一生モノ(かもしれない)の音楽アルバムベスト50を紹介する。

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年末あたりから色んなブログで、おすすめ○○ベスト○○系の記事がよく目に入って楽しそうだったので、自分もやってみる。

映画や漫画や本も楽しそうですが、一番好きなのは音楽なので、とりあえずは自分の人生に影響を与えた音楽アルバムをランキング形式で紹介したいと思います。まあ、音楽に上も下もないし結局は個人の好みなので…とか身も蓋もないことをいってもつまらないので頑張って順位付けしました。

縛りなしだと選定が困難なので以下のようなルールを設定。

  • 同一アーティストの作品を複数いれない
  • クラシックや現代音楽は除外(アルバム単位で選ぶのが難しいのと色んな意味で面倒)
  • 20年後でも聴けると自信をもって言えるかどうか

というわけで早速発表していきます。長いよ。

 

一生モノ(かもしれない)の音楽アルバムベスト50を紹介する。

 

障がい者が障がい者にインタビュー

っていうのをやってみたくて、先日、ツイッターのフォロワーさんに声をかけてみたら快諾してもらったので、実際やってみた。…んだけど、あまりにもわたしの掘り下げ方や話のもっていき方が下手すぎて(そして自分が喋りすぎ)て、公開をためらってたんだけど、まあいいやと思って、公開してみます。未熟さゆえの話が盛り上がりきらない寸止め感をお楽しみください。

今回、話を伺ったのはミオパチー、ニューロパチーという障害をお持ちのrefさんです。

 

--- よろしくおねがいします。今日はいきなりのご相談にも関わらずありがとうございます。今回なんでこういったことをお願いしたかといいますと、従来はマジョリティ、ようは健常者の方がマイノリティに対してインタビューするってスタイルがほとんどだと思うんですけど、これだと結局当たり障りのない話で終始してしまうんじゃないかなあと思いまして。

refさん 確かに、突っ込んだ部分はわかりにくいかも知れないですね。

--- それであればマイノリティがマイノリティを取材したほうが、より色んなものがみえるんじゃないかというのがざっくりとした趣旨です。というわけでぼくは極力客観性を意識しつつ突っ込んだ話をしなきゃいけないので、しょっぱなからうまくできるか心配ですが...。

refさん 承知致しました。可能な限り実直に答えようと思います。

--- ありがとうございます。それでは早速本題にはいらせていただきます。
えーまずは出せる範囲で構いませんので、簡単な自己紹介などをしていただけますか?年齢、住まい、職業、障害の中身など。

refさん 神奈川県在住で、今年から大学院2年生です。障害は、全身の筋力の低下と四肢末端の感覚障害で、現在は歩けないので電動車椅子で通学し、ほぼ24時間人工呼吸器を装着しています。座位の状態も常に左腕で体重を支えています。

--- 大学はどこでどういったことを勉強されているのですか?障害は障害名で言うと?後天的なものですか?

refさん 大学名はW大学でコンピュータ計算を用いた化学反応の解析をしています。障害名で言うと「ミオパチー」と「ニューロパチー」です。幼少の頃からうっすらと障害の兆候はありましたが、一番最初に大きく障害となったのは小学5年生の時に、足のかかとが地面につかなくなった(尖足)ことです。

--- 大学に入学される頃にはもう障害がかなりあったのですね。これは進行性の障害で、これからも更に悪化する可能性があるのですか?

refさん 大学入学時は、左手で杖をついて自立歩行で通学していました。大学1年の後期から電動車椅子の使用、2年生の夏前から人工呼吸器を24時間付けるようになり、今後も悪くなっていくことが想定されます。

--- ということは今後も悪化していくと命に関わるというかそういうかんじなんでしょうか?

refさん その可能性もあります。主治医いわく、僕の症状は世界的に見ても症例が少なく、判断が難しい面があるということです。

--- なるほど。ぼくは幸いにして命に関わったりするような障害ではないので、この点は多くの人と同じような疑問をもってしまうのですが、そういった状態の中でモチベーションが沸かないかったり、しんどいなって気持ちであったり死に対する恐怖ってありますか?

