2064話 続・経年変化 その30

読書 6 図書館5

 マイクロフィルムで昔の新聞記事を読んで、その同時代性にワクワクしたことがあると前回書いた。のちに回想して書いているのではなく、その時の事情だ。1962年のアジア大会ジャカルタ)の記事を読んで、こういう文章を書いた。アジア雑語林407話から、その一部を引用する。

 

 東京オリンピックの2年前、ジャカルタで開催されたアジア大会は、インドネシアが親中国(だから反台湾)で、インドネシアイスラム国家だから当然反イスラエルという政治姿勢を露骨に見せたものだった。日本がどの立場に立つかで2年後の東京オリンピックは中止になるかもしれなかった。イスラエルや台湾を招待しないアジア大会を、IOCは公認の大会とは認めなかった。だから、非公認の大会に出場する国は、IOCから除名すると警告された。日本がジャカルタアジア大会に参加すると、東京オリンピックは消滅するというわけだ。しかし、日本は、インドネシアとも仲良くしたい。さて、困ったという大会だったのだ。 

 1962年のアジア大会のことを知りたくて、図書館で新聞のマイクロフィルムを読んだことがあるが、ジャカルタで暴動(政府主導だ)が起きて、緊迫した政治状況がよくわかる。このアジア大会のことは、『ジャカルタの炎』(新村彰、彩流社、1982)に詳しい。聖火がインドネシアに寄らない理由は、そういうところにあるのだろう。

 

 NHKドラマ「いだてん」で、このアジア大会のことが出てきたが、東京オリンピックが中止になるかもしれないという危機があったことを知っている人がどれだけいるだろうか。女子バレーの試合も中止されそうな危機にあったという話は、1356話(2019-12-15)に書いた。興味深いエピソードだ。

 図書館に通って集めたコピーの束を、先日まとめて捨てることにした。捨てるといってもゴミにするわけではなく、切ってメモに使っている。だから、ときどき戦前期の自動車雑誌の広告や新聞記事がメモの裏にあることがあり、ちょっと懐かしくなる。

 自動車や現代史研究に関しては、図書館の資料をコピーするために通ったのだが、本を借りるために図書館に通ったことももちろんある。東南アジアの翻訳書を借りて読んだ話はすでにした。

 読みたいが、高すぎる。ちょうど近所の図書館にあったので、通って借りたというのが、『古川ロッパ昭和日記』(晶文社)だ。1987年から全4巻で出版されたのだが、1冊が二段組1000ページ近くある大著で、4冊合計2万7300円だった。ロッパの本はこれ以前も以後にも、何冊か読んでいるが、それらは買って読める本だった。が、この日記は買えない。日記の柱は芸能と食事で、私は食日記に注目して読み続けた。この日記は、このコラムでたびたび取り上げている。例えば、次の2回。

 380話、 

 381話

 厚い本だからできるだけ急いで読みたいのだが、興味深い情報が入っていて、発見のたびに再調査をしたくなるから、読書はなかなか進まない。知りたくなることが次々に出てくる読書は私の場合喜びなのだ。

 日記を読むことに熱中するひと時を過ごしたせいで、古本屋で『夢声戦争日記』(中央公論社、全5巻)を買った。戦時中、今のシンガポールやマレーシアに滞在していた日本人は、「風と共に去りぬ」などアメリカ映画を見たという記録を残していて、夢声もそのひとりだった。小津安二郎も、シンガポールアメリカ映画を多数見ている。この日記は、抄編の形で、夢声船中日記』 として中公文庫に入っているのを今知った。深入りしてはいないが、他人の日記を読むのは楽しい。

 夢声の日記は戦後発表されたものだが、マレーでアメリカ映画を見たという文章を戦時中に発表した人がいる。『南方演藝記』(小出英男、新紀元社、1943)には、「風と共に去りぬ」のほか、チャップリンの「独裁者」も見ていて、「愚劣なギャグだ」と評しているのは本心か、それとも時節柄を考えてもことか。「ロアリング・トウエンテイス」という映画の紹介もあり、これは好評だ。この映画はジェームズ・ギャグニーのThe Roaring Twenties(1939)で、1955年に日本で公開されたときの日本語タイトルは「彼奴は顔役だ」。

