きりこについて

きりこについて

きりこについて

キリコの良いところは、自分がドブスだと気づいて引きこもりになったあとでも
他の誰かになりたいなどと一度も思わなかったこと。
目が大きくなればなぁとか、鼻が小さくなればなぁなどと、思わずに
ただ自分が自分であることを受け入れ落ち込むところ。
この「他人になんて一度もなりたいと思ったことがない」
というのは、きりこの両親がきりこを溺愛してきた結果だなぁと思った。
幼少期の頃に溺愛され、在るがままを受け入れてもらえたことが
きりこの、私は私でしかない。ということにひっついているのだと思う。
もちろん溺愛の悪い面もしっかり持っているのだけれど。(傍若無人がね)

もう一人の主人公とも言えるチサちゃんの話は
是非とも男の人にもオッサン頭の女の人にも読んでいただきたいところ。
誰にでもある「痴漢にあいたくないなら、肌を露出し過ぎて歩かないことよ」
という偏見。
私にだって少しある。
そこを、女の人が裸で寝てようと、同意が得られなければ無理矢理やったら
強姦だ。と言い切ってしまうところが気持ちがいい。
実際はそのとおり。
食べることが好きな人に、食べるのが好きなら何でも食べるだろうというのは
間違いで。
食べることが好きな人に、食べたくない時に食べることが好きなんだから
食べるだろうというのは無理矢理で。
同じ事よね。

猫好きの人のための・・とか、レビューで猫を好きになりました。とあったけれど
猫飼いとしては違和感。
猫とは、もっと静かで、人間のことなどどうでもいいともっと思っているのだと
私は思っているので、そこは入り込めなかったかな。

好きなセリフは、チサちゃんがいわゆる「強姦された女の人のための会」で、会の人に
「不特定多数の人と寝たりして!自分を大事にしなさい」と怒られた場面で
キリこが言うセリフ。要約すると
「自分のしたいことをしているのが自分を大事にしてるんだと思う。
自分のしたいことをさせてあげられるのは自分しかいない」
ということだと思うんだけれど
まさに、これにつきるよなぁと。
私は常々、自分の悲しみを一番かわいそうだと思ってあげられうのは自分だ。と
思ったり戒めたりするのだけれど、同義語だと思う。

そしてこの小説の伝えたいメッセージは、この2点ではないかと思うのだけれど
描ききれてない感が否めないのが残念。
是非同じテーマで、また書いて欲しいなぁ。

「真昼のプリニウス」池澤 夏樹

真昼のプリニウス (中公文庫)

真昼のプリニウス (中公文庫)

うーん これも絶賛!
スティルライフが好きだった人にはドンピシャかも。

ある女性火山学者が、弟の友人である広告会社社員から「電話をかければランダムで小話が出てくる」という
新しい企画への協力を頼まれることから物語は始まります。
異国で写真を撮る恋人からの手紙
易を行う制約会社社長
彼女の中のマグマが動き出して・・。

聞いても何の得にも損にもならない小話の数々、
恋人からの身勝手なようで誠実な手紙
どれもこれも好きです。

残ったのは、浅間山の噴火の体験話に、主人公が心を動かされ
なぜこのような文が書けたのか。という類の質問を体験話の筆者に
質問を投げつづけるところ。

彼女は問います。
なぜ体験を物語りにしようと思ったのか。
人な何故物語るのか。
物語にすると事実は嘘っぽくなるのではないか。
それに対し、体験話の筆者は「怖かったから」と答えます。

書かれた言葉、話された物語は手で扱うことができます。
怖い体験そのものはただ一方的に受け取るだけで、最初にあなたさまが言われたように
お山が静まるのを震えながら待っているほか人にはできることがありません。
しかし、それを後になってから言葉にすれば、それは目の前にあって、
掌に乗せることもできます。
とてもとても恐ろしかったけれども、そこに書かれた以上には
恐ろしくなかった。
そういうことが言えると思います。

言葉にしてしまうと何でもないことになってしまうことってあるよなぁと思って。
あんなに腹がたったことなのに、人に説明すると、そんなにたいしたことじゃ
ないみたいで虚しくなったりして。
そういうことを絶妙に例えている一文。

そういう言葉のマジックを良い方向に使っているところに注目。
苦しいことを書いてみることは大事かも。
以前、愛しい旦那さんを亡くした友人の話を他の日記に書きましたが
その時に私が友人に伝えたかった「事実を事実以上にしない」というのも
この類かな。

実際に起こった以上のものにしないことは時として大事で。
意味とか因縁とか巡り合わせとか、そういうことに負けない
惑わされない一つの目を持つことは、時々人を救ってくれると思う。

「イマジン・ノート」槙村 さとる

イマジン・ノート (集英社文庫)

