映画『花火思想』を推薦します

阿佐谷隆輔脚本、大木萠監督の『花火思想』が物凄くいい。

この不思議に面白くて尚且つ力強くもあるという映画の宣伝の一助になってくれればと思い、以下の文章をしたためるのである。

私はたまたま井土紀州監督の『マリア狂騒曲』の上映後の飲み会で阿佐谷さんと大木さんと、それから『花火思想』のスタッフの面々と知り合った。

『マリア狂騒曲』の上映後のアフタートークで、井土監督と大木さんが『犀の角』について語っていた。

『犀の角』は私も試写会の映写をやったことがあったと思う。世論に乗っかってカルト宗教の信者を虐める若者達のフォーメーション、隊列が薄の原に展開する様がいまだに印象に残っている作品だ。

大木さんはその『犀の角』に参加していたという。

そうなのか、『犀の角』か、と数年前のことを思い出しながら会話していたら、大木さんのコンビニバイト話が思いのほか面白かったのである。

映画の神様は不思議な配剤をするもので、大木さんの同僚が映画ファンで、ここまでなら普通の話だが、同僚君というのが原一男に心酔しており、『ゆきゆきて、神軍』を百回以上みているというのである。

さすが一千万都市東京、というべきか。これを知った大木さんは即座に彼をスタッフとして引き入れたのだそうである。

こういう面子が作る映画は面白いに違いない、そう思った私は早速大木さんから『花火思想』の前売り券を買い、あとは一切の情報を遮断して『花火思想』の公開初日を待ったのであった。

果たして初日は来た。

都知事選挙の公示後初の土曜日は、ここ数週間の冷たい冬の空気がすこし和らぎ、私はTシャツにジャケット、首を毛糸のマフラーで巻いて渋谷へ向かったのだった。

劇場のユーロスペースで前売り券を当日券に替え、入場の時間までよそで文庫本を読みながら過ごした。

なんだか映画の内容と関係のない私事を書き連ねているが、この映画をみるとそうした些末事を書き残しておきたい気になるのである。

上映がはじまって、そこはどこかの居酒屋である。小説の編集者らしき男が、作家志望者らしき男の作品に小言を垂れているようである…。

それから約九十分後、私は茫然として、放心したまま、大木さんらが壇上にあらわれて舞台挨拶をおこなうさまを眺めていた。


私はこの映画『花火思想』をオススメしているつもりでこの文章をいま入力しているが、さりとてあまりこれから『花火思想』を鑑賞するかもしれない読者のあなたに余分な情報を与えたくないのである。

この『花火思想』の周辺を旋回して、その無用な私の旋回ぶりをあなたに不審に思っていただき、あいつは『花火思想』なる映画のためになにをぐるぐるし続けているのかと思っていただきたいのである。その理由は劇場に行けばわかる。とにかく人をぐるぐるさせる映画なのである。この「ぐるぐる」というのも、映画のあるシーンからいただいたイメージなのだ。

とはいえ、すこしはしゃべってしまおう。
キーワードはインスピレーション、である。主人公は、あるときは夢から、あるときは現実の人々からインスピレーションを受けとっていく。

もうひとつのキーワードは、殺す、ということである。終わらせる、と言いかえてもいい。

振り返ってみれば、私たちの人生はインスピレーションを受けとることと、それまで伴っていたなにかを終わらせることとに尽きているといっても過言ではない。

さらに大人になると狡くなることを覚えて、他人に別の他人の何かを終わらせることを請け負わさせるなどいう小細工を身につけたりもする。

殺すことを忌み、終わりを拒否するとき、人は煉獄の苦しみに閉じ込められる、ということがありうる。『花火思想』の観客は、素知らぬ顔をしてぽっかりと口を開けている、そういう煉獄がこの世にあることを知るだろう。

さて、なにやら、これから『花火思想』を鑑賞する人にたいして興醒めなことを口走りつつあるような気がしてきたので、私はこれ以上の贅言は慎むことにしたい。

要はユーロスペースで『花火思想』をごらんあれということである。

ただしかし、最後に一言だけ。花火が出てこないこの映画に『花火思想』と名付けた詩的飛躍の美しさよ!

