マーク・バランスキー『ペネロピ』@テアトルタイムズスクエア

クリスティナ・リッチが豚鼻の女の子を演じる。彼女の大ファンとしてはなんとも気が乗らない映画ではあったが、そこはファンの宿命、いそいそと映画館に駆けつけてしまう。

この手の映画は過去に多く作られていて(最近だとファレリー兄弟の『愛しのローズマリー』やパロディとしてそれを扱った『シュレック』など。)どう呼ぶのかわからないが、一つのジャンルとして確立されているように思われる。『ペネロピ』もそのジャンルから大きな逸脱をすることもなく、物語は随所に笑えたり、しんみりしたり、感動したりするシーンを挿入しつつ無難に進んでいく。そして、このジャンルは行き着く結論もだいたい同じもので映画の始めのうちからその結論は読めてしまうものだ。『ペネロピ』にいたってはその結論を最後に子供が口にだして語ってくれるという親切ぶりである。この映画にはいくつかの魅力的なシークエンスは存在するが、先にも述べたようにそれが驚愕するほどの水準には達していない、実に無難な映画ともとれる。

だが、子供にたったひと言をしゃべらせるためだけに持続していたかに見える100分以上の時間が、僕にとってどうしてあれほど楽しい時間になったのだろう?なにが僕をあれほどスクリーンに引き付けたのだろう?それは豚鼻のクリスティナ・リッチの異常なまでのかわいさ、愛おしさにほかならない。豚鼻の女の子ただ一人に映画の物語が、映像が、音楽が圧倒的に凌駕されてしまっているかのようだ。まさかここにきて豚鼻の女に恋をしてしまうとは・・・不覚。(田村)

※以上の文章は、おそらくファン故の偏見に由来するものなので、ぜひ他の方の意見を伺いたいと思います。

甲斐田祐輔『砂の影』@ユーロスペース

久々に426クロニクルに書いてみようと思う。好き嫌いの主観的な判断は差し引いて、見たほうがいい(かも)と思える映画を紹介してみようかと。

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映画が「反転」するとはどういうことだろう。
物理的な方法としては、画面の上下が逆さに入れ替わることもそのひとつだろう(『LOFT』の横画面もそのひとつかもしれない)。あるいは、思いがけず裏舞台としての撮影スタッフが介入するような事態も考えられる。キアロスタミの『桜桃の味』のように。
いずれにせよ、映画に「反転」が現れるときに明らかになるのは、僕たちは映画という本来的に異様なものを見ているという認識ではないだろうか。つまり、上映がはじまり次第に馴染みはじめるスクリーン世界に、突然ある種の膜が張られるのである。

砂の影』にはあらゆる「反転」が描かれていた。画面が逆さになることももちろんそうだし、映画――もっと広義には芸術が好んで描いてきた(自明な)死なるものを、不確定なものとして淡々と描いていた。「役者」である登場人物は、かつて映画で幾度となく死んだことだろう。しかしここでは何が何だか分からない。メタ構造とは説話がよく取る形態であるが、ここでもメタ構造があり(役者が「役者」を演じる)、しかもそれは「a-A」という単純なものではなく、「a-歪A」とでもいうような歪められたものだった。
口語的な台詞に支持される日常は、いつしかそこを超えている。そしてまた、ここにも「反転」はあった。8mmゆえの「砂のような」画面には、光と影からなる粒子=砂がいっぱいに溢れる。僕らの、「映画を見ている」という無自覚は、その膜=粒子=砂によって「反転」させられ露になる。
臭い、手、あるいはエンドクレジットなどについても言及するとさらに奥深いものが見えてきそうだが、とにかく『砂の影』は貴重な体験だった。(伊東)
ユーロスペースにてレイトショー上映

井口奈巳『人のセックスを笑うな』@シネセゾン渋谷

『犬猫』を見て以来ひそかにファンになっていた井口奈巳監督最新作をようやく観た。ようやくというのは、この映画の異常な混雑状況にも起因するのであって、本当にこの映画はお客が入っている(僕が観たのは公開から一週間ぐらいたった月曜日であったのに最終回まで完売していた。同じ映画館で公開された黒沢清『叫』はえらい違いだ)。こういう満席の映画館はあまり好きではないのだが、そんな事とは関係なくとても幸せな気分に浸りながらこの映画を観ることが出来た。俳優たちを優しく見つめる『犬猫』と同様の井口監督の視線の前で、俳優たちが生き生きとしている。エアマットを膨らませつつじゃれあう二人の姿や帰宅した永作博美がラジオから流れるポップソングを口ずさみながらさりげない時間を過ごしているところなど、一つ一つのシーンが本当に素晴らしい。生き生きとした俳優(それも美男美女)、しかもそこに魅力的な歌が流れてきたら映画はもうほとんど成功なのだ。
ところで、梅本洋一氏は松山ケンイチ演じる「みるめくん」と同一化したとnobodyにて語っていたが、僕が同一化したのは忍成修吾演じる「堂本くん」だった。人妻とセックスすることは出来なくても片想いの女の子に突然キスするぐらいはしてみたいものだ。

