2072話 続・経年変化 その36

読書 12 建築 1

 建築の本の話を書こうかとネタ探しにアマゾン遊びをしていたら、見てはいけない雑誌を見つけてしまった。「建築知識」だ。紙面一新したことを知らなかった。おもしろい特集が多く、神保町の建築専門書店南洋堂に行ってバックナンバーをチェックしないと。建築関連の本は、まとめて古本屋に売却しようと思っていたのに、ああ、また深入りしそう・・・という話はともかく、まずは昔話から始めるか。

 大工の仕事ぶりに興味があったというのは、小学生の関心分野としてはよくあることだろう。近所に新築現場があれば、いつまでも作業を眺めている少年だったが、自分で何かを作りたいと思ったことはない。プラモデルでさえ、関心がなかった。

 高校を卒業して、建設現場の作業員をやった。そのせいで、香港に行っても竹の足場を組むのをじっと眺めていた。ビルに関しては、設計も建築にも興味はないが、住宅建築なら塀や駐車場工事も眺めている。モロッコのシャウエンと言えば、青い住宅の街として有名だが、そこでもいくつかの住宅建築現場を数時間は眺めていた。そこにモロッコらしさなどないのだが、退屈せずに眺めている。そういえば、ハノイでもビエンチャンでも、どこででも工事を眺めていた。

 ひとりで街を歩くが大好きな私だから、街で見かける物事に注目する。それが街の人であり、建築物であり、看板であり、道路を走る乗り物などだ。

 建築への深い関心は、まず「路上観察」から始まった。1986年に、こんな本が出た。

 赤瀬川原平藤森照信南伸坊路上観察学入門』 筑摩書房 1986年。著者のほとんどはすでに知っていた。散歩しながら、路上で見かける「なんだ、これ?」を見つける建築と美術の観察記だ。これは、おもしろい。次々に関連書を買い込むことになった。建築に興味を持つきっかけになったシリーズなので、ひとまとめにして紹介しよう。

 『京都おもしろウォッチング(とんぼの本)』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫井上迅扉野良人、新潮社、 1988年9月))

 『路上探検隊奥の細道をゆく』(赤瀬川原平・藤森輝信・南伸坊林丈二松田哲夫谷口英久、宝島社 、1991年7月)

 『路上探検隊讃岐路をゆく』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二杉浦日向子、宝島社、 1993年4月)

 『路上探検隊新サイタマ発見記』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二杉浦日向子松田哲夫井上迅萩原寛、宝島社 、1993年12月)

 『路上観察華の東海道五十三次赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫文藝春秋 文春文庫ビジュアル版、 1998年6月)

 『奥の細道俳句でてくてく』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫杉浦日向子太田出版 2002年8月)

 『中山道俳句でぶらぶら』赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫太田出版 、2004年5月)

 『昭和の東京 路上観察者の記録』(赤瀬川原平藤森照信南伸坊林丈二松田哲夫、ビジネス社 、2009年1月)

 『ハリガミ考現学』(南伸坊実業之日本社1984)も読んだ。おもしろいことはおもしろいのだが、「宝島」のVOW、あるいは「ナニコレ珍風景」のようなものであったり、「見立て」の芸術論のようなものに食傷してきて、建築の勉強をちゃんとしておこうと思った。「見立て」の言葉遊びよりも、建築史の方がはるかにおもしろそうだった。

 

 

2071話 小休止 2

最近の読書 2

 須賀敦子の単行本未収録のエッセイを集めた『霧の向こうに住みたい』河出書房新社、2003、河出文庫2014)に洗濯の話が出てきた。ドイツでは洗濯物を煮るという話を2032話で書いた。イタリアの例がこの本にある。

 1960年代に、著者の姑が「大洗濯の日」という習慣があったという話をしてくれた。著者の夫はイタリア人だ。

 「田舎じゃあ、と彼女は言った。春になると一年に一回の<大洗濯の日>っていうのがあってねえ。一年に一回、朝早くから大鍋で洗濯物を煮るのよ。シーツやら、テーブル掛け、ナプキンも何もかも、前日から灰を入れた水に行けておいたのを、ぐつぐつ煮る」

