HPオープンさせました。

カンボジア政府の認可もおりて、いよいよゆっくり旅本舗は、正式な旅行代理店としてスタートすることになりました。

このブログを始めたのは、なんと、14年も前のことで、古い記事はすでに消滅してしまっているようですが、ほんとうに長い間お世話になり、ありがとうございました。

今後ともどうかよろしくお願いいたします。

https://yukkurikhmer.com/

ゆっくり旅本舗 in カンボジア

今年3月、黄土高原の寒村を出て以来、早いものですでに7か月が過ぎてしまいました。これまで、だらだらと書き続けていた「紅棗がみのる村から」に、そのまま継続する形でカンボジアの様子などお知らせしてきましたが、この際、独立させることにしました。

なぜ独立させたかというと、私はここシェムリアップで、旅行代理店を始めようと考えているからです。社長が私で、従業員はセイハー(例の交通事故が縁の青年)ひとりです。

これから行政に登録したり、あれこれ準備時間は必要で、実際に開店できるのは来年になりますが、その前に、要するに宣伝のために、それらしき“観光案内“などをボチボチ書いておこうかなと思っています。

で、これまでのものを新しいブログに移行させました。


https://natsume2018.hatenablog.com/

帰国しました。

3月14日、村のすべての荷物を引き払って帰国しました。この先彼の地に行くことはあっても、住むことはありません。理由は3つで;
まず、日中戦争時の老人たちの記憶を聞き取るという私の仕事が終わったからです。当時の記憶を持つ人は、平均寿命の短い彼の地では、もうすでにほとんど亡くなっており、あるいは、ほんの5,6歳時の記憶ということで、後になって付け加えられたものが多く、どんどん信ぴょう性が希薄になってきていたということがあります。

2番目には、私自身の身体の問題があります。10℃前後という環境の中でずっと“生活する”ということは、やはりフツーの人間の肉体能力を超えるものがあり、彼の地の伝統に則った暮らし(部屋を空けないで誰かが火の番をする)を選ばない限り、限界であると判断したからです。

3番目にはビザの問題です。すでに5年ほど前から長期ビザの取得が非常に難しくなっており、この間私は香港やマレーシアの中国領事館でビザを取得していました。香港の場合、ビザの発給地はロスアンジェルスです。これはいわゆる“闇”ルートで、当然法外な料金が請求されます。香港、マレーシアまで行く航空券、およびビザが発給されるまで待つホテル代などで、わずか1年のビザをとるために、30万円ほどがかかりました。もうこれだけの費用を用意することができなくなったからです。

この場でのご連絡が遅くなったのは、これまで嘱託職員として置いていただいていた松本の通信制高校を辞めたので、ネット環境がなくなり、相変わらずネット難民をしていたからですが、今日は名古屋のホテルにいます。

このPCの起動が怪しくなり、新しいのを買おうかとYAMADA電機に行ってみたのですが、今や10しかないんですね、しかも10は初期設定に7,8時間かかるとかいわれて買わないで帰ってきました。中古でもいいので、8を買おうと思っています。

日本に帰ったらもっといろいろ快適な生活ができると思っていたら大きな間違いでした。私の松本の寓居は、美ヶ原の麓にあるのですが、以前は1日に7,8本走っていたバスが1年ほど前からなくなって(客がいないから)、町の中心部に出るには自転車か徒歩を余儀なくされてしまいました。松本駅まで徒歩で1時間ちょっとです。この界隈はどこでも一家で成人している人の数だけ車があって、おまけに農作業用(界隈はぶどうの産地)の小型トラックもあるので、平均3台、多い家は4台か5台持っています。

話が飛びましたが、先般大雪が降った日があったのですが、スマホを繋ぐためにコンビニまで雪の中を往復していたら、治りかけた風邪がぶり返してしまい、またまた寝込んでいました。しかしその間にも季節はしっかりと巡り、岳都松本でもチラホラと桜の開花がみられるようになりました。桜はほんとうにきれいですね、外国暮らしから戻ってみると、その美しさがしみじみと心に染み渡ります。

さて、これからどうするかということですが、現在の寓居は6月までしかいられないので、夏以降、どこで何をやって暮らすのか?現在いろいろ思案中です。特にアテはありませんが、あの“国家級貧困地区”の村で暮らした12年は、もともと生活力の逞しい私に、年齢を差し引いてもなおおつりがくるくらいの“生命力”を付加してくれたものと思います。次にお会いできるのはいったいどこでしょうか?国内か?国外か?