 林芙美子の日記や日記をもとにした小説と、発表することなど考えていない本当の日記とを対比して解説した『林芙美子巴里の恋』(林芙美子今川英子中央公論新社、2001)は、のぞき見趣味であることはわかっているが、やはり興味深い。日記を読むと、紀行文のウソあるいは脚色がわかってしまうのだ。

 

 

2063話 続・経年変化 その29

読書5 図書館4

 海外旅行が自由化された1964年当時の生の情報に接したくて、新聞記事をマイクロフィルムで読むことにした。後の時代なら、新聞は縮刷版があるのだが、60年代だとマイクロフィルだ。今なら、新聞社のデータベースを利用すれば、自宅(有料)か図書館(無料)で、過去の記事が読める。

 後の時代に編集した資料ではなく、その当時の資料は当たり前だが「活きがいい」。よく言われる話で、大掃除や引っ越しの時に、古新聞を見つけるとついつい読んでしまうという話題があるが、まさにそうで、図書館で古い記事を読んでいるのが楽しくて、「1964年の海外旅行」というテーマを離れて、事件報道でもマンガでも広告でも、何でも読みふけり、65年も66年の新聞も読むことになり、毎日図書館に通った。

 私が知りたかったのは、「目に見えぬ外国」と接する時代から、「現実に身を置く外国」へと変わっていく日本人の姿だ。だから、映画の広告も新聞のラジオ・テレビ欄を見ても、その資料はあった。外国の音楽の紹介番組や外国語講座でも、私のアンテナにひっかかった。このテーマは、のちに『異国憧憬』JTB)というタイトルで本になった。

 海外旅行が自由化された1964年前後という時代に私は生きていたのだが、まだ子供で世間を知らない。だから戦後史関連の資料を買い集めて読んでいたのだが、なんだかよくわからないのだ。現実感というものが、わからない。いわゆる隔靴掻痒(かっかそうよう、靴の上から足を掻く)である。それが、新聞を読んで少しはわかってきた。例えば、広告欄だ。

 求人欄を見ると、日産自動車の工員募集が出ている。「日給500円」。1964年に日給500円というのは、企業が自慢できる金額だということだ。中小弱小企業なら「当社規定により優遇」と書いて、具体的な金額は明記しない。当時はまだ土曜日は半休だったが、おそらく残業などがあっただろうから、実際の月給(日給月給)は500円×25日で、額面1万2500円。税金などいろいろ引かれて、手取りは1万円残るかどうかだろう。当時の若い労働者はその程度かそれ以下の生活だったとわかる。ちなみに、1964年の巡査の初任給は1万8000円、小学校教員の初任給は1万6200円だが、私は中卒高卒の若者を想像して、その懐具合を調べてみた。当時は、そういう若者がほとんどだったからだ。

 ちなみに、私が高校生だった1970年に書店でアルバイトをしたことがあるが、時給120円だった。交通費込みで、日給が1000円の時代に入ったとわかる。その当時、発掘のアルバイトもした。日給を覚えていないが、多分1000円弱だったと思う。

 所得水準を表す資料で、「銀行の大卒初任給」を例にする人が多いが、その当時大卒者がどれだけいたか考えていない。大卒者でも、「小学校教員の初任給」の方が、まだ現実的だが、大卒銀行員でも、海外旅行は夢のまた夢だったのだが、彼らには出張や駐在員という形で、外国に行く機会は、わずかばかりではあってもその可能性はあった。

 月に1万円ほどの賃金を得ている若者が夢想する「海外旅行」とはどういうものなのか、航空運賃などを調べて、その絶望感を想像するのである。当時のハワイツアー10日間は40万円ほどだ。手取り月給1万円の若者の40か月分だ。現在の手取り月給を20万円と仮定すると、その40か月分、つまり800万円だ。その絶望感を理解しないと、海外旅行史はわからない。

