コメントについて

性暴力に理解のある方、かつ管理人と友好関係にある方のみが本館におこしください。
本館の安全をはかるために設けたのがこちらの別館です。

どういう考えを持つのもご自由ですが、対話するつもりがない方とは対話しません。
幼児教育くらいから話さなくてはならないのなら、それは私の仕事ではないからです。

いかなる信条の押し付けもお断りいたします。
特に政治信条からくる頑迷な現実否定はお断りいたします。

※あまりにひどい内容、理解しようという努力、対話する姿勢が感じられないコメントは、本館と同じくお断りさせていただきます。
※ご自分の問題や、ご自分の気持ちをぶつけるのはご遠慮ください。特定の政治信条の押し付けも同じくお断りいたします。


本館の方では、遠慮なく管理者権限を発動しております。対象となった方は反省なさることを願います。

自分のことを語ることのむずかしさ

ときどき、自分を隠して生きているようで疲れてしまう。
ぼかしたりフェイクをいれたりせず、自分にあったこと、自分がそのときどういう状態だったか、
どうしてそういう対応をせざるをえなかったのか、
今にして思うとこういうことだったのだ、と、「私のストーリー』を紡ぎたいときもある。
書きたい、誰かに聞いてほしい、と思うこともあるけれど(主にセラピー目的)、

なにより特定されるのが怖くて書けない。
加害者や加害者親族、二次というより三次加害者が怖い。


それもあるし、当時の私におきたことを、今の私が語ることによって、
もちろん被害者ではなく加害者に暴力の責任はあるのだけれど、
完全にそうは思うことができていない時期というのが結構私は長かったので、今そういう思いがある他の被害者の方にどう思われるか、強い不安がわきおこり、書けない、となる。
傷つけるつもりはなくても、聞いたら傷ついたり反発したくなる気持ちがわきあがるんじゃないかって思ったりする。
少なくとも以前の私ならそうだった。


相手の気持ちの責任までとらなくていいとは思う。
そんなことしてたら何も語れない。
思うけれど。
頭ではわかっているつもりでも。

過去の自分のことを考えるとなかなかそこまでできない。


私がなぜあの頭のおかしいサイコパスのターゲットになったのかとか、自分を責めることなく今は理解できるけれど、それを語っていくには私の性格形成や生い立ちなどにもふれることになる。そしてそれはあくまで「過去の私に起きたことを、今の私の視点から見て、こう思う」ということなのだけれど、
性格とかその言葉自体で拒否反応がおきることだってあるだろう。

私がそういうことを考えているのは、性被害だけでなく、自分の生育環境や性格、価値観がどうだったか、を考えざるを得ない状況に今あるからだ。
性被害だけが私の人生ではないのであり、私の人生を私は見きわめ総括しないと前に進めないことだってもちろんある。



被害者だけでなく加害者もいろいろで、
あくまでも、私に危害を加えた加害者がどうして私にあれだけ執着したのかとか、考えて考えて、いろいろ調べたりもして(頭痛と震えを感じながら)私なりにある程度考えはまとまってはいる。
けれど、だからといって当時の私にはどうしようもなかった。
あのときああしていればとか、こうしていればとか、そういうふうにあれこれ考えたりはしない。
被害者はあのときああしていれば、こうしなければ、と、とてもささいなことでも自分を責めることが多い。実際に私もよく聞く。
私の場合、突然被害にあったわけではないためか、ずっといつ殺されるかわからないという恐怖で過ごしていて、事件(私にとっては殺人未遂だが)が起きた、というか加害者が犯罪をおこしたわけで、ある意味、加害者から逃げる、あるいは加害者が自発的に去るべく、できる限りのことをした結果だったから、ああしていればこうしていれば、とはあまり思わない。逆にどういうふうにしていても結局はああいう結果になるしかなかった、と思う。
恐怖と混乱の中、できる限りのことはやった。そう思う。誰でも同じ状況に置かれたらそうすると思う。

結局、狙われたら最後、なのだ。
だからなぜあんなにも異常な人がうろちょろと世の中にふつうにいるわけ?犯罪いっぱいやってるのに、と、加害者のことを知るにつけ恐ろしさも感じめまいどころでない倒れるほどのショックを何度も経験し、よりいっそうの恐怖を感じた。
そんな加害者が当たり前に私たちまともな人間と同じ社会で生活している、そのこと自体が、そもそも異常すぎる現実だった。私にとっては。

私の場合、加害者の「異常度」が突出していたように思う。そりゃそうだ、サイコパスなんだから。
もちろん性暴力の加害者は全員、正常だなんて全く思えない。全員異常だとは思うが、なんというか、わかりやすい異常性、といえばいいだろうか。前科もたくさんあり、闇の世界とつながっていてーという。
あのときの私にはどうしようもなかった。
あんなに異常な人が存在するということさえ知らなかったし、異常だからどう対応しても結局はむこうが自発的に納得するしかなくて、要するに「あきらめてもらう」のを待つしかなかった。
なんで「もらう」なんて屈辱的な言葉を使わないといけないのか、苛立たしいが、現実はそうだった。
どんな人間関係でも、どちらかが距離を置こうとしたり、接触をたとうとしたりする、というのは当たり前にありうることで、それを普通の人は受け入れるのだ。やり方や形はさまざまであっても。
それが、加害者は違う。何が何でも受け入れない、自分の思うとおりにしか行動しない、自分以外のことも自分に決める権利がありそれに従うのが他の人間だと本気で思っている。話し合いなんて成立するわけなかったのだ。穏便な解決法なんて存在しなかった。

当時のことを思い返してみると、
普通の人のようにいくら誠意をつくして気持ちを伝えて丁重にお断り申し上げても、逆にきつくはねつけても、思い切って無視しても、
加害者は自分の思うとおりにしないと気が済まないのだから、つきまとい続けるし暴れるし、私の関係者を脅迫したりと、今度は他の人に迷惑がかかる。
私のたとえば職場とか実家とかも何もかも知られてしまっていて、身動きがとれなかった。
もちろん最初は正常な人であるかのようにふるまうのだから、つきまとわれ続けている間に何も知られないようにするというのは無理だ。仮に私一人がそうしたとしても、他の人をおどしたりもしくは何らかの不正な手段をつかって情報を手に入れるなど簡単なことだ。なんのハードルもない。捕まったら困るとか追及されたら困るとか考えないのだから。異常者なのだから。犯罪のプロでもあるのだから。

いったいどうすればよかったのか?
防ぎようがなかった、としかやはり言いようがない。
加害者が刑務所にいればもちろん私はストーカーされることもなかった。加害者に目をつけられることがないのだから。
当時はストーカー防止法もなく、まあ仮にあったとしても、警告されたところで逆上するだけで、全く警察の介入なんて加害者は意に介さなかっただろう。ただ私が思い通りでないことをしたという、思い通りに支配できるはず、支配していいもの、自分の所有物と思いたい(もしくはすでにそう思っていたか)「オンナ」が、ささやかな反抗をしたから、逆らっていいはずはない、絶対君主である自分の力を思い知らせてやる、という感じで暴力はエスカレートして、決して終わらなかっただろう。
やはり同じ結末でないと終わらなかった。

