神楽坂のキャリアコンサルタント

永らく「神楽坂のキャピタリスト」のタイトルで発信をして参りましたが、この度タイトル名の変更を致しました。

タイトル名の変更について

皆さん、お久しぶりです。2015年以来だから実に8年ぶりになりますでしょうか。

この間、いろいろなことがありましたが、簡単には言い尽くせないので、おいおい語っていきましょう。

さて、先ずはタイトル名の変更ですが、「神楽坂のキャピタリスト」の由来となったベンチャーキャピタルの仕事は2012年の夏には既に終わっておりました。タイトルと現実と合わなくなっており、一方で語呂の合うタイトルが見つかったので、思い切って変更いたしました。

その後、いろいろな変遷があり、「人に関わる仕事」にご縁があり、この仕事の持つ面白さにやりがいを感じてきました。8年間で5,000回超の面談を重ね、面談者の悩みや希望に寄り添ってきました。

もっと人に関して知りたいと思ったこと、AIに代替されない仕事は人にしかできないことだろうと思ったことから、キャリアコンサルタントという資格の存在を知り、2年前の春に取得を致しました。これは2016年に設けられた国家資格です。はっきり言って60代での資格取得はきついものがありました。銀行員だったので、証券アナリスト、FP、証券外務員・・・などの資格はこれまでもいっぱい持っていましたが、本業の金融系資格なのでどれもそんなに苦労せず取れました。しかし、キャリコンの資格は別でした。こんなに勉強したのは大学受験以来でした。頭が痺れるような体験をした程でした。

そんなことでこのタイトルのキャリアコンサルタント(キャリコン)を仕事として、今後活動していきたいと思いますので、今日のところはまずはご挨拶まで。

 

 

「アベーロード」

macky-jun2015-01-07

  新年も松の内が明けて、今日は七草がゆの日。今更、新年の挨拶も無いものだが、そもそもこの正月は前年に両親が亡くなった為、年賀状も欠礼、一切新年の挨拶の類は失礼したのだった。
 実は前回のブログでなんと1000回目の記念すべき時を迎えていたのだが、すっかり無頓着になっていました。100回目を書いた時には大騒ぎしたにも拘わらず、1000回にもなるのに最近はこんなにもクールになっています。
 さて、今回は昨日友人が送ってくれたネットメールにとても面白い動画がありましたので、紹介したく久々に書いております。先般の紅白歌合戦サザンオールスターズ桑田佳祐が「ピースとハイライト」という政治色の濃いメッセージの曲を歌って話題となりました。これを受けて、彼の「音楽寅さん」という放送番組があったのを覚えておいでだろうか?その中の、2009年5月4日に放送したBeatlesの「アビーロード」をもじって、空耳歌詞をあてた「アベーロード」が今、また話題になっているようだ。

 予てから桑田の日本語の歌詞は英語のように聴こえるのに感心していた。特にこの「アベーロード」は政治的な風刺が効いており、とても笑える。2009年の作ということもあり、少し古さを感じるが、現在の何処に行くのか危険な香りのする安倍政権の下で聴くと、この「アベーロード」は今聴くからこそ、一層楽しめるのではないだろうか。また、彼の言語能力と批判力の素晴らしさが味わえますので、下記URLからお聴きください。本年もよろしくお願いいたします。
https://www.youtube.com/playlist?list=PL_UsJh85ZLBJ7rRHCjSYPtFRIdCUohzpW

