私の宗教論

私の宗教論 文学部1年3組堀居茉梨恵

最近ずっとこのタイトルについて考えていたが如何せん全く筆が進まない。
かといって他の方が書いた文を読もうものならもう頭はその論に傾倒してしまっているだろう。
いっそのことだからまとまらない考えをまとまらない筆で綴ってみるのもまた一興かと思い私はやっと今パソコンに向かっている。

高校では倫理を選択しこの学部も間違いなくそのおかげで入れたものの、かといって宗教について造詣が深くなっているかといえばそうではない。
浅くはないが深くもない上っ面を学んだだけなので、今ある宗教を取り上げて話題にすることも困難であろうし、果たして宗教とは何かということから考えてみることにした。
早速だが、宗教とはまやかしであると思う。
絶対的な「何か」を提示し信奉することにより自分を騙す術なのだ。
例えばとある宗教では、ある神を信じればそれに祈りを捧げるだろうし、ある物を信じればそれを敬うだろう。
そしてそれは全て自分が窮地に陥った時それらから救いという感情を得るためであり、また普段の生活で何らかの恩恵を受けているという錯覚を得るためなのではないか。
逆に言えば、逆境を克服し得たときや何かいいことがあったことの原因をその行動に委ね、自らの信じる宗教の素晴らしさを自らに信じ込ませるということなのではないか。
恐るべき脳内麻薬的サイクリックだと思う。
信じるということの盲目、それ故の個々の人格に対する影響力の大きさ(負であれ正であれ)、それを最も良く体現しているのが宗教という人によって作られた嘘なのだ。
そしてその嘘は良くも悪くも機能し得る、何よりも強いまやかしなのだ。

なんて書いてみると体の良い一般論に聞こえるだろうが、だからこその説得性もあると思うし、事実私は宗教をこう見ている。

最後に私は仏教に入っているらしいが自分自身では無宗教だと思っている、何故なら窮地を脱することが出来るのは私の行動のおかげであり、幸運に恵まれることがあるとすれば確率的な偶然だからだと思っているからだ。
どうせ頼りにするのであれば、他者の存在ではなく自分の意思を大事にしたいと思う。
まあこれも、敢えて言えば自分狂なのかもしれないが。