多田 駿

明15・2・24〜昭23・12・18


明36・11 陸士卒(15期)
37・3 任砲兵少尉・野砲第18聯隊附
37・7〜38・6 出征
38・6 任砲兵中尉
42・11 砲工校高等科卒
43・12 陸大入
大2・8 任砲兵大尉
2・11 陸大卒(25期)
3・8 参本附勤務
4・6 参本部員
6・3 支那政府応聘(北京陸大教官)
8・12 任砲兵少佐・陸大教官
12・8 任砲兵中佐
13・7〜14・2 欧米出張
14・5 野重第2聯隊附
15・3・10 支那政府応聘教官(北京陸大)
昭2・7・26 任砲兵大佐・陸大教官
3・3・8 野砲第4聯隊長
5・3・6 第16師団参謀長
6・3 支那政府応聘(北京陸大教官)
7・4・11 関東軍司附(満洲国軍政部最高顧問)
7・8・8 任少将
9・8・1 野重第6旅団長
10・8・1 支那駐屯軍司令官
11・4・28 任中将
11・5・1 第11師団長
12・8・14 参謀次長兼陸大校長
13・3・5 免兼
13・12・10 第3軍司令官
14・9・12 北支那方面軍司令官
16・7・7 任大将・軍事参議官
16・9・2 予備役

伊達藩士多田継の長男であったが、大叔父の平次の後を継いだ。平次は砲術の研究で江戸に遊学したような人物であり、多田が後に野砲兵科を選んだこととも無縁ではあるまい。

電信学校を経て、仙台地方幼年学校に第1期生として入校。優等(次席)で卒業した。陸士、砲工学校高等科を卒業し、陸大に入る。卒業席次は12番であった。

『寄生木』という小説がある。徳富健次郎の名義で出されているが、実際は陸士15期、小笠原善平の自伝である。善平(作中では篠原良平)はふとしたことから乃木希典の学僕となり、陸軍幼年学校に進んだ。そこで優秀な成績を残すと、乃木に頼まれて善平の面倒を見ていた同姓の小笠原憲兵大佐は、自分の娘を将来娶わせたいと彼に伝えた。善平は有頂天になった。しかしその後、彼の成績はどんどん下降した。それにつれて大佐の態度がよそよそしくなっていく。ついには婚約の解消を申し入れられた。そんなとき、親友の大場中尉(弥平、後に少将。作中では小田中尉)から、多田中尉(作中では太田中尉)の長妹を貰わんかという話があった。最初は冗談にして取り合わなかった善平だったが、大場より、多田からの手紙を見せられて驚いた。そこには「万年大尉でもかまわない。篠原式でどうだ、太田の妹貰わんか、くらいいって見てくれ」と書かれていた。善平は嬉しかった。劣等生の自分を見捨てず、妹を呉れようとは、感謝に堪えないと、手紙を書いた。しかし結局、彼は大佐の娘を思い切れず、自ら命を絶つ。此話は多田の人柄が良く現れたエピソードだと思う。

幼年学校からの親友大沼直輔によれば、多田は当時から陽明学を研究し、十分なる才気を包んで露わさない、大局を把握して苛且に動かない、恬淡物事に執着せず、といった人物で、若いときから衆に長たる才識を認められ、同僚、先輩から敬慕されていたとか。大沼個人の思い出としては、大震災のとき、自分の留守宅に、多田が浴衣がけで駆けつけてくれたことが忘れられないと語っている。

新宿中村屋の女傑、ビハリ・ボースを匿った相馬黒光は従姉妹にあたる。とかく豪放ぶって偉そうな言動の多い軍人の間で、多田にはそういう軍人臭がない。そういうところが好きだと、彼女も彼の人となりに惚れ込んでいたそうだ。

妻は同期の河本大作の妹であった。大作は若いころから度外れた放蕩者であったが、素封家であった父も兄もこれを叱るどころか、際限なく金を渡した。姫路からばかり送ると目立つというので、態々京都まで出て送金したこともあったという。或るとき料亭の風呂場で坊主の僧衣を見つけた大作は、悪戯心を起こし、それを着ると、神戸の女学校の妹(後の多田夫人)を訪ねた。遠目に坊主の格好をした兄を見て、遂に心を改め出家したのかと、ホロリときたが、よく見ると後ろに芸者を連れている。ニヤニヤしながら「何か欲しいものがあれば買ってやるぞ」という兄を見て、遂に妹も愛想を尽かし、「早く返ってください」と追い返したそうだ。此不良坊主は神戸駅で、自分だけ切符を買うと、芸者連を置き去りにして大阪に帰ってしまった。

