『われらが歌う時』リチャード・パワーズ

われらが歌う時 上

われらが歌う時 上

われらが歌う時 下

われらが歌う時 下

アメリカが、オバマ大統領の誕生で騒がしい。初の黒人大統領。海を隔てた遠い国ニッポンに住む私たちには、それがどれほどの意味を持つことなのか理解はできても皮膚感覚として実感することは難しい。民主党が自民を破って政権の座に就くよりはありえないことだろう。では、楽天イーグルスの優勝、あるいはトヨタが倒産とかそのレベルか。人種問題になじみの薄い私たちではその程度の想像力が限界である。しかし、実際は、下流から上流に川の水が流れ出す、死んだ人が生き返る、猿が言葉をしゃべり始める。黒人が大統領になったことは、それぐらいありえない事件だったというのが本書を読むと良く分かる。黒人が大統領になる。そんなことを口走ろうものなら、気が触れたと思われるか、それこそ危険思想として逮捕、最悪リンチして殺される。そんな流血と暴力に満ちた20世紀アメリカが本書の舞台である。

ユダヤ系ドイツ人で物理学者であるデイヴィッド、医者の父を持ちながら、歌手を志していた黒人のディーリア。二人はあるコンサートで運命的な出会いを果たし恋に落ちる。それはアメリカ社会では許されない恋である。二人の間にできた三人の子供、天性の音楽の才能を持つ兄ジョナ、ピアニストとして兄を支える弟ジョセフ、末っ子の妹ルースは複雑なアイデンティティーを背負って生きていくことになる。ジョセフを語り手に置きながら、時系列を複雑に入り乱れさせて音楽、時間、人種問題、家族いくつものテーマを包含しつつ壮大な一大家族サーガが奏でられていく。その様はまさにオーケストラの大演奏を読む側に想起させる。

上下巻あわせて千ページを超える。そのテキストの膨大さもさることながら、込められた情報量もすさまじい。パワーズの脳みそは一体どうなっているのか。同じ人間とは思えない。一番すごいのは、パワーズが黒人でないにも関わらず、これを書き得たところだろう。強靭な想像力が経験を相克する。そこに文学の可能性の一端を見る。

なお、ここまでの文を読むと人種問題を取り上げた社会派小説のようなイメージを与えてしまうかもしれないが決してそうではない。見方を変えれば私たちとは少し事情の異なるもののどこにでもある普遍的な家族の話(多かれ少なかれどの家族も問題を抱えているでしょう)であるし、音楽に人生を奉げた男の話である。恋愛小説でもある。人それぞれ違う視点で楽しめる多義性を秘めているところはやはりオーケストラ的だ。

映画でいえばポール・トーマス・アンダーソンであったり、このパワーズであったり、後々歴史に名を刻むであろう作家たちがリアルタイムで作品を発表し、当たり前のようにそれに触れ親しんでいることは、普段あまり意識することはないけど、ものすごく幸福なことだとしみじみ思った。

私たちの人生そのものが法の侵犯を意味していたのだから。生まれたその瞬間から、私たちの存在は法を冒涜していた。

差別がある。

「人種問題のことばかり考えているのが、もううんざりなの」魚と鳥は恋に落ちることができる。しかし、愛の巣はどこにも見つけることができない。

苦悩がある。

「鳥は水面に巣を作ることができる」
私の母は彼らの前に広がる細く長い空間を望む。「魚は飛ぶこともできる」彼女は目を伏せると、顔を赤らませる。
「顔が赤くなることもあるんですね」と私の父が叫ぶ。すでに学び始めている。
「はい」と言って私の母がうなずく。同意、あるいは、それよりさらにひどいものを表明している。
「はい、あるんです。それも。私たちには」

しかし、人間は希望を見出す。信じる。

『ファミリー・ポートレイト』桜庭一樹

ファミリーポートレイト

ファミリーポートレイト

これは、虚構的自伝小説いや、妄想的自伝小説と捉えたほうがいいかもしれない。かつては女優でありながら、その後落ちぶれて全国を転々とする母親マコと娘マコとの関係を描いた第一部、母親を失い、刹那的な日常を送りながらも、小説家としてコマコが自立するまでの第二部と二部構成になっている。

短いセンテンスと体言止めを繰り返し、きめ細かい描写よりもテンポとリズムにこだわった文体がまず気になった。いつの間にこんな古川日出男っぽい感じになっちゃったの?同時進行で聖家族を読んでいただけに余計そう感じてしまった。あんまり喜ばしいことではないな。