 不動産広告もおもしろかったので、コピーした。1964年の宅地広告だ。

 四谷3丁目 坪16万円

 牛込柳町 坪16万円

 武蔵境 徒歩12分 坪3万3000円

 横浜市上大岡 徒歩10分 坪1万9000円

 『地球の歩き方』が出版され、大学生たちが外国に行くようになる1980年代前半のアルバイトの時給は500円くらいだった。そろそろ定年を迎えるサラリーマンの大学生時代のアルバイト時給がそのくらいだった。40年でやっと倍だ。

 昔の新聞をていねいに読んでいると、鹿島茂の文章を思い出した。

 フランスのことを学び、論文を書くことについて、鹿島茂は『歴史の風 書物の凪』(小学館文庫)で、次のように書いている。

 「おれには暴力団の知り合いがいるぞ」といきがるのと同じレベルで、「フーコーが、デリダが、ドゥルーズが」と言うためだけにお勉強するんだったら、一九世紀の新聞でも読んでいたほうが、どれだけましかわからない。

 そうなのだ。学者の名前が出てくるだけの論文につきあうよりも、昔の新聞を読んでいた方が、「その時代の臨場感」が伝わってくるのだ。それがわかってない自称研究者が書いた読書ノートのような文章を「論文」と詐称しているのに、それを御愛想で評価する研究者が少なくない。

 

 

2062話 続・経年変化 その28

読書 4 図書館3

 地元の図書館に通ったこともある。

日本人の海外旅行史の研究のために年表などある程度の資料は買い集めた。調べ始めた時期が良かった。1980年が「戦後50年」であり、1989年に昭和が終わったということで、1980年代に入って「戦後」や「昭和」を回顧した本が多く出版された、個人の思い出話や、政治史の考察といった本が多いが、私は資料になる本を買い集めた。知りたいことがあるたびに図書館に行くのは面倒だから、買い集めたのだ。例えば、次のような本だ。

 『昭和史全記録』(毎日新聞社、1989)・・・1万2360円の定価で、価格に見合った内容だった。昭和の1年が1冊になった本もあり、20冊くらいは買ったと思う。1990年代末には、この手の本は古本屋の店頭で安く売られていた。毎日新聞社が昭和の写真を多く持っているのは、空襲があっても社屋が焼けなかったかららしい。

 『毎日ムック 戦後50年』(毎日新聞社、1995)

 『戦後日本の大衆文化』(鵜飼正樹永井良和・藤本憲一編、昭和堂、2000)

 『昭和・平成 現代史年表』(神田文人編、小学館、1997)

 『チャートでみる日本の流行年史』(阿部木綿子+アクロス編集部編、PARCO出版、1997)

 『1946-1999 売れたものアルバム』(Media View編著、東京書籍、2000)・・・書籍ベストセラーやヒット曲などのリストが出ていて、読んで楽しい資料だった。

 『1960年大百科』(宝島社、1991)…この『60年』ほか、宝島社は『70年』、『80年』、『90年』など戦後サブカルチャーのビジュアル資料を多数出版している。

まだインターネットで資料を得ることができない時代だったので、映画や歌の情報は、次のような資料を買った。

 『キネマ旬報増刊11・20号 日本映画作品全集』(キネマ旬報社、1973)

 『キネマ旬報増刊2・13号 映画40年 全記録』(キネマ旬報社、1986)

 『ぴあシネマクラブ1992 洋画篇』(ぴあ、1992)

 『ぴあシネマクラブ1992 邦画篇』(ぴあ、1992)

 『別冊 1億人の昭和史 昭和流行歌史』(毎日新聞社、1977)

 音楽も映画も、このほかにも多数買い集めたが、インターネットの時代になった今、ほとんどゴミになってしまった。

 『現代風俗史年表』(世相風俗観察会、河出書房新社、1986)・・・風俗がまだ「性風俗」の意味で使われる以前の本で、安くない定価だったがよく売れたようで、その後同じ出版社から『昭和家庭史年表』(家庭総合研究会、1990)などが出て、他社もその流れを追い、同じような年表が多数出版されている。

 年表の記事の中で今でもよく覚えている事件がいくつかある。密造酒は1950年代が最盛期だったが、1960年代に入っても、「ウイスキーの密造酒押収」という事件が載っていた。1960年代関西でバーを経営していた人が、「高級ウイスキーの空瓶を買いに来る男がいましたよ。多分安ウイスキーか密造酒を入れるんでしょうね」と話していた。