陸大を出ると、民国の陸大に教官として招聘せられ、参戦軍の創設に関わった。その後帰国して、陸大教官となるが、仙幼の後輩にあたる石原莞爾と意気投合するのはこの時らしい。陸大教官時代の彼のエピソードとして、当時の学生だった有末精三が書いているものによれば、或るとき多田が「支那において1万人の捕虜を得た情況で如何にすべきか」という問題を出した。皆陣中要務令などひいて苦心惨憺するなか、多田教官の示した原案は「武器を召し上げた上全員釈放、生業に就かせる」というものであった。これこそが将軍の支那軍観のエキスであったと、有末は書いている。

満洲事変の後、満洲国が建国されると、初代の満洲国軍政部最高顧問に就任した。これも板垣、土肥原、石原といた面々との関係によると思われる。このとき多田の配下に、喧嘩到一との渾名のある佐々木到一がいたが、彼は、多田は細かいことはすべて自分に任せてくれたので、会心の仕事をすることが出来たと自伝に書いている。その後、田中隆吉から川島芳子を託され、暫く日本の家に住まわせていた。彼女は多田のことをパパと呼んでたらしい。二人の関係が正確なところどうだったのかははっきりしない。

支那駐屯軍司令官時代、まず「対支基礎的観念」というパンフレットが「多田声明」として世間を賑わせる。多田声明に関しては、北支分離工作を宣言した侵略的声明とあっさり断定するものや、多田があのようなことを言うのはちょっとおかしいので、恐らく参謀が勝手に出したものではないかというものがあるが、小山貞知の書いた記事など読めば、相当捻じ曲げられているが、多田の筆に依るものであるのは間違いないようだ。戦後彼は手記の中で、多田声明の元となった対支基礎的観念を再掲しているが、それによると、その要旨は
(1)常に公明正大なるを要す
(2)厳乎たる威力の随伴を必要とす
(3)搾取主義を排し「與ふる」主義を採るべし
(4)独立を尊重し民族の面目を保持すべし
(5)人的関係に捉われず是々非々主義たるを要す
(6)職業的親日派を排撃すべし
(7)誤れる優越感を捨つべし
というものであったとか。真相や如何に?ただ、彼が相当蒋介石一派を嫌っていたのは確かなようだ。

関東軍は、華北親日政権を建てるという希望を持っていた。大乗的な対支策を持論とする多田は、此工作に元来あまり乗り気ではなかったようだが、それでも商震、宋哲元、閻錫山、韓復渠の4巨頭を連ねた政権を作ろうと考えて工作を開始した。しかしこの工作は遅々として進まなかった。痺れを切らした関東軍土肥原賢二を送り込んだ。土肥原は多田のやり方ではいつまでたっても工作は成功しないと考え、ターゲットを宋哲元に絞り、積極的に工作を開始した。しかし結局釣れたのは早稲田出身で妻は日本人の殷汝耕であった。これが冀東防共自治政府である。このやり方に多田は激しく怒り、かなり長時間に渡って土肥原を叱責した。二人は仙幼の先輩後輩であり、坂西利八郎門下の薫陶を受けた言わば同門であったが、考え方にはかなり差があったようだ。この冀東政権は此後、日支関係の癌となる。

此ころの関東軍支那駐屯軍に対する態度は酷いものであった。内蒙工作に深く関わった松井忠雄の『内蒙三国志』によれば、多田が新京を訪ねたとき、関東軍から誰も迎えが来なかった。駐屯軍幕僚が抗議すると、「隷下兵団長は幕僚を以って送迎しないことが慣例なり」と返してきたそうだ。
”多田司令官は大人だった。大尉(松井)は昔の聯隊長だった関係もあり、心易く話が出来た。
関東軍では天津軍を隷下兵団扱いしたそうじゃありませんか」
「馬鹿なやつがいるよ、馬鹿はそこにもいるぞ」
「私でありますか」
「謀略部隊の指導についていき、敵前二百米で山砲の砲手をやる馬鹿が関東軍にはいるとこの辺ではいうとるぞ」
いい過ぎたかなと、口許に笑を浮かべながら司令官は
「あまり無茶したらいかんぞ、正月の餅もくっとらんだろう、今晩官邸にこい、奥も喜ぶ」
と言葉だけは相変わらずぶっきらぼうだが、温かい思いやりをつげた。”

しかし駐屯軍も黙っていたわけではない。関東軍の動向を逐一参謀本部に報告していた。多田の離任後、支那駐屯軍は、石原莞爾の手によって大幅に増強されるが、これは対外的なものではなく、関東軍華北への干渉を防ぐための対内的な方策であった。しかしこれが、裏目に出て、北支事変が拡大していくのだから、歴史は難しい。