さて、肝心の内容。序盤の双頭の弟の堕胎や婚姻葬礼付近のマジックリアリズムを意識しつつ日本のフォークロアを前面に出していく手法は非常に良かった。問題は第二部で、冒頭から退廃的な青春の描きかたが紋切り型でトーンダウンの印象が否めない。生き生きと筆が進んでいたように見えた神話の時代の第一部が終わり、第二部が現実世界の始まりを告げると、次第に作者の苦しさが浮き彫りになってくる。これは『赤朽葉家』でも見られた現象で、自己の中に書くべき絶対的な物語を持たないがゆえに虚構で埋め合わせていかなくてはならない現代作家の置かれた危機的状況がそのまま小説の中に反映されている。もちろん、それは同時に、いかなる規範にも拘束されることなく自由に世界を展開できることでもあるのだ。この『ファミリー・ポートレート』という作者の人生は見えてこないが、思想は見えてくる不思議な作品が生み出されたこと自体がそのことを証明している。虚構に侵食されることで実人生がすさんでいくつらさもまた一方ではあるのだが…。

あたしは無口で、自分のほんとうの気持ちは演目にのせて語ることしかできなかったし、真田のほうは物語を必要としてない人、つまりはまともな人間だった。

このあたりに桜庭一樹の小説観が現れている。まともな人間は物語など必要としないのだ。

まとめ

田中慎弥津村記久子>>墨谷渉>吉原清隆>鹿島田真希山崎ナオコーラ
上位二人より下には大きな隔たりがあるので、事実上の一騎打ちだと思います。墨谷渉、吉原清隆は確実に数合わせのかませ犬なのだけど、変化球どころかビーンボールな作品だったので楽しんで読めました。鹿島田真希は、錚々たるメンバーと並んで、群像で連載していたぐらいなので、立場上そろそろ取らなきゃおかしいけど…受難の時代は続く。

『手』山崎ナオコーラ

文学界 2008年 12月号 [雑誌]

文学界 2008年 12月号 [雑誌]

配信会社で働く年上好きの私が、職場の上司や先輩と恋愛する話。

これは駄目だな。読んでいてイライラする。奇しくも似たような境遇の女性を主人公に据えた小説を、津村記久子が書いてきただけにこの小説の駄目さがよく分かる。

根底に男への悪意がある小説なので、男である以上批判的になっている側面もあるかもしれない。でも、津村さんもジェンダーフェミニズムが作品の下敷きになっていて、結構男にとっては耳が痛い話だったりする。しかし、彼女の場合は、徹底して自分を突き放したところで小説を書いているので、男が読んでも共感できるのだ。ナオコーラの場合は、その辺が不徹底で作者の自意識が微妙に残ってしまっているので、読んでいてどうも嫌悪感を覚えてしまう。たとえば、主人公の女の読んでる本のチョイスが金子光晴だったりするところは脇が甘いと思う。意図がよく分からない。たぶん、この作品では男を批判すると同時に、そんな男になびいてしまうこの女の浅はかさ、馬鹿さも暗に描いていると思うのだが、それだったらもっとベタな本(村上春樹とか)でよかったんじゃない。いいがかりにもほどがあるけど、なんか金子光晴読んでそうな感じじゃないのだ、主人公(恋の空騒ぎに出てきそうなタイプ)。『ミュージック・ブレス・ユー』で主人公のアザミの聞いている音楽は、作者の好きな曲ではなくあくまでアザミの聞いていそうな曲をチョイスしたと津村記久子が対談か何かで言っているのを読んだけど、ナオコーラはそういう細かい配慮に全体として欠けていて、小説を背伸びして書いているような印象をどうしても受けてしまう。

『潰玉』墨谷渉

文学界 2008年 12月号 [雑誌]

文学界 2008年 12月号 [雑誌]

この…小説初めて読んだ時……なんていうか……その…下品なんですが…フフ……勃起…しちゃいましてね……(吉良吉景風に感想)

なんかタイトルのイメージから、勝手に古井由吉系の重量感のある小説かしらんと読み始めたら、SMの話だったのでびっくりした。タイトルの意味はそのままでおっさんが色黒ギャルに金玉を潰される話。

