生々しさについて5

悪事や不道徳を減らす試みについて考えてみたい。


この問題を考えるには、ハード面とソフト面の二つの面から接近する必要があるだろう。ハード面とは、人間の置かれる環境のことであり、人間関係もここに含まれる。ソフト面とは、個人の内面のことである。


今回は、ソフト面から考えてみよう。悪事や不道徳を減らす解決策は、このソフト面に限っては、とても単純である。ただし、単純だからといって容易というわけではない。悪事や不道徳を減らすためのソフト的な解決は、個人個人が、「自分は自分、他人は他人」ということを徹底的に意識して生きることである。一言で表せば「利己主義の徹底」である。自分の人生と他人の人生は異なるということ、他人の人生が素晴らしいからといって、自分の人生が惨めになったり素晴らしくなったりはしないということを自覚することである。他人の人生は、自分の人生の良し悪しに無関係なのだから、妬んでも無駄だし、嫌がらせをしたとしても無益である。こうした自覚が多くの人に芽生えれば、悪事や不道徳な行為は、大分減少するだろう。
もちろん、減少するのであって、完全に無くなるわけではない。世の中には、自分の利益とは無関係に、他人に嫌がらせをする人がいる。この種の病的な人をいなくすることはできない。したがって、ある程度の悪事や不道徳は、解消できずに残る。自分の利益のために不正を行う人もいなくならないだろうし、長期的な視野に立てば損失でしかないような選択肢を選んでしまう人もいなくならないだろう。また、情報不足故の意図せざる不正もあるかもしれない。


以上の考え方は、「自分さえ良ければよい」という考えに近い。しかし、近いだけであって、同じではない。


ところで、自分にとって良いこととはどんなことだろうか?まずは、衣食住が充実していることが重要だ。衣食住が充実しているためには、生産と流通が充実していなければならない。つまり、製品の品質と生産性が高く、経路が整備されているということである。経路も様々な製品によって形成されるのだから、経路の充実には、生産の充実が必要である。言い換えれば、良い生産者と良い生産環境と良いメンテナンス、これらが長期的に継続されることが必須である。良い生産者の育成には、良い教育制度が必要であり、良い生産環境のためには、良い労働環境や労働のための諸制度が必要である。これらが長期的に持続するためには、社会を良好に維持しようとする意志と仕組みが必要である。

何が言いたいかというと、「自分さえ良ければよい」という生き方を実現するためには、自分以外のあらゆる人にとっての「良さ」を実現させなければならないということである。これがおそらく、合理的な利己主義であり、言い換えるなら、正しい利己主義なのだと私は考えている。


正しい利己主義の普及が、どんな道徳教育よりも有益である。これが、現時点での私の仮説である。

個人主義と利己主義は、取り違えられることの多い言葉である。それぞれの対義語とセットで覚えると間違いは減るだろう。個人主義全体主義、利己主義⇔利他主義である。自戒としたい。

生々しさについて4

他人の心の痛みを想像する。これは、差別やヘイトスピーチを無くすために必要なことだと思われている。少なくとも法務省は、そう思っているようだ。

ただ、残念なことに、他人に嫌がらせをしたり、差別をしたりする人は、他人の心の痛みを想像できる。想像できるからこそ、相手の嫌がることを計画できるのだ。仮に、彼らにそういった想像力が欠如していた場合、彼らは、差別の対象となる人にバラの花束をプレゼントしたり、口座に10万円振り込んであげたりするだろう。他人がどんなことで傷つくのか想像できないのだから、トンチンカンなことを実行してしまっても不思議ではない。

犯罪者には善悪の区別がついていない。こうした意見を唱える人もいるけれど、同じ理由で、犯罪者の多くは善悪の区別ができている。できているからこそ犯罪を隠そうとするし、警察から逃げたりするのである。

義務教育では、道徳の授業が本格的に始まるらしい。そこで意図されている道徳は、やはり「善いこと」を教えることが狙いのようだ。誰もが子供だったことがあるはずなのに、大人になると子供の頃のことを忘れてしまうらしい。子供は、善悪の区別がつかないからいじめるのだろうか?善悪の区別がつかずにいたずらするのだろうか?