 「香港へ若い女を売ろうとしていた男が逮捕」という事件記事も読んだ。人身売買だ。香港を舞台にした若山富三郎の「旅に出た極道」(1969)を見たのは1990年代で、香港に女が売られるシーンが出てきて、現実にあった事件を映画に取り入れたことがわかる。その頃の香港のイメージは麻薬とヤクザと売春の魔窟だった。

 そういった情報を本などで大量に集めたのだが、小説を読んでいるような感じで、現実感がなかった。やはり、当時の生の情報に接しないといけないと思うようになった。

 そこで、日ごろあまり縁のない図書館に行くことにしたのである。

 

 

2061話 続・経年変化 その27

読書 3 図書館2

 今でも図書館をほとんど利用していないのだが、高校卒業以降、図書館によく通った時期が何度かある。

 最初は、勁草書房などから続々と出版されていた東南アジア文学を読むために図書館に通ったころだ。1970年代末から80年代のことだ。

 たまたま書店で見つけた東南アジアの翻訳小説を読んだ。井村文化社発行、勁草書房発売のシリーズで、すでに何冊か出版されていた。タイ編が飛び切りおもしろいが、1冊1500円の本を次々に買う金銭的余裕はない。読みたいが、買えない。できるなら自分で買って読みたいのだが、手に入らないとか高額という場合は、しかたなく図書館に通うことになる。

 タイやインドネシアなどの小説を次々に借り、ノートを取りながら精読していった。できることなら、自分のペースで読みたいのだが、図書館の本だとそういうわけにもいかず、傍線を引いたり書き込みをすることもできず、返却期日を守って読んだ。のちに、多少懐具合が良くなって、未読の本は買い、借りて読んだ本もすべて買いなおした。勁草書房、めこん、新宿書房、段々社などのアジア翻訳書は、今でも第一級の資料だ。『タイからの手紙』(上下)、『田舎の教師』、『東北タイの子』、『回想のタイ 回想の生涯』(全3巻)などは、折に触れて何度も読み返している。いつでも取り出せるように、東南アジア文学の棚を作った。こういう本の翻訳援助をトヨタ財団が支えてきたことも、やはり明記しておきたい。アジアの翻訳書は、のちに大同生命国際文化基金が出版するシリーズも加わり、最終的には100冊以上になる。

 私の読書に関して、「小説は読まない」と何度か書いたことがあるが、前回のコラムで野坂昭如開高健の名を挙げたように、小説をまったく読まないわけではない。ここ10年ほどは、吉村昭を好んで読んでいる。小説好きの人と比べたら「小説は読まない」に等しいだろうが、そもそも本をあまり読まない人と比べたら小説もある程度は読んでいる方に入るだろうし、小説好きの人だって、アジアの小説を100冊ほど読んでいる人は、文学研究者以外、そう多くはない。タイ文学研究者だって、インドネシア文学をくまなく読んでいるかどうか疑問だ。

 2度目に図書館によく通ったのは、東南アジアの三輪自転車・自動車の本を書くために、資料を探しているときだった。1990年代のことだ。三輪自転車の資料は自転車図書館(自転車文化センター)では見つからず、諦めた。当時、確か大手町にあった自動車図書館に行ってみたら三輪自動車の資料はいくらでもあり、週に1回は通うようになった。戦前期の自動車雑誌や自動車工業会の内部資料など、古書店では手に入らない資料がほとんどで、資料を片っ端からコピーした。コピー代は高いのはしかたないのだが、会社の仕事でコピーしている人をうらやましげに眺めていた。

 自動車図書館の利用者のなかで、運転免許証を持っていないのはおそらく私ひとりだろうし、三気筒と四気筒エンジンの比較などと言った機械的なことは何も知らなかったが、それでもおもしろい資料はいくらでも出てきた。なかでも特段におもしろかったのは、1950年代の東南アジアデモンストレーション旅行の話だ。工業会の報告書だったと思う。日本の自動車を外国に売り込もうと、現在の国名で言えば、ベトナムカンボジア、タイ、マレーシア、シンガポールインドネシアを日本車で走るという旅行記だ。ベトナムは元フランスの植民地だから、日本よりも道路事情がいいとか、カンボジアからタイに入ると、とたんに道が日本並みにひどくなる。まるで洗濯板だといった記述を覚えている。残念ながら、この資料は単行本にはなっていない。