 洗濯を終えると、牧草に布を広げて干すという話に続く。これがイタリアの話だが、フランスにも同じ習慣があって、「フランスの作家マルグリット・ユルスナールの自伝を読んでいたら・・・」と話が広がっていく。ヤマザキマリ須賀敦子の文章はまったく違うが、ふたりとも「うまいなあ」と感心する。こういう見事な文章で綴られれば、どこの国の話でも、おもしろく読むことができる。

 内田洋子の『十二章のイタリア』(東京創元社、2021)を買ってあるのだが、韓国の本を先に読んだので、後回しになっている。先に読むことにしたのは『朝鮮半島の食』(守屋亜紀子編著、平凡社、2024)だが、この本の紹介は長くなるので、別の機会にする予定(忘れなければ・・・)。しばらく後でこの2冊に触れる予定。

 今回は、1554話から5回にわたってすでに紹介した『きょうの肴は場に食べよう』(クォン・ヨソン著、丁海玉訳、KADOKAWA、2020)に、きちんと紹介したい記述があるので改めてここで書く。

 「私は汁ものには目がない」と、汁ものへの愛を展開する章で、こう書く。

 「わたしは汁を口にする時はほとんどさじですくわない。熱かろうが冷たかろうが、みっともなくても器ごと持ち上げて飲んだり卓上でお玉ですくってたべるのが好きだ」

すでに紹介した本をまた取り上げたいと思たのは、ここ数か月に見た韓国の連続ドラマや映画で、韓国通を自任している方々が「韓国ではこういう食べ方はしません」と断言する食べ方、食器を手に持って食べているシーンが何度も出てきたからだ。このコラムでは、韓国人だって器を手に持って食べますよという話をくどいほど何度もしているのだが、私の主張などナノレベルの影響力もない。世に、韓国ドラマファンはいくらでもいるが、韓国人はどうやって食事をしているのかという点に、ほとんど興味がないようだ。何人かで鍋のラーメンを食べるシーンは毎度おなじみだが、器を持たずにどうやって鍋からラーメンを食べるのか考えてみるといい。丼に入った麺類、皿のジャジャンミョンの最期は、器を持ち上げて、唇を器につけて、最後の麺や汁を口に入れる。

 箸はおかずに、サジは汁とご飯に、それぞれ役割があると説明する人が多いが、食事には流れがある。箸でキムチを食べる。次に飯をひと口・・・というとき、箸を置いてサジに持ち代えて・・・、おかずにはまた箸に持ち代えて・・・なんて、めんどう臭いことをいちいちしない。汁を飲むとき以外サジは使わないときもあれば、汁をいっぱい、一気に飲みたくて、器を持ち上げてぐいぐい飲むこともある。ドラマではなく、食文化を取り上げた韓国のテレビ番組で、丼を両手で持って一気に汁を飲み、「うまいねえ。汁は、こうして一気飲みだよね」と、出演者が口々に言うシーンも覚えている。

 韓国文化に影響力のある人が、食事のマナーと現実の食べ方には違いがありますよという話をきちんとしてくれたらなあと、影響力皆無のライターは願っているのですよ。

 先日、韓国の弁当業者の仕込みのようすをYouTubeで見ていたら、ユブチョパプ(いなり寿司)の飯に酢を入れていた(なんと、サンドイッチといなり寿司の詰め合わせ弁当だ)。キムパップ(海苔巻き)は酢飯にしないのが普通のようだが(明洞のある食堂はキムパップに酢を入れるという情報アリ。珍しい例らしい)、いなり寿司は違うらしい。日本に大勢いる韓国料理ライターたちは、そういう料理文化を伝えてくれているだろうか。

タイムラグがあって、内田洋子の『イタリア十二章』を読了。合格点の作品。イタリア語を学び始めた大学生時代の話が興味深い。だが、「次はどの本を買おう」とならないのは、私がイタリアそのものに思い入れがあまりないからだろう。

 次回から、また「続・経年変化』の話を再開し、適宜、小休止をはさむことにする。

 

 