いたずらもいじめも、ある行為がいたずらやいじめであると自覚していなければ成り立たない行為である。差別も犯罪もそうである。世の中のほとんどの悪事や不道徳は、自覚した人によって行われている。だから、善悪の区別を教えたり、相手の気持ちを想像させたりすることに、善行を促進する効力があるとは思えないし、悪行を減少させる効果があるとは思えないのである。

では、世の中の悪事や不道徳を減らそうと願う人は、何をすれば良いのだろうか?

生々しさについて3

他人の気持ちになる、これは比喩表現だ。他人の気持ちは、どこまでも他人のものなので、自分のものになるはずがない。そして、自分が他人になることもありえない。しかし、「他人の気持ちになって考えろ」などと言って、他人に注意を促す人は多い。

ヒラリーの言葉が届かなかった人がいて、トランプの言葉が届かなかった人もいた。言葉が届かなかった理由は、おそらく生々しさの欠如である。ヒラリーの言葉は、知識人や文化人には生々しい言葉だった。トランプの言葉は、それ以外の人々にとって生々しいものだった。

日本のテレビでは、時折、トランプ支持者の教養の低さや情報取得能力の低さが指摘されている。私もその指摘自体は間違っていないと思う。しかし、教養が低いから、情報に通じていないから、といった理由でトランプを支持したわけではないだろうとも思う。支持者達も我々と同じように普通に働き生活しているのだから、我々と同じような常識を持っているはずだ。そうでなければ、庶民として真っ当に暮らすことなんてできないだろうから。

彼らがトランプを支持した理由、それを一言にまとめれば、トランプの言葉が、彼らにとって生々しかったからだろう。リアリティがあったと言い換えてもいい。彼らがヒラリーを支持しなかった理由も、やはり彼女の言葉にリアリティがなかったからだろう。

自分の言葉にリアリティを持たせるには、冒頭で言った「他人の気持ちになる」ことが必要だ。もちろん比喩で言っている。他人の気持ちになるとは、他人の置かれた状況に自分が立った時のことをできるだけ正確に想像することである。そのためには、他人の状況を正確に分析して理解しなければならない。正確な分析と理解、これは、誰にでもできることではない。研究者になるべく訓練を受ける、企業したり組織運営したりしてトライ&エラーの連続の中で学ぶ、等々という経験を経なければ身に着けられないであろうスキルである。つまり、ヒラリー支持者の少なくない人々が身につけていたであろうスキルである。

トランプもヒラリーもこのスキルを持っているに違いない。前者は、経営者やタレントとしての経験から、後者は、大学院生や政治家としての経験から、このスキルを身につけているはずである。そして、前者は、このスキルを人気獲得のため最大限活用し、後者は、このスキルを人気獲得のため少しだけ活用した。それが今回の選挙結果である。

私は、トランプが好きではない。でも、ヒラリーは明確に嫌いである。さらに、ヒラリー支持者のことも嫌いである。その理由は、他人の置かれた状況を正確に分析し理解するスキルを持っていながら、それを満足に活用せず、トランプ支持者なる人々を生み出したからである。加えて、トランプ支持者達が、なぜトランプを支持しているのかを未だに分析しようとしていないからである。馬鹿な奴らがトランプを支持した、そのような全く知的でない分析しかできないのであれば、ヒラリーを支持した人々も馬鹿な奴らということになるだろう。しかも、十分な教育を受けてもなお馬鹿なままの奴らということになる。トランプ支持者よりも酷い有様ではないだろうか?

生々しさについて2

トランプ支持者には、白人中流層と白人の低学歴者が多いらしい。これが事実として、ここから有益な情報を引き出せるか否かは、実はそれほど明確ではない。中流層の人々というのは、収入がそこそこで、今や安定を失いつつある人々だと言われる。だとすると、自己評価と他者からの評価との食い違いが、かなり大きな人達かもしれず、社会への不満は強いかもしれない。だからといって、ヒラリーを支持しない理由にはならない。また、低学歴というのは、日本で言えば、中卒や高卒が最終学歴の人々を指し、米国でも意味合いは大きくは違わないことだろう。彼らは、新聞やテレビのニュースを余り見ないらしく、トランプ政権の真実を知らない人々とされてもいる。だが、彼らが仮にヒラリーを支持していたとしても、それは、客観的な情報を根拠とした支持ではないという点は変わらないはずで、事実を知らないからトランプを支持したとは断言できない。誰を指示するにしても、彼らは、候補者の言葉を鵜呑みにすることに変わりはないと言えそうである。それに、低学歴とは、低知能のことではないし、世間知の欠如した人々のことを意味するわけでもない。