そして被害者は私だけでなく、たくさん―ほんとうにたくさんいた。
なぜなら加害者は自分の行動を決めるのは自分だと思っている。そしてほかの人間にもそうする権利があることは理解していない。全く。
だから自分を恐れ嫌う相手のことは生意気な虫けら、としか思えなかっただろうし、
ましてや自分が気に入った「オンナ」が自分の思い通りにならないなんてそんな現実に生きることはできない。だから、暴力という手段に訴える。言うことを聞かせようとする。
そしてそのまま監禁したり、あるいは自分に逆らう「生意気なオンナ」を成敗してやった、と自分を納得させ、「他の人間にも意思がありそれは尊重されるべきである」という当たり前の現実なんて存在しないかのように、決めるのは何もかも自分一人だということを確認するために、犯罪をつぎつぎ重ねていく。

    ※加害者にとって女性は「モノ」でしかないから「オンナ」と表記した



誰も、どんな権力もとめることはできない。
できるとしたら、刑務所に入れておくことが唯一の方法。
被害者を出さない方法。

裁判の傍聴などで、やたらと「働く」ことが更生、とでもいうような風潮が当たり前に存在しているように感じるのが気にかかる。刑務所の中でも刑務所の外でも、働きさえすれば更生、と本気で弁護士も裁判官も思っているのではないか。

いやむしろ社会と関わらないでほしいんですけど。
遊んでていいので、懲役とか別にしなくていいので、とにかく隔離しておいてください、というのが私の本音だ。頼むから一般社会に出てこないでくれ。できれば死ぬまで。
性暴力加害者の治療プログラムは必要だとは思う――が、加害者のようなサイコパスが一人いると、治療プログラムそのものをめちゃくちゃにすることも多いようだ。少なくともアメリカでは実際にサイコパス研究者によってそう報告されている。
さもありなん、と加害者を(知りたくもないのに)知っている私は妙に納得してしまう。

他のもしかしたら治療可能な(本人たちが治したい、加害行為をやめたいと思わなければ意味がないし、よい印象を与えるために自分が変わるつもりなんて全くないのに取り組んでいるフリをしたりするやつだって多い)
加害者にさえも悪影響を及ぼすなんて、本当にもう、刑務所でさえ悪をまきちらしているわけだ。

考えると脱力感と無力感におちいる。そして頭痛がし、胃が痛くなり吐き気がする。


まあ日本の場合、刑務所内の加害者の治療だけ進めてても意味がないと私は思う。
ないよりまし、みたいな。
裁判所命令でずっと通うようなシステムがなければならないし、やっぱりGPSで追跡してほしい。

なにより保護観察が日本の場合、ボランティアにやらせていて、行方をくらませても保護観察違反とかにはならず放置されるだけなので(どうやら少しずつは変わってきているがボランティアというのは変わってないし変わるつもりもないように思える)
どうしようもない。
雇用の創出のためにも、保護観察官を、訓練をうけた職業として確立してほしい。保護観察を仕事とする人間がいるかいないかでは大きな違いが出る。
ボランティアの方には申し訳ないが、善意では対処できない犯罪者がいるのが現実なのだ。素人理論の説教なんてなんにもならない。専門家でさえサイコパスには全く歯が立たないといっていいくらいだ。


今ここで書いたようなことがずっと懸案事項として、加害者への恐怖として、私には現実でありとても身近で逼迫した問題なのだけれど、
もちろん世間はそうじゃないから、
自分がひとり世間の感覚からずれているような気持がして、自分がとてもダメな人間のように感じることさえもある。

性犯罪は警察にいけないのが殆どで、行ったとしても殆ど不起訴になるので、起訴されただけよかったじゃないと言われればなんとなく居心地悪く感じるが、なんとなくやっぱり、刑事裁判をしていないからわかってもらえない、と感じることも被害者どうしでもある。
警察でひどい対応をされたとか、不起訴になったとか、そういう人はある程度現実を身をもって知っているからわかってもらえることも多い。

起訴された人が殆どいないからそもそも人数が少ないし、
なんとか起訴され刑事裁判になったにしても自由に何かを言ったり書いたりすることはむずかしい。こういったブログとかも、裁判に影響するからとストップかけられたりするし、被害者はかなりの制限をかけられる。裁判になり裁かれたぶん、報復も怖い。
なにより、刑事裁判になったということは、特定されやすいということでもあるのだから、それがなにより怖い。
というわけで私と同じような立場で情報発信するというのはかなりハードルが高い。
このブログを始めたときもものすごく怖かったし今もこわい。


刑事裁判しても、むしろ裁判後とかは普通にくらしたい、以前の生活に戻りたい、と、性被害に関することから遠ざかりたい、と思うことが多いのではないだろうか。かつて私もそうだった。結局はなかったことにはもちろんできなかった。普通の日常が送れなかった。どんなにもがいても。
そんなこんなで、今私はこうして、つらつらと書いているわけだ。そしてこれからも。願わくば。

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緊急避妊ピル、ノルレボの承認めざしてパブリックコメントを出しましょう


海外では、緊急避妊専用のピル、ノルレボ錠がありますが、日本では承認さえされていません。
二種類の中用量、高用量ピルで代用するしかないのです。身体への負担が大きく、副作用もあります。

しかも、性暴力被害にあった場合、レイプクライシスセンターもなく(ようやく数ヶ月前に大阪に民間のSACHIKOが、愛知県に警察の試験的運用としてワンストップセンターがつくられましたが)、必要なケアを受けることができません。


交通事故や犯罪被害などで、怪我をしている場合は、病院で医療を受けることを優先するのに、
警察は、性犯罪となると、告訴するということを決めていない状態では、病院に連れて行くことさえしません。
緊急避妊は当然の医療ケアとして扱われていないのです。
親告罪だとか告訴だとか、ふつうはなじみのない生活を送っていてわからないことだらけですし、被害直後の混乱した状態で威圧的に言われても逃げ出したくなるのが普通だと思います。ひどい話を沢山聞きます。
警察を経由せずに病院に直接行った場合なども、ひどい対応をされたという話もたくさん聞きます。


こうした現状を変えるためには、
緊急避妊がもっと当たり前のこととして、当然のこととして認められる必要があります。
また、性犯罪被害がどれほど多いのかも認知されていないために、すぐに承認にされないのだと思います。
他国のようにいつかドラッグストアなどでも処方箋なしでも入手できるようになるためには、まず今の段階で承認させなくてなりません。


パブリックコメントは数がものを言います。
数で、承認してほしい、承認反対、が決まるようなものです。
簡単な一言でいいですので、ご協力お願いいたします。


パブリックコメントでは、性犯罪被害にあったということは特に言う必要はありません。
自分の大切な人が被害にあったが、ということでもかまいません。
パブリックコメントは誰が書いてもいいのです。被害当事者でなくてももちろん大丈夫です。
被害のことを言った上で伝えたいというお気持ちの方もいらっしゃるとも思います。
どういった場合も、どうぞお気持ちを大切にされてください。


ご自分の心身の余裕と、お気持ちに無理のない範囲でご協力をお願いいたします。


パブコメはこちらから出してください。
https://www-secure.mhlw.go.jp/cgi-bin/getmail/publiccomment_input.cgi?mailto=norlevo-drug@mhlw.go.jp
件名に、「ノルレボ錠0.75mgの医薬品製造販売承認に関する意見」と書いてください。