これ、主人公の弁護士のおっさん青木が、ボコボコに痛めつけられながらも終始、踏み込みが浅いとかフォームがいいとか冷静な分析を続けているのがおもしろい。ちょっと阿部和重の小説を髣髴とさせる変にずれた変態なのである。金玉けられたい願望は自分にはないし(ないと思いたい)、日焼けギャルも遠慮したいのだが、それでも感情移入させてしまう描写力には唸らせられてしまった。

亜佐美に打たれる痛み、鋭痛ばかりでなく特に深く打たれたときの、嘔吐感や呼吸難による苦痛、長時間残る鈍痛への恐怖心や、本能的な防御の動作が起こるのと反対に、打たれるのなら、亜佐美が打ちやすく、きれいに入るようにと配慮する心理とが拮抗して足の開きが決まらなかった。

こういうディテールのこだわりがね、なんか、もう…あほでしょ。

あと青木が女の子三人とカラオケに行くシーン。

青木がサザンオールスターズエロティカ・セブンを歌うと三人の女は時々痛々しい目で青木を見た。

ここは爆笑した。シュールすぎるだろ。

時々挿入される不動産の話と肉体の話がどう有機的に繋がっているのかはいまいちぱっとこなかったのだけど、そんなのはどうでもよくなってて、青木のあまりのぶれなさに、最終的にちょっとカッコよさすら覚えている自分がいたのでした。

『不正な処理』吉原清隆

すばる 2008年 12月号 [雑誌]

すばる 2008年 12月号 [雑誌]

人との繋がりを極力避ける少年だった誠は、趣味のパソコンをきっかけに、同級生の久賀と親しくなる。しかし、二人の関係はある日を境にピリオドが打たれることに。その後、大人になった誠の人生は、思わぬことでどん底へと突き進んでいくのだが、実はそこに誠と久賀のかつての繋がりが関係していることを彼は知ることになる。

文体に血が通っていないというか、作者の意思が希薄な独特な文体で綴られている。そのせいで、主人公がどうも薄気味悪くて気持ちが悪いんだけど、変にリアリティーがある。僕が、これまでの人生ヒエラルキーの中心の側にいなかったのも関係していると思うのだが、分かりたくないのに、結構理解できてしてしまう。学校の空気とか誠の抱く人生観とか。もちろんなんでそうなるか理解できないところも多くて(イヌ探しが何のメタファーなのかも正直分からない。オチの意味も分からない)、心理描写や展開はあまりうまくないと思う。でも、ところどころの迫力、説得力はすごい。全体を通して現実味に乏しいのに、作品を覆う空気にはリアリティーがあるというなんだか得体の知れない作品だった。

『神様のいない日本シリーズ』田中慎弥

文学界 2008年 10月号 [雑誌]

文学界 2008年 10月号 [雑誌]

自分のこれまでの人生を淡々と扉越しに父親が息子に語り続けるお話。

これはすごいよかった。こんなに読みやすい作家だったっけ。

語り手の父親は、中学生のときに後の妻となる女の子と文化祭で『ゴトーを待ちながら』という戯曲を上演することとなる。この二人の関係が微笑ましくて、ほれている男のほうが、やけに辛らつな物言いで女の子に食って掛かるあたりはすごいリアリティーがある。たしかに現実世界では、この年頃だとだいたいツンデレなのは男のほうだよね。

「うまくゆくと思う?」と母さんに訊かれ、父さんは少し考えてから、
「思わない。やっぱり俺たちがやるには難し過ぎる。難しいことは、難しいと思いながらやるしかない。」

上演直前なんだから嘘でもそこは一言うんといえばいいのに、正論言っちゃうところがたまらなくいい。

そして、息子の録画したビデオに写っていたレッドソックスのエース、ベケットとゴドーの作者ベケットさらに、神様が舞い降りて奇跡の起きた86年日本シリーズとその年に上演した神様のやってこない『ゴドーを待ちながら』、祖父が野球を捨てる契機となった豚殺しを行った58年に起きた最初の日本シリーズの奇跡の大逆転と86年日本シリーズ。野球を軸としながら、三世代の人生を結びついていくさまは感動的で、さすがの筆力である。

しかし、この作品のなんといっても恐ろしいところは、息子が最後まで部屋から出てこないところだ。つまり、果たして本当に息子は存在しているのかは明らかにされていない。実は息子なんかいなくてすべては父親の勝手な妄想かもしれない。そもそもまったく父親に対する好意が見られない女の子と結婚できたというところから怪しい。感動作から一転、なんとも気持ち悪い小説にもなりうるしかけが田中慎弥らしいといえばらしい。