Brand New Something

いまの延長線上にある未来に満足できないとわかってしまう瞬間ほど酷なことはないし、いま起こした変化がどこまでも突き抜けていくだろうと思う瞬間ほどわくわくすることはない。

新しい変化は常に起こせる。
今よりわくわくする人生にできるかは、ちょっとしたマインドチェンジにかかっていると思う。

寒くなるとおもうこと

気付けば寒くなってきた。
最近、時間が過ぎるのがとても早い。
どっかで楔を打たないと、流れていってしまいそうで恐い。
幸せってものはその時の環境でその時の自分でしか味わえないもので、再現性なんてない。無理に再現させようと思っても、結局はがっかりするだけ。
幸せだった瞬間はすぐに過ぎ去り、又次の新しい瞬間がやってくる。
寒くなる季節は、その事実に寂しさを感じてしまう。

「さよならだけが人生ならばまたくる春はなんだろう 」(寺山修司)

でもだからこそ、次の新しい瞬間を求めるんだと思う。

旅をする木

旅をする木 (文春文庫)

旅をする木 (文春文庫)

星野道夫さんは、アラスカの写真で有名なカメラマン(写真家)である。エッセイ的な本も幾つか出していてこの本はその中の一つ。
僕もアラスカに行ったことはあるけれど、アラスカの自然はニュージランドみたいなエンターテイメント性はなく、本当の自然を感じさせる。それ自身のために存在し、人の存在なんてこれっぽっちも気にかけていない。だからこそ取りつかれる人がいるのだと思う。
星野さんが書く文章は、達観的な文が多い。但し選んでいる言葉はいたって単純で、平易な文章。
アラスカの自然の中に身を置き続ける人にしか見えない、ある種の景色が文章に溶け込んでいる。

「人生はからくりに満ちている。日々の暮らしの中で、無数の人々とすれ違いながら、私たちは出会うことがない。その根源的な悲しみは、言いかえれば、人と人が出会う限りない不思議さに通じている。」

反哲学入門

反哲学入門

反哲学入門

久しぶりに哲学に関する本を読んでみた。

この本は哲学とは何ぞやという定義とその歴史的変遷を紹介してから、その限界に気付いて以降の今に繋がる反哲学の流れを紹介している。

比較的わかり易く書かれているのでオススメ。

哲学とは、そもそもプラトン以降の西洋的な考え方で、現実世界とそれを外部から見る視点とで構成されている考え方のことだそう。現実世界が何故あるかを考えるのに、現実世界を超越する視点を用意したということ。例えばプラトンでいうところのイデア論に相当する(現実世界は普遍的で変わることのない真理であるイデアの模造(影)に過ぎない)。

この考えは、「神の世界」、「人間の世界」と分けて考えているキリスト教の論理的根拠を説明するのに用いられ、そのため、広く人々の考え方の基礎になっていった。

ニーチェが失望し、そのニヒリズムの中から「神は死んだ」と言うに至るまでは、この哲学が西洋の考え方の中心にそえられていた。

反哲学とは、これら西洋の哲学を否定・再構築する考え方のことで、ニーチェ以降に盛んになる考えである。

哲学というとなんだか難しいことを意味もなく考えているという風に思っていたが、この本を読んでみて、哲学(反哲学も含め)とは、その当時の人々の考え方(生きる目的と言った方がいいのかもしれない)の論理的根拠を説明するものだということを教えられた。哲学は歴史と絡めて学ぶととても面白いと思う。

人間のものの考え方の根拠がわかると、現実世界の判断にも役に立つ気がする。逆にそこまで理解しないと只の言葉遊びになってしまい、何の意味もないのかなと思う。

らせん

成長は螺旋的。
この失敗は前やったなとか、この反省を前にもしたなとか思うことはよくある。
でもだからといって何も進歩していないのかといえばそうでもない。
まわりまわって、一段上に上がっているのだと思う。(そう信じたいだけかも)
昔の自分の方が凄かったと感じるときもあるけど、そんなわけはない。
谷にいるときは、こんなんじゃないなと思いながら、このままだとやばいなと思いながら、もがいたりする。
そうすることで、いつも一段上に上がっていく。それを繰り返している。
直線は理想だけど、そうはいかない。

Viva la Innovation

「数学の発展が止まる日」という内容の文章を読んだことがある。

数学の世界で功績を残すには、尋常でない集中力、抜群の思考力が求められるが、その条件は20〜30代の若い時期にしか与えられていないものであるとのこと。事実、数学の世界で偉大な功績と呼ばれるものは、20〜30代の若い時期に成し遂げられたものばかり。一方、数学とは過去の蓄積(証明、定理など)の上に成り立っているものであり、何らかの功績を打ち立てるには、どうしてもその上に立たざるをえない。

今の数学世界の過去の蓄積はある臨海量を超えつつあり、数学者が本来力を発揮できる20〜30代の時期を全て使ったとしてもキャッチアップが終わらなくなりつつある。革新的な成果はもう出ないのではないかというのが、「数学の発展が止まる日」の趣旨。過去の蓄積がジレンマとなり進歩が止まるという話。


でもって、僕が働いている情報システム業界の未来について考えてみる。
今僕は、大手流通会社のシステム刷新を行っている。今やそのシステムは社会インフラのようになっているので止めることなんてまず不可能。そして肥大化しすぎてしまっているので、そのある部分を刷新する場合に、他の部分の連携が取れるかどうかの影響範囲を完全に抑えることはできない(おさえている人がいない)。そのため結局は現行仕様をどれだけ忠実に再現できるかという勝負になってしまう。

そうやって考えてみるとシステムってものは人々の生活に入り込めば入り込む程、止められなくなり、且つその大きさから全体を把握できなくなっていく。結局は、現行踏襲をせざるえなくなり、革新的な進歩は難しくなっていくのかもしれない。似てないけど、過去の蓄積がジレンマとなり進歩が止まるという点では数学のそれと共通点がある。

でもポアンカレ予想は解かれたし、フェルマーの最終定理は今やフェルマーワイルズの定理と呼ばれるようになった。

今どこかで誰かが作っているプログラムが、将来の社会インフラとなることもあるのかもしれない。身動きがとれなくなったシステムを吹き飛ばしてくれるような。

過去の歴史を見ても、結局人間は何かをやってくれるし、進歩が止まるなんてことは絶対にないと思う。


次の進歩は誰がどのタイミングで作り出すんだろう。その時自分はどこにいるんだろう。