2070話 小休止 1

最近の読書 1

 今連載をしている「続・経年変化」は、どうやら大河連載になりそうで、いつまで続くのか自分でもわからない。連載が続くと、話題が固定されてしまうので、適宜、小休止として別の話題をはさむことにする。今回は、最近読んだ本の話を2回にわたって書く。

 「女が書いた本は読まない」と決意しているわけではないが、読んでいる本のほとんどは男が書いたものだ。恋愛小説やファンタジーとか作者の日々のエッセイを読まないからかもししれない。なにごとにも例外があり、次の三人が書いた本はよく読んでいる。ヤマザキマリ須賀敦子、内田洋子の三人に共通するのは「イタリア」だが、イタリアが大好きだから彼女らの本を読んでいるというわけではなく、またイタリアに行く予定なので資料を探しているというわけでもない。須賀と内田のふたりは、以前この雑語林でタリアの話を書いていた時に参考資料として買ったのがきっかけだが、なんとなく肌に合うので、折に触れ、古本屋で見つけると買って読んでいる。ヤマザキマリは達者な文章に感心しているから読み続けている。以前まとめて読んでいた米原万里と比べてアクは少なく、理屈っぽさはない。

 まずは、ヤマザキマリの『パスタぎらい』(新潮新書、2019)と『貧乏ピッツァ』(新潮新書、2023)の2冊は興味深い記述が満載なのだが、ここではパンの話を書く。日本語のパンはポルトガル語の「パン」が語源で、スペイン語でも綴りは違うが発音は「パン」だ。イタリア語ではpaneパーネだ。

 「『美食国家』と言われるイタリアだが、なぜかこの国のパンはあまりおいしくない」という。私も、そうだなあと思う。スペインのパンもうまかったという記憶がない。ついでに言うと、モロッコのパンでもっともポピュラーな円形のボブズは焼いてから時間がたつと急激にまずくなる。一方、感動的にうまかったのは、ボブズと同じような円形のパンで、ハルシャという。見た感じはイングリッシュマフィンを大きくしたような姿で、原料はデュラム・セモリナ粉。焼きたてのこのパンを食べてみれば、私のいうことがわかるかもしれない。 「ヤマザキ・ダブルソフト」のようなふかふかパンが好きな人は好みではないかもしれないが、イングリッシュマフィン好きなら、たちまちこのパンが好きになるでしょう。

 話をイタリアのパンに戻す。ヤマザキマリはパニーノ(panino)の解説をする。パンを意味するパーネ(pane)に小さいことをさす縮小辞(-ino)がついて、小さいパンをさす。パニーノは単数形で、複数形がパニーニ(panini)。そうか、知らなかった。だから、あとは自分で調べてみる。

 この手のパンに切れ込みを入れて肉なのをはさんんだサンドイッチを、パニーノ・インボッティート(詰めたパニーノ)といい、ただ単にパニーノだけでもサンドイッチもさす。ただし、食パンのサンドイッチはパニーニを使っていないから、それをパニーニとは呼ばない。つまり、パニーノ=サンドイッチではないのだ。

 これがイタリアの事情だが、アメリカで焼き目をつけたものを、なぜか複数形にして「パニーニ」と呼ぶ。ピザと同じように、アメリカ式したイタリア料理が日本に入ってきて、パニーニという名称が特定のサンドイッチをさすことになり定着したようだ。

 ヤマザキの2冊の本に登場する数多くのイタリア料理は、日本で紹介される美しい写真の美しい料理ではなく、家庭のおかずやケーキだ。この新書には写真は1枚も載っていないが、具のないスパゲティや大皿に盛ったテラミスやモンブランの姿は想像できる。

 普段の家庭のイタリア料理は、テレビ番組「小さな村の物語 イタリア」(BS日テレ)で毎週見ている。「普段の食事」とはいえテレビの撮影をしているのだから、やはりちょっとごちそうなのだろう。「イタリア料理=おしゃれ」という女性雑誌の基本姿勢が崩れれば、「イタリアのいつもの食事」が見えてくる。誤った食文化を垂れ流す諸悪の根源は、おしゃれな女性雑誌だ。

 須賀敦子の話は次回に。

 

 