私は、米国大統領がトランプであるという事実を恐れているわけではない。もちろん、面倒くさいことになったとは思っているし、彼のせいで私が損をするのは嫌だなあとは思っている。だが、本当の恐怖は、トランプとトランプ支持者に敗北した人々、つまり、「理性的な」人々が、自分達の敗因をつかめていないようであることなのだ。「トランプ支持者は、白人中流層と低学歴者だった」という分析が事実だとしても、この点に着目してしまうこと自体、敗因から目をそらしているかのように、私には見えるのである。

例えば、白人中流層は、非白人に対して差別的であるかもしれない。しかし、「非白人だから」という抽象的な理由で移民を排除することに同意しているのだろうか?これは、非常に複雑な問題なので、ブログで気軽に扱えるものではないのだが、私の考えでは、差別には、大雑把に2種類ある。ひとつは、理念先行の差別であり、もうひとつは、実体験先行の差別である。前者は、「白人だから優れている」「非白人は罪を犯しやすい」などといった、妙な理論を信奉する人々による差別であり、宗教に基づく差別もここに分類できる。後者は、「就職活動でポストを移民と競った結果、敗北した」「自分が解雇された翌日、インド人が自分の後釜に据えられた」といった実体験が根拠であるような差別である。これも、帰納法や標本調査を誤用した結果芽生えた差別意識でしかないかもしれないが、当人にとっては、前者よりも切羽詰った差別意識と言えるだろう。

もともと、差別に合理的な根拠など無いのだが、ここで重要なのは、差別する側の視点であり、差別するようになった経緯である。彼らの差別意識が抽象的な理念に基づくものであれば、抽象的な理念に基づく平等主義を説けば、分かってくれる日が来るかもしれない。しかし、実体験に基づく差別意識に対しては、実体験を引き起こした要因を除去するのでなければ、その意識を変えるのは困難だろう。その実体験に対する彼ら自身の評価が、因果関係を捉え損ねた、非論理的なものだとしても、彼らが職を失う不安や失った敗北感を抱いていることは事実である。差別意識の払拭は難しいかもしれないが、生活不安の要因を取り除く具体案であれば、1つや2つ示せるはずである。実際、大学無償化を提案したサンダースは、かなりの支持を集めた。「理性的な」人々は、彼らの不安や敗北感を誠実に受け止めただろうか?それとも、「世界の抱える問題」という大きくて曖昧な問題に対処することに情熱のほとんどを傾けてしまってはいなかっただろうか?

低学歴層の人々は、確かにニュースを見ないかもしれない。だからといって、自分に都合のいい言葉ばかりを鵜呑みにするのだろうか?彼らが他人の言葉を鵜呑みにする集団であるのなら、彼らの人生は騙され続けた人生だったに違いない。振り込め詐欺で100万円失った一年後に、証券詐欺で50万円失い、夫だと思っていた人は、もう1つ家庭を持っていた、そんな人生だったことだろう。それにも関わらず、他人の言葉を鵜呑みにできるのだとしたら、タフな精神の持ち主である。そんな人々から少なくない支持を得るトランプは、只者ではないに違いない。・・・・・・それにしても、本当に、彼らは、自分に都合の良い言葉ばかりを鵜呑みしてしまったのだろうか?彼らは、そんなにも世間知らずのお人好しだったのだろうか?

恐怖!人工知能男

 機械に仕事を奪われる。人工知能に仕事を奪われる。どちらも短期的・中期的な出来事としては起きたであろうし、起きるであろう出来事だ。なぜそんな悲劇が起きるのかといえば、人間の労働力も機械や人工知能の労働力も商品だからである。正確には、機械や人工知能の場合は、労働力とは言わない。ついでに、商品の値段が下がることが、決して良いことではないという理由も、人間の労働力も商品だからだ。

 機械も人工知能も、1つの仕事を丸々人間から奪うということはしない。例えば、銀行業の全ての仕事を奪うということはない。投資先を考えるという銀行業の仕事の一部を奪うことはあるかもしれない。あらゆる医師の仕事を奪うということもない。診断という医療行為の一部を奪うことはあるかもしれないが。

