16-4念仏への確信

この『選択集』の第十六章では、念仏でなければならないという念仏の必然性を振り返り、また我々が念仏を選ぶにいたる過程を振り返った。念仏が必然であると聞いてから、実際に念仏を選ぼうとするまでの間には、「念仏が必然であることを信じる」という大切なステップがある。

「阿弥陀仏を自ら見つけるには」でほぼ同じことを述べたが、阿弥陀仏が本当に存在し、念仏が本当に必然なのかどうかを、誰の力も借りずに独力で見出すことは困難である。すでにその確信を持った人の生き方を見て、その中に阿弥陀仏の力が現れているのを知り、念仏が活きているのを知って、自らも確信に至るよりほかない。法然上人は、善導大師という人の書き記したものを読んで、そこに力を及ぼしている阿弥陀仏を知り、その念仏の力強さを感じて、自ら回心し、浄土宗を立ち上げるに至ったのである。そのことが、第十六章にて最後に述べられている。すなわち、浄土の経典をなぜ善導の解釈のみによって読み解こうとするのかという問いに対し、

・(浄土経典の研究を行った高名な聖道門の)それらの師らはそれぞれみな浄土の研究書を書いたが、浄土の教えを自分自身の教えとせず、聖道門だけを自分の教えとした。ゆえにそれらの師らに依らないのだ。善導和尚はひとえに浄土の教えを自分の教えとして、聖道門を自分の教えとしなかった。ゆえにひとえに善導一人に依るのだ。
・(善導以外の高名な浄土門の)これらの師らは、浄土の教えを自分の教えとしたが、三昧を起こさなかった。善導和尚は三昧を起こした人だ。その道においてすでに実証を得ている。そこでしばらくはこの人(の解釈)を用いる。

のように、「自ら念仏を信じ実践したこと」「三昧を得ていること」を理由として挙げている。こういった点に法然上人は、阿弥陀仏が善導大師に実際に働いているのを見、念仏の実効性を確信したのであろう。ここに「しばらくは善導を用いる」のように「しばらくは」と断っているのは、法然上人が善導大師に出会ったのはたまたまのことであり、その偶然性に頼って善導大師を用いるのであるから、論理的絶対の必然性によって善導大師を用いているわけではない。そのことを意味しているのであろう。

なお、三昧とは特別な心の状態を指す言葉である。この箇所では、善導が仏前の花を瑞々しく保ったこと、また瞑想状態に入って過去のことを言い当てつつ、善導自らの師匠(すなわち道綽)が往生できるか否かを判断したことを挙げて、三昧のエピソードとしている。これらは奇跡を伴いつつ、往生の可否に言及したというエピソードである。奇跡を起こすということについては、より大きな問題に立ち向かっている念仏者には関心のない瑣末事である(以前の記事参照)。ここではこの奇跡は単なる文学的修辞であるととらえ、むしろそれが強調しているところの「往生の可否への言及」に注目したい。このエピソードでは、道綽は自らが往生できるかを確信しておらず、対して善導がそれを確信的に語っている。この確信の存在こそが、この文脈で三昧ということの持つ重要な意味であると考えるものである。

このように確信的に阿弥陀仏や念仏の実効性を語る善導大師を見て、法然上人は、阿弥陀仏が実際に善導に働き、念仏が善導を動かしているのを見たのである。我々はまた、法然上人がそう語るのを見て、阿弥陀仏のお働きを実感し、それが自分にも向けられているのを感じなければならないであろう。

16-3我々が念仏を選ぶにいたる過程

生という苦しみから脱出する方法として、念仏は、あらかじめ選び抜かれた必然の結論なのであった(「念仏の必然性」)。しかし、苦からの脱出を求める多くの人にとって、それは初めから自明ではない。まず、生に苦しみを感じて、そこから脱出したいと願い(「お念仏の動機」)、数ある宗教の中から、いくつもの偶然を経て、仏教を選ぶ(「宗教の選択」)。その仏教の中にも、念仏以外の数多くの教えがある。

次にあらゆる仏教を、この世界で生きながら苦からの脱出を目指す仏教(=聖道門)と、まずこの世界を離れて苦からの脱出を目指す仏教(=浄土門)に二分する。この二分を行った時点で、実は浄土門の方を選ぶ準備がすでにできあがっている。(「聖道門を捨てる」「浄土門に入る」

