言わないでいること

なんだかいつも、「言わないでいること」があるような気がする。何かを書こうとしたり、言おうとしたりするたびに、いつもそれがひっかかる。それって何だろうねえ。
「私には秘密がある」
と言ってみる。べつにないんだけど。(ないわけでもないんだけど。)
そしてちょっと思ってみる。
”たぶん「言わないでいること」というよりも「言えないでいること」というほうが近いと思う。”
そしてまたちょっと思ってみる。
”たぶん「言えない」は、「このことは、誰にも話せない」という意味での「言えない」ではなくて、「うまく説明できないんだけど」のほうの「言えない」だと思う。”
どうだろう。
「言えないでいること」
なんだろう。

ひさびさに小説を読んだ。じたばたして、家に帰りたい!という気持ちになった。家で読んでたんだけどね。つまり、すっごく、よかったということだ。心を揺さぶるものに会うと、いつもどうしようもなく、走って家に帰りたい気持ちになります。好きな人に会いたい気持ちになります、と言い換えてもいい。うむ。

「おまえら、俺が恐いんだろ?なにかに分類して、名前をつけなきゃ安心できないんだろ?でも俺は認めねえぞ。俺はな、《ライオン》みたいなもんなんだよ。《ライオン》は自分のことを《ライオン》だなんて思ってねえんだ。おまえらが勝手に名前をつけて、《ライオン》のことを知った気になってるだけなんだ。それで調子に乗って、名前を呼びながら近づいてきてみろよ、おまえらの頚動脈に飛びついて、噛み殺してやるからな。分かってんのかよ、おもえら、俺を《在日》って呼び続ける限り、いつまでも噛み殺される側なんだぞ。悔しくねえのかよ。言っとくけどな、俺は《在日》でも、韓国人でも、朝鮮人でも、モンゴロイドでもねえんだ。俺を狭いところに押し込めるのはやめてくれ。俺は俺なんだ。いや、俺は俺であることも嫌なんだよ。俺は俺であることからも解放されたいんだ。俺は俺であることを忘れさせてくれるものを探して、どこにでも行ってやるぞ。この国にそれがなけりゃ、おまえらの望みどおりこの国から出てってやるよ。おまえらにはそんなことできねえだろ?おまえらは国家とか土地とか肩書きとか因襲とか伝統とか文化とかに縛られたまま、死んでいくんだ。ざまあみろ。俺はそんなもの初めから持ってねえから、どこにだって行けるぞ。悔しいだろ?悔しくねえのかよ……。ちくしょう、俺はなんでこんなこと言ってんだ?ちくしょう、ちくしょう……」

名前やカテゴリーってなんだろう。それは、ときに私たちの上に乗って私たちを押しつぶしたり、べったりとはりついたりして、厄介だ。
「ときに」だろうか?
ほとんどいつも、厄介だよ。
名前やカテゴリーを主語にされるときは、褒められていても居心地がわるい。褒められたってやっぱり、カテゴリーからも、自分からも、解放されない。
このところずっとそんなことを考えている。
それだけ厄介なものだから、うまくすればとても強力な薬にもなるはずだ。
何かを言えたような気になるとき、心が軽くなったりもする。
たしかにそれは「そんな気になる」だけでもとても大切なことだ。安心もするだろう。そうやって心を軽くすることで、できることが増えれば、いずれはその分類して安心しようとすることからも自由に慣れるかもしれない。
でもなんだか私はこのところずっと、名前やカテゴリー(そしてもっと広く言うなら「言葉」)の毒のほうにばっかりやられっぱなしだ。その重さばかりを感じている。だからこそそれをいつか、すごく上手に、薬として加減できるようになったらいいな。今は長い通過儀礼の最中だと思いたい。
「物語」に関してはすこし感触がいい。「言葉」よりはいい。毒よりも薬の感覚が強い。どちらにせよ、「言えないでいること」のまわりをぐるぐると回ることになるのだけれど、それでも、言葉よりはずっと、その「言えないでいること」の形をうまくあらわせるような気がする。「言えないでいる」ということを上手に言えるような気がする。
どうかな。
どうだろ。

僕は小説の力を信じてなかった。小説はただ面白いだけで、何も変えることはできない。本を開いて、閉じたら、それでおしまい。単なるストレス発散の道具だ。僕がそういうことを言うと、正一はいつも、「独りで黙々と小説を読んでる人間は、集会に集まってる百人の人間に匹敵する力を持ってる」なんてよくわからないことを言う。そして、「そういう人間が増えたら、世界はよくなる」と続けて、人懐っこい笑顔を浮かべるのだ。僕はなんだか分かったような気になってしまう。