refさん 特に学部時代は色々と思い悩むことも多かったです。同じ大学の仲間はバイトしてサークルして大学生活を満喫していましたが、僕には苦行でした。今でも「死が怖い」一方で「生きている価値があるのか」という矛盾を含んだ考えを自分の中で消化しきれていませんが、人間誰でも最後は死んでしまうので、それが遅いか早いかは神のみぞ知ることで、あまり思い悩んでいても建設的ではなく、生きている間は最善を尽くそうと思っています。

---「生きている価値があるのか」っていうのは他の人と比べてできないことが多い自分が嫌だという意味で、ということですか?

refさん そうですね。普段の生活の上でも他の人の協力がなければできませんし、仕事のパフォーマンスも他者に比べれば劣っていると思います。他の人に比べ「ポンコツ」であるとは思います。

--- なるほどなるほど。例えば部分的に(学力とか)refさんよりポンコツな人も世の中には大勢いるわけで、そういう人よりもトータルでみると劣っているとこが辛い、といったかんじですか?

refさん そうです。身体が動かないというのは致命的な欠陥であると感じていて、トータルで見ると劣っていると感じます。
というのも、ほとんどの企業というのはある程度の「健康」は採用の前提条件であり、社会的に貢献するのに必要不可欠な部分であると思っています。

--- そこの点、ぼくは前々から思ってるんですけど、単純に物理的な制約によるコンプレックスって大きいですよね。テクノロジーや制度の発展って差別とかコンプレックスにすごく直接関わってきますよね。例えば今の世の中って通勤が当たり前ですけど、これが在宅勤務が当たり前の世の中になったら、1つ制約がなくなった分コンプレックスというか大変なストレスもなくなるわけじゃないですか。
自分も電動車いすっていうテクノロジーがなかったら、今と同じような生き方や選択ってできなかったと思うんですよね。
そういう意味で、障害とか差別の話ってやたら心とかそういうった面にばっかスポット当てるんですけど、そこはぼく違和感があるんですよね。人の心(優しさ)に左右されるようなシチュエーションって少なければ少ないほどいいはずなんです。その点について、どう思いますか?

refさん 医療の進歩や技術の発展によって、障害のある方の選択肢は次第に増えてきていると思いますが、「それが十分であるか」と問われると、答えはNoだと思います。まだ過渡期の段階にあると思いますし、もっと柔軟な思考を持って社会づくり、システムづくりをすれば、活躍の場はさらに広がりを持つと思います。

--- refさんご自身は院を卒業されたら、どういった進路を考えているのですか?

refさん 正直に答えますと、明確なビジョンを持っていません。一番なりたいものは研究員なので、そのために「箔がつく」博士課程への進学をします。もし研究員になれなかった場合、短時間の事務仕事、あるいは、ずっと家で暇をしている状態になってしまうと思います。

--- 今、研究されてる内容ってご自身の障害とかに関わってくるもの(直接的か間接的かは別にして)だったりするんですか?

refさん いいえ、全然関係ないことです(笑)障害があるから障害を研究したい、とは思いませんでした(笑)

--- それ大事だと思います。恋愛とかはどうですか?

refさん 恋愛ですか、高校は男子校でしたし、大学は他の学生と遊ぶ体力がなかったので、浮いた話は一切ないです。現状だと、恋愛に体力を使うと研究まで回らなくなるという懸念もあります。

--- これは真面目な話なんですが、とはいえ男性なんで欲求はあるわけじゃないですか。その欲求への対処というか解消方法みたいなのってYunoさんの障害だとご自身では難しいんですか?周りくどい言い方をしてますが、ようは自慰行為とかの話なんですけど。

refさん ぎりぎりで自分で行えてます(笑)ただし、ズボンとか体にひっかかると後処理できないので、ベットの上でティッシュをうまく使ってやってます。

--- リアリティがありますね(笑)あと、もう一点は気持ちのどこかで自分が恋愛やセックスすることへのあきらめとかもありますか?

refさん ありますね。もし、相手と恋愛して結婚しようという段階になったとき、相手に負担をかけるのは明白で、そうなると自分自身も心苦しいです。好きな人にはできる限り幸せになって欲しいですからね。

--- そこはもっと気楽にいけば、とかぼくは思っちゃうんですけど、なかなかそうもいかないですか?