この世界を離れて浄土に生まれるためには、何を行うべきか。あらゆる仏教的行為が、浄土に生まれるための方法になりうるのだが、浄土往生という目的との整合性からいえば、浄土を用意なさった阿弥陀仏に関係する行為を正行とし、それ以外の種々雑多な行為から選り分ける。

さらに、阿弥陀仏に関係する行為もたくさんあるが、阿弥陀仏の本願に依拠した行為である称名念仏を、他の行為から分けて、本質的な行為とする。

・この生き死に(の苦しみの世界)をすみやかに離れたいと欲するならば、(聖道門および浄土門という)二種類の勝れた仏法の中からは、しばらく聖道門をさしおいて、選んで浄土門に入れ。
浄土門に入りたいと欲するならば、正行および雑行という二種類の行為の中からは、しばらく諸々の雑行を投げうって、選んで正行に身をまかせよ。
・正行を修めようと欲するならば、正定業および助業という二種類の行為の中からは、やはり助業を脇に置いて、選んで正定業ひとつを修めよ。正定業とは、阿弥陀仏の名を称することである。阿弥陀仏の名を称すれば、必ず往生できる。阿弥陀仏の本願に依拠しているからである。

こうして、苦からの脱出を求める人が念仏に行き着くのである。

16-2念仏の必然性

この『選択集』は、阿弥陀仏、釈迦仏、諸仏が念仏だけを選択していることを顕そうという書物である。

まず阿弥陀仏の選択。生きることは矛盾に満ちており、人生に悩みは尽きない。そこに、一個の人間の生を超えた立場から、より大きな世界を与えてくれるのが阿弥陀仏だ。その大きな世界に入るための実践として本願に誓われた念仏がある。「南無阿弥陀仏」(阿弥陀仏に帰依します)とその名前を声に出すという実践は、自分はその大きな世界に行きたいと阿弥陀仏に対して表明する行為である。この生き方がもたらす心の平安は阿弥陀仏光明の働き、そして人生の終焉は阿弥陀仏来迎である。

釈迦仏の選択。阿弥陀仏が存在することは、自分ひとりで発見したのではなかった。先にそれを発見して後世に伝えた先達が数多くいた、そのおかげなのである。いま我々の目の前の阿弥陀仏の教えは、釈尊の開いた仏教の流れに属する。この流れの中で、仏教の極致としての念仏の評価、さらに、どんなに乱れた時代にも通用する永遠性によって、後の世、我々の今の時代にまで伝えられたのだ。

そして諸仏の選択。念仏は、ただ我々だけの寄る辺なのではない。同じ悩みを持つすべての存在に対しての普遍性があるということ。

釈迦、弥陀および十方の各恒沙等の(=あらゆる他世界の数え切れないほど多くの)諸仏が、同心に、念仏という一つの行為を(往生のための行為として)選択なさっている。余行はそうではない。それゆえ、三経(=『無量寿経』『観無量寿経』『阿弥陀経』)ともに、念仏だけを選んで、この道の結論としていることがわかる。

阿弥陀仏の選択によって、この念仏という原理が初めて存在することになった。釈迦仏の選択によって、自分の目の前に念仏が初めて紹介された。諸仏の選択によって、念仏の普遍性が初めて明らかになった。阿弥陀仏、釈迦仏、諸仏の意思は一致している。そのひとつの意思が念仏だけを選んでいる。念仏は必然なのである。

16-1背教の本性

阿弥陀経』では、お念仏についてのお釈迦様の説法が終わると、舎利弗以下の数々の聴衆は、教えを聞き終えて喜び、去っていく。これについて善導大師の『法事讃』では、

世尊(=釈尊)は、説法の時間がまさに終わろうとするにあたって、丁寧に阿弥陀仏の名を付属なさった(=後世に残すために託された)。五濁増の時(=汚れた時代)には、(念仏の教えを)疑いそしる人が多くなり、道俗(=僧侶と一般大衆)もこれを嫌って聞こうとしない。(念仏を)修行する人を見ては、怒りを起し、手立てを尽くして破壊し、競って憎しみを起こす。このように生まれつき分別がなく仏道に因縁のない人々は、頓教(=すばやく悟ることのできる教え)をこわし滅ぼして、(苦しみの中に)永遠に沈み続け、大地微塵劫(=とても長い期間)を過ぎても、ずっと苦しみの世界を離れることができないのだ。人々よ、心を一つにして、(念仏の教えに背くという)破法の罪を犯してきた過去を反省せよ。