(24) 食べないと飲まナイト

macky-jun2014-11-18

 地元神楽坂で11/17、18と行なわれた「第3回食べないと飲まナイト」に参加した。これは神楽坂のお店34店が参加した企画で、前売券を4千円で買い、1軒1千円でそれぞれのお店が用意した特別セットで「チョイ飲みチョイ食べ」しながら、ハシゴの楽しさを知ってもらおうとのお祭りである。神楽坂に20代の頃から住んでいるが、もうじき28年になる。その癖、地元に馴染みの店は少ない。かつて馴染みだった店でも今は無くなってしまった所も多い。その位、ここ神楽坂のお店は入れ替わりが激しい。
 偶然、チラシを店頭で見つけたが、今回で第3回になろうとは・・・。全くそのような企画があろうとは知らなかったのだ。初日、7時頃から街に出かけ、先ずは前々から行ってみたかった屋上テラスのあるイタリアン「神楽坂スタジオーネ」に行く。かくれんぼ横丁にあるこの店は火事になった料亭の跡に立った飲食店ビルの最上階5階にある。ここでイタリア産スパークリングワインと前菜盛り合わせで、先ずは乾杯する。30分程居て、次はオイスターバーの「牡蠣屋バル」に。ここでは30分程、行列に並ぶ。産地直送の生牡蠣とワインのお店だ。生牡蠣3ピースに白ワインを頂く。どれも美味しく、味わいがそれぞれ違う。3軒目はここでも30分ほど並んだが、本田横丁の小路を入った所にある「もつやき処い志井」に入った。冷えた身体にもつの煮込みが美味しかった。ここでは生ビールに串焼き3本が出てきた。何が出てくるかはお店にお任せだ。カウンターの目の前で焼いてくれる。
 ここでお腹もいっぱいになったので、もう1枚は翌日使うことにした。18(火)に6:30から私が鉄板のある居酒屋「しこたま」の行列に並ぶ。前の日に行列が凄く断念したお店だ。程なく仕事帰りの妻がやってきた。50分は並んだだろうか。とても居心地のいいお店だ。黒毛和牛極上霜降り肉と熟成無菌豚の串焼きが2本出た。契約農家からの直送の有機野菜が生で出てきたが、甘くて美味しいのだ。金属のカップで出てきた生ビールの泡が細かくて旨かったこと。どれも素晴らしかった。
 2日間このお祭りに参加して、2人で計4店をハシゴし、8千円也。とてもリーズナブルに神楽坂の夜を愉しめた。どの店も素晴らしかったのだ。こうした企画で、少し敷居が高く感じてしまう神楽坂の夜も常連客を掴めるのではないだろうか。企画が素晴らしいと思った。また次回も参加したい。

香港 ホンコン HongKong

macky-jun2014-10-27

香港に行ってきた。実に20年振りの香港である。当時は英国統治下の返還前であり、そこから中国の桂林に水墨画の世界を見に行った。今回は当地に住む娘に会う為なのだが、盛んに報道されているデモがとても気になった。
3泊4日で羽田空港発10:35、香港着14:10。国際空港として更に拡大しきれいになった羽田に、移転しとても巨大になった香港空港。20年の時間は全てを変える。
デモは九龍半島の旺角と香港島の金鐘とCauseway Bayの一角でバリケードが築かれ、学生たちがテントを張り居座っている。銀座通りの一部が封鎖されたような状況だ。近くまで行ってみないと分からない程、小規模なものだ。日本で新聞報道されている程、こちらでは騒がれていない。やや拍子抜けした。英国統治下で自由を謳歌した香港人にとって、資本主義での従来からの統治が約束されていた筈だったが、近年中国からの圧力が強まっている。国のトップにあたる香港行政府長官が実質中国人民政府の選んだ選挙人から選ばれることに対する学生の反発というのがきっかけとなっている。しかし、実際のところは中国返還以降からの不平不満が鬱積しているのが理由であるようだ。中国人の香港での不動産投資から地価や賃貸料が上昇しており、香港人の生活を圧迫している。彼らにとって返還後は、一部の中国ビジネスに関与する人々を除いて、何もいい事が無かったのだ。そもそも香港人はベースは中華民族でありながら、自分たちを中国人と線引きし、香港人と呼ぶ。そこに彼らのプライドがある。英国統治下の香港を懐かしむ人は多いようだ。
  この先、学生たちのデモ活動がどう進むのだろうか。不幸な天安門事件になぞらえ、中国政府が手荒な真似をすると、革命の口火となるかもしれないとの見方もある。しかし、中国政府も天安門事件の教訓から強硬策には打って出ずに、時間稼ぎをし自然消滅や仲間内の分裂を狙うのではないだろうか。国際情勢にも影響しかねない事象でもあり、注目を世界中から浴びているのだが、香港の人々は至って呑気なように見えた。
  さて、4日間の香港旅行。例によって連日、精力的に動き回った。娘が案内してくれた初日のスペイン料理の店、ぺニンシュラホテルのアフタヌーンティー、夜景を眺めながらハーバーシティのテラスでのビール、下町での飲茶、旺角での朝粥、糖朝の香港スイーツなど美味しいものを満遍なく楽しみ、帰ったら3kgも体重が増えていたのだ。