 のちに、歴史資料として1950年代の日活映画をよく見た。当時の道路事情は東京の中心部はそこそこだが、中心部でも住宅地に入ればひどく狭いし、郊外は未舗装だ。映画の演出上、高級スポーツカーで駆け抜けるというシーンなのだが、風景は田舎道なのだ。1950年代の日本の道路事情の話は、『空旅・船旅・汽車の旅』(阿川弘之)を紹介した1819話でも書いている。

 

 

2060話 続・経年変化 その26

読書 2 図書館 1

 高校生になると、読書事情がかなり変わる。学校の図書室を積極的に利用するようになった。私好みの本は多くはないが、新書を中心に読んだ。岩波新書にはおもしろそうなものはあまりなかったが、中公新書はおもしろいものが多かった。ノンフィクションや海外旅行記が文庫で次々に出る時代ではまだなかった。

 あのころは、高校の図書室の本をもっともよく読んでいる生徒だったと思う。これは単なる想像ではなく、当時図書委員だったので、生徒の利用状況がわかった上での客観的事実だ。進学校の生徒は、読書よりも受験勉強に忙しかったから、世界と日本の名作文学といった本以外読む人は・・・、松本清張アガサ・クリスティー北杜夫そしてSFなどだろう。大学生とつきあいのある人は、倉橋由美子大江健三郎吉本隆明、あるいはサルトルボーボワールなど、私とは無縁の作家たちの本を読んでいたかもしれない。私よりもちょっと年上の、団塊の世代の教養的読書、つまり「こういう本を読んでいると言ったら、教養人、偏差値高い大学の学生だと思われるだろうな」という打算で、自宅の書棚にこれ見よがしに刺していた本の話は、638話(2014-11-16)でした。

 今思い出したこと。図書委員の上級生が、何度目かのブームになっていた中間小説(純文学と大衆小説の中間にある小説という意味)に浸っていて、「野坂昭如はいいぞ、読め」と、会うたびに勧めるので、根負けして、出たばかりの『アメリカひじき・火垂るの墓』(1968)を読み、感動し、以後10年ほどは折に触れ野坂の本を買った。80年代までの小説やエッセイはあらかた読んだ。あの文体はクセになる。五木寛之を読むのはずっと後で、海外旅行記の資料として買った。1960年代末からの10年ほどは、雑誌「話の特集」や「面白半分」の執筆者たちが書いた小説やエッセイを読んでいたのだった。冊数はそれほど多くはないが、これが私の「第1期小説の時代」といってもいい。70年代末に東南アジアの小説をよく読むようになる第2期小説の時代の話は次回に。野坂の本をあらかた読んだ80年代、新たに参入してきたのが開高健で、小説は後回しにしてエッセイを読み漁った。椎名誠も90年代までにあらかた読んだ。

 話は、高校生のころに戻る。

 高校の図書室で、私と同じくらいよく本を借りていたのは、文学にのめり込んでいたヤツだ。日本と世界の文学全集読破をめざしていたようだ。だから図書館でよく会い、雑談をしたのだが、読むジャンルが違うので、本の話で盛り上がったことはない。

 ずっと後のこと、私が銀座の中国料理店で働いていた頃のことだ。仕事を遅番の人たちと代った夕方、店の従業員たちが麻雀に行くというので、ヒマつぶしについていったことがある。私が知らない世界を見てみたかったのだ。そこは新橋の雑居ビルのなかにある雀荘で、タバコの煙とカレーや親子丼を左手に持ち、麻雀をしている男たち。大人の雰囲気というのはこういうものかと納得した。その店で働いていたのが、高校の図書館でよく会ったあの文学少年だった。元文学少年は、音楽青年になっていた。文学を学ぶために大学に進んだものの、音楽をやりたくなって、音楽大学に入り直したのだという。ここで、その生活費を稼いでいるといった。

