私は好きでマンガを読んだり描いたりするが、そこにはいつも人じゃなくて妄想とキャラクターを求めている。人間なんてほっといても関わるし、どんなに拒絶しても混ざりあうことがないだけでその図々しさと厚かましさと知ったかをもって心に入り込んできて、泣けるほどの温かさと優しさをまき散らして去って行く。大嫌いで大好きな、未熟な私には刺激が強い生き物なので、マンガには違うものを求めていて、自分が傷つくおそれのないところから、生々しいものを記号に変えて美しいだけのものを摂取したり吐き出したりしたいと思っている。
だから、現実の政治の視点から、二次元のキャラクターを裁判にかけるような決まり事が進行しているのを聞いても、どうしても実感がわかない。そういう人たちは、マンガばっかり読んでるから結婚できなくて貧乏な人間になるみたいな考え方をするみたいだが、私の目からは、そんなことをほざける人は生きている嫁、夫、娘、息子、友達、大人、子供、社会を記号として見ているようにしか思えない。個々の心に都合があるってことを知りもしないか容易に無視できる、何かの記号の一部が言っているようにしか聞こえないのだ。

エロを規制すれば健全な社会になると言いたげな、こどもは真っ白なものだと言いたげな風潮に、自分の幼稚園時代を思い出すに、まだ生まれて5年だか6年の身空で、何の根拠もなく「わたしはつまさきからくさってしぬんじゃないか?」と思っていて、心配で毎朝自分の足を見てホッとしたりしていた。見る夢は決まって夜の駅で(後で都電荒川線を利用してあまりにその夢と似ていてビックリした)自分だけ降ろされて皆が電車に乗って行ってしまって泣いて目が覚めたりしていたし、文字もろくに読めず、テレビや遊園地のアトラクションですら怖くて忌避していた何も知らない子供は、幸福な環境に身を置きながら、常に何かに怯えていた。「それはおまえだからだ」と言われればそれまでだけど、人間は生まれながらにして教えられなくても陰の部分がちゃんとあるとわたしは知っているので、それはちがうと言いたいんだが、だからなんだという気もして、心の中で小さいわたしと手をつないで遠巻きに騒ぎを見ていたりする。

非実在青少年つー言葉について考えてたんだが、あれだ、こなきじじいといういると思えばいていないと思えばいないものが、家に帰ったら現実の生身のじいさん(健治さん・長男夫婦と年金暮らし・72歳)が前掛けして蓑来て杖持って自称こなきじじいとしてコタツに入ってたような気持ち悪さ……アアアアア私の中ではストライクな例えなんだが、他人に判ってもらえる気がしねええーー!
しかしなんというか、私は漫画の面白さが本質的にわからない世代の親に育てられ、であるがゆえに自由に楽しんでたので、二次元の是非で大の大人が話し合ってるなんて全くピンとこないんですが、そんなこと言ってる間に誰かの来週の米代程度の仕事で世の中が変わっちゃったりしてるんでしょうね。ムー。

バカとテストと召喚獣7.5 (ファミ通文庫)

バカとテストと召喚獣7.5 (ファミ通文庫)

はああーーーーーバカテス7.5読んだんですけど、それにしてもムッツリーニと工藤さんがえろかわいくて生きるのがつらい。工藤さんのような女の子に真正面から来られるとビックリしたタヌキのように固まるしかないムッツがかわいい。傍観者から当事者になったとたんまぐろになるなんてずるいとわかってるのにかわいい。そしてなんかの拍子にこのバランスが崩れた時とてつもないエロの予感があるというか、ぶっちゃけバカテスってそんなカップルばっかりだうきゃーもだもだ。一冊に一回あるかないかの秀吉の「明久にはそのような目で見られてもまあよくなくなくなく(略)なくもないかのう」みたいなアレとかたまらん。姫路さんにしても島田さんにしても久保君にしても(笑)あのずるいバランスが作品の肝で、あまーい蜜になってることもわかってるけど、本音の話はやばかったーー死ぬかと思った!ヒャッホウウウウウ!!

