幸×沼野充義 対談「日本の文学・世界の文学」p130-142・・・「2007.4.24 東京工業大学世界文明センターにて」
奥泉光×いとうせいこう 文芸漫談「G・ガルシア=マルケス予告された殺人の記録』を読む」p190-208・・・「2007.5.22 北沢タウンホールにて」
日高敏隆 最終講義「イマジネーション、イリュージョン、そして幽霊」 p209-223・・・「2007.3.30 新・都ホテルにて」


つまり、みんな、別々の目的と機会に行なわれた講演の採録ということ。奥泉×いとうの漫談は、いつもの通りだけれど*1、それにしても、これって、編集者の企画性の問題じゃないの。せっかく前回、プロレタリア文学の企画をやっていたのに。こういう外部講演の起こしばかりで紙面を埋めてゆくことじたい、どうなのよ、雑誌じたいの存在意義にかかわってくるのではないか。
だからこそ、注目しましょう、「すばる」9月号のラインナップに。

*1:文芸漫談 笑うブンガク入門