refさん なんでしょうか、自分が安定した収入を得られるか分からないですし、子供の学費を捻出できるのかも自信がないですね。

--- まあ、でも付き合うだけならそこまで考える必要もないというか。余計なお世話でしょうけど...

refさん 善処します(笑)

--- ホーキング博士とかバツ2とかじゃなかったでしたっけ?知らないですけど(笑)

refさん 僕もわからないですけど、頑張ってますね(笑)「宇宙に行きたい」って言っちゃうような人ですしね。

--- かっこいいですよね。でもまあ、話を戻すと、やっぱ相手に負担をかけるのが嫌っていうのは、みんないいますよね。ぼくも幼少の頃はそう思ってたんですけど、年々開き直りっていうか別の部分で頼りにされるような部分があればいいじゃん、みたいな感じになったんですよね。だから単純に物理的な制約の絶対量ってデカいなっていう。

refさん 頼ってもらえるような人間になれるように精進します(笑)

--- あと、もう一つ障害者の制約って意味で大きいのは、「自分の味方(家族)」だったりすることはないですか?感謝してるからこそ、この人達のためにがんばろうって意識が強くてなかなか自分に正直になれなかったり。その点はどうですか?

refさん もちろん、家族のために頑張らないといけないという気持ちも強いです。すごく感謝しています。しかし、ある程度は正直に打ち明けないと、効果的なヘルプは受けられないですよね。でも、強く言い過ぎると、逆上されて助けてもらえなくなることもあるので、言い方悪いですが、「さじ加減」と言ったところでしょうか。「頑張る」ことと「無理をする」というのは履き違えないようにする必要があると思います。

--- なんというかぼくの勝手な願望というかぼく自身が意識してることでもあるんですけど、恋愛とかそういうことも含めてrefさんみたいな人がもっと好き勝手に自分本位にわがままに生きたらいいのになあとか思ってるんですよね。相手の負担もちょっとは考えたほうがいいとは思うんですけど、こう「そこまで考えなくても」ってぼくなんかは思ったりするんですよね。
もちろん体力的なキャパとかもあるとは思うんですけどね。

refさん 病院のOTの先生にも似たようなこと言われました。

--- そういう人が増えれば増えるほど世の中のバリアフリーとかもテクノロジーも発展していくような気がするんですよね。

refさん 重度の障害を持ちながらも、社会で頑張って働けば、その後の時代の障害者の人たちが楽になると思います。僕が頑張らないと、ですね。

--- 他の障害者のためじゃなくて自分のためでいいんだと思いますよ。

refさん もちろん、自分のためにも、ですよ。

--- 自分9:社会1くらいの割合でおねがいします(笑)自分のために生きた障害者が大勢いた結果として、社会がよくなる、でいいと思うしそれが多分一番の近道なんですよね。

refさん その通りだと思います。みんなが自分のために生きて、その結果、社会全体が良くなれば最高ですね。

--- 今日は本当にありがとうございます。まだどのタイミングでどういう風にアップするかは決めてないんですが、掲載させていただきますね。それでは、本当にありがとうございました。ゆっくりお休みになってください。では、また。

ザックの笑顔が見たい。

スペインの大敗にかなりショックのまるみえです。ご無沙汰です。


いよいよ明日は日本の初戦、コートジボワール戦でごわすね。今回の日本、全く読めません。まあ、いつも読めないんだけど今回は輪をかけてどうなるか予想がつかない。全勝もありうるし全敗もありうる。日本史上最高のメンバーと攻撃力が、いかんなく発揮されれば、どの国とやっても引けをとらないだろうという期待がある一方、あの守備でのグダグダ感をみると、どの国とやってもコロッと負けそうな気もするという、日本史上、稀に見るスペクタクルなチームだと思う。とはいえ、スペインのような完成されたチームであっても今日みたいなことが起きるんだから、読もうとすること自体が野暮なんだけどね。(しかしいくらなんでも1-5は…)


そして、そんなスペクタクルなチームを4年間かけて築き上げてきたのが、日本代表のザッケローニ監督である。


ザッケローニ監督はよく「バランス」という言葉を使う。そして実際にすごくバランス感覚に優れた監督だと思う。日本代表のここ最近の結果だけみると、得点はとるけど失点が多い、というのはバランスが良くないんじゃないかという風に捉えられがちだけど、そうではない。