支那事変が拡大していく中、参謀次長の今井清は重病に陥った。多田は第十一師団長から、参謀次長に抜擢された。中央省部に縁の無い多田の次長就任には、第一部長石原の力が大きかったと思われる。次長となった多田は、石原の不拡大路線を支持するが、その肝心の石原が関東軍に転任してしまう。この人事について一般的には、杉山元梅津美治郎武藤章といった反石原派、一撃派によって追い出されたとされる。しかし実情は、嫌気の差した石原が転任を望み、多田がそのために運動したという感じらしい。

<稲田正純の証言>
それで参謀本部の次長が変わりまして多田駿というのが来たのですけれども、これは石原莞爾が引っ張ってきたのです。これは昔から仲が良かったですし、親しい先輩で、満洲事変をやったあと、満洲国の軍の最高顧問に行った人ですけれども、・・・人柄はとても良いのです。私も親しくしてもらっていたのですが、・・・私が多田さんに顔が似ていたのですね・・・性格までよく似ているのです。それだけではないでしょうが、大変可愛がっていただきました。
多田駿にしても「支那事変などもってのほかだ、なんとかやめたい」と思っていたし、そういう思考は石原莞爾とよく似ているのです。石原莞爾ほど一本調子ではないのです。性格的にはサバサバした男でしてね。あとで影佐(禎昭)が批評したことがありましたがね。「蒋介石相手にせず」のあとで、「あの多田駿のクソ坊主めが、あいつはいいんだけれども、あるところまで行ったら投げてしまうところがあるので、どうにもならん」と言っていたことがありましたがね。石原莞爾を手放すのをとても嫌がって、泣く泣く手放したわけです。結局石原莞爾の戦争指導が行き詰って、なんとか打開しなければいけないことになって、彼自身も身を退いたのですね。自分が「おる」と言えば決してやめることはなかったのです。次長は極力引き止めたのですけれどもね。

<笠原幸雄の証言>
石原部長は、自身の意に反して事態が推移し、事変は上海に飛び火するなど、いよいよ拡大し、つらい立場に立たされることとなった。そこで作戦部長を辞めさせて欲しいという気持ちになっていたと思われる。・・・そこで、笠原をドイツにやって、その後任には満洲に適任の石原をやろうという話になったのであろう。私は関東軍参謀副長在職期間僅か二ヶ月足らずで、同年九月二十七日付、参謀本部附に発令され、翌十三年一月ドイツに出張した。
当時陸軍省人事局長であった阿南(惟幾)さんが在満方面軍司令官在職のとき、石原部長更迭の経緯について述懐されたことがある。すなわち「着任日浅い笠原と石原を交代させることに私は大反対であったが、新任の多田次長の要求で、不同意ながら、その要求に従った。石原は従来の関係上、関東軍参謀副長を適任と思うという主張であった。今にして考えれば、有為の石原を東條参謀長の下、不遇の地位に追い込んだ結果となった」と。
当時石原自身が留まりたいと思えば残り得たであろう、しかし、本人が参謀本部を出たがった。その困難な立場に多田次長が同情されたのだろう。多田さんと石原さんは、同じ仙台幼年学校の先輩後輩の関係で、関東軍で一緒に勤務されたこともあり、非常に親しく気が合っていた。多田次長が進んで石原部長を出したということではない。多田次長とは私も親しかった。多田さんが陸大の学生のとき、騎兵第十三聯隊に隊附されて以来の仲であって、多田さんが北支那方面軍司令官に転補されたとき、私を参謀長にと所望されたことがあった。

石原を失った後も、多田は不拡大方針を堅持し、南京攻略に強く反対して、現地軍と中央の強硬派の間で、よく孤塁を守っていた。しかし、石原の後任の下村定は南京攻略推進派であった。彼は御前会議において、突如多田の承認も得ぬまま南京攻略を持ち出した。十一月二十九日、遂に多田は下村の説得に屈した。

