パトリア日田の及川康江さん、川端都古さんが、車を運転して、熊本まで打ち合わせに来てくださる。昨年1月に、パトリア日田15周年記念コンサート『どんどん日田どん!』を行って以来。平安時代の伝説の力士、日田の林業、日田祇園囃子などをリサーチし、地元の吹奏楽団、合唱団、相撲部、祇園囃子保存会、音楽家、木レンジャー、ワークショップ参加者など、すごい人数の出演者が登場した公演だった。あれから1年半、また新たな企画に向けてお話できて、ワクワクした。
明日から城崎。昨年のことを、小林瑠音さんが長文でレポートしてくださった。読み応えがある。
KIACコミュニティプログラム2023 日本相撲聞芸術作曲家協議会 とよおか音楽めぐりコンサート「トコドスコイ!」レポート | アーティスト・イン・レジデンス | 城崎国際アートセンター
先崎彰容『バッシング論』読了。だじゃれ音楽で考えてきたことを、再確認するような読書だった。民主主義は、時間をかけて意見を交換して、じっくり決めていく作業のことだと思う。ぼくは、共同作曲を探求してきた。一つの美意識だけで統一される音楽を作曲するのでなく、複数の美意識が共存する共同作曲がどうすれば可能なのか、ということを考えて実践してきた。この著者は、「美しい物語」や「正義」や「正論」の危うさを説き、坂口安吾の『堕落論』を引用する。ハラスメントとして強要する「だじゃれ」ではなく、美意識や正義や正論が何を排除してしまうのかを熟考するための「だじゃれ」が必要な時代だ、と改めて感じた。二つの対立する考え方をぶつけ合い、それぞれの良いところを認め合い、そのどちらでもない第3の考えを導き出す方法を、弁証法と言うのだと思う。バッシングって、分かりやすく2項対立にしちゃうから起こる。例えば、「だじゃれ」と「音楽」って、相反する概念とも言えないので、「だじゃれ党」と「音楽党」がぶつかり合おうとしても、争点が見つかりにくいんだ。そこがいい。「わかりやすい」ものが求められることが多いけど、(瞬時には)「理解し難い」ものがあることもいい。良いのか悪いのか、好きなのか嫌いなのか、すぐには判断不能だったら、熟考できるもの。でも、難しすぎると考える気も起きない。だから、ユーモアと遊びを織り交ぜながら、謎に取り組む。同じことを見方を変えて(聞き方を変えて)、何度も味わう。先崎さんという人は、文学を通して、そのことを言おうとしているし、ぼくは、「だじゃれ音楽」という得体のしれないもので、取り組んでいる。分かりにく過ぎて、バッシングの対象にならない。炎上もしない。ただただ、じっくりと腰を据えて、取り組んでいきたいのだ。