□TVで「おっいい事言うなあ誰だろう」と思って調べてよしもとばななだった時のがっかりに限りなく近いやっぱり感てなんなんだろう。一冊も読んだ事ないのに、なんか妙な確信がある。前世でなんかあったんか。


□テレビで人との付き合い方的な本の紹介で「根がポジティブでもネガティブでもポジティブなことを言うようにする」というようなのを見たのだが「ポジティブな事いうのが辛い時ネガティブをどう処理するかを余裕のあるとき考えておく」というのがいいかなと思う。

人は基本人と繋がりたいと思ってるが、ネガティブな所とは上手く繋がれない。ネガティブな所が共感して繋がると、弱いところを見せあってる分ポジティブより本当のつながりのような気がして強く繋がって最初は安心するが、強すぎる上に、決して好きな部位でもないので、寛容を見せられるといつかイライラするし、正しく反発されればハラが立つ。そしていずれどちらかが疲れてもたなくなる。いいとこどりしたいからとか人間関係建前だからとかそういうことでなく、ネガティブと付き合うのがむずかしいから人はポジティブで繋がろうとするのだ。

でもそれは、わかってても辛い時がある。人が上手くやってると自分だけが悲しいような気がしてきて惨めな気持ちになったり恨めしいような気持ちになったりする。そしてそれらは人が楽しく生きるしわ寄せのようなものなので、どんなに疎んじても決してなくなるものでもなかったりする。人は弱いから愛されるというけれど、実際はそういう所をなだめるのはナカナカむずかしい。ただあるものとして思っておく事は必要かなあと思ったりする。

何かどうも最近、承認欲求という言葉をよく目にするような気がする。いや、それ自体はなんかしら人間が生きるため以外の行動とか表現をし始めたときからある欲求なのだし、特にネットができてからは言われてたんだろうと思うんだけど、あえてコメントとか分析を生業にしている人とか世間が私に聞こえるレベルで具体的にこの4文字を使うようになったのは最近じゃないかなと思う。いつからか考えるに、承認が「されなくて当然のもの」とか「努力が必要なもの」から「何もしなくてもされたい」「生きているだけでされたい」というようなものになってからのような気が…。いや、ちがうな。「確認するまでもないもの」から「されなくて当然のもの」になって「何もしなくてもされたい」という戻ってるようで全く違うものに変貌をとげてから、聞くようになったような気がする。

まあなんでもいいんだが、この承認欲求というやつに少々疲れている。そもそも人間関係に承認なんて必要ないんである。お互い様と思っておけばいいんである。承認してほしいならほしいで、素直にそう言やいいんである。「承認されたいし浴びるように愛されたいけど返すのは面倒!!!」と言い切られたら笑うしかないし、それだけのことである。欲望が嫌われるんじゃなくて、プライドや見栄をごまかす卑屈さが嫌われるんである。あああ丸っきりわたしの事だよ。ああもう皆相撲をとろう。いいじゃないかそれで。どうせ皆仮にキムヨナ級の努力したって金メダルなんて取れないし、上目遣いで承認を待ってる人間なんて、仮に全世界の人間にブラボーって言われたってそれを承認できやしないのだ。こころゆくまで相撲をとって、ボロを出し合おうぜ。なんかもうそれしかないような気がするんだぜ。キャッフーイ!(切れた)

まいあ Maia SWAN actII4

まいあ Maia SWAN actII4

Do Da Dancin'! 5 ヴェネチア国際編 (オフィスユーコミックス)

Do Da Dancin'! 5 ヴェネチア国際編 (オフィスユーコミックス)

バレエマンガです。バレエマンガはいかにも少女マンガらしい荒唐無稽さと美しさに満ちていて元気になるから好きです。今日びの10代が読む少女マンガ雑誌ではほとんど見なくなりましたが、昔はそのわかりやすさと華やかさで定番の愛される題材だった訳ですが、かつてのバレエマンガと言えば

・才能を見いだされる
・導きに応えて踊る→喝采の繰り返し
・ライバルに認められる
・嫉妬される 耐える
・憧れの人に認められる
・そうこうしているうちに世界へ

とまあ一見平凡だけど才能ある主人公が受け身ーーに花開いて行くものだったのです。それらを通ってきた身としては、この二作品は当時現役だった人たちがそれを取り返すかのように「自分は何をしたいのか」「自分は何をすべきなのか」「自分は何を見ているのか」と精神的な自立を訴えて来る所が興味深いなと思いました。まいあは主人公が若いので「自分で自分を見出す」ことで大人になる事を、ドゥダダンシンは主人公がブランクを経ているので年齢は大人なので「自らと外の世界を受け入れて行くこと」で女性として成長する事を主題にしていて、へーとか思いました。なんというか、それが正しいとかどうかじゃなくて、平和すぎて脅迫的なまでに人の和を求められる時代から迷いが生まれていて、そこからの精神的な自立とかが救いとされる時代なのかなーとか思いましたが、そんな変化がある中出て来る脇の男の子たちは相も変わらず素敵な王子様で景気がよかった(笑)ウォンかわいいよウォン。