トラウトマン工作は元々、多田と第二部長本間雅晴の間で始まったもので、ドイツ大使館に個人的人脈を持つ馬奈木敬信が多田の命令を受けて動いていた。当初馬奈木から和平条件を伝えられたトラウトマンは、その穏当なことに驚いたという。しかし工作は情勢の変転から一旦頓挫する。南京攻略開始と同時くらいに工作は再開するが、その和平条件は以前より格段に厳しくなっていた。当然、蒋介石からの返答はない。昭和十三年一月十五日、此工作の是非について、大本営政府連絡会議が開かれた。脈無し、打ち切りを主張する政府と、継続を主張する多田は激しく対立。皇族たる両総長が退席した午後の会議では、激しい言葉が飛び交った。特に内相末次信正は強硬であった。陸相杉山元も打ち切りを主張した。僅かに古賀軍令部次長だけが理解を示したが、これも海相米内光政に抑えられた。外相廣田弘毅は、「長年の外交官としての経験から脈は無い」と主張。米内は、「次長が政府を不信任というのなら、内閣は解散するしかない」と脅しをかけた。此言葉に反応した多田は、声涙ともに下るの熱情をこめ「朕に辞職なし」と仰せられた明治天皇のお言葉を引用し、「国家の重大事に政府の辞職云々とは何事ぞや」と反駁した。会議は夕刻再開を約して解散した。この休憩時間、軍務局長町尻量基は、参本総務部長中島鉄蔵を訪ねて、このまま多田が突っ張り続けたら、近衛は本当に内閣を解散すると伝えた。これを聞いた中島は多田を訪れ、本間、河辺虎四郎第二課長も招いて、善後策を協議。遂に多田も折れた。このときの多田の心境は「交渉打ち切りは嫌だ、長期戦は嫌だ、しかし近衛内閣の崩壊はなお嫌だ」というものであった。それを伝え聞いた佐藤賢了は日誌に”三嫌譲歩”と記した。

これは、午前の会議が終わり、多田が参謀本部に戻ってきた時の話である。当時不拡大派の本拠であった戦争指導班に勤務しておられた秩父宮殿下は、堀場一雄から会議の報告を受けると、「次長に直接意見具申したきことがあるから、連絡せよ」と仰せられた。河辺課長を伴って次長を訪れた殿下は、この重大な案件を是非とも御前会議にかけられるよう熱心に主張された。平和愛好家の陛下は必ず交渉継続を支持されると殿下は考えていたのである。その意見を聞いた多田は感激面に現しながらも、「文武当局の意見が合わぬからとて、陛下の御裁断を仰ぐのは、輔弼の重責を放棄する違憲行為であり、いかな殿下の仰せとて、これだけは従いかねます」と答えた。多田の意見を黙って聞かれた殿下は深くうなずかれ、「よくわかりました。ほかに申すことはありません」と、上官に対する敬礼をされて静かに退出された。見送った多田次長はぽつんと「ありがたいことだ」とつぶやいた。時に午後二時であった。

蒋介石否認声明を出した近衛であるが、すぐに自身の間抜けさ加減に気がついた。そうなるともうこの内閣の面子が嫌でしょうがなくなる。特に陸相杉山の更迭に御執心であった。後任候補は板垣であった。板垣を呼び戻すには、多田に頼むのが一番いいと考えた風見章は、それとなく陸相更迭を伝えたが、多田は、更迭自体には賛成も、後任は序列から言って古荘(幹郎)が適任ではないかという。がっかりした風見は、別ルートでの板垣呼び戻しを図ることとなる。内閣が改造されると、多田は新外相宇垣一成を訪ね、「蒋介石は相手にしてもらって差し支えない」と伝えた。

この改造には一つのオマケが付いた。強硬派東條英機の陸軍次官就任である。多田と東條は事毎に対立した。板垣は二人の板ばさみにあった。10月、遂に東條が爆弾を破裂させた。軍人会館における在郷軍人総会で、「日華事変の根本的解決のための必要上、吾人は北方はソ連と、また南方においては英米と対決するの要あるを覚悟すべきである」と演説したのである。さすがの板垣もこれには怒り、東條の更迭を決めた。しかし東條は陸軍次官という身分を盾にとり、自分を辞めさせるなら、多田も辞めさせるよう板垣に迫った。困った板垣は結局、多田を第三軍司令官に、東條を航空総監に栄転させ、事態の沈静化をはかった。当時第二部長だった樋口季一郎は多田を評して、「余裕のある思慮深き、偉大なる紳士であり高邁なる識見の保持者であった」とし、東條の更迭は省部一体の見地から大いに慶すべきものであったが、多田次長の転出は、参謀本部人事として大いなるマイナスであったと書いている。

第三軍司令官時代、関東軍隷下兵団長会議において、辻政信の手による国境紛争処理要綱の説明が行われた。席上、植田謙吉大将から「国境内に侵入してくるものがあったら、諸官は断固として直ちにこれを撃退せられたい」との訓示があった。これに対し多田は「お示しの通りにやると、あるいは思わざる結果を起こすかもしれない。少し考慮の余地を与えられたい」と言った。植田軍司令官は「そんな心配はご無用だ。それはこの植田が処理するから、第一線の方々はなんら心配することなく断固として侵入者を撃退されたい」と重ねて答えた。会議の後、多田は沢田茂第四師団長を捕まえて、「植田軍司令官はあんなことを言われるが、まことに心配に堪えない」ともらした。此会議の一ヶ月後、ノモンハン事件が発生した。