Beyond the black rainbow

【STORY】
1983年にアルボリア研究所を仕切るナイル博士は、1966年に自分をインナースペースへの旅に導いたアルボリア博士を密かに監禁して、イヤボーン系の超能力少女の血をアルボリア博士に注射すると、アルボリア博士は随喜の涙を流して事切れるのであった。精神的導師を失ったナイル博士はマイケル・マイヤースばりの超人的殺人者に変身するかに思われたのだが、不慮の事故により死亡。ナイルの魔の手から逃れたイヤボーン少女は、1982年作『ポルターガイスト』の舞台のような住宅地へ赴くのであった。


【感想】
予告編の画面の雰囲気や音楽に惹かれて海外盤を購入。英語のヒアリング能力ゼロ、英語字幕なし(日本語はもちろんなし、スペイン語字幕あり)の二重苦を背負っての鑑賞だったが、楽しめました。ナイルが、アルボリアの実の息子なのか、ただの実験体だったのかよくわからないのは困った。イヤボーンされるおばさん助手にナイルが何を話しかけたのかも不明。途中で少女がエレベーター扉で出くわす童顔巨人も意味不明。とはいえ、ラスト近くになって、殺されるためだけに登場する若者二人の描き方によって、作り手が意外にも深刻さを笑い飛ばすユーモア感覚の持ち主であることがわかって、憎めない作品だと思ったのだった。5点満点で3点。


心身問題の奥深さ

12月に、以下の本を読んだ。

グーグル革命の衝撃 (新潮文庫)

グーグル革命の衝撃 (新潮文庫)

心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く

心脳問題―「脳の世紀」を生き抜く

さらば脳ブーム (新潮新書)

さらば脳ブーム (新潮新書)

まずグーグルの本を読んで、あの検索結果のそばに出てくる広告文で、けっこうなお金が動いている事実を知り、驚いた。

そして、利用者が煩わしく感じない程度に利用者をコントロールする基盤をつくる、という現代的な産業の特徴に興味を持ち、そのベース知識ともいえる脳の科学に関心が移った。
『心脳問題』は、哲学愛好家の立場から、脳の科学万能論に与する世論に警鐘をならしつつ、いままでの哲学の分野で行われた心身問題を概括する本で、まとまった見取り図を得たくて本を手にとった私をかなりイラつかせたのだが、まあそれはいい。

『さらば脳ブーム』は、脳の科学(最前からお気づきのように、わざと脳科学という言葉を避けている)を産業応用に実践した人の経験談と感想を知りたくて読んだ本で、こちらは私の関心にどんぴしゃの本で、かなり面白かった。

『さらば』の中でも、著者の川島教授は彼なりの心身問題を考えている。科学は事実以外の感想を扱えない。科学において事実でないものは仮説くらいだろう。退屈で煩瑣な脳トレを積めば頭がよくなる、という仮説は、どのように証明すればいいのか、あるいは、どのような事実を集めれば証明したことになるか。

『グーグル革命の衝撃』に戻って考えれば、グーグルのアルゴリズムがグーグルの成功を導いたのか、ということと同じである。脳トレ→頭がよくなる、脳の科学の産業化→東北大学の新築研究棟、門外不出のアルゴリズム→グーグル社の成功、どれもこの図式は本当かなあ、とその他大勢であるわれら一般人は不思議に思う。

『心脳問題』の著者らは、こういう図式のことを、カテゴリーミスつまり範疇の誤謬であると指摘するのだが、私などはなまじ社会科学系の学部にいたものだから、その矢印の中に市場とか大衆とかが含まれているんでしょと思って、哲学者も科学者も馬鹿なのかなあ、と思う。

素人が心身問題を考える際に暗黙のうちに犯している思考上のチート(ズル、不正)があると思う。自分が考えていることをうっかり忘れてしまう、ということである。人間は社会から隔絶しきった状態でものを考える状況になかなか恵まれないものだから、自分が周囲から得た他人の反応を自分のこととしてうっかり思考に含んでしまうのである。社会というのは個体の外部に存在するものではなくて、個体の外側つまり外界からの反応を受け取った自分の体(つまり脳)の反応履歴(要するに心の癖)こみで存在するものである。存在ではなくて、現象なのかもしれないが、そういうカテゴリーの厳正な判定は哲学者に任せておけばいい。
(以下次号)

