新たなる絶望,そして希望『スター・ウォーズ/フォースの覚醒』

スター・ウォーズ/フォースの覚醒』感想

「正しいことだろ」−−−そう言ったフィンは,落ち着け大丈夫と自分に言い聞かせたり,逃げなきゃダメだと皆に同意を求めたりする.ファースト・オーダーのあの場所へ戻ってしまったら,自分はきっとダメになってしまうと思っている.けれど,それは所詮逃避だ.困難,脅威,呼び名は何でもいいが,それらから逃げ続け隠れ続けることは,それらに追われ続け怯え続けることでしかない.


廃品を磨く老婆を眺めレイは思う−−−「このままだと私も…」.マズ・カナタに目を閉じてといわれても彼女は目を閉じなかった.閉じた先に見えてくるであろう真実から目を背けたかったからだ.ジャクーに迎えが来るのを待っていると名刺みたいに頑なに言うのは,迎えは決して来ないという事実を認めたくないからだ.「待っている」と自分に言い聞かせ,こうしていれば「迎えに来る」と,可能性を追い求めることで彼女は自分を偽っている.


ハン・ソロとレイアも「自分の世界に逃げ込んでいた」と言う.その躊躇には何層もの上書きを感じさせるが,あの勝ち気なソロとレイアが自分の世界に逃げ込む?そこには果てしない闇が広がる.そしてその闇の中にいるカイロ・レンもまたダース・ベイダーへの心酔に逃げ込んでいる.自分の真の理解者は自分であることに気付いているのに,漆黒のマスクでその心を覆い隠している.そんな自分には決して出せない一歩を踏み出したフィンへの憎悪は漏れ出て,自分をお払い箱にしかねないレイへの恐怖は見透かされてしまう.


『フォースの覚醒』は,弱く愚かで塞ぎ込んでいた者たちが,歩みを進める/進められない物語だ.


そこにはそれぞれの「覚悟」があり,それ相応の「試練」があり,それゆえの「挫折」があるのだろう.何しろこの「始まり」というのが,確実に「終わりへ向かうもの」なのだ.この映画の血や死,涙の重みは「終わり」を強く感じさせる.EP7はその涙を拭う「過去からの解放」で幕を開けた.ラストに現れる星の青色が,ちょうどボクらのいる星に似ているのは,遥か彼方の銀河系にいるボクたちもこの旅に参加しているということだろう.レイとフィン,BB-8にポー,そしてカイロ・レン.今度の旅はきみたちと一緒だ.立ち上がろう,互いの手を取り合って.目をとじてMay the force be with you.

今日もまた後半部分に賛成する『セブン』

デヴィッド・フィンチャー監督作品で一番好きなのでたまに見ている.モーガン・フリーマンブラッド・ピットって組み合わせがイイ.世の中の映画スター全員から組み合わせを自由に選んでくださいっていわれてもなかなか思い付かない.なんてったって,ブラピが脇でモーガン・フリーマンが主役なんだもん.ほんとこの映画すごいと思う.


以上で終わりにするくらいならTwitterで済ませるけど,この映画について何か書きたいと思ったので今スマホをいじいじしている.自分はこの映画の何に惹かれ,どう楽しんだのか.整理しながら書いてみようと思う.


まず,ラストの展開の衝撃度ゆえにこの映画はしばしばサマセット,ミルズ,ジョン・ドゥの3人の思考・思想といった側面で語られがちだ.けれど,そもそもこの3人を支えている映画の面白さとは「世界観」にあると思うのだ.ファーストシーン,サマセットは同僚からこんな一言を浴びせられる.


「アンタがやめてくれて清々するよ。なーにが子どもは見たのか?だ。けっ。キレたやつが銃ぶっ放しただけだろーが。」


こういうひとのいる世界観.自分の怠慢を認めたくないから真面目にやるひとを馬鹿扱いするひと.直接本人に言うってのはさすがにアレかもだけど,心の中でそういう思いを抱くひとって一定数いると思う.自分の無能さを棚に上げて,緻密に真剣に確実に取り組んでいる人間をあざけるひとたち.


この映画には,そういうひとたちばかり出てくる.怠惰の現場に赴くSWATは現場を荒らすなよ!のミルズの一言を聞くや,ハイハイわかりましたよといった態度に様変わり.ヘリコプター内からのサマセット!指示を出せ!の一言には「またあの偏屈おやじが意味不明な行動取りやがるから混乱だよ!まったく迷惑な野郎だ!」っていうニュアンスが込められている.