 それから2年後、私は店をやめて、外国に行くことにした。横浜から出る船に乗ると、船上にヤツがいた。同じ香港行きの船に乗ることになったのだが、その話は長くなるので、気が向けばそれは別の機会に。

 高校生になって図書室を多く利用するようになったのは、神保町に行く費用を貯めるためだ。読みたい本は近所の新刊書店にはないから、神保町に行く。その本が図書室にあれば、それを読んで古本屋巡りの資金に充てる。数多くの本を読みたい。だから神保町に何度も行きたいのだがカネがない。そこで、買い出し資金節約のために、高校の図書館にある本は借りて読んでしまおうと思ったのだ。新書やノンフィクションを次々と借りた。

 高校を卒業して、高校の図書室の代わりに地元の図書館に行くようにはならなかった。借りた本は、すぐ読まないといけないという強迫観念に襲われることが多く、しかも読書体験が増えてくると、読みたい本の幅や深さが増して、図書館の本では間に合わなくなる。読みたい本が図書館にはないということがわかってきた。

 高校を卒業してしまえば、それなりの稼ぎがあり時間もあるので、神保町に買い出しに行くことが増えた。

 

 

2059話 続・経年変化 その25

読書 1 中高校生時代

 読書と中高生時代の話を始める予定だったが、それは後回しにして、きょうの話をする。

 たった今、フィリピンの勉強会から帰宅したところだ。講師は、フィリピン留学経験もあるジャーナリスト大野拓司さん。とりとめのない話だが、フィリピンの可笑しさ・ユニークさはよくわかった。程度の差はあれ、フィリピンには英語ができる人が日本よりはるかに多くいるのだが、それは幸せかという疑問がある。なまじ英語ができるから、海外出稼ぎ者が多く、一族がその出稼ぎ者に頼り、国家も彼ら彼女らからの仕送りを当てにしている。仕送りが豊富にあれば、政府は殖産興業を考えなくてもいい。役人や政治家が何もしなくても、外国からカネが送られてくるのだからたまらない。出稼ぎの問題点をフィリピン人自身が書いた名作が、『ぼくはいつも隠れていた フィリピン人学生不法就労記』(レイ・ベントェーラ、松本剛史訳、草思社、1993)だ。

 こういう話をする予定ではなかったのだが、会場で野村進さんと会ったので、その話をしておきたくなった。「お会いしてから、もうだいぶたちましたね。あれはいつでしたか・・・」という話になった。1980年代末頃かなと思うがはっきりしない。会のあと、積もりに積もった雑談をしたかったのだが、鄙に住む私は帰宅時刻が迫っているので、「これで、失礼します」と別れてしまった。残念。

 帰宅して、この雑語林で野村さんと会ったときのことを書いているはずと調べたら、519話(2013-08-09)にアップしたコラムだとわかった。野村さんに会ったのは1988年の12月だったから、36年ぶりの再会か。1988年に会ったという記憶が正しければ、その時、吉田敏浩さん31歳、野村進さん32歳、前川36歳だ。

このコラムに、フィリピン関連の本も紹介しているから、読書の話からまるで離れるわけではい。長い枕だと思っていただきたい。

 さて、本題に入る。

 過去を振り返ってみても、読書の話は音楽と違い、経年変化はほとんどない。

 私の読書傾向は10代からほとんど変わっていないのだ。幼児期に絵本を読んだことがない。小中高と年齢を重ねても、日本や世界の名作文学には手を出さなかった。理系の本は読まない。天文学も昆虫学も機械工学も無視していた。哲学も宗教書も読んでいない。あのころは、自己啓発本はそれほどなかったかもしれない。偉人伝は数冊読んだ記憶はある。小学生時代に、考古学者シュリーマンチベットに潜り込んだ河口慧海の伝記を読んだ記憶はある。だからと言って、その後探検記などは読んでいないから、ヘディンも読んでいない。中学生になって色気づいたのだと思うが、人間を寄せ付けない大自然の話よりも、市場や路地にいる人たちの話の方がおもしろそうだった。血も肉も踊らない旅行記や滞在記を探して読むようになった。