ところで僕の周りには自主映画を作っている学生が多いのにどうしてこういう幸せな映画を作っている学生がいないのだろう?(田村)

2007年 426chronicleベスト

【映画】
1 『サッド・ヴァケイション』青山真治
「僕たちが今いる場所なんて、人生単位で言ったらぬるま湯みたいなところだ。さっさと僕たちも「間宮運送」の人たちのように、「人生」を歩まなければいけない。 青山さん、すごい映画を見せてくれてありがとうございます」(高木)

2 『デス・プルーフ in グラインドハウスクエンティン・タランティーノ
「失われた時代の気運を取り戻そうとする試みは、ときに元ネタを凌駕し、飲み込んでしまうことさえあるのかもしれない。たとえば、生身の女性が爆走するスポーツカーにしがみついている姿を目撃するときに」(松下)

3 『街のあかり』アキ・カウリスマキ
4 『童貞。をプロデュース松江哲明
5 『デジャヴ』トニー・スコット
次点 『不完全なふたり』諏訪敦彦、『レディ・チャタレー』パスカル・フェラン

(選考者) 伊東 今野 高木 田村 長汐 彦江 藤本 松下 宮本


【邦楽CD】
1 『911FANTASIA』七尾旅人
「間違いなく10年後、20年後まで価値を損なわない、それどころかきっと輝きを増すであろう超稀有な大・大・大傑作。この作品を評価できる土壌が日本の音楽界に未だ残っているのか不安ではある」(藤本)

2 『ワルツを踊れ』くるり
3 『GOLDEN LOVE』□□□
4 『空洞です』ゆらゆら帝国
5 『Scratch』木村カエラ
次点 『Tide Of Stars』DE DE MOUSE、 『Surge』Jimanica×Ametsub

(選考者) 上西 今野 長汐 藤本 松下 宮本


【洋楽CD】
1 『In RainbowsRadiohead
「やはり多くの意味で07年の中心になってしまった一枚。類を見ない流通形態に賛否両論が飛び交う中、混沌と停滞、迷走が堆積する世界への答えは音盤の中に刻み込まれていた」(藤本)

2 『Mirrored』Battles
3 『CSSCSS
次点 『Heater』Samim

(選考者) 今野 田村 長汐 藤本 宮本


【ライブ】
1 遠藤賢司エンケン純音楽祭』@渋谷クラブクアトロ
「この世の沙汰とは思えぬ躁状態。その後に静かに響く優しい愛の音楽。この圧倒的ダイナミクスの中心で、エンケンは30年以上ただ誠実に歌い続けている」(藤本)

2 七尾旅人『歌の事故』@名古屋Cafe Dufi
3 Battles『FUJI ROCK FESTIVAL'07』@WHITE STAGE
次点 『DKFATHEROFFICE』@NDK、 ZAZEN BOYS『Holiday Inn Black』@LIQUIDROOM