「無関心」ときくと,そのこと自体に意識が向いていない,興味を持っていない,まったく知りもしないというようなことに思えるけど,実際はそうではなくて,無関心なひとたちは「何か起きてることは知ってるけど本質的に自分には関係ない」と思っている.つまり,当事者意識がない/拒絶している.殺人の真相や背景の存在自体は感じていながら自らの目でそれを見つけようとはしない.仮に見つけたとしても自分が英雄視されるわけではないし,そんな骨を折る行為はもはやダサいとすら感じている.そうやって「無関心を決め込むひと」で満たされてしまった世界観こそが魅力的な映画なのだ.


次にひとつ好きなシーンを.マイクをつけるためにバスルームで胸毛剃りをしている途中ミルズが「実は……」と口にする.あの続きにはどんな言葉があったのか?その少し前になるがミルズはこんなことを言っていた.


「毎晩こんなに遅いと女房が勘繰るぜまったく」


人が「冗談」を口にするときは主に二つのパターンがある.その場を別の方向へ持っていきたい意図があったり,そうだったらいいのになという願望が漏れ出たりするの二つだ.前者は根っからの冗談好きだったり,そのときの都合が悪い場合がほとんどだ.では後者はどうか.その先に抱えている思いがあり,まず冗談めかした発言をすることでその真意への入り口を提示しているのだ.言葉はなかったが,あのときのミルズの心境はこうだ.−−−このまま歩を進めて大丈夫なのだろうか.もう後戻りできなくなってしまうのでは.さまざまな思いが邪魔をして結局ミルズは行動を制限することができない.そうして,このやり取りは,ラストの展開へと拍車をかける.


自分は他の人間とは違う.迎合してまで生きるなんてまっぴらだ.一度きりの人生,生きたいように生きるんだ.いつの時代も多くの賛同を得るものだと思うが,ジョン・ドゥというネーミングには名無しの権兵衛の意があり,そしてそれは単なる偽名にあらず,前述の「人生観」を批判するものだ.いくら周囲が無関心だからといって,そうではない自分を特別視したり(ジョン・ドゥ),最終的に自分は大丈夫だろうと楽観視したり(ミルズ),無関心なひとたちに対して無関心であろうと考える(サマセット)ことは愚かだと警告する.名無し権兵衛,ひとは誰しもがジョン・ドゥになりうるのだ.だからこそ,誰しもがそうであるならばと逆説的にサマセットは言う.「この世界は戦う価値がある」と.またそのうち見ようと思う.おわり

めんどくさいから食べてしまえ『グリーン・インフェルノ』

黄色のオープニングクレジットが,アマゾンの緑に溶け込んでいくエフェクトに『プレデター』(1987)の光学迷彩を思い起こし,数秒プレデターシリーズに思いを馳せてしまった.単なる人殺しではなく「狩り」をしていると分かる人体破壊の数々.プレデターが面白かったのは行動に「文明」を感じさせてくれるところだった.特に2のラストで示される「敬意」には目から鱗だ.こちらから見れば生き残るための,身の安全を確保するためだけの異形の生物との戦いだったものが,あちらから見れば違った側面のある戦いだったのだ.そう理解させてもらえてはじめて思考が広がる.この世界は,一筋縄じゃいかないのだ.


グリーン・インフェルノ』感想

イーライ・ロス監督作品.エコロジー学生運動家たちが,アマゾンの奥地で食人の奇習を持つヤハ族に捕らえられてあれよあれよと食べられていく映画.最高に面白かった.とにかく解放感に満たされた.こと映画において「食事」は一種の接続詞的なもので,食事を通じて会話であったり感情であったりを描くということが基本にあるように思うけれど,この映画は,もう何の記号性もなく,ただただ「食事」を見せてくれる.食べているのが人というだけで他に派生することが何もなく,1人また1人と順番が回ってくるだけだ.その順番にだってフラグじみたものを感じさせない.久しぶり良い意味で開いた口が塞がらず,純度の高さに唸った.