イマジン・ノート (集英社文庫)

出会えて良かったと思える本。

漫画家「槙村さとる」さんの今日に至るまでの生い立ちのエッセイです。
子どもの頃に受けた傷をトラウマを克服していく姿は
多くのことのヒントになってくれそう。
人がハードルを飛び越えていく姿をありありと想像させてくれます。

また 槙村さとる世代の私には、ヒット作の漫画の裏話?的なものも
楽しんで読むことができました。

心に残る言葉は数多くありましたが、
ここでは、私が膝をポンと打った箇所を紹介。
うまく言葉で表現できなかった事が、まさにズバリと表現されています。

友人を自分の外脳として使うのだ。これがすっごく大切なのだ。
「答え」は自分の中にしかない・・・のに、自分の脳や自分の心だけでは
「自分」は絶対に解けない。
限界はすぐにくるし、考えているというよりも堂々めぐりするだけになっちゃう・・

彼女はまた人の話を聞いたり聞いてもらったりする事を
自由連想につきあってもらう」とも書いています。

あぁそうだなぁと思って。
日記を書いたりするのも しかり。
なぜ自分で決めなければどうしようもないことなのに、
人に聞いてもらいたくなるのか。
人に聞いてもらったってしょうがないじゃない。
なんて時々思うことがあるのだけれど、
聞いてもらってるうちに あぁそうだ、こうすればいいんだ。と
新しい自分の考えが出てきたりして不思議だなぁと思っていました。
そういうことをまさにズバリと言い当てた箇所。

それと同時に 人に対する姿勢もちょっとわかったというか・・。
私には 自分の意見を人に押し付けるところが多々あって、
もちろん相手にうまくいって欲しい故のことではあるけれども
反省することも度々あり・・
そうか、私は今、相手の自由連想につきあっているのだな と思って
人の話を聞くという姿勢を持てばいいのだなぁと思いました。

ついつい何とかしてあげなくては!と出しゃばっちゃうのよねぇ。
外脳の役割 まっとうしなければ!

「ぶらんこ乗り」 いしい しんじ

ぶらんこ乗り (新潮文庫)

ぶらんこ乗り (新潮文庫)

絶賛します!
久しぶりに泣いた一冊。

いなくなってしまった「天才少年」と呼ばれた弟のノートを
主人公が読む回想で物語は始まります。
あるキッカケで声を失ってしまった弟。
それ以来ノートに自作の物語を書くようになります。
子供だった主人公の女の子は、その話を笑って読むようになるけれど、
ある日を境に・・また、大人になって感じる弟の伝えたかったこと。

あまりにも何と説明していいのかわからないのだけれど、
弟が作る物語の数々は、どれも涙してしまいます。
ビックリするくらい残酷なのですが、どれもこれも
この世の本当のことを表していると思います。

何1つシンクロできない。
それなのに涙する本なんて初めてかも。

感想が書けないので
表題にもなった有名な一文をのっけます。

「わたしたちはずっと手をにぎってることはできませんのね」
「ぶらんこのりだからな」
だんなさんはからだをしならせながらいった。
「ずっとゆれているのがうんめいさ。
けどどうだい、すこしだけでもこうして」
と手をにぎり、またはなれながら
「おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、
すてきなこととおもうんだよ。」

児童書・・という説明もありますが、
私は大人にだけ読んでもらいたい童話。

花を運ぶ妹 池澤 夏樹

花を運ぶ妹

花を運ぶ妹

バリでヘロインを購入したところを警察に踏み込まれ囚人となった兄 哲郎
事実以上の罪をかぶせられそうになっている兄を何とか救おうとする妹 カオル
兄弟のそれぞれの視点から書かれた物語

最初はドロドロしていてとても読みにくかったのが
後半に入りグイグイと引き込まれる。
ドロドロしているのは、あまりにもナマナマしいから。
主人公の絶望やイライラが読み手にも移ってしまう。
・・・が、後半に入り私はこの小説をとても好きだと思った。

バリといえば「神が住む島」
カオルの思考のキーワードに「祈る」ということが度々出てくる。
とても惹かれた文

祈りは矛盾しています。
叶えられたとんにそれは神様との取引になってしまう。
電話で注文したお酒が配達されるのと同じことになってしまう。
叶えられる直前までが純粋な祈りです。
だから私は考えます、みんなが安心してしまった今、私の祈りは叶えられたのか
あれは祈りだったのか、と。
たしかにお酒は配達されました。
でもそれは幸運な誤配であって、私が注文したわけではなかった。
私は傲慢でしょうか。
でも、アジアでは、世界のこの一角では、
みんなが欲しいものをちゃんと注文しないでただ誤配を待っているだけなんじゃないかって
気もするのです。
そういう生き方もあるんじゃないかって。