小説よありがとう。

GO

GO

小さなことを少しずつ

久しぶりの更新。
今年の抱負は「小さなことを少しずつ」とおととい図書館までの道を歩きながら思った。
私はいつも「大きなことを一気に」やってしまおうとする癖がある。
だからたいていの場合、気が重くなったり、面倒くさくなったりして、始まってもいないうちから投げ出してしまったりする。
なんでこんなことを考えたかというと、学校が終わる1月末ごろ、レポートが書けなくてとてもどんよりとした日々を送っていたからだ。でもそれは実は目の前のレポートじゃなくて、1年後の修論のことを考えすぎて、苦しくなっていたからだった。
結局レポートを書き始めたらうそみたいに気持ちも軽くなった。
春休みに突入して、東京でのんびりするうちに、少し前の自分もよく見えてきて、そう、いつも私は大きなものばかりを気にして、小さなこと、小さな一歩の価値がわからなくなってしまう。
だから今年は、小さなことを少しずつ。心がそうあれるようにしたいなと思った。
そして小さなことでも少しずつ、言葉にしていこうと思った。

こうやって言葉にすることで、それをなんども繰り返すことで、語りぐさにすることで、その一冬の体験は彼だけでなく聞いているみんなのものになる。一人の体験は言葉によってみんなの共有の資産になる。こうやって話を聞くのも、インターネットで情報を検索するのも、原理的には同じなのだ。人間はこうして知識を普遍化してきたのだ。

久々に池澤夏樹の小説を読んだ。彼の作品を読むといつもそうなるのだけれど、丁寧に書かれた文章を丁寧にたどると、いつのまにか呼吸がすっと整っている。

すばらしい新世界 (中公文庫)

すばらしい新世界 (中公文庫)

本懐

この数ヶ月ほど、止まらなくなっていろいろな本を買っている。
思えばここ8年くらい・・・
ていうか大学の途中くらいからずっと、基本的にセイビングマネー人生で、大好きな本を買うことさえすごく控えてきた。生活にかかわるすべての地域の図書館のカードを手に入れ(そういえば横浜市の図書カードは偽名で2枚持っていたっけ)、各館に足しげく通い、大量に借りて積み上げ、延滞し、また借りて、たまにどーーーしても、というものだけ買って大事に大事に読んだ。
そうやって貯めたお金で私は旅をし、専門学校に通い、大学院にも入ったのだけれど、今すこしずつタガがはずれ始め、財布のヒモはゆるみだし、堪忍袋のヲは切れ始め(ある意味ね)、本エンゲル係数が上がりつつあります。
本によって生きる。
本によって活きる。
出会った人々にたくさんの「ものでないもの」をいただき、ここにいる。
それには本の中での出会いも含まれている。

レポートを書きながら、いつか書かなくちゃならない論文のことを考えるのだけれど、このところあらためて思うことがある。
論文を書くというのは、大きな共同作業なんだということ。
いろんな人がそれぞれの分野で、頭と身体でとらえて記したもの。それらを追っているうちに、大きなひとつの作業を皆で分担しているような気持ちになってくる。
あの方はあの部分を担当されている。
あの方はまた別の部分を担当されている。
ある方はそこにまだまだ先があることを示し、
ある方はその先が行き止まりであることを示してくれている。
若い方、年老いた方、もう亡くなられた方、同じ国の方、そうでない方、
その広い広い作業場には遠くに近くにたくさんの方がいて、そこここで笑い声やぴりっとした真剣な声がしている。ざわめいている。
論文を書くということは、広い広いサロンにいるようなことなんだと思う。
少し前までなんとなく孤独を感じたり、「私に」書けるのか?なんてことを考えていたけれど、気持ちが変わってきた。私はぜんぜんひとりじゃない。ここにはたくさんの人がいる。そしてばらばらに見えても、ほんとうはみんなでひとつの大きな流れを作っている共同作業なんだ。
ここにいて、もうすこしその様子がわかってきたら、いずれ私のするべきこともわかってくるはずだ。
サロンのあちこちにいるいろんな人の声に耳を傾けているうちに。
そしてもしかしたらある日、そばを通る誰かに声をかけられるかもしれない。
たくさんの本を抱えて大変そうな人。
「君、暇かね?ちょっと手伝ってくれないか。」
え、は、はい、と思わず立ち上がってしまう。そのときに、もう私の仕事は始まっているのかもしれない。今にも崩れそうになってるその大荷物からいくつか引き受けて、とりあえずその方の作業場までついていく。そして新しい荷物の整理を手伝ううちに、誰かへの届け物を頼まれたり、また他の誰かから何かを預かってくるように頼まれたりする。
「自分が」何かを書かなくちゃいけない気がしていた。「自分が」何かをしなくちゃいけないんだと。
でもちがうのかもしれない。この広いサロンに足を踏み入れたら、もう「自分が」何かをできるなんて恥ずかしくて思えなくなってきた。
ただただ、先行く偉大な人々の話に耳を傾け、その仕事に触れるたびに涙が出そうに感動し、敬意を表し、強きを称え弱きをいたわり、支えられ支えながらその偉大な人たちの後をたどたどしく行くのだ。ただそれだけの果てしない道行きなのだ。
少なくともちいさな私にとっては、研究とはそのようなものなのかもしれないという気がした。
すこし気持ちが楽になった。
本買いの至福の日々の中で。