「考えるな、行動しろ」と言っていたけれど,体の上下からさまざまなモノを出すわ出すわで,やれ重力に逆らわなかったり,やれ綺麗どころから漏れ出たり,いちいち気を利かせてくれて面白かった.ストレス発散を目的に自慰行為を働くキャラクターを自分映画史上はじめて観測.ヤハ族による「食人」と同様に登場人物たちの行動は純粋に行動として描かれる.その反応として描かれるのも生理的な嫌悪感か愉快さのみ.あちらの族長の片目がつぶれていて,まず食すのが目玉だとか,こちらの主人公が途中から「泣く」しかやってないとか,とにかく行動が単純明快だ.


そうして登場人物を象るのは「行動のみ」としたうえで,かかる「世界観」へはそれをよしとしない.個人主義の行動が跋扈しているから世界は単純にはならないのだ.そのことを不条理に偏ることなく背景として敷いたバランス感覚が実に見事と思う.善意とは?偽善とは?悪意?巨悪?そういった落とし穴的クエスチョンに付き合わないクレバーさがある.エンドロール中に主人公のもとへ突然かかってくる電話.あの電話にある「めんどくささ」こそが,この世界の表情なのだ.『グリーン・インフェルノ』を見てあらためて思った.ボクは映画に携わっている人間を見るのが好きだ.ふだんの生活では見ることのできない人間がスクリーンにはたくさんいる.こんなにも人間を楽しませてくれるものに今のところは巡り会っていない.もちろん,好きだからって,食べはしないけども.おわり

いずむうびい謹製音楽映画ベストテン

毎年恒例ワッシュさんの映画ベストテンに参加します.

http://d.hatena.ne.jp/washburn1975/20151031

今年は音楽映画!なるほどそうきましたか〜って感じですね.はたと気付いて音楽映画.選考基準に“音楽がストーリー上で重要な役割を果たしている映画”とありますが,そうなると音楽映画ってけっこうジャンルレスになりますよね.まぁ、ピンときたものをササッと選んでみました.では,さっそく.


音楽映画ベストテン

01.『黒猫・白猫』(1998)監督:エミール・クストリッツァ
02.『キル・ビル Vol.1』(2003)監督:クエンティン・タランティーノ
03.『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』(2008)監督:ジェームズ・D・スターン,アダム・デル・デオ
04.『ONCE ダブリンの街角で』(2006)監督:ジョン・カーニー
05.『(500)日のサマー』(2009)監督:マーク・ウェブ
06.『ジャージー・ボーイズ』(2014)監督:クリント・イーストウッド
07.『Ray/レイ』(2004)監督:テイラー・ハックフォード
08.『あの頃ペニー・レインと』(2000)監督:キャメロン・クロウ
09.『リンダ リンダ リンダ』(2005)監督:山下敦弘
10.『タイヨウのうた』(2006)監督:小泉徳宏


ハイ,こうなりました.



10位には活動休止中のYUI唯一の出演映画.見た当時は知らなかったんですが,どうもYUI本人の実人生と重なる部分の多い作品だったようで,あの熱演はその辺りが影響したのかな〜と.主題歌にある「できれば悲しい思いなんてしたくない でもやってくるでしょう」のところが最高にグッとくるのだ.カラオケで女子に歌ってほしい曲ナンバーワンであります.


9位はみんな大好き『リンダ リンダ リンダ』.音楽映画の特徴として「ラストにドォーッと盛り上がる歌/演奏シーンがある」ということがいえると思います.その意味では『オーケストラ!』(2009)もたいへん素晴らしいんですが,やはりペ・ドゥナ前田亜季香椎由宇,そして大好きなBase Ball Bear関根史織という惑星直列を見せてくれるこの映画を選びました.


08位の『あの頃ペニー・レインと』は「音楽」特有のロードムービーであることが素敵だ.07位『Ray/レイ』は「演技力」というより純粋に「歌唱力」に驚かされる貴重な映画体験となった.06位の『ジャージー・ボーイズ』はシンプルに楽曲が最高.サントラヘビロテであった.


05位に入れた『(500)日のサマー』はやや変化球気味だけど、ザ・スミスが物語のきっかけになっているし,音楽という共通の趣味から恋が始まり,その喜びがこれでもかと音楽で表現されている.いま思えば,話題になった一風変わった映像構成は,まるでシャッフル再生でその時々を彩った音楽を聴いているようではないか.そういえば冒頭のナレーションに「これはラブストーリーではない」とあった.これは紛れもなく音楽映画でしょう.