実家の片付け

macky-jun2014-10-13

 ほぼ半年ぶりにブログを書く。今日は3連休の最終日、これから台風19号が到来しようという嵐の前の静けさのような時間だ。流石にこんな日は出かけるのも止め、1日家籠りだ。諸々の雑事を片づけ、書斎の引き出しを久しぶりに整理し、ふいにPCに向かったところである。半年も書かないでいると、はてさて何から書いたものか、ブログを書き始めた7年前のような心境である。この間いろいろな事があった。世の中にも触発される出来事がたくさんあった。そのたびにブログを思い出していたが、何故か向かう気持にならなかった。
 母が亡くなり、父も亡くなり、仕事も変わり、自分にとって今まで経験したことが無いほどの大変動が起こった。そんな日々の中、心はボロボロになりながらも、両親を納骨し、実家の片づけを行なった。初めて経験することばかりだったが、家族や兄弟と力を合わせて取り組んだ。近頃、実家の片づけに関する本や週刊誌の特集が多いが、これもブームなのだろうか。単に自分がそうした境遇に居たから、やたら目についたのだろうか。
 それにしても住人の居なくなった、半ばゴミ屋敷と化した家の片づけはとても大変な作業だった。父が脳梗塞で倒れ、母の認知症が進行してからは家は散らかるばかりだった。要らない空き箱が大事に押し入れに保管してある。壊れて使わないプリンターや電話機が数台出てくる。梅酒やかりん酒の瓶はいったい何本あっただろうか。羅列すれば切りがない。いったい片づけにいつまでかかるか、気が遠くなりそうな膨大な作業であったが、妻が持ち前のリーダーシップを発揮して、先頭に立って引っ張ってくれた。私だったら1年がかりとなっていたかもしれない。行動の早い馬力のある弟と、ロジスティックスに優った作戦参謀である我が妻の二人が中心となり、みんなを巻き込んで、息子の協力も得て、1か月半で全てきれいにした。プロの片付け屋や便利屋を使う方法もあるが、できることは全て自分たちでやろうとの方針で、力を合わせて汗をかきかき、片付けた。大物家具も自分たちで2階からも降ろし、処分した。ゴミ袋は行く度に愛車フォレスターに20袋もの大物ゴミを積んで帰ってきた。
 業者に頼めば、2〜3百万円で処分が出来るのかもしれない。しかし、これは親との決別の作業でもあり、赤の他人に委ねる訳にはいかなかった。それを通し、父母との想い出を振り返ることもでき、かけがえのない時間を送ることができた。また、妹弟、妻や息子との絆も深まったのではないかと思う。わが両親はゴミ屋敷を残すことで、残された大切な人々との絆を深めてくれたのだ。