このブログも特に閉鎖するということはしませんので、またいつか気が向いたのぞいてみてください。ではみなさん、お元気で。再見!

郝峪塔の白じいちゃん

臨県から北上すること30キロほど、郝峪塔(ハオイーター)まで行ってきました。臨県から北へは、ほぼまっすぐな道が続いていて、バスの速度も違います。遠くには山並みが望まれますが、ほぼ平坦地で、内モンゴル方面に向かう石炭車が行きかう主要幹線道路です。賀家湾から100キロも離れていないのですが、風景ががらりと違うので、遠くまで来たなぁという思いに駆られます。

郝峪塔という村は、臨県北部に位置する白文鎮に属し、白文鎮の北側の興県というのは、当時八路軍の根拠地となっていたところです。興県の東側に嵐県という県があって、この嵐県の行政所在地である嵐県にも日本軍は長く駐屯していました。私も一度行ったことがありますが、中央から見放されること凄まじいまでの寂れた貧しい地域で、去年、習近平も“極貧地区視察”に訪れたようです。

戦闘の合間の蛮行も甚だしく、例えば誰かが「自分は嵐県出身だ」というと、「お前は日本人の血が混じっているだろう」と、すかさず軽口をたたかれるような所のようです。私もかつて“潜入”を試みたことがあったのですが、中を取り持ってくれる人も見つからず、やむなく断念したことがありました。


ところで、郝峪塔にはどういうコネで行ったのか思い出せないのですが、白じいちゃんのことはよく覚えています。じいちゃんは孤児として育ち、読み書きはいっさいできず、物心ついたときから、ただただ畑を耕すことしか知らなかったそうです。しかしじいちゃんはほんとうに明るくて、私の突然の訪問を心から喜んでくれ、頼んでもいないのに農具や作物を抱えていろんなポーズをとってくれ、いかにも黄土高原の農夫といった感じのいい写真もたくさん撮らせてもらいました。今夜はここに泊まってゆけと、なかなか帰してくれず、押し問答にすらなって別れたのです。

あれから6年ぶりの訪問で、果たして生きているのかどうか不安でしたが、じいちゃんは昔とほとんど変わらずに元気でした。私が撮った葬儀用の写真をタンスの中に大切に保管していて、こんなにいい写真を撮ってもらったから、いつでも安心して死ねるといっていましたが、当地の老人たちにとって、60も過ぎれば、葬儀用の写真を用意しておくということは至上命令なのです。しかしこの伝統のおかげで、私も取材が楽になったというのは事実です。私が写真を撮って、それを必ず、どんなに遠くても、届けに来るということが噂になって、聞き取りに応じてくれた老人たちはたくさんいたのです。

今回も、ご飯を作るから食べてから帰れと何度もいわれましたが、そういう時間も取れず、逃げるようにしてじいちゃんの家を後にしました。もう2度と会うことはないと思うと、門口に立って手を振るじいちゃんの姿もじわっとぼやけて、振り返り振り返り見納めて村を後にしました。思えばこの10年間、300人以上の老人たちから話を聞き、そしてわかっているだけでも、そのうちの200人ほどがすでに亡くなっています。この10年間の人との出会いは、いつでも一期一会で、張りつめた細い糸が、前触れもなくプツン!と切れることを日々想定した関わりの中で過ごしてきました。過酷な自然環境への順応よりもむしろ、私のヤワな心の方がもう限界に近づいているのかも知れません。