「勝つために失点を覚悟で攻撃力を高める」というのもバランスなのだ。サッカーに限らず、バランス感覚というのは多くのパラメータをアジャストした上に成り立つもので、外からみるとサッパリわからないこともあるし、時に偏ってるという風に見えるものだと思う。


自身のもつサッカー哲学と、日本代表というチームの持つ能力を最大限発揮でき、かつ最も勝つ可能性が高いと考えた結果、この「2点とられても3点とる」というスタイルを貫くことが、日本を勝たせるためのバランスなんだと思う。(ザンビアに3点はまずいとは思うけど。)言い換えれば、日本はまだ大舞台で、サクッと1点とって守りきれるようなチームではないということだけど。


ここ数年間、日本は格上と言われるチーム相手に、度々善戦し、時に勝利もしてきた。


その時の、カメラに抜かれたザッケローニ監督をみてみると、喜ぶ選手やサポーターを他所に大体地面とか少し蹴りあげちゃったりしてキレ気味なんですね。まあ、キレてるかは別にして少なくとも喜んではない。


普通、格上のチームに追いついたり勝ち越ししたら、喜んだりホッとしたりするもんだと思うけどザックはそういう時あんまり喜ばない。あれは「こんくらいできて当たり前だろ。おせーよ。」って気持ちの表れなんじゃないかなとぼくは勝手に思ってる。もちろん本番ではないからってこともあると思うけど。


つまり自分の作り上げてきたチームと自分の選んだ選手を本当に信じてるんだなとぼくは感じてしまう。そしてそれは情緒的にではなく、戦術、能力を十分に考慮した上での信頼だと思う。


だからこそ勝ってほしいと思うし、ザッケローニ監督が批判にさらされながら日本を去ってしまう姿は悲しすぎて見たくないのである。


ザックのガッツポーズと笑顔が見たい。

ラーメン屋の大将

恥ずかしながら帰ってまいりました。

まるみえです。

どうもお久しぶりです。
仕事が割とヘビーなのと、天性の怠惰と、三十路間近の急激な老化が絶妙にブレンドしてしまい、更新が滞ってしまいました。
もうちょっとコンスタントに書きたいとは思ってるのですが、なかなかねえ...。

と、言い訳もしたところで、今日はよく行くラーメン屋の大将にちょっと感動した話。

このラーメン屋、大将はパキパキの元ヤンもしくはヤクザオーラ漂う40歳手前のそこそこ無愛想なおっちゃんと、
夜は男性スタッフが一人、昼間は女性スタッフが一人いまして、割と繁盛しているお店です。

週末ともなると、昼夜問わず割と満席で、たまに酔っぱらいが入ってきてワケのわからんことを言っては大将がパキパキになりかけて店内の雰囲気がピリピリする感じの店です。

ちなみにぼくはラーメンを食べるとき、通常の器だと一人では食べれないので、浅いお皿に移し替えてもらいます。
誰かと一緒にいくときはその人にお願いするんですが、割と一人でいくのが好きなので、そういう場合はお店の人に恐縮ながらお願いしているわけです。

夜に一人で行くと、男の店員さんが色々気配りしてくれてラーメンを移し替えたり、水にストローを突っ込んだりしてくれます。
その間、大将は特にこちらに気を配ることもなく、時折パキパキしながら黙々とラーメンをつくっています。

ここ最近は昼間にも一人でいくことが増えたんですが、夜にいったときと1つ違う点があったのですね。

ラーメンを移し替えてくれるのが、女の店員さんじゃなくて大将なんです。
店内にそこそこお客さんはいるので大将はパキパキしながらラーメンをつくらないといけないはずです。

最初は「?」と思ったんですが、すぐにぼくの脳内にガチンコファイトクラブのナレーションで大将のこんな心の声が聞こえてきたのです。

『あんちゃん...アンタのことはよく知らねえけどよ、アンタも男だよな...女にはみせらんねえ弱さってあるだろ...でもよ、男同士だったらいいじゃねえか...』

自分がもしぼくの立場だったらっていうのを想像し、考えてくれた上での行動なのです。
きっと大将の中で男のプライドとしての線引きをそこで敷いたんじゃないかと思います。
正直ぼくは女性でも男性でも気にしなかったし、そういったマッチョなプライドももっていないのですが、そんなことは問題ではありません。