04位『ONCE ダブリンの街角で』にはもはや言うことがない.秋が深まるこの時期になると,毎年この映画のことを思い出している.03位の『ブロードウェイ♪ブロードウェイ コーラスラインにかける夢』はタイトルにあるとおり,ブロードウェイミュージカルの名作コーラスラインへの出演をかけたオーディションに密着したドキュメンタリー映画.これはね,当たり前のことを言うようですが,本気で頑張ってる人はホントに凄いなと.ものすっっっっごく感動させられたのを覚えてます.技術や才能がある人には,それだけドラマがあるのだ.ブロードウェイの舞台へ人生を捧げる人々の大傑作です.余談ですが,ダンスとかをやる人たちのダンス着?をたらふく見れるのも眼福です.普段着でも部屋着でもないけれど,組み合わせがユルくて,それでいて戦闘モードなカンジの服装,イイよね.


02位『キル・ビル Vol.1』.ここからは作品のつくり云々よりか,個人的な思い入れに偏ります.高校生のときに見たキルビルはとにかく衝撃だった.この映画をきっかけにタランティーノ映画をくまなく見るようになったが,こと「映画」において「音楽」とは重要なものなのだと意識させてもらえるようになったのは,この映画で口笛や怨み節などを聴いて「なんだこの音楽?!」と思えたことが始まりだったと思う.Vol.3,見たいんだけどなぁ〜.


そして,01位は『黒猫・白猫』.エミール・クストリッツァ監督作品でナンバーワンに好きな映画であり,オールタイムベストにも必ず入ってくる大傑作だ.なぜ音楽映画に選んだかというと「ジプシー音楽」に触れる原体験になったからだ.ジプシー音楽,とにかく訳が分からない!ブンシャカブンシャカブーブーブーブー.叫びにも似た歌とさまざまな楽器をがなり立てるその音楽は,それまでまったく聴いたことのないものだった.何しろ,聴いていて呼び起こされる感情というのが「泣き笑い」とか「怒り楽しい」といった,どうにも説明のしにくい綯い交ぜになった感情なのだ.音楽の幅広さと奥深さに驚嘆させてもらえたボクにとっての音楽映画ベストです.

ハイ.以上です.

今年も楽しい企画をありがとうございました.音楽映画.これからいろんな人のベストを読むのが楽しみです!それでは,集計のほどをよろしくお願いいたします.

一気見!『バック・トゥ・ザ・フューチャー』シリーズ

10月21日が休みだったんでBTTFを一気見しました。PART3を見終えるのに日を跨いだんで正確には一気見ではないんだけれど、一度言ってみたかったんですよね一気見って。一気見一気見。せっかくなのでBTTFを楽しみましたよーってのを書き残しておこうと思う。とっても楽しい1日を過ごしました〜。

まず、シリーズ通して主人公のマーティが仲人的な役回りをしているのが面白い。というか、これに尽きる。何しろマーティには初めから音楽という特技があるし、可愛いガールフレンドがいるのだ。決して友達が多いタイプではないうえにマクフライ家は元来落ちこぼれだと吐き捨てられてはいるものの、マーティという青年は決定的に「自分」を持っている。だから、マーティは物語の修正役として上手く立ち回ってくれる。「自分のスタイルを持った強い主人公」。映画のなかで、これほど見ていて気分のいいキャラクターはいない。

好きな順番は「1」〜「3」〜「2」なんだけど、まぁ全部好きだ。1作目は、シリーズの自己紹介みたいなもんで、いろいろ追加事項はあれど、まず基礎となる時代が1985年だし、さまざまな影響の是非が「写真」で表現されるなどの映画の基本的な描写が見せてもらえる。アインシュタインかわいい。2作目は、冒頭でマーティとジェニファーのゴールインをあっさり告白したりしてパロディ的な素顔を見せつつ過去現在未来と風呂敷を広げてくれる。タイムトラベルできたらギャンブルでぼろ儲けっていう100人中1億人が思うことを臆することなくブチ込んでくれてるのがイイよね。3作目なんかは、もう自家発電みたいなもんだと思ってて、個人的な映画認識としては『スクリーム』(1996)と同類。まぁ、何となくそう感じるってだけなんだけど、アメリカ映画が西部劇と共に発展してきたことをこのBTTFというシリーズは舞台を西部劇とすることで表現したかったのかなと思う。タイムトラベルを題材にした映画のなかで「映画」という文化をタイムトラベルさせる自家発電。お見事だと思う。