じいちゃんの家の裏側に高架の鉄道が通っていましたが、どこからどこへ行くの?と聞いても、さぁ?という答えが返って来るばかりでした。


羊たちはこれから売られてゆくところでしょうか?動物や家畜たちとの距離も近いので、日本では見ることのない様々な情景に出会ってきましたが、“たかが犬一匹”という感性と、それを産み出したこの環境には、結局いつまで経っても慣れることができません。

工会賓館

ちょっとした用事があって久しぶりに臨県に行ってきました。何度も書いていますが、私が住む賀家湾は、臨県に属しますが、臨県最南部にあるため、隣の行政区の離石の方がずっと近く便利さも格段に違うので、臨県(行政所在地も臨県)に行くことはめったにありません。かつては古い町並みが軒を連ねる美しい街だったそうですが、日本軍に焼かれて以降、街並みが復興されることはありませんでした。20キロほど離石寄りの三交には日本軍の駐屯地があり、臨県より北部は八路軍の勢力範囲だったので、臨県界隈には激しい戦闘が繰り広げられた地域がいくつもあります。

3月2日が元宵節といって、正月最後の日で、この日の夜は街中にちょうちんの灯りがともされ、中央通りにはさまざまな趣向を凝らした大きな行灯が並んで、人々は最後の正月を楽しみます。ずいぶん前ですが、一度見に来たことがありました。今年も正月はもう終わったわけですが、街中はまだまだ正月気分が残っているようでした。




ここが中央広場ですが、離石よりも格段に“田舎っぽい”ことがおわかりかと思います。人口構成も圧倒的に老齢化が進んでいます。男たちがたむろっているのは、当然のことながら賭け〇〇というやつです。



食べ物屋の屋台があちこちひしめきあっています。衛生状況もさることながら、私がいつも不審に思うのは、あのソーセージや肉は、いったいどんなものを材料にしているのかしら、ということです。私はもともと肉を食べないので買うことはありませんが、若者や子どもたちはこういった串モノをいつもほおばって歩いていますが、大丈夫なんだろうか?大丈夫なはずないですよね。


以前はなかったDicosが開店していました。日本では見ないようですが、これもたしかアメリカ資本だと思うのですが。。。さっそく入ってコーヒーを飲んでみましたが、まあまあ合格です。ちなみに、コーヒーの味はずっと向上しましたね。どこも機械で淹れているので、その機械が新しいものに変わったということでしょう。数年前までは紅茶かコーヒーか判然としないものもあったのですが、中国におけるコーヒー文化は、確実に向上しています。しかし、これからコーヒーを飲む中国人が一般化して行ったら、世界のコーヒー豆市場はいったいどうなるのでしょうか?気になります。



ホテル代は離石よりも安めです。この写真のホテルで、朝食付きで2000円ほどですが、実はこの工会賓館にはいわく因縁があるのです。以前は取材もあったので、たびたび臨県に出かけ、そのたびに泊まっていたのですが、確か4年ほど前、朝起きてロビーに行くと警察が何人かいて、尋常ならぬ雰囲気でした。バタバタしていて最初は何が何だかわからなかったのですが、いろいろ聞いてみると、その日の明け方に、ホテルのマネージャーが金庫にあった現金などを全て持ち出して姿をくらましたらしいのです。そういえば、朝方私の部屋に誰か男が侵入してきて、ゴソゴソやっていたのですが、それは、給料が出ないとわかった従業員が、何かを漁っていたのだろうということでした。もちろん私もびっくりして、あっ!と声をあげたら出て行きましたが。あとから聞いたところによると、現金だけならそれほどのこともなかったでしょうが、それ以外に債権のようなものでしょうか、金目のものが大量に保管してあったそうです。それで、その後工会賓館は潰れてしまい、何年もの間、そのままの状態で放置されていました。