(選考者) 上西 今野 長汐 藤本 宮本

横浜聡子『ジャーマン+雨』(2006)@ユーロスペース

著名映画人等の絶賛や、ぴあに取り上げられるなどして話題になっているこの映画。キャッチフレーズは「内向しない日本映画」だそうだ。僕は自分でも常々思っているし他人からもよく「きみは内向的だ」と言われるのだが、いざ「内向」というものを説明しようと思うとうまくできない。それではこの映画が逆説的に定義している「内向的」とはいかなるものかといえば、それはトラウマを代表とする醜い過去、または悲惨な現状のようだ。
冒頭からそれら内向の温床である事象は画面上で徹底的に踏みにじられる。ゴリラ顔の主人公よし子は祖父の従軍手当(?)と祖母の遺産を悪びれることなく使って生活し、老人からの手紙を汚物で溢れるマンホールの中に投げ捨て、人のトラウマを音楽に還元し、ダンゴムシは叩き潰される。それは内向的なるものを徹底的に踏みにじり、とりあえずの欲求に向かい生きていく、強大な意志の表れのように見える。危険に対して身をまるめるダンゴムシとは対照的に、自らの足に釘を突き刺してまで欲求にむかってひた走っていくよし子の姿は確かにすがすがしく、多くの若者がダンゴムシと化した(かのように見える)日本の一面に対しての明確なアンチテーゼとしてその映像はかなりの力強さをたたえている。
ただ、この映画が終わったときになにか違和感を感じてしまったのも確かで、それは結局この映画は日本の現状に対するアンチテーゼではなく「内向的な日本映画に対してのアンチテーゼ」にすぎないのではと思えてしまうからだ。ある枠組みの中であるものを否定したが結局その外には出ていないというか…。(それは俳優のせいなのかもしれない)
もっとも、(ある種)攻撃的なこの映画に対して僕自がダンゴムシになっているだけだということも考えられる。(田村)

ExT recordings 1stANNIVERSARY@代官山UNIT

永田一直が運営するレーベルの一周年記念イベント。今回出演したほとんどのアーティストたちにとって、2007年は転機になる年であっただろう。CHERRYBOY FUNCTIONはついにファーストアルバムをリリースしたし、ELEKTRO HUMANGELやCROSSBREDもそれぞれプレスされたアルバムを発売した。DJやけのはらも真保タイディスコも07年は毎週末パーティーに引っ張りだこだったし、CARREも精力的にライブを行い、どのアーティストも07年一気に知名度を上げた。
その中でもDEDEMOUSEの活躍ぶりはほんとにすさまじかった。1月に発売されたファーストアルバムは1万枚というインディーズでは異例の売り上げを記録し、多くのメジャーレーベルからも声がかかっているという。この日のライブもフロアに一番客が入っていたのは明らかにDEDEMOUSEで、飛び交う黄色い声援は1年前には聴こえなかったものだ。多くのリスナーを獲得したDEDEMOUSEはアンダーグラウンドからメジャーのシーンにまで活動の幅を広げていくのだろう。
今回の出演者たちの07年の活動はほんとに面白かった。そして今年も続々リリースの予定がひかえている彼らの活動に注目していれば面白いものが見られることは間違いないだろう。(長汐)

ジェイムズ・ガン『スリザー』(2006)@シアターN渋谷

ロメロの『ゾンビ』のリメイクである『ドーン・オブ・ザ・デッド』の脚本家が初監督して作られたのがこの『スリザー』だ。アメリカのとある田舎町になんの前触れもなく飛来してきた謎の物体Xによって、ヒロインの亭主はエイリアンに変貌してしまう。そして、人間の体内で増殖させた「スリザー」というグロテスクな生き物の襲撃で町の住人たちは次々とゾンビに変えられていく・・。
 これだけの大惨事を引き起こすエイリアンに、特にこれといった目的はない。わざわざ女を誘拐して「スリザー」を繁殖させることも、人々をゾンビに変えてしまうことも(ちなみに彼らが吐き出す液体は強い酸)、すべてが無目的に進められていくのである。しかし、ほとんど自然災害だとか天変地異に近いこの事態に対して、生き残った人間たちの行動は実に理にかなっており、無駄がない。逃げるときは全力で逃げる。やむなく闘うときは、ほぼ一撃で相手を倒す。目的に対して最短、最善の手を尽くすという意思が登場人物たちのすべてに表れている。このことは、一歩間違えばとんでもなく肥大化してしまいそうな今回の作品を、90分程度で仕上げたジェイムズ・ガン自身についても言えることだろう。省略するところは省略し、見せるところはしっかりと見せる。この手のほかの多くの作品と見比べてみなくても、その禁欲的とも言える姿勢は明らかだ。そういった点では、映画的な物語としてはほぼ同じような話を扱っているのに、無目的に肥大化し続けた『マトリックス』シリーズとこの『スリザー』は、対極の位置にあるのではないだろうか。加えて、カーペンターとクローネンバーグの作品に見られた演出を、自らの作品にアクロバティックに取り入れることに成功している点は、特筆に値すると言える。
 ラスト近く、スリザーに侵食されてしまいながらも、まだ意識が残っている仲間が主人公に自分を殺してくれと懇願する。少しためらいつつも、手早くピストルでその仲間の頭を撃ち抜いた主人公はすぐさま本来の目的の遂行に戻る。彼の目の前にいるのは、ほかのゾンビどもを身体に取り込んでひたすら肥大化するとてつもなくグロテスクな生き物だ。(高木)