これがラーメンの移し替えだとどっちでもいいじゃんって思う人がほとんどだと思いますが、トイレ介助とかお風呂だと同性か異性かっていうのは気になるじゃないですか。
そこの分岐点が大将にとってはラーメンの移し替えだったんじゃないかと思います。

たかだか車椅子の客一人にそこまで想像力を働かせ、障害者としてではなく男性として尊重してくれてることが嬉しいのです。
ぼくが大将の立場なら昼飯時の忙しい時間にそんなことを考える余裕などないし、考えたとしても実際やれるとは到底思えません。

まあ、これはぼくの妄想なので絶対にそうだとは言えまえせんが、多分そういうことなんじゃないかと思っています。
あと考えられる可能性としては、ぼくの存在がかなりナチュラルにセクシャルハラスメントで、女性スタッフを近づけたくなかったとかの線もあるかもしれませんが。

というわけで、あの店がずっと繁盛してくれるように今日もぼくは祈るのです。ラーメン。

「障害者も健常者も同じ人間」という過剰な意識がもたらす偏見

エアコン買い換えたい。


まるみえ星人です。


さて、前回の記事がきっかけでコメント欄がかなり白熱しておりました。

ざっくり言うと、コーコーセーの友達さんが書いたコメントに対してaaさんという方が異議を唱え、aa氏が総スカンを食らっているという流れです。


詳細はコメント欄を読んで頂くことにして、ぼくは今回aa氏に対しての意見を書いてみることにしました。

aa氏が言ってることは主にこの4つです。

  • みんな自分の意見を物の言い方だけで判断している。
  • 人はみな生まれたときから平等であるべき。健常も先天も後天も関係ない。
  • 後天性の障害者であるコーコーセーの友達さんの一連のコメントは先天の障害者を見下している。
  • まるみえ星人はコーコーセーの友達に見下されているのに気付いていない。もっと自分に自信を持って前向きに生きて。


まず、aa氏は「物の言い方だけで判断するのはよくない」といった趣旨のことを何度も発言していますが、これはそうだと思います。

オブラートに包んで意図が伝わりにくくなるくらいであれば、断定的にストレートな物言いをしたほうがわかりやすい、というやり方は別に良いです。

その点については同意しますし、言葉遣いや表現の仕方を非難するつもりもありません。


aa氏が間違っているのはそこではありません。

というか正しいのはそこのみであとは全部ダメです。


aa氏が総スカンを食らっているのは、障害者を自分の中のフィクションだけを元に語っているからなんですね。

数少ないサンプルをもとにつくりあげた「障害者のイメージ」のみで考えるから、身も蓋もない一見すると正論っぽいことしか言えてないのです。

自分、もしくは社会が理想としている障害者像を押し付け、それにそぐわない言動、考えに対して糾弾しているだけです。

つまりaa氏こそ、障害者に対してかなりの偏見をもっています。


そしてaa氏は障害者は生きる上で苦労や苦しみがあることを認識しながら、

障害に対して苦悩しながら自分がどう生きていくか悩んでる後天の障害者に対しては


「あなたが言ってることは先天の人の気持ちを考えない差別発言です。もっと相手の気持ちを考えて前向きに受け入れてください。」


と言ってます。

論理もへったくれもありません。


あまりにも馬鹿らしいので、別の会話に置き換えてみます。


「みんな宇宙からみたら金持ちも貧乏も同じ地球人なんだから貧乏で苦しいからってご飯食べたいとかいっちゃダメ!もっと食べれない人の気持ちも考えて前向きに!!ピース!!」