というように、(一)お釈迦様がお念仏を後世に残したこと、(二)念仏を信じず誹謗する人が多いこと、(三)自分が念仏の教えに背いてきたことを反省すべきこと、の3点の解釈を施した。

お釈迦様の教えを受け継いだ仏教者たちが、仏教の本質を新しい目で捉え直して浄土経典としてまとめ、世に広めた。そのとき、後世の人を救いたいと願ったお釈迦様の心が、経典製作者たちを通じて、念仏の教えという形に結実したのである。我々の目の前にお念仏の教えがあるのは、その結果を享受しているということである。その意味で『阿弥陀経』を読む我々は、経典中で教えを聞いた舎利弗らの境遇を、自分自身のそれに重ねてみるべきである。これが第一点である。

さて、舎利弗らが教えを聞いて歓喜したという。今の我々の世にも、多くの教えが信仰者や出版物を通して流布しているけれども、それを見聞きして舎利弗らのように喜び信じる人はとても少ないであろう。法然上人の時代にもそれは同じである。『選択集』を読んだ心無き人が、念仏を誹謗し、阿弥陀仏の救いから身を遠ざけてしまうという事態を恐れた法然上人は、「この書物を読み終えたら壁に埋めてしまいなさい」と、『選択集』の中の、上記の引用のすぐ後に書き記しているほどである。これが第二点である。しかし、世の人が念仏を信じないという事実以上にここで大切なのは、自分自身のことであろう。

生きていく上での苦しみの多くは、自分がこの世に誕生してから作った原因以上に、人間としての本性に基づいて生まれている。人間の本性は自分が誕生する前から決まっていたことであり、自分が誕生してから作ったものではないのだから、「仕方がないもの」と責任を放棄することもできよう。しかし責任を放棄しても苦しみは解決しないのだから、これも自己の問題の原因として受け入れるほかない。「真実の教えを受け入れない」という性質も、多くの人間が有する、したがって自分自身も持っている人間としての本性である。言い換えれば、真実の教えを嫌うという性質が、救いから身を遠ざけることにより、苦しみの原因の一つとなってきた。いま、念仏を信じない心が自分にあるとすれば、「信じないのだから仕方がない」と責任を放棄し、その心に身を任せてしまってはいけない。勇んで念仏を信じるべきである。これが第三点である。

歓喜して去って行った舎利弗らにならい、背教の本性を見つめ直し反省して、お釈迦様の後世への意志が結実したこの念仏を信じるべきである。『選択集』中に特段の解説はないのだが、この箇所はそう言っているのではないかと思える。

15-4念仏による幸福の実現

阿弥陀仏を初めとする諸仏・諸菩薩・諸天の「護念」について、信仰の強化という観点から意義を考えてきたが、別の角度からも考えてみたい。善導大師の『観念法門』には

(念仏する人を諸仏が護念すると説いてあることから『阿弥陀経』のことを『護念経』ともいうが、その)『護念経』という意味は、また、(念仏する人に)諸々の悪鬼神を寄せ付けず、急病・急死など横様の厄難が起こらず、一切の災難や障害が自然に消散する(という意味もある)。(ただし)信心の至らない(場合)を除く。

のようにある。法然上人も別のところ(「浄土宗略抄」)で、「念仏する人は、阿弥陀仏はじめ諸仏・諸菩薩・諸神に護念されるので、他の神仏に祈る必要がない。どんな神仏もこの人を悩ませることはなく、宿業(=前世までの業)の報いで重く受けるべき病も軽く受ける。往生ほどのことを実現するのだから、この世の命を延ばし、病(の軽快)を助ける力もある」(取意)と説いている。

前述したように、念仏の動機となった問題意識には、老・病・死などの個別・具体的な不幸に関する苦悩ばかりでなく、それらを含んだ「生きること」全般への問題意識があったはずだ。それを出発点として、阿弥陀仏の本願という普遍的なる救いがあることを知り、「生きること」を新たな視点で見直すようになれば、個別・具体的な苦悩も深刻に受け止めることがなくなり、より気軽に対処できるようになる。これは、一種の幸福の実現であり、念仏の現世利益である。深い信心をもって念仏すれば、そのような結果もあるということを、これらの言説は意味しているのではないだろうか。