第三軍司令官時代、もうひとつの大きな出来事が、阿部内閣陸相問題である。平沼騏一郎が内閣を投げ出し、阿部信行がその後を継いだが、その陸相選考において、陸軍省西尾寿造、多田、磯谷廉介、東條の四人を候補とし、絞込みに入った。西尾は中堅に反対意見が多い。東條は人事が不公正。磯谷はノモンハン事件の責任者であるだけに不可。多田は、東條とは反対に普遍的ではあるが、周囲の人選が良ければ公平な人事を行い得るだろう、ということで、多田に決定した。飯沼守人事局長が満洲に飛んだ。阿部擁立に走り回っていた有末精三は、陸軍省でばったり山脇正隆次官と会った。山脇は「新大臣候補も親しい間柄だからよかったね」という。驚いた有末は、飯沼が満洲に向かったという話から、「新京(磯谷)ですか」と聞くと、「いいや、その先の牡丹江だ」。早速板垣に報告すると、板垣も「ヨカッタ、ヨカッタ、新大臣候補も同じ兵科(阿部も砲兵)で親しい間柄だしなあ」と喜ぶ。軍務課長室に帰り、たまたま訪れた渡辺富士夫防衛課長に、新大臣が多田中将であることを告げると、渡辺は驚いて「これでは血を見ますよ」と警告したが、イタリアにずっといて、多田と東條の壮絶な鞘当を知らない有末には何のことかチンプンカンプンであった。飯沼を迎えた関東軍は、てっきり後任陸相は磯谷だと思い込み、大喜びしたが、多田であることがわかると、飯沼の牡丹江行きを阻止しようとした。ニュースも一斉に後任は磯谷と伝えた。しかし、舞鶴にいた石原は、八月二十八日の日記に「内閣倒れ阿部大将後任多田中将陸相との事」と書き記している。二十九日、阿部が参内して大命を受けたが、まもなく阿部の娘婿稲田が和服のまま陸軍省に飛び込んできて、陸相には畑俊六か梅津美治郎をという陛下直々の綸言があったことを伝えた。待機していた面々は強いショックを受けたが、梅津は関東軍司令官が内定しているので、侍従武官長であった畑を下げ渡し願い、何とか組閣にこぎつけた。飛行機に乗れず汽車で牡丹江に向かった飯沼少将は、牡丹江の駅で、すぐ帰れとの電報を受け取ったとか。天皇陛下陸相人事に口を出したのは、後任磯谷のニュースを受けてのことらしいが、多田は長らく自分が陛下の不興を蒙っているのではと悩んだ。多田の陸相就任は石原の再浮上を意味した。そういう意味ではこの陸相人事は、石原東條という大物の行く末に、かなり大きな意味を持つものであったと思う。

支那方面軍司令官に転補されると、川島芳子も丁度北京に舞い戻っていた。この時代、川島は多田の威勢をバックにかなりやりたい放題やっていたようである。もっとも彼女をそういう境遇に追いやった責任は日本にあり、一概に彼女だけを責めるわけにはいかないが。このまま放って置けば多田の名誉に傷が付くと考えた幕僚は、茂川機関に彼女の始末を命じた。命令を受けた中野出身の某中尉は、あの手この手で彼女を北京から追い出そうとしたが、川島もそこら辺のことはよくわかっているので逆に居直って、動こうとしない。意を決した中尉は、直談判に出た。中尉の誠意が通じたのか、まもなく芳子は北京を退去した。

この時代の多田について、何人かの回想を拾ってみる。梨本祐平氏はその著作『中国の中の日本人』で、多田について、”自分より後輩の石原少将を衷心より尊敬していた。自分でピアノを弾くほど音楽好きであり、また、夕方ふらっと一人で街の店頭に立つような気さくな軍人であった”と書いている。