2069話 続・経年変化 その35

読書 11 ガイドブック4

 『地球の歩き方 インド ネパール』の復刻版が出るずっと前のことだが、日本人のインド旅行史を読みたいから書いてくださいなと天下のクラマエ師にいったら、「そんなの、誰がおもしろいと思うの?!」と、0.002秒で拒絶された。インドに限らず、日本人の海外旅行史に興味なんかないんだ、誰も。これほど多くの日本人が訪れるハワイ旅行にしても、その歴史的変遷をきちんと押さえて書いた本がどれだけあるか。ハワイで日本人は何をしたか、何を食べ何を買って帰ったかといった旅行体験の変遷だ。「日本人の海外旅行時代の幕開け」といった短い記事はいくつもあるが、真正面から書いた戦後から現在までの「日本人の戦後ハワイ観光史」は読んだことがない。

 ハワイでさえその程度だから、いわんやインドをやである。ライターであり編集者であり、出版社の社長でもあるクラマエ師の判断は、まことに正しい。読者の興味という点では、その通り「まったく売れない」ということだ。私の好奇心は世間の主流とずれている。手元の資料とインターネット情報を集めて、日本人の韓国旅行史のメモを6回にわたって書いた。491話から6回だ。韓国をフィールドにしていない私でも、この程度の文章なら数日で書けるレベルなのだが、韓国研究者、とりわけ日韓交流研究者は些事を積み重ねた旅行史を書いているだろうか。韓国と違って、香港はかつて日本人に人気の観光地だったが、これまた「日本人の香港旅行史」といったまとまった文章はあるのだろうか。

 日本人のインド旅行史に関しては、本腰を入れて調べたことがないから、1960年代のインド旅行事情がわかる手元の本はこの2冊しかない。

 “On The Road Again(Simon Dring , BBC BOOKS,1995)・・・1962年、16歳のイギリス人がインドに向かった。2年後、タイで新聞記者になった。のちにBBCの記者になって、少年時代の旅をテレビ番組で再訪。昔話や写真も豊富だ。

 “Magic Bus: On the Hippie Trail from Istanbul to India”(Rory MacLean , Viking , 2006)…イスタンブールからカトマンズに行くバスが出ていた時代がある。1973年に、カトマンズでこのバスを見ている。

 インド旅行史は本格的に調べる気があれば、ある程度資料は見つかるだろう。

 旅行事情の資料本ではないが、エッセイとして私の希望をもっとも叶えた本が、『つい昨日のインド: 1968~1988(渡辺建夫、 木犀社、2004)だ。『インド青年群像』(1980)、『インド反カーストの青春』(1983)など、主にインド関連の本を多く書いてきた著者の、1968年から接してきたインドと友人たちの話だ。傑作ですよ。

 『つい昨日のインド』が貴重だと思えることはいくつもあるが、1960年代のインド旅行を体験している人は、80歳近いか80歳を超えているから、記録を残せる人はもうあまりいないのだ。それ以上に残念だと思うのは、日本人のインド旅行史がまだ書かれていないことが問題だと思う人がほとんどいないことだ。やはり、興味のない分野なのだ。インドは少し違うが、一般的にガイドブックを買う人が求めている情報は、「食べると買うと、絶景撮影地」の最新情報で、それ以外のインドはほとんど興味がないのだ。

 私は日本人のタイ旅行史をある程度調べたが、いまだに本腰を入れて書き出そうとしないのは、それをおもしろがる人がほとんどいないとわかっているからだ。だから、この雑語林で断片的に書いているだけだ。

 アジアの旅とか貧乏旅行などと限定しなくても、日本人の海外旅行異文化体験というのも、編年史にすれば興味深い。日本人団体旅行の「あるある」といえば、風呂とトイレの話がまず出てくる。西洋式の浴槽の外で体を洗うとか、腰掛式便器の上にしゃがむというのがごく初期の異文化体験だ。いまでもある風呂のトラブルは、これだ。日本人の団体がホテルに着くと、ほぼ全員が浴槽に湯を注ぐので、湯の温度が下がり、「水風呂に入れる気か!」という苦情が添乗員のもとに殺到する。先日聞いたのは、パリのホテルで、浴槽に湯を注いでいるうちにうたた寝をして、寝室の床まで濡らしてしまったという事件の処理をするはめにあった大学教授の話だ。