マズローとアドラーと奇跡のニューヨーク

lyrette3982006-10-20

数十人の思想家の紹介されている本を見つけた。最初の一人目がベイトソンで、次がマズロー。その時点で購入決定。でもその他のメンツもすごい。ジョン・C・リリー、ティモシー・リアリー、フリッツ・パールズ、スタニスラフ・グロフ、ケン・ウィルバー、カルロス・カスタネダ、アンドルー・ワイル、クリシュナムルティ、デヴィット・ボーム、フリッチョフ・カプラ、マーガレット・ミード・・・あははは、名前を挙げれば挙げるほどひどくわくわくしちゃうラインナップ。

グローバル・トレンド―ポスト産業化社会を実践する人間・科学・文化のガイド・ブック

グローバル・トレンド―ポスト産業化社会を実践する人間・科学・文化のガイド・ブック

このところ私の中で熱いマズローについてはけっこう詳しくてうれしかった。
そしてこの本で、どうやらマズローアドラーはニューヨークで出会っているらしいと知った。学校に向かう電車の中で読んで、すごく興奮してしまった。興奮のあまり、「まさに今朝、電車の中でマズローアドラーが出会った!!」と同級生たちに報告などして笑われる。
私の中でも、すでにマズローアドラーは出会っていた。欲求の階層を低次より高次へと辿ろうとするとき、いつもアドラーが助けてくれるのを感じていた。
1937年、マズローがニューヨークに戻った年に、アドラーは亡くなっている。二人がどのようにして会っていたのか、(そしてほんとうに会っていたのか)は、まだよく知らない。
マズローの欲求の5階層を考えていると、ニーチェの有名な「3つの時代」を思い出す。駱駝の時代、獅子の時代、子どもの時代。この話を私に教えてくれたのは、ジョーゼフ・キャンベルだった。彼も1900年代中頃のニューヨークに生きていた。
マズローと彼もまた、私の中ではすでにして出会っている。マズローの言う「自己実現的人間」を思うとき、私はいつもジョーゼフ・キャンベルを思い出す。彼こそは自己実現的人間だったに違いないと思う。彼の言葉はいつも強く私に語りかける。

「至福に従え。至福に従えば、あなたはいつも至福とともにあるが、金に従えば、それを失うこともある。」

彼は彼の教え子たちが、他からしか満たすことができない「欠乏動機」を抜けて、「成長動機」へと進むのを見守る。
そして生きて一度も出会うことのなかった私にも、いつもいつも語りかけてくれるのだ。

「無上の喜びを追求したことのない人間。世間的には成功を収めるかもしれないが、まあ考えてごらんなさい―なんという人生でしょう?自分のやりたいことを一度もやれない人生に、どんな値打ちがあるでしょう。私はいつも学生たちに言います。君たちの体と心が欲するところへ行きなさいって。これはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃないってね。」

そう、私はこの力強い言葉を、生きている誰からよりもはっきりと、彼から受け取り、心の支えとした。
「君たちの心とからだが欲するところへ行きなさい。そしてこれはと思ったら、そこにとどまって、だれの干渉も許すんじゃない。」

神話の力

神話の力

治水を求むるの心

短期療法について勉強していたら、ここに流れ着いた。

精神の生態学

精神の生態学

つくづく、自分をほめてしまう。
いやー、いい本に出会いました。あなたエライ。(佐野洋子風)
「今まで心の中でもやもやと思ってたことを言語化してくれた」っていう言い方は、あまりに月並みで、どうかと思う。
が、そんな本。
「私もそう思ってたましたぁぁ!」って言ってしまいたくなる。
「今ベイトソン読んでます。むちゃくちゃおもしろいです。」
と師匠に言ってみたところ、
『精神の生態学』と『精神と自然』は若き日の師匠の「座右の書」だったことが判明。
似てると思った。メタ・ローグやら、二重拘束理論やら。さー。
読んでてどきどきするときの感触が、師匠の本ととてもよく似ている。


ベイトソンのような頭がほしい。
もしも彼のような言葉で人に語りかけることができたなら、
(私にそれができるのなら、そのときにはすでにたくさんの人がそのようにして、人々に語りかけているに違いないから)
きっと世界は今と違っているだろう。
きっとその世界は今よりずっとずっと素朴で平和な、人ひとりひとりの顔がよく見える、やさしい世界だろう。