一方熱狂的石原シンパの朝日記者田村真作は手厳しい。多田は、”中国の民衆を愛する気持ちはあったが、国民党嫌いで所詮若き中国の動きがわかる人物ではなかった”としている。田村がここまでいう原因は新民会である。新民会はもともと山下奉文武藤章が北支方面軍時代につくったものであるが、このときは政治大好きの有末精三参謀が取り仕切っていた。有末は新民会を盾に、北支の特殊性を言い立てて、東亜連盟を弾圧した。田村に言わせると多田は、新民会の存在が如何に華北にとって有害なものであるかを良く知りながら、知らぬ顔をしていたという。しかし田村が北支において憲兵に捕まらなかったのは、多田の密かな庇護があったからである。まったく同じことについて、辻政信も『亜細亜の共感』の中で書いている。こちらはさすがに田村のように単純に多田を批判はしていないが、言ってることが振るっている。”多田中将は、内心に於いて共鳴されながらも、その幕僚たちを抑える事が出来ず、参謀長以下は、総軍の方針に対し、面従腹背の態度を取った。”

中原会戦を前に北京に多田を訪ねた石原の同期、平林盛人は『渦巻のなかの善意』で、”大将には脱俗仙人の観がある。会食後の運動に新調の一輪車−これは農夫や苦力達の使う運搬車で会って狭い細い道には至極便利なもの−を運動がてら使っておられ、この一輪車の一方に桜井中将(省三)を他方に私を乗せ巧みに運搬される。その着想の趣味敬服の外はない。愉快な思い出である。”と綴っている。

やはり新聞記者の高木健夫は、金の縄をぶら下げた軍人は吐き気がするほど嫌いという人物だが、多田とだけはうまが合った。毎週金曜日の午後三時、多田の軍司令官官邸に裏庭から入っていく。広い庭に茶室のような房子が建っており、軍服を脱いだ多田が、香など焚いている。
「どうだいこのごろは」
「さっぱりおもしろくありませんな」
「戦をやってるんだもの。面白い分けないさ。中国の連中はどうだ」
「だめですよ。日本の軍人がいる間は何も出来やしませんよ」
「だろうな」
「最近、汽車の中で参謀が席を占領し、ふんぞり返って書類を点検してます。あまりにもみっともないんでどうにかなりませんか」
「うーむ、しかし彼等は一応生命をマトに戦争をしてるんだからな」
「しかしあの軍事機密の書類を車中でひろげるのは非常識じゃありませんか。軍人にとっては敵中で行動してるわけでしょう?」
多田は黙々と考えていたが、翌日の訓示でこのことに触れたと、後にある参謀から聞いた。
夕方の料亭の前には、金の星を付けた陸軍の公用車がえんえん列をなす。こいつはなんとかなりませんか、といったら、その翌日からこの風景がぴたりと無くなった。
「どうした、星の自動車はまだ料理屋の前にとまってるかい」
「とまってません。さすが軍司令官の威令ですな」
「おだてちゃいけない、いまのところ、軍司令官のやれることはこんなことぐらいのもんさ」
多田はさびしそうに笑った。この人はいつも「器用に負ける方法」について考え、かつ語っていた。「器用に負ける」ということは煎じ詰めると、中国大陸から撤兵することだ。しかしそれがなんとしてもできない。そうしているうちに日米開戦となるのである。わたくしは何度も、多田の考え方を、そのまま論説に書いた。報道部の検閲も、事情を知っているので、一見非常時局的な、ときに反軍的論説もフリーパスだった。こういう論説はきまって中国人の間に良心的な反応があるのも不思議だった。(『新聞記者一代』より)

有末精三が着任したとき、多田の第一声は、「支那民衆は威服ではなく悦服だよ」であったという。多田は当時、上記高木の東亜新報に「迷悟洞」という筆名でコラムを持っていた。また軍司令官通行時は一般人は通行禁止というきまりは多田の着任と同時に即時廃止された。

十六年七月、大将親任と同時に軍事参議官に転補となった。予備役編入を前提とした人事である。彼の離任を惜しむ声は、日中双方に大きかった。東京への帰途、船が大阪に着くと、多田は京都にいる石原に会って行くと言い出した。随行の有末は、問題の人と軍状奏上前に会うのは批判の的となると考え止めたが多田は聞かない。そこで有末は、後々のことを考え、会見に自分も立ち会うことを要請し、三人での会見となった。案の定新聞記者が嗅ぎ付けてきたが、有末は会見を開いて当たり障りの無い話で撃退した。東京で天皇に軍状奏上が終わったあと、陸軍省で局長以上を集めての報告会があったが、その席上多田は、唯の一言もしゃべらない。有末は困り果てて、適当にお茶を濁して散会したが、武藤、田中隆吉はこの多田の無礼に怒って、有末に当り散らしたとのことである。