ところが今回前を通って見ると、開店していたのです。名前は工会酒店と変わっていましたが、もともと建物はそんなに古いものではなかったので、以前泊まっていた頃と何も変わっていませんでした。過年(大晦日)、つまり2週間ほど前に開店したばかりで、しかも正月など誰も泊まらないので、シーツもタオルもピカピカの新品で気持ちが良かったです。中国にしては部屋は狭いのですがきれいに掃除されていました。ただひとつ難点があって、暑すぎたのです。というのは、この集中暖房は地域ぐるみで行われているので、独自に調節することができないのです。春節が過ぎてから一気に寒さが緩んできましたが、この集中暖房を停めるタイミングというのは難しいのです。停めるためにもかなりの時間を要するようです。

赤い洗面台が素晴らしいですね。さすが中国。




日が暮れるとイルミネーションに点灯されます。写真では地味めですが、実際にはもっとずっと煌びやかです。中国人のイルミネーション好きは日本人以上で、賀家村ですら、秧歌があった広場から山の上にある廟まで、ずーっと長い灯りのラインが引かれ、それはまるでもう万里の長城のようでした。

廃れゆく伝統?

今年は初七(春節から7日目)と初八に唱劇があると聞いていたのですが、前日の初六になってもそれらしき動きが見えません。唱劇、つまり晋劇(京劇との違いは私にはわからない)を廟に奉納するわけですが、ピンキリはありますが、いずれにしろかなり大掛かりなもので、舞台の設営の為に、前日には大道具小道具衣装などを満載した大型のトラックが到着して、10人20人という人数で忙しく動き回ります。これを見ているだけでも心がわくわくさせられるもので、私も随分とビデオに撮らせてもらいました。当然劇団を呼ぶのにはかなりの費用を要します。ところが今回は舞台設営もなく、やけに静まっていましたが、それでも村人に振る舞われるための「湯菜」という、いわば黄土高原版トン汁の用意は、プロが来て準備を始めていました。

ヘンだなぁと思って、以前村長の経験がある村の幹部に聞いてみると、今年は晋劇はなく、二人台だというのです。しかも、これまでは3日間だったのに、2日間に短縮です。なぜかと聞いてみても、金がないからとかいって笑っていましたが、賀家湾村は、今や近隣では金持ち村の方です。なぜかというと、第一の理由は毎年炭鉱から補償金が入るからです。あと、石炭産業で儲けている人が数人います。離石に比較的近いので、村を出やすく、また、自由に帰って来ることも容易です。

私が思うに、金がないからではなく、みな忙しいのです。金儲けのために。春節は初一で、もうそれから7日も経っているわけで、一般の会社はすでに仕事が始まっています。賀家湾の場合、村の廟のお祭りはこの初七あたりと決まっているので、春節に合わせることはできないのです。家族で帰郷する人の姿も、これまでと比べれば雲泥の差で、停まっている車の数もわずかでした。情報はそれぞれの家庭にくまなく行き渡っているので、今年は帰郷をひかえている人が多いのでしょう。

そうそう、毎年このときに村人からお金を集めるのですが、フツーは50元ほど、人によっては30元、20元という家もあります。もちろん村の出世頭などは、数千元、時には1万、2万元なんてのもありました。収入に応じた分を出す、という伝統だけは守られているようです。近隣の村の委員会、それから炭鉱からは大口が入ります。それを紅い短冊に名前と金額を書いて貼り出します。私は早々に100元を持って受付というか、祭壇が設けてある部屋に行って払いました。ところがあとでわかったことですが、今年はお金を集めなかったそうです。もちろん一部の村を離れている金持ち連中は持ってきましたが、例年のように、短冊に名前を書いて貼り出すということをしなかったのです。逆にいうと、それだけお金のかからない小規模なものに縮小されたということです。私は100元ソンしました。

二人台というのは、ふたり舞台という意味でしょうかね、フツーは男女ふたりで掛け合いの寸劇が演じられます。今回は8人くらいの演者がいて、交互に何かやっていましたが、私はさっぱり聞き取ることもできないし、悪いけど2流3流どころで、遠慮しました。若い人たちが多く、彼らの本領は現代風歌謡ショーです。最近は葬儀でもこの“歌舞”という出し物が増えました。