常に前へ前へと突き進む性格のマーティは、デロリアンで時代を飛んだときの出会い頭に必ず何かと衝突していたが、シリーズのラストには挑発に乗らず、前のめりになりすぎないことで危機が回避される。未来はまだ決まっていない。立ち止まったり寄り道したりたまに戻ったりして自分の人生を歩んでいこうって思わせてもらえる。何度見ても素敵な締めくくりだなーと思う。いい車のっていい女はべらせてそこそこにイケメン。こんな野郎に一切のイヤミを感じないんだもんイイよねこのシリーズ。ハイ。というわけで、大したことは書いてませんがバックトゥザフューチャーを楽しんだの巻でした。次はスクリーム見よーっと。おわり

やる!『アントマン』

悩みなんだけど、どうも最近アクションシーンになると睡魔に襲われて、こんなに楽しい『アントマン』でも見事に戦い始めたあたりで眠りこけてしまったんだよね。予告編で見たシーンとアリんこ軍団をチラッチラッと見るだけになってしまったよ。まぁ、それでも楽しい雰囲気は味わったつもりだし、また見る機会はあるだろうから、そのときにとっておきましょうかって思えるから別にイイはイイんだけど。なんかでもやっぱり退屈でも寝不足でもないのに突如として瞼が言うことをきかなくなるのは普通に何かのビョーキなんかなって不安になる。この映画で寝るなんてアリえない。

アントマン』感想。

『エイジ・オブ・ウルトロン』から強く感じられたことのひとつに“彼らはスーパーヒーローであることに従事している”ってのがあって、武器商人と言われたときに実業家と答えるトニー・スタークはその実アイアンマンであることを公表しアイアンマンの更なる開発に没頭しているし、キャップはもうこれでもかとキャップとして活動している。ボクら凡人の場合、生計を立てるために仕事をするけど、彼らの場合、アイデンティティーを保つためにスーパーヒーローをやるんだよね。今さらだけど、マーベル・シネマティック・ユニバース/フェイズ2の大きな特徴として、スーパーヒーローに「なる」のではなく、右往左往しながらもスーパーヒーローを「やる」というのがあるんだなと思った。

そこへきて『アントマン』。フェイズ2締めの作品ではありながらも、そこは1作目だからアントマンに「なる」ことが描かれるのかと思いきや、飄々と見事にアントマンを「やる」。盗んだスーツが気になって着てみたらいきなり小さくなってどうなってんだ!って混乱に乗じてサーティワンをクビになった来歴とパパを信頼する娘の姿が押し寄せてくる。あんた、もうやるっきゃないよ!って、観ているこちらはすんなり思わせてもらえる。その後、アントマンをやりたいっていうキャラクターが他にもいて、いやいやどうせ捨て駒ですからここはオレがやりますよっていう展開を見せるのも上手い。

そういった流れとコミカルな小ネタが混ざり合うことで、他のMCU作品には無いバカやりながらも間抜けに見えない独特の陽気さを帯び、与えられた武器と機能を駆使しながら練習の成果を発揮し、アリとあらゆる楽しさを提供してくれる(寝ちゃったけど…)。アメイジング版が終わってしまったのは物凄く残念だけれど、アントマンのいる現場ならば、若きスパイダーマンのお調子者っぷりがアベンジャーズにうまく溶け込むような気がするし、アライグマが銃をブッぱなすのもアリな気がする。原作がどうなのかは知らないけれど、アベンジャーズ3では、フェイズ1から登場しているスーパーヒーローとフェイズ2〜3から登場するスーパーヒーローを繋ぐ、小さな立役者になるんじゃないかなと。そんなことを夢想させてもらえました。アリがとう!(しつこい)

今日の日はさようなら『進撃の巨人 ATTACK ON TITAN エンドオブザワールド』

前篇には、巨人のキモさ、エレンの漢気、エレン・アルミン・ミカサの関係、エレンゲリオンのカッコ良さ、バトルロワイアル感、石原さとみの突き抜けたキャラクター演技と、さまざまな面白さが詰まっていたけれど、この後篇は、石原さとみの唇、石原さとみの素顔、石原さとみの突き抜けたキャラクター演技と、原作で一番盛り上がった女型の巨人パートが無い代わりにコイツで手を打とう!といった交渉でも迫られているかのような進撃の石原さとみっぷりであった。

ただ、たまにはダメだったときの感想も書こうという気にさせてくれてこうしてブログ更新に勤しむデトックスにはなっていることを始めに書いておく。

とにかく、物語に説得力が無い!何をするにしても「?!」がつきまとう。前篇は単純明快で良かったんだ。巨人の侵入を許したあの日から2年。エレンら一行はそれぞれの理由こそあれど、巨人の入り口になっている壁の穴をふさぎにいく作戦に参加し、その中でミカサと再会したり、仲間を失ったりする。クライマックスで現れるまだ見ぬ巨人。さぁ、これから一体どうなる!というのが前篇。単純明快このうえない。面白かった!