JFPA(日本家族計画協会)の、北村邦夫先生に、下記の文章について、転送転載の許可をいただきました。
ぜひ皆様、広めて、緊急避妊ピル、ノルレボを承認してもらいましょう。


JFPAには以前から、緊急避妊のできる病院が全国どこにあるのか等問い合わせに応じるなど、積極的に取り組んでいらっしゃいます。

緊急避妊Q&A
http://www.jfpa.or.jp/cat5/index06.html で、電話で緊急避妊をしてくれる病院を教えてくれます。




●●●●●●●●●●●●●●●●●以下、転送・転載歓迎です●●●●●●●●●●●●●●●●●


北村邦夫@日本家族計画協会です。
レイプされた、避妊できなかった、避妊に失敗したなどに際して72時間以内に服用することで最後の避妊を可能にする緊急避妊ピル。承認に向けた一歩手前で国はパプリックコメントを求めています。「え?」と首を傾げたのは言うまでもありません。
緊急避妊ピル(ノルレボ錠)も低用量ピルと同じ運命を辿ろうとしているのです。できましたら、このメールを他のメーリングリストなどにもご紹介ください。ご質問などございましたら、北村宛(kitamura@jfpa.or.jp) 遠慮なくお問い合わせ下さい。


以下、サイトにお入りください。(PDFは添付)
http://search.e-gov.go.jp/servlet/Public?CLASSNAME=PCMMSTDETAIL&id=495100233&Mode=0

低用量ピルの時もそうでしたが、承認反対派などが、このパプリックコメントに驚くほど多数の意見を寄せ、承認審議を先送りせざるを得なくなったという忌まわしい過去があります。僕としては、どうしても、そのような動きを阻止したいのです。
できるだけ簡単な意見(例、「○○です。緊急避妊を早急に承認してください」、「○○です。レイプ被害に遭った女性を苦しめたくない」など)で結構です。下記宛お送りいただけないでしょうか。サイレント・マジョリティの汚名を返上して、今こそ行動をおこしませんか? 

(1)インターネットの場合には「厚生労働省・パプリックコメント」からお入り下さい。
*入力フォームの「※件名」欄に「ノルレボ錠0.75mgの医薬品製造販売承認に関する意見」と入力してください。
(2)郵送する場合
〒100-8916 東京都千代田区霞が関1−2−2 厚生労働省医薬食品局審査管理課あて
(3)FAXの場合
FAX番号:03−3597−9535

ご意見は、日本語で、個人の場合は氏名、住所、職業、連絡先(電話番号及びFAX番号)を記載して下さい。(連絡先等は、提出意見の内容に不明な点があった場合等の連絡・確認のために利用します)。なお、寄せられた御意見は、個人を特定することのできる情報を除き、公開されることにつき、あらかじめ御了解願います。


なぜ、今、緊急避妊ピル(ノルレボ錠)が必要なのか?
1.日本では、医師が一切の責任を負って、中用量ピル(プラノバールあるいはドオルトン)を処方し続けてきました。

2.現在「犯罪被害者への医療支援」が47都道府県で実施されており、レイプ被害に遭った女性に対して、緊急避妊ピル(中用量ピル)を無料で提供しています。公に承認された緊急避妊ピルがないにもかかわらずです。

3.多発性骨髄腫の治療薬としてサリドマイドが使われていますが、この女性患者に対しては、必要に応じて緊急避妊ピル(中用量ピル)の提供が義務づけられています。公に承認された緊急避妊ピルがないにもかかわらずです。

4.従来、医師の責任で処方している中用量ピルと、今回承認を待望している緊急避妊ピル(ノルレボ錠)の比較研究を北村が実施しておりますが、その出現頻度をみますと、「副作用なし」(41.4%:94.7%)、「悪心」(55.2%:2.8%)、「嘔吐」(13.3%:0%)などとなっており、ノルレボ錠の安全性は明らかです。レイプ被害に遭った女性に対して、それでも中用量ピルを処方し続けますか?

5.層化二段無作為抽出法によって15歳から49歳の国民男女3000人に対して行った「男女の生活と意識に関する調査」(北村)によれば、直近の調査(2010年10月)でも、既に緊急避妊ピルを使用したことのある女性は46万人を数えています。副作用の強い中用量ピルを服用させていることを残念に思います。

6.そして何よりも、ノルレボ錠を含むレボノルゲストレル(黄体ホルモン製剤)単剤の未承認国は、チリ、ペルー、イラン、アルジェリアアフガニスタン北朝鮮、日本の7カ国が残されているだけです。日本は最後の承認国になるのですか?

7.薬剤でのパプリックコメントが求められたのは最近では多発骨髄腫治療剤「サリドマイド」以来です。同じ扱いですか?

本件については、以下のサイトも役立ちます。
http://www.watarase.ne.jp/aponet/blog/101111.html




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北村邦夫 (Kunio Kitamura)
社団法人日本家族計画協会 家族計画研究センター・クリニック
Research Center/Clinic of Japan Family Planning Association,Inc.
tel 81-3-3235-2694 fax 81-3-3269-6294
中央公論新社婦人公論編集)から新刊発売
『40代からの幸せセックス あなたの「本当の快感」を探す旅へ』ー知らずに女は終われない
『Dr北村のJFPAクリニック』http://www.jfpa-clinic.org/ ブログ更新中
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<追記>
コメント欄にてid:saebouさんより指摘のあった点等について、北村先生からご教授いただきました。

重要な点について喚起いただき、ありがとうございました。
ご親切にお教えいただいた北村先生にも深く感謝いたします。

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緊急避妊ピルについてですが、実は、日本では既に使われているものです。僕自身も緊急避妊ネットワークを組織しており、北海道から沖縄まで実に1500余の産婦人科医が加入しています。緊急避妊が必要になった場合には、03−3235−2638(月から金、10時から16時、祝祭日はお休み)にお電話をいただければ、処方施設の紹介を無料で行っており、昨年度だけでも2千件を超える紹介がなされています。
 このように、緊急避妊ピルが承認されていないわが国で、既に緊急避妊ピルが処方されている不思議さ。既存の承認薬を医師の判断と責任で転用することは法に触れないことになっているからです。そのために、ご指摘のように、トリキュラー、アンジュ、トライディオールマーベロンのような低用量ピルでも、プラノバール、トライディオールなど中用量ピルでも転用してきたのです。でも医師の好意に甘え続けるには限界があります。しかも、通常1錠で済むはずのピルを、2錠(中用量)、6錠(マーベロン)、8錠(トリキュラーなど)も飲まなければならないのですから、吐く、気持ち悪くなるなどの副作用が強く現れてしまいます。ノルレボ錠に比べて、避妊効果も低い。そのために、堂々と、公に使用できる、安全性、有効性が証明されているノルレボ錠を早期に承認してもらう必要があるのです。