と言ってくる人間に対して

「うん、それはそうだね。それはわかるんですけど、お腹は減るんですけどどうしたらいいですか?」

としか答えようがないのですが、aa氏は更に

「減ったと思ってはダメ!あなたよりもっとお腹空いてる人は確実にいるの!どうにか受け入れて前向きにがんばって!地球は1つなの!!」

としか言ってません。極めつけは腹は減るからどうにか食べる方法考えなきゃなーと言ってるぼくを見つけて

「ほら!あの人はずっと貧乏で食べてこられなかったのよ!あなたは何!少々お腹が空いたからって!我慢しなさい!愛のバイブスよ!!!」

「ほら!あなたも食べる方法ばっか考えてないで、あなたのほうがずっと貧乏だったのに、ここにお腹すいたなんてわがまま言ってる子がいるのよ!」

「あなたは何とも思わないの!?あなた馬鹿にされてるわよ!最低!わたしは貧乏だけどがんばってる人を知ってるのよ!地球は1つなの!!」

「え?金持ちはいいなですって?金持ちはあなたを馬鹿になんてしてないわ!あなたは金持ちなど気にせずもっと貧乏な人がいるのをみて自分の貧乏を受け入れなさい!だって地球は1つなの!!!」

などと言ってきてるわけです。

教師とかでこういうタイプいますよね。



シンプルに言えば、障害の辛さを単に時間の長さや重さのみで計ろうとしています。

また障害の重さ(状態)というのは、ある程度相対化できますが、障害を受けたことの辛さは結局は自分の中にしか生まれないものです。

外からみる辛いと思う部分と、自分が感じる辛さというのは結構ギャップがあるんじゃないかと思います。

簡単に他者と比較して「あなたはこれよりマシなんだから頑張って!」という言い方は、あまりにも想像力に欠けています。

少なくとも、そういう比較を「障害」というカテゴリーで健常者の立場で行なってはいけません。

するならもう少し多面的かつ論理的にしてもらいたい。


aa氏は理想を持ち込むための妄想力は立派ですが、現実に起きる様々な感情や生き方に対する想像力が欠けています。


ちなみに生まれながらにかなりの障害をもっているぼくですら、明日から急に耳が聴こえなくなったとしたら絶望すると思います。

ぼくは音楽を聴いたり作ったりするのが好きなので、それが突如できなくなるというのはやはり悲しい。

「自分が今までできてたことが突然できなくなる」というのは、相対化できるものではありません。

「もっと重い障害を背負って生きてたんだから今更耳くらいいいよね」とはなりません。


そういう意味で最初からできてたはずの部分を知らない先天の障害者が自身の障害を受け入れやすいというのは間違っていないと思います。

aa氏の理屈でいうと、ぼくは障害者でありながら先天性の障害者を差別していることになりますね。別にいいですけど。

そしてコーコーセーの友達さんがぼくを見下してようが見下してまいが、ぼくはどうでもよいですしそれによって傷つくことはありません。


何よりaa氏が善しとする障害者になりたいと思っているのは、他ならぬコーコーセーの友達さんでしょう。

そうなるための過程として様々な苦悩や苦しみや違和感を抱えるというのが、どうして差別や見下すことになるのかがわかりません。

人に見える形で言うのがダメだというのであれば、aa氏がみなければいいだけの話です。

ぼくからすればあのコメントをみて傷つく障害者のほうがダメだと思います。



ちなみに、実際(リアル)のわたしはaa氏が理想としている障害者にかなり近いと思っています。

多分、会ったらぼくのことを「素敵!」「偉い!」「前向き!」と好きになるでしょう。

しかし皮肉なことに、ぼくが自分がそうしてこれたのは、aa氏のような考えの人間を極力遠ざけてきたからだったりします。



というわけで中身のない批判だったので、こちらも中身のある反論をしようがなかったので、この辺で。

「障害を武器にする」よりも「障害を武器にしない」ことのほうが武器になる

まるみえ星人です。


「あなたの障害は個性なんだから、それをもっと武器にしていきなさい。」


障害者ならみんな、人生で一度や二度は聞き覚えのあるセリフじゃないでしょうか。


これ、間違ってると思うんですよね。間違ってるというより、アドバイスとしても戦略としてもあまり良くない。

別に有名人になれって意味で言ってるわけじゃないと思うんですが、何かそれ逆にハードル高いよって感じなわけです。