しかしこの後篇ときたら、キミは人間か?それとも巨人か?といった理由で囚われるエレン。オレは人間だろ?の問い掛けに戸惑いを隠せない仲間たち。そして現れる鎧の巨人!エレンがさらわれてしまった!さぁ、第二部の幕開けだ!と、ここまではイイ。雲行きが怪しくなるのはこのあとからだ。

何やら白いキューブのような部屋でシキシマ隊長からシンジ君・ミーツ・カヲル君よろしくうんぬんかんぬん諭されるエレン。何となく仲間になってしまうエレン。ううう、BGMの音楽の意味とか語られるのはツラいがまぁいいよシキシマ隊長がツラいのは今に始まったことではない。それ見ろ!石原さとみがまた兵器ににゃんにゃんぺろぺろしてくれるではないか!いいぞいいぞ。みんな仲間になって、真実とやらに立ち向かうのだ!と、チョットマテ。シキシマ隊長、そんなこと聞いてないって言われてるけど?エレンがさ、聞いてないよって。え、お前なの?ひょっとして鎧の巨人はお前なの?えええ?それ、さっきの白い部屋で話しておいてよくない???何のためにエレンをさらったのさ?って、ちょいちょいちょーーーい!そうこうしてる間に怪力くんが死んだよ!!!しかも何この死に方?!アルミン、なにその作戦?!っていうか、対人兵器の銃で狙われてるなか、どうやってそこまで移動したん?!そういうの気にしちゃダメ?!え、なにこれなにこれ!石原さとみを生かしておく伏線が無駄に上手い!!!

そして流用される前篇の遺産たち。「不発弾!」しかり「顔面ニーキック!」しかり「子持ちは、イヤ?」しかり。たった87分しかないんだから、フラッシュバックなんか入れてくれるな!だいたいあんだけボコボコにやられたあとに何で格下を倒した技の顔面ニーキックが通用するんだ。それと、あの穴をふさぐにはどうすれば……なんてとこで物語が停滞してる場合じゃないだろうに。巨人の正体が人間!っていうひとつの真相が明らかになったんだから、任務そのものに疑問を抱くでしょうよ。てか、その真相があまりにサラリとやられすぎてて、どのキャラクターにどこまで伝わってんのかわかんないよ!「ミカサは知ってたのか?」「知ってた……でもまさか…」その続きを喋らせろ!!!

「この時を待ってた!」ってクライマックスバトルを盛り上げるセリフのようにいわれるけど、この映画そんな話だったっけ?超大型巨人への特別な感情なんて、誰か持ってたっけ?もう何をやるにしても「?!」か「?」が頭に点灯しちゃってホントについていけない。今年は同じく前後篇の漫画原作映画『寄生獣』が面白かったし、何よりパート1が楽しかったから、前評判が今週のダメダメだろうと何だろうとこの目で見るまでは期待していたけれど、見事に打ち砕かれました。石原さとみは終始良かった。彼女を見ているだけで愉快な気分になる。なんか最後のほうは趣味プレイみたいになってて当事者なのかどうか怪しかったけれどそれでも彼女は楽しませてくれた。でも、求めていたのはそれだけじゃない。見終わって、これぞ映画版ならではの進撃の巨人!と、清々しく言いたくなるような気持ちになることを求めていた。残念ながら、そうなることはなかった。エンドロール後の更なる展開を思わせるやつなんてもう血反吐ものだ。なーーーにが被験体だ!そうか!これは何かの実験か!撮影直前に前後篇にすることが決まったらしいから、観客にはわからない某かの事情があるのだろう。ダミーシステム!そう、ダミーシステムのようにコントロール不能になってトウジを八つ裂きにするシンジ君の気持ちになればいいのだ!どうなってるんだよ父さん!こんなのってないよ!!!