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性暴力被害者の行動及び心理状態について

こちらも資料として置いておきます。



秋田セクシュアルハラスメント 二審にて提出され、裁判所の判決に採用された、
フェミニストカウンセラー河野貴代美氏の鑑定意見書

「セクハラ神話はもういらない 秋田セクシュアルハラスメント裁判 」p189〜192より引用

3 性暴力被害者の行動及び心理状態について


(1) 日本では、性暴力被害者の行動及び心理状態に関して、これまで全く知られておらず、関心も払われてきませんでした。最近になってようやく被害者が自らを開示し、現実に何が行われたか、またどのような心理状態にいたかを少しずつ話し始めました。このような実態は、ほとんど当事者にしかわからず、体験そのものの特殊性を考えた時、これは当然のことと思えます。前記1で、被害者の回復にフェミニズムの視点が必要だと述べたのは、自分を責める傾向を持つ被害者に、フェミニズムの視点に立つことによって「あなたが悪いのではない」というメッセージを送ることができるからです。それゆえ、彼女等もフェミニストカウンセラーに対して自らを語り始めたのでした。通底する共通性(後述)はあるものの、行動や心理状態は、事件の内容、その時の状況、個人性によってかなりの違いを見せます。にもかかわらず、被害者の反応(たとえば本判決にいうところの「大声を上げて逃げる」)等については、きわめて通俗的なワンパターンの考え方が形成され、それらがあたかも普遍的な真実のように流通しております。これはまさしく非当事者が作り上げた「神話」です。


(2) まず、被害にあった時の反応は、一言で言えば「何が起きているかわからない」という言葉に集約されます。カウンセラーとして私が聞いてきた被害者の多くもこのように述べています。本件の控訴人Aは「もし、『これからセクハラしますよ。』と前もって言われたなら、NOと言ったでしょう。でも、」いきなり全く予期しない事をしかけられるわけだから、どう反応していいかわからない」と述べています。この非常に単純な言説に、あまりにも単純であるがゆえの見落とされがちな真実が含まれています。その他被害者は、「びっくりする」「オロオロドキドキする」「血が逆流する」「金縛りにあったような」「頭が真っ白になり何がなんだかわからない」などと述べております。このような心理は予期せぬ事態にあった時の一般的な反応として十分に説得力を持っています。

 「何が起きているかわからない」時、人はすぐに次の行動には移れないのです。パッと反応する(例えば「ノー」といったり、相手を押し戻したりする)ことができるという予測は、人が驚愕した時の反応としてまことに不適切だと言わざるをえません。もちろんなかには、反抗や反発ないしは何とか止めさせるためのあらゆる行為をする女性もいるでしょう。しかし、このような反抗や反発をする女性がいるという現実をすべての女性の現実に普遍化するのは誤りで、ましてやこれをもって性暴力(セクシュアル・ハラスメント)の存在そのものを否定するのは、女性の現実を全く無視するものです。


(3) 性暴力の被害にあった女性がどのように行動するか、アメリカの研究を紹介しましょう。

 以下では、強姦の被害者の対処行動について述べることとします。
 アメリカの研究者(A.W.Bugess, L.L.Holmstrom, Coping Behavior of the Rape Victim, Am J Psychiatry 133:4)は、強姦被害者の対処行動を、?強姦の脅迫期、?強姦期、?強姦直後期、の三期に分け、92人の強姦の被害者の対処行動を分析しています。
 ?期に関する被害者の対処行動は、何の戦略も用いなかった被害者34人、何らかの戦略を用いた被害者58人でした。
 戦略を用いなかった被害者のうち二人は身体的麻痺状態、12人は心理的麻痺状態でした。
 戦略を用いた被害者の戦略を分析すると(複数回答)、認識的戦略にとどまった人18人、言語的戦略を用いた人57人、身体的抵抗をした人21人でした。
 認識的戦略とは、その状況に対してとることの可能な選択肢について頭の中で考えをめぐらせ、決定することです。例えば、どうやって攻撃者の手中から、あるいは車や部屋の中から、安全に逃れることができるかについて、考えをめぐらせたり、パニック状態になった男がさらに加害を加えてくることを恐れて、どうやって落ち着かせようかと考えることです。
 言語的戦略とは、その状況から逃れるために、加害者と「どこの学校に行っているの?」等、会話を続けようとしたり、加害者の気持ちを変えるための説得として、「私は結婚しているのよ」と言ってみたり、「主人がじき戻って来るわ」と、加害者を脅そうとしたり、お世辞を使って「あなたは素敵な男だわ、あなたならセックスのためにこんなことをする必要なんてないと思う」と言ったり、言語上攻撃的に「触らないで」と言ったりする等です。
 身体的抵抗とは、その状況から逃れると、あるいは攻撃者を脅かすことによって、強姦を防ごうと直接的な行動をすること(たとえば、ガラスの破片で男を刺そうとする、アパートの外かへ男を押し出そうとする等)です。
 ?期には認識的戦略28人、感情的反応25人(泣く17人、怒り8人)、言語的戦略23人(金切り声を上げる14人、話をする9人)、身体的行動23人、心理的防衛17人、生理的反応(失神、嘔吐など)10人、戦略なし1人、不明8人(総数90人)でした。
 認識的戦略では被害者はしばしば現実の出来事から精神を切り離し、事態に関係のない別な考えに精神的注意を集中させることによって対処し、生き延びることだけに焦点をあてます。加害者の暴力をエスカレートさせないために、被害者が特に精神的に自制して平静さを保つことは一つの戦略であった、とこの研究者は解説しています。
 言語的戦略には、金切り声を上げるというものと、加害者と話をするというものがあります。
 身体的防衛は、格闘する等ですが、被害者が抗い抵抗することがまさに加害者の望むところであり、それによって加害者がいっそう、興奮する場合のあることを知る必要があります。心理的防衛とは、耐え難い感情を遮断するために、認知領野を閉ざすことです。たとえば、ある女性は「こんなことが私に起こっているはずがない」と強姦されていることを否認し、ある女性は「私は本物の自分ではない」と分裂感情を経験しています。
 以上は、強姦の場合についての分析ですが、強制猥褻等、同じ性的侵害行為を受けた被害者の対処行動も、程度の差こそあれ、同様に考えることができます。


(4) ところで、なぜ、被害の実態に反するにもかかわらず、前述のようなワンパターンの「神話的」反応が流通してしまっているのでしょうか。それは、女性の存在が男性によって規定されてきたという事実に尽きると思います。ボーボワールは、『第二の性』(決定版『第二の性』新潮社)で、「女とは何か」という根源的な問いをたてそれに明確に「女とは他者にされたもの」と答えています。つまり、男たちから、社会から女は「こうだ」と言われ、女性もそれを受け入れてきた長い歴史があります。しかし、これが、本来の自己=女性の現実や実感から遠いイデオロギーになってしまっていることに女性たちが気づき「自分とは誰?何者?」と問い始めたのが1960年代後半のフェミニズムの運動です。女性たちは、他者に規定されない、異なった欲求、感情、行動パターンを持つ種々の女性の存在を主張しております。
 女性を規定するなかでも精神分析創始者フロイトの影響は大きいと言わざるをえません。彼はギリシャ語の子宮を意味する「ヒステリー」という症状概念を作り、困難な事態に直面すると突然失神する女性を研究対象にしてきました。フロイトは(と共に社会も)「ヒステリー発作」に関して二重のメッセージを送っています。一つは、状態像は「病気である」というもの。もう一つは、にもかかわらず、ヒステリーや心気症(ヒコポンデリー)は「女らしさ」というパーソナリティに十分に組み込まれていて、場合や事情によって、突然倒れるのは、より「女らしい」とされるという事実です。まことに女性イメージは勝手な憶測や定義のなかで浮遊し、たくさんの「神話」がまかり通ってきました。