祈りが取引だというのは、感じます。
百度参り、○○断ち、人柱、雨乞いのための・・
昔からあるこの考え方は、私の中にもしっかり根付いていて
何かを得るためには何か失うものを覚悟して
あるいは、何かを得るために、それ相応の努力をして
そうして得ていくのだと思っているところがありました。

しかし遅いながらも30になって、
そういうことばかりではないのだ。ということに気づきました。
祈りが強いほうが叶えられるというわけではない。
捧げるものが大きいほうが、努力が大きいほうが
叶うという鉄則が効かないものがある。

最初それに気づいた時、私は絶望しました。
じゃぁどうすればいいのよ。と。
でも実はやっぱりそれは私の傲慢でした。
何でも自分の力でどうにかなると思っている私の。

すったもんだ悩んだ上に、自分の手の届かないところで動く力を
ようやく受け入れることができるようになりました。
誤配を待つ・・というのかな。
天に任す・・というのかな。
自分で努力することは努力して、後は叶えられなくても怒らない。(笑)  

フィジーな部分を残すということで 少し緩んだ気がしました。
頭やら何やらが。

そういうことを再度考えた一冊。
バリの踊りのことも少し出てきて、興味深い。

南の島のティオ

南の島のティオ (文春文庫)

南の島のティオ (文春文庫)

受け取る人が必ず訪ねてくるという不思議な絵ハガキを作る「絵ハガキ屋さん」、
花火で「空いっぱいの大きな絵」を描いた黒い鞄の男などの個性的な人々とティオとの出会いを通して、
つつましさのなかに精神的な豊かさに溢れた島の暮らしを爽やかに、
かつ鮮やかに描き出す連作短篇集。第41回小学館文学賞受賞。

読んだ後に心温かくなるような一冊でした。
どことなく不思議な話しが続く短編集。

主人公のティオという少年がすごく良い。
妙に大人びたところはないんだけれど、
言うセリフだとか、物の受け止め方が真っ直ぐでステキ

印象に残ったのは「透けて見える大きな身体」に出てくるセリフ。

ティオの友達のアコちゃんは、かわいいからという理由で
天に召されようとしている。
天で暮らすほうが絶対幸福だ。と言い放つ天の者に
ティオは、地上で暮らす方が幸せな理由を説明しなければならない。

「天で生まれたのが天の者だ」ぼくは言った。
「アコちゃんは人の子として地上に生まれた。
人の子の幸福と不幸を身に受けるように生まれた。
それなのに、天に連れていってしまうのはいけないことだ」

ステキなセリフだなぁと思った。
そうだった、私達は人の子として、幸福と不幸を身に受け入れるように
生まれたんだったね。

なんだか、不幸だ、不幸だと嘆いている日常だけれど
あたりまえじゃない。と思えるような気持ちになった。

わたしの出会った子どもたち 灰谷 健次郎

わたしの出会った子どもたち (角川文庫)

わたしの出会った子どもたち (角川文庫)

あまりにも心を打った一冊。
この先 この本は何度も読み返すかもしれない。

タイトル通り灰谷さんが出会った子供たちを通して
灰谷さんが自己を飾りなく見つめていく記録。
大人として、ついついしてしまいがちなことを
甘えず真摯に受け止めていく姿。

この本の中に「ドクサ」という言葉が出てくる。
「ドクサ」というのは、まやかしであり世間体でもあり・・・
うまく説明できないので、灰谷さんの言葉をそのまま借りたい。

「例えば美について言えば、本当にそれが美しいかどうかも吟味しないで、
世間で美しいとしているからそれを美しいと考えているとか、
あるいは何となく自分にそれが美しいように思われるからそれを美しいとしているのでは
美しいと「知った」ことにはならない。
それではまだ知識を欠き、ドクサに支配されているのです」

灰谷さんのこの本には 自分が何を求めているのか。がテーマでもある。
自分が本当に何を求めているかをわからずに、このドクサに支配されて
必死で手に入れたものは、それはやはり真の物ではないので
決して満足できないだろう。という文がありました。

世間でこういうものが幸せだと言われている。
それにガンジガラメになっている自分を思いました。
もちろん、それが本当に私が求めているものである可能性もあるけれど。
それがドクサであることをしっかり疑ったことがあったかな。と

日々は忙しいし、情報は多量に入ってくるし、
何だかどんどん鈍くなってきていることを感じるこの頃。
私は本当は何を得ることが「幸せ」だと思っているのだろう。
その手段にこだわりすぎていないかな。
そんなことを思いました。

灰谷さんも、まだ「本当に求めているもの」はわからないそうです。
だから、考えすぎるのも何なんだと思うけれど。
忘れられない言葉となりました。