 機械が人間の仕事を奪うためには、まず、分業とか協業とか、1つの仕事をバラバラに解体する試みが必要だった。当たり前だ。人間のやっていた仕事を丸ごと奪うためには、人間と瓜二つの機械仕掛けの人形が必用だからである。でも、現代だって、完璧な機械人間は実現していない。だから、仕事をバラバラに解体し、機械でも請け負えるような形態に変える必要があった。人工知能が仕事を奪う過程も同じだろう。まず、人間の仕事をバラバラにしてみて、人工知能に委ねられそうな部分を委ねることになるだろう。

 その際、どのような仕事が人工知能に任されるのか?それは、「人工知能に仕事を委ねることで発生するコスト<人件費」となる仕事、かつ、技術的に人工知能に置き換え可能な仕事だろう。だから、低賃金の仕事は、今までどおり人間が行うことになるはずだ。それと、人間がやることに意味がある仕事は、人工知能の脅威から守られる。

 今のところ、人工知能の新しさのお陰で、囲碁や将棋での人工知能の活躍が注目されているが、「記録と計算を専用とする機械なんだから、人間より強いのなんて当たり前だろ」と人々が思い始めれば、注目度は下降してゆくことだろう。戦車の方が人間よりも堅い、空手チョップよりも日本刀の方がよく斬れる、電卓の方が人間よりも計算が速くて正確、といった考え方が、人々を何ら驚かせはしないのと同じである。

 仕事の中には、人間が実行することで始めて意味が生まれるものがある。チーターが100メートルをオリンピック記録よりも優れたタイムで駆け抜けたとしても、人間が同じことをした時よりは驚いてもらえないし、評価してもらえない。コンピューターが一晩かけて円周率を50桁まで導き出したとしても、小学3年生が徹夜して円周率を20桁まで導き出したときのような感動や賞賛は得られない。人間は、基本的に可塑であり、何が可能で不可能なのかが未知である。だから、赤ん坊が初めてハイハイした時も、初めてつかまり立ちした時も、周囲の大人は感動する。ハイハイもつかまり立ちも大抵の人間はできることなのに、感動してしまうのは、「出来ないかもしれない」という不可能性が常に人間にはまとわり付いているからだ。

 機械や人工知能には、可能性しかない。いや、違うな。可能性というよりも定まった結果以外無いと言ったほうが良いだろうか。また、チーターや蟻などの人間以外の生物にも、やはり不可能性は無い。この「不可能性を乗り越えてみせる」という行為を必須とするような仕事は、人間の仕事であり続けるのだろう。例えば、どんな仕事が挙げられるだろうか?今のところ、「芸能」「スポーツ」くらいしか思い浮かばない。もっとたくさんの具体例を挙げられるようになることが今年の課題であるな。

生々しさについて1

 私は、トランプ勝利が、彼の勝利によってもたらされたものではなく、ヒラリーに代表される「良心的」知識人の敗北によるものだと思っている。では、どうして「良心的」知識人は敗れたのか?それは、生々しさの欠如なのだと思う。そんな話を前回もしたが、今回は、生々しさについて考えを深めたいと思う。
 私が人々の言動に生々しさを感じるのは、その言動が当人の経験に裏付けられていたり、よほどのことでもない限り取り下げるつもりのない価値観に基づいたものだったりする場合である。つまり、本気の言動に生々しさを感じるのである。だから、血の付いたナタを手にした大男が「ぶっ殺してやる」と言えば、そこには生々しさがあるし、今手持ちの現金を失ったら自分の工場が倒産してしまうという状況にある町工場の社長が、金融会社に借金取立ての延長を願って土下座しているとしたら、その土下座にも生々しさがある。
 私から見て、テレビのコメンテーターをするような知識人は、社会の様々な問題に言及する能力のある優秀な人であると同時に、社会の様々な問題に言及する程度に移り気で、本気さの足りない人である。もちろん、彼らは生活のためにコメントしているのであり、多種多様な問題に対してコメントできなければ、生活の糧を失ってしまう。それに、彼らは心のそこから社会を良くしようとしてコメントしているのかもしれず、彼らの本当の気持ちは、誰にも分からない。それでも、やはり、多種多様な問題にコメントできてしまう姿勢は、彼らの持っているかもしれない本気さを殺いでしまうように思うし、世界の中で私ひとりは確実にそう感じている。つまり、良くも悪くも余裕があるように見えてしまうのだ。
 テレビのコメンテーターだけではない。新書で次から次へと著作を発表しているような知識人も、やはり、八面六臂に活躍することでかえって1つの問題を追究しようとはしていないかのように見えてしまう。社会派の芸術家、社会派の俳優、そういった人たちにも同様のことが言える。