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【2011.7.18追記】

平成9年10月〜10年1月末までに全国の警察署で取り扱った強姦及び強制わいせつ事件について、科学警察研究所の防犯少年部付主任研究員の内山絢子が行った調査


被害者の被害時の対処行動では、「大声で助けを求めた」41.7%、「付近の民家や店に駆け込む」6.4%「やめてくれと加害者に頼む」51.5%、「何もできなかった」25.5%


(「性犯罪の被害者の被害実態と加害者の社会的背景」内山絢子 『警察時報』No.11、2000 年)

レイプ・シールド法(強姦被害者保護法)について


「レイプ・シールド法」について、資料としてこちらに置いておく。



「司法におけるジェンダー・バイアス」
第二東京弁護士会司法改革推進二弁本部ジェンダー部会 
司法におけるジェンダー問題諮問会議 編

p261〜262より引用


コラム 

レイプ・シールド法(強姦被害者保護法)    小倉京子/宮園久栄



 アメリカおよびカナダには、「レイプ・シールド・ロー(Rape shield law)」という通称で呼ばれる証拠法がある。それは、性暴力の被害者が訴訟で不利益を受けることを防止する目的で制定された、「強姦被害者保護法」というべき法律である。

 これらは、連邦や州によってその内容や適用範囲(刑事訴訟だけか、民事訴訟も含むか)について違いはあるものの、以下の点でほぼ共通している。すなわち、

(1)被害者が当該性行為以外の性的行為に関わっていること
(2)被害者の過去の性的経験に関する事実についての証拠は排除されるというものである。ただし、以下の場合は除外される。

精子、傷害その他の物的証拠の主体が被告人ないし被告ではないことを立証趣旨とする場合の被害者ないし原告の具体的な性行為に関する証拠
②被害者ないし原告の合意が争点の場合に、被害者ないし原告と被告人ないし被告との具体的性的行為に関する証拠

 なぜ、こうした規定を設けたか。その理由として、以下のような弊害の防止を挙げている。

 第1に、本来、被害者が過去においてどのような性的経験を有するかは、当該具体的な性行為についての「同意」、あるいは、被害者の供述の「信用性」ともなんら関連性はない。被害者の他の性的行為や性的経験についての証拠に証拠能力を認めることは事実判断を誤らせる危険性がある。また、法廷の場においてそれらを問題とすることは、不必要に被害者のプライバシーを侵害するおそれがある。

 第2に、被害者の性行動や過去の性経験に関する証拠を捜査の過程で収集したり、裁判で公開したりすることは、法廷が被害者の性行や行状を裁く場となりかねず、被害者に無用の羞恥心を抱かせ、さらに被害者が周囲からステレオタイプ的なレッテルを貼られる可能性も大きい。これらの行為が許容されると、被害者が告訴をためらって法的救済が受けられなくなるばかりか、結果として性暴力という違法行為と行為者が放置されることになる。

 この法律が制定されるまで、性暴力事件において、被害者が加害者との性交に「同意」していた証拠として、被害者の過去の性経験が提出されるというケースがしばしば見られた。加害者のそうした戦術は、被害者に法廷で多大な屈辱を与え、また被害者が告訴することを妨げる原因ともなってきた。
 
 そもそもなぜ、従来、当該事件とは関係のない被害者の過去における性経験が問題とされてきたのだろうか。また、加害者に関しては、以前の性的暴行の有罪判決への言及は許されないのに対して、なぜ、被害者に関しては過去の性経験が問題とされるのか。それらは「貞操でない女性は、性行為に同意しやすい」とか「貞操でない女性の供述は信用できない」という強姦に関する誤った「神話」に基づいているのではないか。
 
 レイプ・シールド法は、まさにこうした批判を受け、被害者の声に耳を傾けた結果成立した法なのである。


事例で学ぶ 司法におけるジェンダー・バイアス事例で学ぶ 司法におけるジェンダー・バイアス
(2003/11/06)
第二東京弁護士会司法改革推進二弁本部ジェンダー部会司法におけるジェンダー問題諮問会議

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プロパガンダの変遷 2


前のエントリ「プロパガンダの変遷 1」
で取り上げた、連載記事の続きです。



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100729-OYT8T00311.htm
(7)市川房枝 職場婚の勧め

 戦後の高度成長期、同じ職場の男女が結婚する「職場結婚」はきわめて多かった。職場結婚をいち早く提唱したのは、婦人参政権運動で活躍した市川房枝だ。

 証拠は1939年(昭和14年)11月20日の読売新聞家庭面に掲載された「ご法度恋愛回れ右 職場結婚を認めよ」という市川の談話。

 市川はいう。政府は人口を増やすために結婚を奨励しているが、日中戦争が続き「若い男は多く出征」しており、結婚は難しくなっている。そこで、どこの会社でも禁止されている「職場内の男女の恋愛や結婚」を「進んで認め斡旋(あっせん)の労をとる位にしてほしいものです」。

 そのうえで市川は、結婚して子どもを産んでも働き続けることができる環境を求めた。「勤務時間の制限とか、より完全な託児場の設置」が必要だとしている。

 市川の職場結婚論は現在の仕事と子育ての両立支援策に近い。この構想は市川だけの空想ではなかった。

 42年9月4日に、「同一職場の結婚 風紀は逆によくなる 第一陸軍造兵廠(ぞうへいしょう)で試験ずみ」という記事が掲載される。造兵廠とは武器の製造工場のこと。記事には、人事相談所主任の談話を掲載している。「職場結婚は、よく知っている者同士の結びつきなので相互の理解も深く理想的な結婚。熟練した女子を退職させないためにも職場内の結婚が望ましい」という。

 43年1月には「職場の結婚相談」という4回の連載を掲載。第一陸軍造兵廠も取り上げられている。託児所が2か所あり「母たちは休憩や食事の時間に授乳にやってきて、再び職場に帰り、心おきなく共稼ぎ」しているという。

 立川飛行機も、子どもができても働けるよう産婦人科と託児所を設置していると記事にある。

 戦時の女性に求められた出産と労働。その両方を実現するため、こうした施策が行われた。(敬称略)

(2010年7月29日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100730-OYT8T00290.htm
(8)「日本の母」わが子ささげた

「君のためにはわが子をも喜んでささげるのが日本の母です」という文章が、1942年(昭和17年)3月11日の読売新聞の家庭面に掲載される。筆者は、女性史研究家の高群逸枝(たかむれいつえ)。

 子を産み愛することと、子を戦場に送ることは両立しない。その矛盾を解消するのが、この「日本の母」論だった。

 同年9月9日、社会面で「日本の母」という全49回の大連載がはじまる。

 読売新聞社と、文学者の組織である日本文学報国会の提携企画。軍人援護会の府県支部から「日本の母」が推薦され、作家による訪問記の連載となった。執筆者には、川端康成菊池寛佐藤春夫などそうそうたる名前がならぶ。