日が暮れてから爆竹の大音量を合図に、秧歌が始まりましたが、これも踊っている村人はほんとうにわずかでがっかりです。以前なら劇台前の広場いっぱいに広がって、いつまでやるんだろうと思うくらい延々と踊り続けたものです。ちなみにこの秧歌は、徳島の阿波踊りと共通するところがあって、女性の踊り方は比較的静かで動きもそれほど大きくないのですが、男性は歩幅をとって大きな捻り方をします。その捻り方がなかなか見事で、えっあの人が?と思うような人が意外と捻りの名手だったりします。今回も、私に意地悪をしてなかなか水をくれない給水車のおっさんがものすごく上手なのを発見しました。



傘を持って踊るというのは、この地方の特徴で、“傘頭秧歌”と呼ばれています。


中央に石炭を積み上げて暖をとり、年寄り連中が30人ほど見ていましたが、なぜか歳をとると踊らないです。何か意味があるのかもしれません。



翌日は歌謡ショーなのでますます面白くなく、私は離石にやって来ました。途中、隣村の崖っぷちで葬儀がありました。右端に白い幟のようなものが立っていますが、これは故人の年齢+2(天と地)個のリングが蛇腹状の塔の形に繋がれたもので、これだけ高いということは、まちがいなく“めでた葬儀”です。しかし葬儀も私が当地に来た頃と比べると、一見派手で煌びやかなものにはなりましたが、儀式そのものはどんどん簡略化され、若い喪主などはどうしていいかわからず、年寄りがつききりで手順を教えたりしているのを目にします。私の方がよっぽど詳しいくらいです。ましてや結婚式は変化が大きいです。

こうやって伝統というものは、徐々に“駆逐”されてゆくのでしょうか?よほど合理的な風習ならば、おのずと残ってゆくでしょうが、畑の牛馬が耕運機に変わり、辛い水汲みも給水車が代行してくれるようになり、出稼ぎでためたお金で競って高級車を購入し、100円の駄菓子すらキャッシュレスの時代に至っては、伝統よりも金儲けの方が大事になってゆくというのもある意味当然のことでしょう。金さえあれば何でも手に入るということを知ってしまった村人たちは、もうかつての暮らしに戻ることはできないと思います。もちろん、私たちもかつてたどった道です。

新春快楽!

明けましておめでとうございます。
不思議なことに、昨日あたりからほんとうに暖かくなって、最高気温が+になりました。19日は雨水で、来月5日はもう啓蟄ですからね。どうやら厳しかったこの冬も無事に乗り切ることができそうです。



きのうはひっそりしていた中央広場も、今日は打って変わって大賑わいでした。






遊具以外に、ものすごい数の出店が並んでいて、そのほとんどがおもちゃ屋さんです。こちらにも「圧歳銭」というお年玉の習慣はありますから、やはりターゲットは小さなお子様のようです。



お馴染みの秧歌踊りですが、老若男女共、さすが本場で、腰の捻り方に年季が入っています。この「秧歌を踊る」という時に使う動詞は、「踊る」ではなく、「捻る」です。「秧歌を捻る」といいます。



華やかな狗のモニュメントの下に、こんな痩せさらばえたワンちゃんがいましたが、無事に生き永らえて欲しいです。公園の植え込みの中に、いつもノラの家族が何匹か暮らしています。


坊や危ないよぉ〜、こんな市街地で頭なんか出してたら。親はちゃんと見てるのかね?



2月10日付けでアップしたものの中ほどに、新築のビル(旧石州賓館)の写真がありますが、ちょっとトイレを借りようと思って中に入ってびっくり!ものすごくオシャレで豪華なテナントビルになっていたのです。地下1階から6階までが商業施設のようでしたが、離石のようなド田舎町にこんな似つかわしくないビルができるなんて!


なぜか、くまもんがいました。



もっと驚いたことには、寿司屋が入っていたのです。しかも2軒。テイクアウトがメインの店のようでしたが、離石では初めて見ました。明日、さっそく試食に行ってみる予定です。
「首島」という文字に違和感があるかもしれませんが、中国語ではネックのことを「首」とはいいません。第一の、最高のという意味です。(首都、首相など)