予備となった多田は千葉に引っ込み、大好きな良寛の研究に没頭した。糸魚川の相馬御風わざわざ訪ねるなど、その研究は相当進んでいたようだ。また京大の田辺博士の所論なども研究しており、「一」というものについて書きたいと言っていたとか。「石原が法華第一だ、読め、というから読んだが、シンボルばかりで、要を得なかった。是非、この「一」を手に入れる具体的方法を教えてもらいたい」
死の直前には、「どうも近頃食事が滞る、これは自分の心の深奥に未だ大きな矛盾が残っているためだと気づき、日夜自省に努めているが、なかなかだ。結局宗教的な解決しか方途がないように思う」と友人に漏らしている。

戦犯裁判では一応戦犯に指名されたが、体が悪かったせいか、巣鴨には入っていない。支那の首脳から、他との関係で止むを得ず指名したが、何時までも病人のままで居ってくれといわれたよと、笑っていたとか。子息の顕氏(千葉大教授)は、多田が巣鴨に入らずに済んだことにつき、特に世話になった人として楢橋渡や有末精三、十河信二らの名前を挙げて感謝している。市ヶ谷では一度だけ法廷に立った。このときの多田の挙措は余程人の心を打つものであったようだ。有末は”病を押して麻紋服に袴姿で市ヶ谷戦争裁判の証言台に立たれて、支那関係の友人被告、松井、板垣、土肥原の三大将のために堂々弁護されたあの長身不動の将軍の態度、朗々たる音吐、切々たる友人への思慕、正論、今なお私の眼底耳朶に彷彿として残っている”と『政治と軍事と人事』の中で書いている。彼だけではなく朝日新聞も、”重要な数項の証言をこころみ、裁判官席、被告席の双方に一礼して退廷していった。印象に残る清清しい日本の昔の武人の面影を宿す風景ではあった”と書いている。

多田は戦後、法廷に立つことを予期して一つの手記を残している。その中でとくに石原に関して一項を設け、「実に日本の先覚者なり。此先覚者を用ふる能はざりし日本は今日の如き有様となる。誰の罪ぞや」と書いている。また本庄繁大将に関しても、”新聞が彼を軍閥の張本人の如く発表しありしは大間違いなり”と訴えている。多田は本庄を非常に信頼しており、石原のことなど何かと相談していたようだ。

一方、心許した真壁宗雄氏(楢橋書記官長の秘書官)に対しては、「僕は戦犯で巣鴨に入る屈辱を受けてまで生きていたくは無い。何時、入れられるか分からんが、その時には死ぬ心算だ」として、青酸カリの入手を依頼している。

板垣や東條の刑死のわずか前に多田は胃癌で死去した。それから一年もたたない内に、石原もまた死去した。苦しい息の下で石原はこう言ったという。「多田さんや板垣さんが先に逝かれたが、寂光への道でウロウロしてはいかんから早く行って案内してやりたいと思ったりしています」

私の昭和史

2月26日。といっても今年も特に何もしないんですが、末松太平元大尉の『私の昭和史』が中公文庫より出版されました。

とにかく軍人の回想録は数多あります。私も相当数所蔵していますが、この本はその中でも五指いや三指に入ると思っています。まだ読んでいない方はこの機会に是非ご購入ください。

私の昭和史(上) - 二・二六事件異聞 (中公文庫)
末松 太平
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末松 太平
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第三帝国の中枢にて

第三帝国の中枢にて-総統付き陸軍副官の日記
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陸軍総司令官の後任の件。破局の余波はまだ残っている。総統はシュムントとわたしを相手に、陸軍総司令官と完全に決別すると決めたことについて長時間話をされた。いわく、余に必要なのは楽観主義者であって悲観主義者ではない。余はあの上級大将に何も言うつもりはないが、政治的な臆病者を使うことはできない。最善の策はベンドラー街から参謀本部の人間をたたき出し、代わりに若手を登用することだ。将軍には政治が分からぬと言ったのはフリードリッヒ大王だが、将軍は戦争の指揮に恐れをなすことを見抜いたのは余が初めてだ。後任さえいてくれればいいのだが。ライヘナウはだめだ。あの男は当てにならない。国家社会主義者でなくてもかまわないが、余の政治目標に忠実で、それに盲目的に従う人間でなければだめだ。ショーベルトは確かに非常に情熱的だが、物の見方に未熟なところがある。グデーリアンも諸々の理由から問題外だ。彼は将軍たちの中に敵が多い、と。シュムントはライヘナウを支持したが、総統を納得させることはできなかった。