 8月25日の家庭面で連載の意義が説明されている。「立派な母を模範としてすべての女性が子供を育てなければならぬという自覚を促す」と述べているのは、言論統制機関である内閣情報局の次長。日本放送協会なども後援しており、国ぐるみの事業だった。

 詩人の高村光太郎が訪ねたのは、山梨県の女性。2人の子どもが召集され、1人が戦病死した。

 「(我が子が)ご奉公できたことを最上の名誉と肝に銘じて立ち上がった。以来おばさんの国家に対する奉公の熱意、上御一人(かみごいちにん)に対し奉る尽忠の誠意は前にも増して燃え上がった」。上御一人とは天皇のこと。

 劇作家の久保田万太郎が訪ねたのは東京の平間りつという女性。5人の子が召集され、3人が戦死、戦病死した。

 「わたくしの訪問は三十分で終わりました。わたくしのような訪問者としばしば折衝した経験を持つりつさんをわたくしが発見したからであります。どんなキイを叩(たた)いても規則正しい音しかでないことがわたくしにわかったからであります」

 遺族のもとに取材が集中していたこと、遺族が気持ちを自由に話せなかったことが、久保田の文章からうかがえる。子の死を悲しむことが許されなかったのである。

 (敬称略、引用文は仮名遣いなどを改め一部省略)

(2010年7月30日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100731-OYT8T00173.htm
(9)「軍神の母」求める声高く

 1942年(昭和17年)8月から9月、読売新聞家庭面で「軍神に学ぶ」という15回の連載が掲載された。

 国民学校(小学校)などの校長と少年で「軍神敬頌(けいしょう)派遣団」をつくり、全国の軍神の生家を訪ねた。そこで学んだことを、校長たちが座談会形式で語っている。

 軍神とは、輝かしい武功をたてた戦死者の尊称。真珠湾攻撃で戦死した「九軍神」や、「空の軍神」加藤少将を当時だれもが知っていた。連載では、ある大尉のこんな話が紹介された。

 「(大尉が)『お母さんもし私が死んでもお母さん泣きはしないでしょうね』と尋ねたところ、『泣くものですか。手柄を立てて死んだのだったら涙ひとつ出しません』といわれ、大尉は涙を流して喜ばれたということであります」

 この時期、新聞には母を礼賛する記事が、1面から社会面まで掲載された。

 同年4月の2面には「良き母あれば戦争は勝つ」の大見出し。「日本の兵士が大君の御盾(みたて)となって散ってゆけるのも、心の網膜にやさしい母のまなざしが生き生きと輝き、慈母観音のように自分を見守っていてくれるからだ」と海軍大佐が語っている。

 絶対的な存在である母が、国のために死になさいというのだから、子は安心して死んでいく。そういう理屈が展開される。「母こそ長期戦を完遂する根幹である」と同年10月の社説は書いた。総力戦は母の愛も動員したのである。

 43年5月、家庭面に「武家の女子教育」が連載された。筆者は、国民精神を明らかにするために設置された「国民精神文化研究所」の所員。「(軍神の母たちは)自分の子どもは陛下からお預かり申しあげているのであるという信念に徹した母達であったのである。われわれはこの点改めて日本の女子教育の伝統を回復する必要があろう」として、女性に対する高等教育と婦人参政権論者を批判する。

 このころ、女性の論者は家庭面から姿を消し、男性の筆者が女性に対し、「軍神の母」であることを求める論調を展開するようになる。(次回は3日に掲載します)

(2010年7月31日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100803-OYT8T00240.htm
(10)「標準服」洋装の契機に

「これが婦人国民服 和服も再生出来て仕立ては簡単」。対米開戦直後の1941年12月20日の読売新聞朝刊に、写真入りで女性服が紹介された。厚生省が、一般から公募していた「婦人標準服」がほぼ決定したという記事。

 甲型は、「洋服を日本化し、日本襟が特長」、乙型は「和服の欠点を改良し袖丈を短く帯も半幅、すそも輪式(スカート風)に」と記事は説明する。さらにそれぞれワンピース型とツーピース型があるという。今見ると不思議な服だ。標準服は翌年正式決定され、家庭面でも、作り方を紹介した。

 なぜこんな服が作られたのか。

 見出しにある国民服とは、40年1月に発表された男性用の服。最小限度の手直しで軍服として使え、布の節約も目的とした。終戦前には多くの男性が着用したので、よく知られる。

 国民服に続き、公募されたのが「婦人標準服」だ。当時、多くの女性は和服を着ていたが、たもとや幅広の帯などで動きにくい。洋服は活動的だが、戦時下、日本的なものを完全に否定もできない。そこで、「日本襟にスカート」という和洋折衷の標準服ができた。

 42年2月の家庭面では厚生省の担当者が「和服の非活動、洋服の単なる欧米模倣を排して、生活向上に進むことです」と説明している。

 しかし、42年11月の家庭面に、「婦人標準服はなぜ普及せぬ」という記事が掲載される。「活動性、日本女性美の発揚を謳(うた)って厚生省が発表してからもう十か月にもなる今日、街にも家庭にもほとんどその姿を見受けません――」

 標準服は、タンスに退蔵している服を仕立て直して作るのが建前で、既製服が出回らないのが普及しない要因。また、手縫いも難しいと思われている、と記事は指摘する。

 標準服はまったく普及しなかった。しかし、日本的美を主張しながらも、洋服型が示されたことで、洋装家が勢いを得た面もある。武庫川女子大の井上雅人講師は「和服ではない衣服を女性の服として政府が認めたことで、洋装についての議論が活発になった。戦後の洋裁ブームを準備したといえる」と話す。

(2010年8月3日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100804-OYT8T00187.htm
(11)モンペ「科学的」に推奨

戦時中の女性の服として印象が強いのがモンペだ。国が公募した標準服は普及しなかったが、モンペは多くの女性が着用した。

 「活動的なばかりでなく、薪炭の不足がちな戦争下の保温服装として、モンペの使用はもっと普及徹底化されねばならぬ(中略)モンペは働く婦人の戦闘衣なのである」。1942年(昭和17年)12月の読売新聞家庭面で、早稲田大教授の今和次郎(こんわじろう)がこう訴えている。

 モンペは、東北地方などの農村の仕事着。和服と違い両足が分かれ、動きやすい点などが、古くから着目されていた。読売新聞でも1925年(大正14年)2月にすでにモンペを評価する記事がある。

 一方でモンペは、「格好のよくない服」と見なされていた。また、両足がはっきりわかる衣類は、女性にとってはしたないとも考えられていた。こうしたことから、当初は政府の中にもモンペの普及に反対する声があった。

 「科学的に被服を見よ」(42年11月婦人特集)。記事は、戦時下、装飾的な要素より科学性に重きを置いて衣服を検討していくべきだとし、保温性などでモンペが優れていることを強調している。生活を「科学的」に見直すべきだと、この時期盛んに言われていた。43年3月の家庭面も「モンペで歩くのは恥ずかしいといった気持ちを捨てきれないのは大きな間違いです」。