15-3幸福への欲求による信仰の強化

諸仏による護念(=普遍性による信仰の強化)と阿弥陀仏および諸菩薩による護念(=阿弥陀仏の再認による信仰の強化)について述べたが、『選択集』は

常に一切の諸天および四天大王、龍神八部が、(念仏する人に)付き随って影のように護り、(念仏する人を)敬愛して会いに来るために、諸の悪鬼神や災い・障害・厄難が、よこしざまに悩乱を加えることは、永久にない。

のように続け、「諸天等による護念」を説いている。

人間は苦しみを厭い幸福を求めるが、現実には突如として病気・事件・事故・災害などの不幸が訪れることがある。だから人間は、そういう突然の不幸が起こらないように希望し、人知を越えた神を想定して、自らの幸福を祈ってきた。この祈りは、仏教における求道の心を起こす前から存在する、生存者としての素朴で卑近な欲求である。

ところで、念仏を始めた動機は、(そういった突然の不幸も含め、)生きること・死ぬこと全般にまつわる、より大きな苦悩を解決したいということであった(以前の記事参照)。生存者としての素朴な幸福の欲求を包含しつつ、それよりもスケールの大きな幸福をめざしているのであった。その大きな幸福が実現すれば、突然の不幸を避けたいといった素朴で卑近な欲求も、自動的に満たされる。念仏には、そのような動機で臨んでいるのである。

したがって、この素朴な欲求は、人間からの祈りに応えて、人知を越えた神の力によって満たされるのではない。そのような神には、この素朴な欲求を満たす力さえ存在しない(祈りによって不幸が止むのなら、病気や事故で死ぬ人があるだろうか)。これはいまや、念仏によって解決されるべき問題の一部となっているのだ。

もともと、不幸の回避を願うといった素朴な心情から生み出された神々は、いまや期待された力を持たない。神々は、自身に期待された役割を、念仏者の念仏に託してしまい、念仏者が念仏するのを応援する役割に回ることになった。念仏者に、卑近な幸福を願う素朴な心情がなくなった訳ではない。しかし、その感情が起こるとき同時に、そのために念仏しようと、気持ちに火がつくのである。

このように、幸福への欲求が念仏への意志に転化されることを、「諸天等による護念」の本質として理解することができるであろう。

15-2阿弥陀仏の再認による信仰の強化

阿弥陀仏による救いということは、たとえ自己の周辺の特殊な経験であっても、信仰者自身にとっては構わない。しかし、これが普遍性を持つ救いであるとされることで、信仰はさらに強化される。「諸仏による護念」をそのように解した。

ところで、

ただ六方の如来のみが、(念仏の)行者を護念するのだろうか。六方の如来に限らず、阿弥陀仏、観音等もまた、(行者のもとに)来て護念したまうのである。

とあって、「阿弥陀仏による護念」および「観音・勢至菩薩等による護念」も説かれている。

阿弥陀仏による救いを実際に感じ取った他者を手がかりとして、私達は阿弥陀仏の存在を確信する(「阿弥陀仏を自ら見つけるには」)。そして次には、自身にもその救いが届いていると感じ取ることができる(「深心:阿弥陀仏の本願の確信(2)」)。このような経験は、阿弥陀仏を(部分的にであれ)感じる経験であると言ってよい。何よりもこの経験が、人に阿弥陀仏の救いを信じさせるのである。

こうして開始された念仏の生活の中で、阿弥陀仏を感じる経験を繰り返すことがあれば、その経験はさらに信仰を強くするように作用するであろう。このように、初めて阿弥陀仏の救いを信じた時と類似の経験によって、さらに信仰を深めることがある。「阿弥陀仏による護念」を、このように解することができるであろう。

また、阿弥陀仏の救いを感じる経験があるとき、そこには感じる対象としての阿弥陀仏が存在するにとどまらず、自分と阿弥陀仏を引き合わせた働き、言い換えれば、その経験を実現させた諸作用が存在することも忘れてはならない。阿弥陀仏による救いを人々に伝える教化者が、観音・勢至等の菩薩である。したがって、上記の経験によって信仰が深まる時、「観音菩薩勢至菩薩等による護念」も存在していると言えるであろう。(なお、観音・勢至二菩薩による護念は第十一章にも記述されている)