今度は父が・・・

macky-jun2014-05-13

  父が亡くなった。5/8(木)の14:17だった。朝、病院から連絡を受け、外科医師が「今日なるべく早くお話がしたい」とのことだった。予定をキャンセルして、中河原にある府中恵仁会病院に向かった。父は4/30に救急車で入院し、左肺に穴が空いてぺっしゃんこになっており、肺気腫と診断された。今後の治療方針についてだと思っていたが、今朝から容態が急変し肺炎を併発しており、延命治療をどうするかとの相談であった。医師としては一番頭の重い相談事であろう。しかし、2月に母を亡くした折に、父とも兄弟とも既によく話をし、合意済みであった。父は家で死にたいので、病院には行きたくないと拒んだ程だった。「一切の延命治療はして欲しくない旨、既に合意が出来ている」と伝えたら、「大したものですね。自分も同年代の親がいて、見習わねば」と妙に感心され、医師も緊張感から解放されホッとしたかのようだった。そして「本日中に家族の方々を呼んでください」とも言われた。
 父はこの朝から人工呼吸器マスクをされていたが、息苦しそうだった。私が来たのもわからない様子だった。5/4(日)の夜、ゴルフの帰りに寄ったら、だいぶ具合が良さそうで「スコアカードを見せろ。みんな下手だな。」などと珍しく他人に関心を示す程、余裕があった。私は兄弟に「親父が復活した」とメールを送った程だった。個室に移してくれ、南向きの明るい部屋で、これまでの感謝をこめ話しかけた。「ちょっと昼飯を食べに食堂に行って来るよ」と伝えたら、ずっと開けていた口を2回パクパクしたのだった。あとから思ったら、これは私に何かを伝えたかったのかもしれなかった。「俺はもう危ないので行くな」と言いたかったのかもしれなかった。最上階にある食堂で食べていると、看護師からの携帯への電話で呼び戻され、部屋に急いだ。容態が悪化した。荒かった息も次第に弱くなり、眠っていくかのようだった。明るい春の陽の光を浴びながら、父は静かに旅立っていった。
 母が2/16に亡くなってからまだ3ケ月も経っていなかった。母が入院して、父の食欲はめっきり細り、痩せて衰弱していった。この間で10数キロも体重を落とした。母が亡くなってからは一人で暮らす父が心配で、交代で訪ねて行った。3/15の誕生日には「俺は90歳まで生きる」と意気軒昂に宣言していたのだが、3/29の母の納骨の時にはすっかり弱っており、心配になった。男は奥さんに先立たれると弱いもので、2〜3ケ月で逝ってしまう人が多いと言われる。一方で女は旦那が亡くなっても益々元気に長生きする人が多いようだ。男女の何が違うのだろうか。
 父は84歳で天寿を全うしました。日本の男の平均寿命が79歳だとすれば十分長生きしたし、4年前に脳梗塞で倒れる前まで好きなゴルフも山登りもしていた。酒も煙草もやっていました。後遺症で足が多少晩年は不自由になりましたが、まずは健康で、病院で寝たきりになったのも最期の9日間だけでした。84歳のいい生涯といえるのではなかっただろうか。父は母が亡くなって、生きる気力を失い、後を追うように死んでいった。陽気な明るい母は天国でせっかく自由に楽しくやっているのに、こんなに早く父が来てしまったのかと眉をひそめているかもしれない。そんな二人が天上でどんなやり取りをしているのか、想像してみるのも楽しい。
 

友遠方より来たる

macky-jun2014-04-28

「朋有り、遠方より来たる。亦た楽しからずや。」論語の学而篇の一節だそうである。 意味(解釈)は諸説あるが、一般的なのは「友人が(珍しくも)遠方から訪ねてきてくれるのは、こんなうれしいことはない。」遠い場所から訪ねて来た親友と久しぶりに近況を報告し合ったり、意見を交換したりするのは、人生の大きな楽しみであると同時に、人生そのものを豊かなものにする。
 ドイツから旧友が夫妻で訪ねてきた。28歳でドイツに研修に出かけた時に出会った友人である。AlbertはMunchenのBayerishe Hypo Bankでの研修プログラムでOst支店で研修した時の先方担当者であった。その1年後に彼がECプログラムとして日本で研修を受けることになり、今度は私のいた銀行でも研修を受けることになった。彼は約2年間日本に滞在し、日本の女性と結婚した。その後、彼はHypo Bankの証券現法を立ち上げ、日本の代表者となる予定であったが、役員が替わりその計画が中止となった。憤慨した彼は銀行を辞め、自身で金融取引会社を興して代表となった。自分の会社を立ち上げ、忙しくなったAlbertとは9年前に会ったきりだった。また奥様とは結婚前に会ったきりだから、実に25年ぶりだった。
 毎年、クリスマスカードとして詳しく近況を書いたメールをくれる。東北大震災の際には原発に過敏なドイツ人として「早く東京から脱出するべきだ」と強くメールや電話で説得されたこともあった。そんなこんなで人生の半分前に出会った外国の友達と永い交友が続いている。
 日本のおもてなしをしようと小石川の魚屋「翁家」に刺身を注文し、旬の筍料理を用意した。日本酒のスパークリングワインで乾杯した。しかし彼はやっぱりBayern育ちなのでビールが好きなようだった。October FestやWineの話や治安や移民の話,お互いの子供たちの話・・・などなど話は尽きなかった。我が妻にとってもドイツ滞在はよっぽど楽しい想い出であったのか、この日の彼らの訪問を待ち望んでいた。人生はこうした楽しみのために時を重ねているのかなと思えた。わが息子の年齢であった私たち自身の年輪である。はたしていい年輪を刻んでくることができたであろうか。
 庭のシンボルツリーであるはなみずきが白い花を満開に咲かせて、彼らの訪問を優しく迎えてくれた。