 読書分野の主要な柱は次のようになる。

 食文化・・・料理ガイドや名店ガイドは、今も昔も読まない。食生活史と異文化の食事事情が多い。

 言語・出版・・・世界の言語のあれこれ。語源や変遷など。

 旅行・外国事情・・・これもガイドではなく、地誌といえばよいか。外国事情で食生活の本を読んだり、言葉の話を読む。

 芸能・・・音楽、映画、演芸など。

 これが10代の読書だった。中学時代から神田神保町に行くようになるが、そのころはカネなどほとんどなく、昼飯代を貯めて行くくらいだから、せいぜい年に数回行くだけだった。神田に行っても、古本屋の店内に入ることは少なく、本選びは店頭のワゴンから安い本を選んだ。いつも図書館の本を借りていたという記憶はない。

 高校からの話は、次回に続く。

 

 

2058話 続・経年変化 その24

音楽 24 クレージーキャッツ 2

 旅行と映画と本のことしか考えていない日々を送っていて、突然クレージーキャッツが頭に入り込んできた。

 「スーダラ節」がラジオから流れていた1961年から、小学生の私の耳にも彼らの歌が流れ込んできた。「五万節」、「ハイそれまでヨ」、「これが男の生きる道」などことごとく耳に入ってきたが、歌の内容を深く意識するようになるのは、20代になってからだ。悪夢の高校生活を終え、毎日を楽しく暮らすようになってからだ。

 例えば、「ホンダラ行進曲」(1963)

 青島幸男の、想像を絶するナンセンス歌詞。人生なんて、「どうせどこでもホンダラダホイホイ」なのだ

 もう1曲。これが最高。「だまって俺について来い」(1964)人を食った萩原哲晶(はぎわら・ひろあき)の作編曲も絶妙。

 「そのうちなんとかなるだろう」が、フリーランスの合言葉だ。組織に守られて生きる道を拒否し、だから組織の犠牲になる生き方も回避して、経済的にも肉体的にもつらくても、精神的には気楽な生き方を選んだ者たちの歌だ。成り上がろうという強い意思のある若者もいただろうが、私は何も考えていなかった。毎日楽しければいいと考えていた。一時コック見習いをやったが、それを生涯の仕事にするといった決意も覚悟も希望もなかった。料理は楽しい。それだけだ。そして、「旅をしたい」といつも考えていた。

 今ではこういう歌詞は書けないだろうが、昔はそれほど不合理ではなかった。高度経済成長の時代だからだ。『値段の明治大正昭和風俗史』(朝日新聞社)から、銀行員の初任給の推移を書き出す。金額の推移に注目してほしい。参考まで書いておくとここ十数年は、数パーセント程度の上昇に過ぎない。

1960年 15000円

1963年 21000円

1965年 25000円

1968年 30500円

1970年 39000円

1971年 45000円

1972年 52000円

1973年 60000円

1974年 74000円

1975年 85000円

 これは初任給の額であって、サラリーマンの平均月給ではないから、月給が数年で倍にはならないだろうが、65年の初任給25000円が10年後には3倍以上の85000円である。現在に置き換えれば、2010年の初任給20万円が、2020年に60万円になっているようなものだ。現実に、そういう時代が、かつてあったのだ。

 今はまだ高くて買えないものも、すぐに買えるようになるという夢があった。今は苦しくても「そのうちなんとかなるだろう」というのが、1960~70年代の日本の気分だったのだ。私は数年かけて貯めたカネを使って、1973年に初めて外国に行った。それが我が生涯最初でたぶん最後の海外旅行になるだろうと覚悟していたのだが、帰国して働き、74年にも75年にも海外旅行をした。海外旅行なんて、一度行けば簡単だとわかった。クレージー・キャッツ、あるいは青島幸男の信奉者ではまったくないが、甘い人生を教えてくれた歌だったとは思う。10年後どころか、2年後何をしているかなんてまったく考えていなかったが、能天気に生きているうちに、いつの間にかなんとかなったのである、あのころは。

 経年変化音楽編はこれにて終了。ちょっと準備をして、次からは読書の経年変化の話をする予定。