 国は、節約のため、タンスに退蔵されている衣料を、活動性の高い衣類に女性が自分で仕立て直すことを求めた。モンペは縫うのが簡単で、これに適していた。

 42年から43年にかけ、家庭面は、モンペの改良についての実用記事を度々掲載した。「ズボン型のモンペ 洋装なさる方に格好よく」「今までまた下が短すぎた」――。

 行政、婦人団体なども推奨を続け、防空訓練などで女性たちはモンペに慣れていった。隣組などによる相互監視で、仕方なくはいていた例もあっただろう。

 武庫川女子大の井上雅人講師は「総力戦下、機械の部品のように国民を均質化しようとする論理が、モンペに反対する声に勝った」と話す。(敬称略)

(2010年8月4日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100805-OYT8T00182.htm
(12)「国民食」の栄養基準 むなしく

「今度は国民食の制定へ」。1940年(昭和15年)10月22日の読売新聞朝刊の記事だ。「衣」の国民服に続き、「食」にも統制が必要と、「食糧報国連盟」が、栄養学に基づく国民食を制定することを伝えている。

 記事はこう説明する。「一部上層者には食品は豊富だが、多数は不足している。『おごらず欠けるところのない食べ物』を全国に配置し――」

 当時は米不足が問題化していた。明治以降の人口増加に伴う消費量増に加え、農村部の労働力が兵役のため減る。主要産地だった朝鮮半島の凶作も響いた。

 また、都市と農村の格差も大きく、農村の食事は栄養が偏りがちだった。

 国民食は、年齢別性別の栄養基準に基づく食。メンやパンを取り入れ、カロリーやたんぱく質量などを示した。同年11月に基礎案が決まった。

 「国民食の標準はどんな食品か」。40年11月の家庭面は、軽い立ち作業をする成年男子に必要な2400キロ・カロリーを取るための1日の食事例を紹介している。カロリーは現在の基準とほぼ同じだ。小麦混入米が約3合、イワシや牛細切れなど肉類120グラム、ニンジン、ジャガイモなど芋や野菜類、豆腐、油脂類、食パン――。

 41年2月の婦人特集では、食糧報国連盟の献立例を示した。寄せ鍋、五目ご飯、ハヤシライス、イワシのフリッターなどが登場し、味も工夫したと強調している。

 ただ、国民食が、国民にすぐに受け入れられたわけではないようだ。「恐ろしく画一的な食事形式を国民に強いる」「栄養学者が試験管で研究したものを押しつける」という誤解があると食糧報国連盟の担当者は述べている(41年1月17日朝刊)。

 さらに、この後、戦況の悪化で食糧事情は切迫してくる。国民食で示された基準を満たすことは、現実には出来なくなっていく。42年ころからは、国民食についての記事も少なくなった。

 静岡大学の矢野敬一教授は「国民食は、絵に描いた餅となった。しかし、階層差のない食のあり方が示され、国民が栄養についての知識を共有するきっかけとなった」と指摘する。

(2010年8月5日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100806-OYT8T00184.htm
(13)食糧事情が悪化郷土食に脚光

食を統制する「国民食」の議論の中で、注目されるようになったのが「郷土食」だ。

 1941年(昭和16年)1月8日の読売新聞家庭面は、国民食について「要点を決めて各郷土で応用して行く」という大政翼賛会の見解を紹介した。3月の家庭面も、「郷土食のいいものは広く取り入れる」ことを主張している。

 「国民食」は、必要なカロリーなど栄養基準を示したものの食糧事情の悪化で現実的ではなくなっていく。入れ替わるように43年ごろから、「郷土食」が、紙面に度々登場するようになる。雑穀や芋、山菜などを使った各地に伝わる料理を見直すことで、米不足を補おうというのだ。

 政府は43年6月に「食糧増産応急対策要綱」を決定、郷土食を見直す運動も盛り込んだ。これを受け、社説はこう書いた。「食糧需給対策として最も適切な方法(中略)農村が出来るだけ米食から郷土食に移ってもらえば、食糧計画遂行が楽になる」

 雑穀などが中心の食事だった農村も、米の配給制で米の消費が増えていた。それを元に戻そうというのである。

 家庭面では、郷土食の作り方を紹介した。「材料をちょっと加えればどの地方にもできて、戦争下にふさわしい」(43年7月)。10月にも、山梨の「ほうとう」、岐阜の「いもぼたもち」、京都の「豆茶がゆ」など、米が少なくて済む料理の記事を載せた。

 「草深い山村に埋もれた郷土食がいまや決戦食として再検討されている――」。連載「郷土食を探る」が2面に掲載されたのが44年4月。全国の帝国大学が行った大規模な郷土食調査を伝えた。トウモロコシやカボチャ、サツマイモなどを使った各地の郷土食を紹介し、「何でも食べることが都会の郷土食的決戦食であろう」と記事は結んだ。

 実際、食糧事情の悪化とともに、都市部のいたるところで、カボチャやサツマイモが植えられ、野草も勧められることになる。

 家庭生活も成り立たなくなり、読売新聞の家庭面は44年9月に休止となる。

 静岡大の矢野敬一教授は「郷土食への注目は、ある種の地域文化の見直しにつながった。ただ戦後は、郷土食は貧しく脱却すべきものとみなされ、米の収量増が図られた」と話す。

(2010年8月6日 読売新聞)



http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100807-OYT8T00178.htm
(14)「婦人参政権」獲得へ 国策に協力

1942年(昭和17年)6月30日の読売新聞家庭面に、女性たちの似顔絵が紹介されている。

 下段右端は、婦人参政権運動を指導してきた市川房枝。ほかに東京女子医大創立者吉岡弥生など、当時の有力な女性たちが並ぶ。

 この時期、こうした女性たちは、政府の各種委員などに就き、「婦人国策委員」などと呼ばれた。女性に参政権のない時代、女性が政治にものを言う新局面が到来したことを意味した。

 婦人国策委員たちは家庭面に盛んに登場している。

 「女子の徴用を行え」という記事が、43年6月の家庭面に掲載されている。市川らのグループが「女子動員は徴用の形をはっきり採用」することを求める意見をまとめたという内容。徴用とは、令状によって、軍需工場などで働かせること。当時の女子挺身(ていしん)隊などは勤労奉仕で、徴用に比べれば強制性は薄かった。働かない女性が多いから「徴用を行え」というのである。

 こうした言動には、当時から批判があった。39年6月の家庭面に「市川房枝女史 役人の片棒かつぎ」という痛烈な見出しの記事が載っている。「(市川は)役人の片棒かついで利口に立ち回りすぎるとかこつ女性ファンもある。女史ともあろうものが、御用がすんだら『家庭に帰れ』で手ぶらで引き下がるはずもあるまいが」と結ぶ。

 市川は、なぜ、戦争体制に協力したのだろうか。

 国際基督教大の武田清子名誉教授(93)は「この時代の女性指導者の多くは、女性が国民としての義務を果たすことが、婦人参政権につながると考えていた。しかし女性の地位向上への思いが強いあまり軍国主義への警戒が足りず、全体の動きを見る目が甘くなったのではないか」と話す。

 欧米の女性が第1次世界大戦で戦争に協力した結果、参政権を得たということは当時、常識だった。前述の「手ぶらで引き下がるはずもあるまいが」とは「戦争が終わったら婦人参政権は獲得するんでしょうね」という意味である。

 (敬称略、次回は10日に掲載します)