ぼくは字を書いたりキーボードを打ったりとか、色んな動作を足の指で行うんですが、最初は練習のため、幼少の頃からずっと足で絵を描いてたんですね。

そのうち絵を描くことが好きになって、好き勝手に色々描いてると「すごい!」「画家になれる!」とか大人が騒ぎ出すわけです。

まあ、確かに小学生にしてはかなりうまいほうだったと思うんですが、「いや、そこまでか...?」と疑問に思うところもあったわけですが、

描くこと自体は好きだし、みんなから褒められるし、専属で美術の先生がついたり、なんかしょぼい賞とかもたくさんもらえるし、まあ悪い気はしませんよね。


でも、小学校も高学年くらいになると「いや、そこまでか...?」という疑問が再度、沸々と湧いてきたんですね。

なんでかっていうと他の同学年の子の授賞した作品とかみてると、どうみてもぼくの描くものより彼らの作品のほうが魅力的なような気がしてきたんです。

でも、それだけだとぼくが単に謙虚で自分の才能を過小評価してるともいえますよね。

そこでぼくは、自分の絵を褒めてくれる大人の人達が具体的にどう評価してるのか、意識して聞くようになりました。

すると、なんということでしょう。

ほぼ全ての人が「足で描いたの?すごい!」しか言ってないじゃありませんか。

誰も「よい絵だね」とか「色使いが素晴らしい」とかそういった他の子にある評価がぼくには一切なかったんですよね。

「ここをもっとこうしたほうがいい」とかそういうのもないんですよね。

つまりほとんど誰も絵自体は見てなくて、足で描いたということのみを評価してるわけです。


トラウマってほどでもないですけど、それってなんかやっぱヘコむじゃないですか。

そういう事実に気づく内に「なんか楽しくねー」とか思っちゃって、描くこと自体がおっくうになってったんですよね。



評価軸に「障害者である」が付加されると、本人からすると確かにそこを含めて自分ではあるんだけど...っていう微妙なジレンマが生まれる。

裏を返せば、それ以外評価すべきところがないよねとも受け取れるわけです。

実際ぼくの絵とかはそうだったんだと思うんですけど。

今にして思えば、芸術の評価っていうものはそういう面があるってことは理解してますけど、やっぱ小学生には酷じゃないかなと思うわけです。


周りは別に悪気があってそう言ってるわけじゃないし、むしろ応援してくれてるんでしょうけど、ぼくからしたらすごいつまんないんです。

いや、それでめちゃくちゃ売れるとかだったら別に全然我慢できますけど、やっぱそんな甘くないですからね。


でも多分、あのまま続けててそれなりに技術があがって才能が開花したとしても、自分は「まあ、どうせ足で描いたからだし」みたいなくすぶりをずっと抱えてたんじゃないかなーと。

まー「そのくすぶりも含めてあなたの個性よ!」とか言われたら、もはやどうしようもないんですけど。



ぼくは今フリーランス、シャレオツに言えばノマド的な形でWeb関連の仕事をしていますが、そういう職業を選択したのは上記のような理由で判断されるのが嫌だったからなんですね。

(車椅子を受け入れてくれる会社を探すのに時間とコストをかけるより、自分でやったほうが手っ取り早いっていうのもあったんですけど、それについてはまた書きます。)

ネットだと物理的なハードルはかなりクリア出来るので、自分から言わない限りは、障害者であることはわからないですよね。


「障害者がやってる」ことを出すことで生まれる仕事もあったとは思うんですが、

自分のやってる内容だけをみて評価されないと、ある程度長い目でみた場合、仕事としては成り立ちにくいと思ったんですよね。

何より自分のモチベーションというかやる気も続かないと思ったし。



仕事にせよ何にせよ、障害者であることを意識せず(といっても難しいっちゃ難しいのですが)、自分の中で切り分けて、

自分の好きなこと、やりたいことのクオリティをあげてったほうが、楽しいし色んなことにつながりやすいって話です。

その手段として、ネットっていうのはすごい便利だなと思うし、活用していくべきだなと思うわけです。ムカつくやつ多いけど。

たとえそれが失敗したとしても、言い方は悪いですが、下駄をはかされない状況で何かをやってみるってことは良い経験になる。

もちろん障害の内容によっては難しい場合もあると思うのですが、身体の障害であれば、やってみて損はないかなと。



そういった積み重ねの先に、本当の意味で、障害が個性として昇華される時がくるかもしれないような気がしてます。