それから、軍の高級指揮官の責任感、告白する勇気、政治的な先見の明について話された。いわく、この話題では、軍人に関する芳しい話はあまりない。政治信条、さらに世界観上の信念は、将校には分からない。なぜなら、それは祖国とか「神とともに皇帝と帝国のために」とかいったもの以上のものだからだ。軍の指揮官らはこれまで余に間違った忠告ばかりしてきた。彼らの政治的直感のなさはひどい。ライヘナウのような新しい考えの持ち主でさえそうなのだ。ほとんどの場合、彼らは瞬間的な印象に負けてしまう。ライヘナウが日本の代わりに中国と同盟を結んではどうかと言うのを間いたときには、ぞっとした。だから余は当時、ライヘナウを総司令官に起用する案を支持しなかったのだ。彼の資質や国家社会主義に対する姿勢は評価するものの、余が彼を完全に信用してはいないこととはまったく別の話だ。ライヘナウは非常に活動的だから、政治面で勝手な行動を取ることも可能だと考えている。だから彼は、信頼できる忠実な部下とはとても言えないのだ。ハンマーシュタインは、余の敵ではあるが、政治的な問題を冷静に考えることができる男だ。危険人物だったので追い出さざるを得なかったが、どう控え目に見てもあの男は、余の人間性と世界観を憎悪する主義を貫いていた。余には、ハンマーシュタインが自分の考えを死ぬまで守り通し、第三帝国に露骨に反抗し続けるだろうということも分かっている、と。

総統と総司令官との信頼関係はもはや修復不可能だ。作戦会議はいつも気まずい雰囲気になる。総司令官は総続からの非難や攻撃に耐えられない。夕方、マウアーヴァルトで、総司令官は、もうだめだ、心身ともにもたないとわたしにこぼし、ついに休暇を申請することにしたと言った。そして、総統が後任をお選びになるのなら、フォン・クルーゲかフォン・マンシュタインを推す、ケッセルリングは絶対にだめだ、あれは帝国元帥の手先に過ぎないと言った。夜、シュムントにすべて報告した。彼は明日総統と話をするつもりだと言う。

最近はいつもそうだが、今夕の作戦会議も冷え切っていた。会議の後、シュムントとわたしは総統にいくつか報告を行った。今のところ、総統はカイテルとヨードルの解任を心に決めておられるらしい。シュムントが、後任はお考えですかと尋ねると、総統はケッセルリングとパウルスの名前を挙げられた。いわく、タイミングをどうするか、それだけを決めかねている。カイテルはほかのことではよく働いてくれるのだが、どうやらヨードルの影響を受けているし、もともとたいして自分の考え方を持っているわけではない。ただその前に、まず参謀総長を切ることになる。彼とはもう絶対にやっていけない。

総統が、相手をはずかしめるような状況で参謀総長を解任なさった。ほんの少し前、シュムントから初めてそれを聞いたわたしは、シュムントの指示で参謀総長の様子を見に行った。ハルダーは本当に驚き、わたしが来たことに対して涙ながらに礼を言った。そして、「もしきみがわたしの経験したような目に遭ったとしたら、こうしてきみが来てくれて、わたしがどう感じているか、きっときみにも分かるだろう」と言った。我々は、ハルダーに向かって僚友らしからぬ下劣な態度を取ったカイテルに対して激しい怒りを感じている。

総統とヨードルが激しく言い争った。ヨードルは、妨害工作を行った部隊に対する「特別措置」に強く抵抗し、「ブランデンブルク部隊」やSDの隊員に何か起きるかを考えてほしいと訴えた。一方の総統は、威嚇の効果に大いに期待しておられる。カイテルは、いつものようにヨードルを裏切っては総統の意見に賛同した。情けない男だ。彼はコマンド命令の草案を持参し、署名を求めた。我々はこの命令のことを大いに憂慮しており、ヨードルから、この命令を人民委員命令と同じように扱うように、総司令官や参謀総長に働きかけてほしいと頼まれた。最後に総統は、威嚇的措置に踏み切ろうとしない部隊の生ぬるさを厳しく非難された。いわく、余にはよく分かっている。陸軍の連中は、人民委員命令のときのように、受け取った命令にまったく従わなかったか、しぶしぶ従っただけだ。その責任は、兵士をできるだけ聖職者のようにしたいと考えている総司令部にある。SSがなかったら、今ごろは何も実行されずに終わっていただろう!ヨードルは、戦争中でも国際協定は守るべきだ、それが自軍の部隊のためにもなると反論した。

ザ・コールデスト・ウィンター<上>

ハリマンもリッジウェイも後に気がつくことになる。マッカーサーは問題の是非を目先の目的にかなっているかどうか次第でどちらの側からでも熱弁を振るえる、ということだ。

がんこなハンマーシュタイン

「用心もせず、恐れもせず、あんなにはっきりあの政権を拒否した人を、私はほとんど知らない」