ふと「水路」という言葉が頭に浮かぶ。
この言葉が私に対して持つ意味。それは、また別の本の別の話からやって来る。


中沢新一の『雪片曲線論』は空海と水と治水の話から始まる。

雪片曲線論 (中公文庫)

雪片曲線論 (中公文庫)

水流の荒ぶるエネルギーをうまく治することができれば、それは豊かな恵みの水となる。
その破壊的なまでのエネルギーを容れる力のない脆弱な水路ならば、流れはそのまま暴力となり、その流域に莫大な水害をもたらす。
その水路に必要なのは、固さとしての強さではない。いうなればしなやかさとしての強さだ。
日本において密教を体系化した空海が、かつ書の達人であり、名文家であり、また瀬戸内・四国に数々の灌漑施設を造ってまわった土木技術者であったということは、決してその多才を意味するものではない。それらはむしろただひとつ、流体を固体へと流し込み、そのエネルギーを治する能力に長けていた治水の大家、としての多彩なあらわれだったのだと中沢氏は言う。


どうして今私の頭の中に水路の話が召喚されたのだろう。
それはきっと、私こそがその治水を求めているからだ。
このうねりをあげて変化し続ける精神の轟轟とした水流に、いつも私のちっぽけな思考の身体は決壊してしまう。
停止。散逸。そして振り出しに戻る。そのくり返し。
必要なのは固さではないとわかっている。
けれどもその仕方をまだ私の思考の身体は捉えない。
精神を鍛えるとはどういうことだろう。
精神の筋トレがしたい。


ベイトソンはひとつの水路である。
せめてまずその思考と言葉に
忠実に身体を添わせることからはじめよう。
いつかそのしなやかな思考と言葉の水路が、私の水路にも生かされるように。

宝を積んでしのぐ

読むと勇気の出る本が、誰にも何冊かあると思う。
私のそれは、中沢新一氏の本だ。
研究の本たちに圧されて買ったまま読めずにいた一冊を開く。

芸術人類学

芸術人類学

まだ読み始めたところ。
でもやっぱりどきどきして、なんだか勇気が出る。
論理的・合理的にこの世界を把握する、左脳的・言葉の力。
流動的・情緒的なものとしてこの世を捉える、右脳的・感情の力。
そのどちらも私たちが持っている自然の力だ。
そのバイロジックで生きることを彼は「対称性人類学」と呼んだ。
彼の言葉をたどっていると、
私の中にも縄文よりつらなる流動的知性が流れているのを、確かに感じる。


好きな本は、毎年すこしずつ増える。
元気のないときは、そんな宝物を日常の中に積んで、日々をしのぐ。

どんよりの空

lyrette3982006-10-01

空がどんより。なんだか心もどんより。
後期の授業が始まり、1週間が過ぎた。
なかなか熱い授業もある!
でも、なんかどんより。
研究が、思うように行っておらず、(というより、どこへ向かえばいいのかわからず)うつうつ。

ま しょーがないっか。

水曜、授業で自分の研究についてちょっと発表・・・
の予定だったけど、
「煮詰まっちゃったので、やめます」
などとわがままを言ってしまった。
ふう。

ベイトソンの「二重拘束理論」について考える日々。
昔からずっと「メタ」が気になっていたんだ。(と、最近気づいた。)
映画の覚えてるシーン、
友達との会話、記憶、印象
なぜか覚えていること。
そういうのはだいたい何か「メタ・メッセージ」を発しているようなシーンだったようだ。
その表面にあるのとは違う意味、を孕んでいるシーンが、
いつも気になっていたんだ、と
ベイトソンを読んで気付いた。
ベイトソン、どこを読んでもはげしくおもしろい。

精神の生態学

精神の生態学

二重拘束理論は精神分裂症(現統合失調症)の研究。私がしようとしているのも、心理にかかわるものなんだけど、いろいろ考えていると、ときどきなんだか苦しくなる。


昨日鏡を見ていてふと自分の舌が気になったので、
よーーく観察して仲間に報告してみたところ、
(「舌診」っていうのがあるんだよ。舌の状態で身体の状態を診るの。)
「脾」か「肺」が弱ってるんでは?
と言われた。
確かに肺・脾の脈が弱ーい。
いつもは肝・腎が弱いんだけど。
(「脈診」というのもあるんだよ。左右の手首の脈6箇所を比べて、身体の状態を診る。)
肺・脾の弱りは、精神面では「思」「憂」というかたちで出ます。
「思いわずらう」
「憂う」
ね。
あーまさに、そんなかんじ。
このところあまりろくなものを食べてないのもあるかもしれないですし。てへ。

今日は研究からは離れて小説でも読もう。
空はどんよりしてるが、曇りはそんなにきらいじゃないのだ。
じつは。
今日から10月。