『愛のゆくえ(仮)』

もともと、平田某の事件が心の片隅に引っかかっていたプロデューサーが、ある芝居を観て、それが偶然にも某のニュースを素材にしていたことを見抜いて、やはりあの自首の事件を形にとどめたい、映画化したい、と思った、というのが映画の企画のはじまりだったらしい。

Pは、某自身には興味が薄く、彼に随伴した女の方への関心が深かったのだが、話を引き受けた監督は、自首した某に、カケラくらいの規模であっても己の日本論を託したかったらしく、現行のように映画のフォームが定まった。

事件と事件の当事者の男と女、それぞれへの力点の配分が1:4.5:4.5くらいになっていて、要するに事件のことを知らなくても見られる、というか、事件に関心がなかった(いわゆる世間並みの主張を持つほどでもなかった、という意味)人間にこそ映画が描いている人間存在の不思議さ、つらさを味わうことができる。

夫婦関係は極小の社会関係であるから、ルールの検証と更新がわりあい容易に可能であって、この映画は、小ルールの検証と更新をいかにも演劇風に描くメイン部を持ち、終幕に夫婦関係の解消という大ルールの更新をもってきている。劇中では検証のことを「こたえあわせ」と呼んでいる。

映画は妻の述懐からはじまり、すみやかに記憶を主題化する。一定より以前の過去がうまく思い出せない。結婚(逃亡犯なので内縁関係だが)の詳細が自分の中から消えかかっているからこそ、いまの自分の結婚しているという状況が、より宿命的なような事実として、女にのしかかってくる。しかも、彼らにとって、かれらが夫婦であると他人に知られないことが、夫婦関係を継続させる要件になっているのだ。究極の内縁関係である。

ふと思いついて「変転と舞台裏」とタイトルを書いてみたが、これもまた、舞台裏の話なのである。彼らの1DKの小さな世界は外の人間が気楽に訪問できない別世界だった。見られたら、破綻してしまう別世界を、彼らは判断して終了させた。その終幕を観客の私たちは覗いているわけだ。

この映画の舞台裏についても、けっこう関係者自ら語っているのだが、どうも伝わっていないようなので私もまた、「舞台裏」を覗いたものとして、以上のことを記しておくのである。宣伝につかっておいてあれだが、あの教団に関しては、実はこの映画はあんまり言及していないのですよ、と。

あと、個人的には「(仮)」というのは「(笑)」のような80年代的表象だと思うのだが、製作者にはとくにそのような意識はなく用いられているらしい。こういうところにも、ニュアンスの変転は進行しているのである。

ポレポレ東中野で上映中

『Playback』

こどものころ、テレビの西部劇のやられやくが主人公に撃たれて、倒れる、乾燥した荒野の大地にばったり倒れる様子に、深い印象を受けて、友達すうにんといっしょになって、西部劇ごっこに夢中になって、なんども何度も、死ぬ練習に興じていたことを、この映画を観ていて、ふと思い出した。何度も、何度も、倒れる、ばったりと。

いじめのレパートリーに、自殺の練習を被害者に強いるというのが、あるらしいが、自分の死、というものは自分では見ることができない。できないために、自分で死んでみたり、他人を死なせてみたりするのだろう。

映画もまた死という主題に魅了されてきた歴史を抱えていて、ああでもない、こうでもない、と、なんとか死を視覚化しようと試みてきたが、ここに、また、いっぷうかわった死の提示の仕方を考え付いた映画が登場したわけである。三宅唱の『Playback』である。

男がマンションの一室で目覚める。時計をとって時間を確認しようとするが、ふと気が変わり、いまが何時なのかなど、どうでもよくなり、天井をながめて、ぐっと伸びをする。なぜか自分が子供に戻っていて、住宅地のさびしいあたりでのたれ死んでいる男を見つけるという、さきほどの夢を反芻する。

『Playback』。男と偶然同じ姓を持つもうひとりの男が久しぶりに男の前に姿を現す。彼は、男の転機になぜかいつも登場して男になにかを語りかける。原因と結果について。結婚が破綻する予感について。心の惑いが顔に表れることについて。そして、「おれたち」の時間が、もうそれほど残されてはいないことについて。