 かつてはステテコ姿で廊下を歩くというのは、ごく普通のことで、朝食のときでもその姿で食堂に表れることもあるという。円安の時代から円高、そしてまた円安の時代へと移り変わるカネの出入りとか、話題になりそうなことはいくらでもある。日本人旅行者の歴史をガイドブックから調べるという研究手段もあるのだが、誰も手をつけない。

 次回は連載を小休止して、最近の読書の話をする。

 

 

2068話 続・経年変化 その34

読書 10 ガイドブック3

 過去の『地球の歩き方』を調べていて、初期のガイドがデジタル復刻されているのを発見した。『地球の歩き方 3 インド・ネパール 1982-1983(初版復刻版) インド・ネパール初版復刻版』は見つけたのだが、『アメリカ』や『ヨーロッパ』など他地域のものは復刻されていないようだ。

 私はインド旅行事情に詳しくないが、アマゾンのこの復刻版があるページの、「サンプルを読む」で旅行の準備編を読んだ。パスポート申請書の書式も出ている。あのころは、若者のまわりに海外旅行経験者が少ないから、パスポートとはなにか、ドルの両替はといた基本情報をきちんと書いておかなければいけない時代だった。だから、日本人の海外旅行史を知りたいと思い、その種の資料を買い集めて来た。インドの旅行情報以前に、日本を出るための準備をすべて頭に入れておかなければいけない。今でも、海外旅行は初めてという若者はいくらでもいるが、友人知人家族に経験者は多く、インターネットの情報も豊富にあるから安心かというと、初めての外国はやはり不安だろうとは思う。

 中国や朝鮮など東アジアを除いて、日本人は長い間アジアには興味がなかった。例外が地政学に興味があったり、移住や移民に興味のある人たちだった。戦後も、多少なりともアジアに興味を持っていたのは、仏教研究でインドに行く人たちだった。聖地巡礼である。ただの旅行者がインドにまとまってやってくるのは、『地球の歩き方 インド ネパール ‘82~’83』が出てからだが、インドに興味がある人はたいてい東南アジアは通過点に過ぎなかった。だから、今でも、アジアに興味を持つ人は、東アジア派のほか、インド亜大陸派と東南アジア派に分かれ、東南アジア派はインドシナ半島派と海洋アジア派に分かれる。インド派が北と南に分かれるのかどうかは知らない。

 1960年代のアジア旅行の資料はあまりない。ここでいう旅行資料とは、ジャーナリストや小説家などの取材旅行ではなく、個人旅行者の旅行がわかる資料のことだ。今まで調べたわずかな資料は、雑語林375話1029話にすでに書いている。

 インド安宿史はわからなかった。1960年代はそもそも旅行者が少なかったという理由もあるが、私が本腰を入れて調べたことがないせいでもある。

 タイの旅行事情は、長い時間と多少の調査費をかけたせいで、少しはわかった。戦前の旅行記も少しは集めたものの、なんとも残念なのは、金子光晴はマレーから北上しなかったから、タイ編がないことだ。林芙美子は戦時中のベトナムやボルネオに行ったが、タイには行っていない。戦後では、海外旅行が自由化される前のタイは、梅棹忠夫の『東南アジア紀行』でわかる。1964年以降は、無名の若者の旅行記がいくつか出版されていて、多少参考になった。すでに書いたように、タイの旅行ガイドは何冊も買い集めてある。ベトナム戦争時代のガイドに、拳銃を持って飛行機に搭乗する場合は、銃は事前に乗務員の渡しておくことといった記述があり、米軍兵士用のガイドをそのまま日本語に翻訳したとわかる。ワールドフォトプレスの『タイの旅』の1970年代の版にはイラストマップがあって、在りし日のバンコクがわかって興味深い。地図も集めているから、変化がわかって、興味深い。

 「バンコク安宿列伝」は、『バンコクの好奇心』(めこん、1990)に書いた。カオサンにはまだ安宿がなかった時代の文章だ。1990年代以降のカオサン時代の安宿について書いた人はいるが、カオサンの安宿誕生史を実証的に書いたものはない。イスラエル人旅行者とカオサンの関係を調べれば、修士論文クラスの価値はあるのに。

