たまごまごごはん

たまごまごのたまごなひとことメモ

恥じるオタク、開き直るオタク、受け入れるオタク

さーて、2007年の「たまごまごごはん」は?
たまごまご、マンガ本買いすぎて本棚壊れる。
たまごまご、気づいたら本棚二列百合本。
たまごまご、まるまる一つサブカル本の本棚しかも二層式があります。
の3本です。
ああっ、そんな寒々しい目で見ないでいやん。まったくもって、人に見せれない部屋になりつつあります。実話なんだなこれが。
と思ってじっと手を見る。そこには「チャンピオンREDいちご」がありましたとさ。めでたしめでたし。
 
年も変われば人格も変わる、とは思うのですが、オタクはオタクをなかなか変えれないですよね。生まれた頃からオタクですと言い切る人とかカッコイイです。しかし世の中、恥じらいを感じる人が多く「隠れ」が圧倒的に多いのもまた事実だったりします。

  • その1、恥じるオタク

日本人は恥の文化を持つ、なんていう人もいますが、最近はDQNさんが全般的に増えているので一部は「恥ってなに?おいしいの」ってな感じがあるなあと大人になった今だから若者をみて時々思います。もっとも自分も高校、大学生の頃は同じだったんでしょうけどね。
とはいえ、一部のオタクは非常に恥ずかしがる人種なんじゃないかと思います。
ガチエロやおい本や調教系エロゲなんかは、同類以外には恥ずかしいやら社会的立場がやばいやらで隠すのは、理性的な行動です。だけど自意識過剰でやたらと隠す人もいます。
自分は臆病ニワトリだったので「アニメ好きでしょ?」と言われると「い、いや、アニメっていうかー、ほら、宮崎駿いいよね、紅の豚とか監督の思想が出ててさ」と隠してるんだか隠せてないんだかなコトをつい言ってしまう時期がありました。もうなんていうか、その行動自体が恥ずかしいんですけれども。あんたはエロ本買う中学生ですかという感じですね。
自分はマイノリティで迫害されてる、という妄想は時々ひょいと芽を出すから困ります。別にほんとに迫害されてるわけないんだけど、マイノリティなのは事実。人目におびえているのも事実。

  • 2、開き直りすぎるオタク

一方人目ってなに?っていうオタも多いです。コミケ帰りの友人と早速「おっぱい丸出しの袋もってコミケ会場外にいくのは」という話をしていましたが、勇者すぎるというか。
マイノリティなのを打ち破る手段として「人目を忘れる」というのがあると思います。でもこれ、悪い手段じゃないんですよね。少なくとも「許される空間」では。たとえばネット上だったり、アニメショップだったり。そういう意味でコミケは超うらやましいことこの上なし。
しかし欠点として、身だしなみに目が行かないとか、人の話を聞かないとか、それでいて自己主張が強いとかというのもあるかもしれません。おそらく、自分を強く持つというよりは、むきになって開き直っている人もいるのではないでしょうか。オレはこいつらとは違うんだ!みたいな。
ごーーーく一部なんですけどね。…だよね?

  • 3、自己を受け入れるオタク

オタクの定義も難しいですよね。これは永遠の命題かも。今は言葉が独り歩きしてるから一般の定義は「?」なんですけど、私は「自分自身で好きを表現できる人」だと思ってます。(hossiさん)
 
自分や自分の趣味を笑いものにしつつも、「自分(の趣味)は素晴らしいものだ」という自負、おおげさな言い方をすれば趣味に対する「誇り」は持ち続けるべきだと思います。ある程度は自己肯定の考えを持っていないと、(中略)自虐に走ってしまうような気がしますね。(ユーゼスさん)
 
自分に誇りを持てるのがいい……とはいっても、根拠のない自信を持ってる人もいますし……区分けはやっぱり難しいです。
でも、一番必要なのは、オタク、エキスパートにかかわらず、オタク文化から、自分に何らかのプラスになる影響を考え、取り込んでいけるってことなんでしょうね。(フォレイさん)

自分を笑えるオタクになれるか。のコメント欄より。本文よりも素晴らしいこと書いてくださっているので、よければ是非見てください。
恥じらいオタも、開き直りオタも、後ろめたさが前提にあるのではないかと思っています。
しかし、自分が好きなものに誇りを持てるようになると、わりと客観的に自分を見れるようになります。誇りがないと自分を見ることから逃げたくなります。

案外自分はオタクだよと言い切ると一般人とも普通に生活はできるね。DQNとはなかなか相容れないが。
プリキュア様崇拝日記

「今○○が好きな自分が好きだよ」と言えるようになれば、かなり気持ちが楽になるのは事実。好きなことを否定しないで楽しめる人はwinner。
 

  • 趣味を人前で肯定できるかナ?

「今日の早川さん」留年決定(coco's bloblog)

将来もずっとこのままでいいんだろうかという漠とした不安は常に感じています。ネット上で趣味を同じくする人たちが肯定的に邁進していたり、自分よりもさらに上の年代の人たちがいささか自虐気味ではあるもののそれでも嬉々としてblogなどで熱心な主張しているのを見るにつけ、自分の好みの界隈しか見て回っていないから肯定的なのも当たり前なのにそれがさも世間一般の風潮であるかのように「じゃあ私だって」とつい勘違いをしてしまいがち。

「世間が否定するもの」というのは基本的にはあまりないですよね。あえていえば犯罪絡みだけど、妄想だけなら自由だもんね。
それに、好きなものを「好きなんですよ」と言いたい気持ちもあります。だから内輪で話せる趣味の同士を欲して夜な夜なサイトを巡ったりコミケを巡ったりします。
個人的には「これ大好きなんだ!」って熱く語れるオタクがものすごく好きです。しかしそれに流されっぱなしでいるとcocoさんも書かれているように不安も押し寄せてきますよネ。おや、自分はどこに行くんだろう?って。
そんなときに、自分を見ることが出来るかは、「どれだけ好きなものに誇りをもっているか」にかかっているのかもしれません。本当に好きなら、調べたり掘り下げたり文献を読んだりします。そしてさらに強いオタにレベルアップ。あれ?いいんだべかこれで。まあいっか。楽しければ。
 
本を読んだときに感じたドキドキ感、アニメや映画を見たときに感じた血が逆流するような気持ち、みんなで本を作るときの文化祭な気分の高揚。忘れたくないです。一ヶ月後にはもうその作品よりも好きなものがあるかもしれないけど、もしかしたらオタク卒業してるかもしれないけど、手元にあった本で確かに自分がワクワクしたことを否定したくないですよネ。
昨年度の最初は自分は「恥じるオタ」でした。もうね。隠れも隠れだったし一時期は自虐的だったし。でも今はもっと「これが好きなんだ!」と大声で叫びたいな。少しでも他の人が楽しんでもらえるようなこともしたいな。乃梨子瞳子もはずせないな。
 
よし、これを今年の抱負にしよう。んじゃ書初めで「胸を張って乃梨子瞳子と言えるようにな…」…貼れネエ…。
 
〜関連記事〜
自分を笑えるオタクになれるか。
チーズみたいに固まり始めたオタク文化とマンガ。

趣味の一部として浸透している、ってのもあるかもしれませんね。また、分母が増えれば当然、それに付随するジャンルも増えるわけで。(yyさんコメント)

分母ってのは本当に絶妙な表現だなーと思いました。今は住みやすいですねほんと。いい時代になったものです。でも同族嫌悪や傷のなめ合いになるとまた話は別かもしれませんね。考えすぎかなあ?
オタクは「こうなりたい」でいいじゃない。〜「げんしけん」9巻特装版より〜