同じ姓をもつあの男が現れたのだ。いままた自分は転機にさしかかったのだろう。そう思いながら健康診断を終えた男は、病院からわたされた診断結果をろくに見もせず丸めゴミ箱に捨ててしまう。その紙を拾って、男に渡す、さらにもう一人の男。よく思い出せないが、懐かしい思い出の場所からやってきたことだけはわかる、そういう男。

思い出の男は、男を、結婚式にいざなう。誰の結婚式なのだろう。高校のころの、楽しい、楽しいだけだったかのように記憶するが、実際にはそんなことはなかった、あの自分の高校時代の故郷で、そのころの友人のひとりが、いま結婚式をあげるのだ。

なぜか自分のことより、友人たちや、気になっていた異性のエピソードばかりを、思い出す。自分がいなかったはずの場所でおきたことについて、なぜか、自分が語っている。男はふと気が付く。男の目の前の友人も、自身には関係のない男の仕事について詮索する。男は芸能の世界で暮らしているから、だから、友人の知りたがりは、世間的にそれほどおかしなことでは、ない。…。

夢の世界の人物たちが、主人公よりも主体性をもって振る舞い、かえって主人公が彼らによって誘われ、勇気づけられる。夢の人物たちが、主人公を送り出した後、ビニールシートを片づけるシーンがある。現実と夢の映画ではなく、夢から現実を眺める映画。

転機に現れる、男と同じ姓を持つ男が、いままた男を見守っている。同じ姓の男が、なにかを確認し、部屋の外に去っていく。入れ違いに、別の男が部屋に入ってくる。男のいまの人生を導く「監督」が。男は言う「再開」と。『Playback』。

映画の宣伝です

  • リム・カーワイ監督特集 シネマ・ドリフターの無国籍三部作

http://a-shibuya.jp/archives/3862

  • 杉田協士監督作品『ひとつの歌』

http://www.boid-newcinema.com/hitotsunouta/

どちらも私なんかが宣伝しなくても気になる人はすでに観に行く予定を立てていると思うのだが、私はよくばりなので、アンテナを張っていない人にこそ、彼らの作品に事故のように触れてしまうことで、自らの世界観を拡大してほしいと思ってしまうのである。

私は「関係者」なものだから、彼らの映画を去年のうちに拝見させてもらっていて、特に杉田君のは初見のときにびっくりして、なぜかというと、一見なんでもないような風景に、よく見るととんでもなく深いドラマが展開されているという、言うは簡単でも行うのは難しい離れ業を実現していたからで、これはぜひひいきにならねばいかん、と思って応援団をやっていたのである。去年の東京国際でこの作品が受賞しなかったのにも納得がいかないのである。

リムのバックグラウンドは、実は私はよく知らないのだが、初対面で意気投合して、『新世界の夜明け』がチャーミングだったし、沈みゆくかつての経済大国日本のアフターグロウをじょうずに収めている映画だとおもったし、社会派なモチーフをアレなかんじで纏めてしまうアレみたいな映画と一線を画す特異な映画作家だと思うのである。『アフター・ディーズ・イヤーズ』は初見でうっかり×××してしまって、明日の上映がリベンジなのだが、作風が一作ごとにばらける感じが、初期のサム・メンデスみたいでかっこいいなと思うのである。

どうもミーハーで表層的なことばかり書き募ったような気がするが、まあソフト化を待つなんていわずに、劇場で観てください。『夜が終わる場所』が好評のうちに終了したが、まだ三宅君の『Playback』や木村君の『愛のゆくえ(仮)』など、今年はまだまだ注目すべき新作が待機中なのである。

『プロメテウス』に寄せる日本人のニヤニヤ笑い

宇宙怪獣が宇宙人に襲い掛かり、宇宙人が必死で怪獣と戦う様を、呆然と地球人が眺めている――。


いやあ、西洋人のみなさん、やっとこの境地にたどり着いたんですね。おめでとうございます。私たち日本人は「ウルトラマン」で、こういうシュールさ、やり場のない感じ、所在なさを、もう40年以上前から経験しつづけていたんですよ。かえって、最近のウルトラシリーズが西洋かぶれをおこして人間中心主義的になっちまって、たるんでるなあなんて思っているんですが……。