 

 

2067話 続・経年変化 その33

読書 9 ガイドブック 2

 手元にあるタイのガイドブックをアマゾンで調べると、半分くらいはヒットした。その売価は数百円から数万円までいろいろあり、1990年代のものが全部高いというわけでもなく、値付けに意味はないようだ。手元のガイドブックのすべての販売価格を想像すると、合計は数十万円になるかもしれない。つまり、新たに全部買いなおせば、数十万円の資金がいるということだ。『ブルーガイド 韓国』の1980年版の売価は5万円だから、合計数十万円というのはけっしておおげさな予想ではない。しかし、もし手持ちのガイドブックをすべて売却すれば、古本屋の買取価格合計は良くてもせいぜい数千円だろう。旅行資料に関心がある古本屋で、たぶんその程度だろう。普通の古本屋なら「ゴミ」扱いで、買取不可だろう。それが、ガイドブックの現実だ。

 タイの旅行ガイドは、日本語のものは国会図書館にかなりあるが、英語のものはロンリープラネットのものが数冊あるだけだ。私の手元には、1984年版と87年版の”Thailand a travel survival kit”があるが、国会図書館にはない。この2冊はバンコクの古本屋で買った。次のような資料だと、日本のほかの図書館には多分、ほとんどない(京都大学東南アジア地域研究研究所の図書館にはかなりの資料があるはずだ)。

 “Guide to Bangkok with Notes on Siam”(Erik Seidenfaden) ・・・手元にあるのは、1928年にタイ国鉄が発行した第2版をオックスフォード大学が1984年に復刻したもの。バンコクの新刊書店で購入。1500バーツくらいだっらような記憶がある(当時、3000円くらい)。現在、アマゾンなので、送料込みで100ドルくらいする。

 “A New Guide to Bangkok(Kim Korwong&Jaivid Rangthong,Hatha Dhip,Bangkok,1950)…ネット古書店で購入。売主はサンフランシスコだったかシドニーだったか覚えていない。

 “Guide to Bangkok(Margaretta B.Wells, The Christian Bookstore,1966)・・・これは立教大学図書館で見つけた。「タイの物価が高い」という記述が興味深い。レストランシアターの夕食が、5米ドルだ。植村直己アメリカに渡った1964年の労働者の日給が6ドルだ。タイが自国通貨を高く設定していたから、外国人には高額だったようだ。これは当時のインドネシアも同じ。

 “Guide to Bangkok Thailand”(The Pramuansarn Publishing House,1970)・・・休暇でタイに来た米兵向けのガイドブック。バンコクの古本屋で購入。ベトナム戦争当時のタイと米兵の関係がよくわかる。このように、英語の資料となれば、国会図書館よりも多分私の方が持っているだろう。

 1980年代初めまでの海外旅行資料、たとえば弱小旅行社のパンフレットやチラシ、ミニコミかそれに近い雑誌などを大量に持っていたのだが、82年にアフリカに行く直前に、ほとんどの資料を旅行雑誌「オデッセイ」の編集部に勝手に持って行った。もしかして、アフリカで死ぬかもしれないから、貴重な資料を託しておこうと思ったのだ。

 何度も書いてきたが、観光学は、観光で利益を受ける企業や団体・自治体側の学問だから、観光立国だの町おこしなどの資料は提供するが、実際に旅をしてきた人たちの足跡には興味がないようだ。旅行会社がいかにツアーを売ったかとか、航空会社がどんな宣伝をしたかといった記録はあるが、客である日本人がいかに旅したかという記録はほとんどない。そんなことを研究してもカネにならないからだ。企業や自治体からの研究費援助もないだろう。インドでも中国でも韓国でも、ガイドブックに見る日本人の旅行史をていねいに掘り下げたら興味深い研究になると私は思うのだが、そういう考えはどうやら異端らしい。旅行研究が経済学や商学だけでなく、異文化体験にも足を踏み入れるといいのだが・・・。「旅行でカネ儲けをするのが悪い」などとはまったく思っていないが、「いかにうまく儲けるか」しか考えていない学問はさみしい。