(2010年8月7日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100810-OYT8T00173.htm

(15)参政権獲得と不戦の決意

敗戦から10日後の1945年(昭和20年)8月25日、市川房枝は仲間とともに戦後対策婦人委員会を発足させ、東久邇(ひがしくに)首相や政治家の鳩山一郎婦人参政権の実現を働きかけた。

 同年10月7日、幣原(しではら)内閣組閣に際して市川は読売新聞に談話を寄せた。「戦争に負けたことについては婦人が十分に働かされていなかったからだということを自覚していますから、国の立て直しには力いっぱい働きたいと考えているのです」

 こうした動きを受け、幣原内閣は、婦人参政権閣議決定する。

 一般には、10月11日、「婦人の解放」を掲げた5大改革を、マッカーサーが幣原に指令したことによって婦人参政権は実現したとされている。

 しかし、実際には、その前に日本側で決定していた。10月13日の読売新聞の記事によると、婦人参政権については臨時閣議ですでに決定したと幣原がマッカーサーに回答したところ、「早手回しそれで結構だ、今後ともその調子でやってほしい」と言われたという。

 同じ紙面で、堀切善次郎内務大臣は、「戦時中における婦人の敢闘(かんとう)ぶりを見、かつ女性の職場進出と相まっての社会的地位の向上から考えて現在すでに日本女性が参政権を得てもきわめて妥当と考える」と話している。

 堀切は後年、市川が編集した『日本婦人問題資料集成 政治』の中に「婦人参政権マッカーサーの贈物ではない」という談話を残している。それによると、堀切は戦時中、女性指導者と仕事を共にし、敬意を抱いていた。そこで、10月10日の閣議婦人参政権を提案し、賛同を得たという。

 婦人参政権が、戦争協力の結果として実現したというのは、現在の我々には認めがたい。しかし、堀切はそう考えていた。

 新聞記者が市川を訪ね「うれしいでしょう」と聞いた。市川はしばらく黙ってから「うれしいです」と答えた。「与えられた参政権を使って、二度と再びこういう戦争を起こさないように(中略)覚悟をきめて、そのうえでうれしいですといったんです」(『人間の記録 市川房枝』)(敬称略)

(2010年8月10日 読売新聞)


http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100811-OYT8T00233.htm

(16)平和が戻り紙面再開

読売新聞婦人部の元記者、井上敏子(86)は、東京大空襲で母イネ(当時45歳)と姉喜美(同23歳)を亡くした。

 1945年(昭和20年)3月10日未明、空襲が始まると浅草の自宅はすぐに火に包まれ、妹と2人で隅田川に飛び込み、船にしがみついて夜を明かした。翌日、行方不明になった2人を捜して、黒こげの遺体を一つ一つ見て歩いたが、見つからなかった。東京都の慰霊堂に姉の遺骨が保管されているのがわかったのは、39年後の84年3月のことだ。

 井上は38年に読売新聞の総務局に採用され、和文タイピストや庶務係などとして働いていた。当時女性社員は少なく、記事の写真モデルにも駆り出された。

 43年9月の家庭面「空襲に備えて 非常袋を備えよ」の記事では、モンペ・防空ずきん姿で非常袋(印鑑や財布、貯金通帳などを入れる貴重品袋)を、肩から下げた井上の写真が掲載されている。

 終戦から5年後の50年、職場で花を生けていた井上は、編集主幹の安田庄司に記者になるよう勧誘された。「婦人部を作るから来ないか」。井上が「私は浅学非才で、つづり方は丙だった」と断ると、安田は「これからは女性の時代だ」と熱心に説いたという。「今までのように男を主に考えた紙面ではだめだ」「女性の目を開く紙面にする」「戦争で壊れた家庭を再生したい」「お母さん教育のために生活記事を主にした紙面を作りたい」――。

 戦争末期に休止した家庭面は48年に再スタートしたものの不定期掲載だった。文化部に吸収されていた婦人部が50年に復活し、51年9月1日から家庭面は連日掲載になる。この日のトップ記事では、婦人運動家の山川菊栄が「戦争防止へ参政権を活用しよう」と呼びかけた。

 こうして、家庭面の戦争は終わった。(敬称略)

 (この連載は斎藤雄介、伊藤剛寛、月野美帆子が担当しました)(おわり)

(2010年8月11日 読売新聞)

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/feature/20100825-OYT8T00193.htm
[反響]子が戦死 記憶封印の母


家族のつらさ知り、胸痛む

 先月から今月にかけ掲載した企画「家庭面の一世紀 女性と戦争」で、太平洋戦争中の読売新聞連載「日本の母」を取り上げたところ、関係者や読者から手紙が寄せられた。翻弄(ほんろう)される母の姿に、改めて戦争について考えさせられる。

 「日本の母」は、読売新聞社と、文学者の組織である日本文学報国会の提携企画で、1942年(昭和17年)に掲載され、翌年本として出版された。当時の著名作家が、戦死者の母を訪れ、我が子を国にささげた母をたたえるという内容だった。

 「家庭面の一世紀」では、劇作家の久保田万太郎が東京の平間りつさんという女性を訪ねて書いた記事を取り上げた。りつさんは5人の子が日中戦争に召集され、3人が戦死、戦病死した。

 これに、りつさんの孫で、東京都台東区の平間美枝子さん(64)が手紙を寄せた。

 67年に84歳で亡くなったりつさんや、りつさんの四男で美枝子さんの父である四郎さんから、戦争のことについてほとんど聞くことはなかったという。

 「戦争で3人の子どもが犠牲になるということは、思い出したくないほどつらい記憶なので、話せなかったのでは」と推測する。

 現在、戦争の記憶を思い起こす遺品などは残っていない。「3人が戦死したということしか知らなかったので、当時の読売新聞の記事で家族の具体的な様子を初めて知り、胸を痛めた」と美枝子さん。

 埼玉県在住の友石知恵子さん(77)の母、橋本すずさんも「日本の母」の連載に登場している。見出しには「尊く宿る犠牲奉公 馬鈴薯を売り歩き子供に教育」とある。

 すずさんの長男は陸軍中尉で、40年に中国で戦死した。

 友石さんは「今回の記事を見て、教育熱心で厳しかった母を思い出した」と話す。

 すずさんは58年に63歳で亡くなった。「つらくても弱音を吐かない気丈な母だったので、戦争の話はほとんどしなかった。陸軍士官学校を出た自慢の長男が戦死して本当はさびしかったと思う」と話す。

 「日本の母」の本を実家の仏壇に供えていたが、その後紛失したため、今回の記事をきっかけに古本屋で探し求めて改めて読んだという。

 札幌市の主婦花田綾子さん(53)は、中学3年生の娘を持つ母として連載記事に感想を寄せた。「子どもを亡くすことほど母にとってつらい悲しみはない。戦争や国のために子どもを産んだわけではなく、犠牲を強いる戦争なんて、あってはいけないこと」

 また、当時の新聞の姿勢にも疑問を投げかける。「新聞などのマスコミや有名な作家があおって、『日本の母』を賛美したのは恐ろしいこと。国民も大きな影響を受けたのではないだろうか。二度と悲劇が起こらないようにすることが大切だと思う」と話した。

(2010年8月25日 読売新聞)