 安全な場所から様々な警鐘を鳴らしても、その音色に生々しさは宿らない。もしも、トランプ支持者たちが私とよく似た考え方や感じ方をする人々であるのなら、テレビや新聞を通じて、本来であれば頼りになるはずの人々の本気の無さ、生々しさの欠如を味わい、結果として、彼らに不信感を抱くようになったのだろう。「本気で問題を解決しようとするならば、その問題のためだけにヘトヘトになり、四方八方の分野で活躍することは物理的に不可能なはずである。」そんな風に思ってしまい、そうではない人々を信じられなくなったのだろう。戦争、差別、貧困、これらは人類の歴史とともにあり続けたようにすら思える問題であり、非知識人であっても、解決困難であることは理解できる。いや、彼らにとって、こういった問題は身近な問題で、しかも、簡単には無くならないことを実感できてしまう問題だ。そうだとすれば、戦争にも差別にも貧困にも、加えて、日々の窃盗や殺人といった犯罪にも言及できてしまう知識人は、きっと問題を解決するつもりはないのだろうと思えてしまったのだろう。
 
 では、トランプ氏は本気なのか?このことについては、次回考えてみようと思う。

彼らは何に失望したのか

 トランプ氏が大統領選で勝利した。文化人、知識人は失望したり、当惑したりしている。僕にとってトランプもヒラリーもどうでも良い存在ではあるが、ヒラリーを嫌った人たちの気持ちは、何となく分かる。それは、洗練された人々に対する「きれいごとぬかしやがって」という気持ちではないか?トランプを支持したのが、中間層とそれ以下の層の人々であるのなら、彼らにとって差別や貧困は、ひたすら現実である。また、洗練された人々と比べて、自分たちの方が、差別や貧困を知っているという自負もあるのではないか。
 がんばっても成功しなかった人にとって、「がんばればきっと大丈夫」という言葉は、この上ない暴言かもしれない。差別する以外に自分らしさを確保できない人にとって「差別は悪」という断言は、聞く意味のない言葉かもしれない。あるいは、日常の軽口のなかに多様な差別語がちりばめられているような人々にとっては、自分たちの言葉を奪う暴力ですらあるかもしれない。
 洗練された人々は、彼らの敵を知ろうとしなかった。守るべきか弱き味方のことを実は知らなかった。彼らの敵も味方も彼らにとっては余りに小さい存在だった。だから余計に理解しようと思えなかったし、そもそも見落としていた。彼らの敵は、大企業や独裁者や官僚であって、町工場のオヤジや下町のチンピラではなかった。彼らの味方は、大学教授や世界的アーティストであって、飲んだ暮れのトムやあばら家住まいのナンシーではなかった。
 洗練されてくると、人は、「世界」という言葉を多様する。世界の貧困、世界の差別、そういったものを解決しなければならないと主張するようになる。でも、貧困も差別も、世界に在るものではない。貧困も差別も隣近所のボブとジャックの間にある。世界の貧困を解決しようとする前に、知人の貧困を解決することが、実は重要だったのだろう。世界の差別を解決しようとする前に、路上で見かけた差別を解決しなければならなかったのだろう。もちろん、そうした活動に従事している人は多数いるけれど、それではまだ数も資金も足りていないのだ。
 システムを構築すれば、効率良く大量の人々を助けることができるかもしれない。しかし、システムは、人と人の距離を遠くし、言葉を届きにくくする。遠くに居る人のことは理解できないから、言葉も通じ難くなる。例えば、デモ行進も、システマティックである。直接対象を救うのではなく、世界を通じて間接的に救おうとする意味において。間接的な活動は、100年後の貧困を撲滅するかもしれないが、来週の家賃については無関心である。
 結果として、システムは、トランプ支持者を増やした。いや、洗練された人々への嫌悪感を増大させた。効率良く大量の人々を助けたのかもしれないが、誰をどんな風に助けたのかは、分からないままなのである。