 

 

2066話 続・経年変化 その32

読書 8 ガイドブック 1

 財団法人日本交通公社が運営している旅の図書館には、さすがにガイドブックはある程度はあるようだが、私の興味の対象である日本の若者の海外旅行史資料はほとんどないらしい。蔵書検索の「出版社」で調べてみても、オデッセイはゼロ、白陵社は2冊だけ、そのほか1950~70年代の若者が外国に行こうとした足跡は、この図書館では調べられない。別の言い方をすれば、1980年代以降の「地球の歩き方」や「旅行人」の時代の資料はある程度所蔵しているが、それ以前の若者の海外旅行史の資料はほとんどないのだ。

 海外旅行が自由化される前後の若者、団塊世代とそれ以前の世代が、「青春時代の旅行記」を自費出版する例はいくらでもあり、その家族でもあまり読みたがらないだろう印刷物をこまめに買い集めている。はっきり言って、資料的価値も文学的価値もないのがほとんどだが、1行でも参考になることが書いてあるかもしれないと思って買うのである。

 そういう資料なら、本格的な旅行図書館よりも、コレクターでもない私の方が多く持っているかもしれない。単行本に関して言えば、私よりも多くの資料を揃えているのは、国会図書館だろうと思って調べてみた。

 かつて、KKワールドフォトプレスという出版社が、旅行ガイドを数多く出していた。タイのガイドブックとしては、かなり古い。私の手元にあるのは、『タイの旅』は、初版が1973年の75年の改訂第3版だ。このシリーズはのちに『タイ・ビルマの旅』と書名を変え、78年版と81年版も手元にあり、こちらは国会図書館にもあるが、それより前に出た『タイの旅』はない。国会図書館でも、旅行ガイドブックは全点収蔵ではない。幸運なのは、70年代の旅行ガイド「パントラベルガイド」が17冊あることだ。

 旅行ガイドブックは消耗品だから、神保町の由緒ある古本屋には置いてない。あるのは私鉄沿線の商店街にある古本屋で、たいてい二束三文の値段がついていた。5年前の「るるぶガイド」じゃ、誰も買わない。使い倒したガイドブックに価値はないと思われていたから、店頭でたたき売りされていた。ネット書店ができたころ(まだアマゾンはなかった)、ていねいに調べれば昔のガイドブックや旅行記がやはり二束三文で売られていて、こまめに買い集めたものだ。

 ところが、そう、10年くらい前からだろうか、古いガイドブックに骨董的価値をつけようとしているのか、とんでもない値段がつくようになった。かつて300円の値段がついていたガイドブックに2万0000円の値がついている。売値をいくらにつけようが出品者の自由だが、いったい誰が買うのか。

 例えば、こうだ。『地球の歩き方』の古い版の値段をアマゾンで調べてると、どんでもないことになっているのがわかる。書名はアマゾンの表記のママ。

地球の歩き方 インド・ネパール』 1984~1985年版・・・3万4900円(デジタル版のことはのちの回で書く)。

地球の歩き方 インド』 90~91年版・・・20万0874円

地球の歩き方 ヨーロッパ』 1985~1986年版・・・3万0080

地球の歩き方 中国』 87~88年版・・・2万99979円

地球の歩き方 アメリ』 1980(画像は84~85)・・・8万7593円

 誰かが仕掛けようとしているニオイがするので出品者を調べると、多くは「もったいない本舗」だ。私のよく利用するネット古書店で、いかがわしさはない。ということは、この古書店は旅行ガイドブックの価値を高めようと、高価格を設定したのだろう。美術品などにはよくあることだ。さて、問題は、誰が買うかだ。

上に書いた売値は原稿執筆時のものだから日々変化している。原稿を書いて1週間後に『インド』を調べ直したら、21万円になっていた。

 ロンリー・プラネットはどうか? ついでにちょっと調べてみた。「日本」編のスペイン語Lonely Planet Japón”を調べたら、2014年版、いくらだと思う? 「36万円だよ!!!!」と、びっくりしてこの文章を書いて10日後、改めて調べたら9608円だ。その値段で売れたとは思えないから、打ち間違いだったのか。