日本の悲劇の根源(3)

 
 日本が「帝国」の周辺であるのか、あるいは準周辺(間接的周辺)であるのか、という問題はなかなか悩ましい。それは日本(文化)の相対的な自立性をどの程度認めるのか、という問題とも関係してくるので、デリケートな問題となってくるからである。
 
 総じて、日本が経済的・政治的にパワーがあり、中国や韓国といったアジア諸国が混乱していた20世紀には、相対的な独自性を強調する立場が優勢だったように見られる。脱亜論的なパラダイムと言ってもいいだろう。日本が独自の文化圏であり、遅れて停滞しているアジアに対して、すばやく西欧の文化を吸収して近代化したという「停滞/進歩」のパラダイムが支配的だった。
 
 それに対して、21世紀はその相対的な差異がきわめて小さくなり、もはや「停滞/進歩」というパラダイムが誰の目にも疑わしいものとなってきた所に特徴がある。そこで露出してきたのが、近代以前の「帝国/周辺/準周辺」という構図である。
  
 それはある意味で、アジアの諸国・諸地域の関係がフラットなものになってきたことを意味している。日本の自意識(自己イメージ)は別として、実質的には日本・韓国・中国の関係はフラットなものとなってきている。経済的にもそうだし、文化的にもそうである。韓流・日流・華流が双方向的に入り乱れ交錯する様相を示していて、この文化的なフラットさ(格差の消滅)は、近代においてはきわめて画期的なものと言えるのである。
 
 そのようなフラットな関係になりつつあるアジアにおいて、「帝国/周辺/準周辺」という構図が浮上しつつあるのである。この構図は地政学的な地とも言えるものなので、20世紀の「停滞/進歩」パラダイムや、政治的・経済的格差が消滅することによって、この地が浮上してきたと言えるのである。
 
 そこで問題となるのが、いったい日本は帝国の「間接的な周辺」であるのか、「周辺」であるのか、という問題である。それは、韓国と日本の地政学的な位置をどう見るのか、ということにもつながっている。韓国が境界を接した「周辺」であるのは自明であるが、それに対して日本が「準周辺(間接的周辺)」であることはそれほど自明ではない。日本が「帝国」に対して、ある程度の間接性を持っているのは確かだが、それを選択的受容ができる自由度と見るべきなのか、あるいはクッションを隔てたような間接的受容と見るべきなのかという問題である。
 
 ここの所の状況を見る時、実はアジアのフラット化と見えていることの本質は、日本の韓国化であると見られる。韓国が「帝国」の圧力をいち早く感受し、対応してきたことを、日本はクッションを隔てて10年遅れくらいでその後を追っているという実感がある。実は現在日本で行われていることは、IMF経済危機以後の韓国で行われたこと(すなわち1998年以後)の再現であると見られる。
 
 そうであるとすれば、韓国と日本の差異は本質的なものではなく、ただ単に圧力の差異と考えることができる。「帝国」の圧力がすぐに直接的に影響する韓国と、それに対してクッションを置いたような受容をしうる日本という差異である。この差異は、実はきわめて小さなものとなってきている。
 
 そのことはすなわち言い換えれば、日本の「間接的な周辺」という地政学的な条件が、徐々に小さな差異となり、ほとんど「周辺」的な位置と変わらないものとなっていることを意味しているのである。
 

日本の悲劇の根源(2)

 
 日本について考えるのは実は厄介なことである。先にも書いたように外来の文化・文明は二重の構造をとって受容され、本来の一義的な理念や意味が変容されていく。そのような受容は、日本の置かれた地政学的な位置から来ていると考えるしかない。
 
 この日本の地政学的な位置ということも、厄介な問題を含んでいる。日本が単に「帝国」の周辺的な位置にあった、ということをそれは意味していないからである。周辺的な位置にある国々は「帝国」との間で直接的でシビアな関係を持つことになる。軍事的な侵略を含んだ相互の関係の中で、その関係は直接的な対抗関係、従属関係という形を取る。近代的な概念で言えば、「帝国―植民地」関係と言うことができる。
 
 翻って日本は「帝国」の周辺部に位置しながら、そのような直接的でシビアな対抗・従属関係を持つことを免れた。それはもちろん海峡を間にはさんだ地政学的な偶然によっている。そのため、文明・文化の受容も選択的で、自由度の高いものとなったと考えられる。
 
 ただ、日本の立場から考える時、「帝国」の周辺に位置するということは、ある種の軍事的・外交的な危機感と感受されたことは言えると思う。そのため日本史を通底しているのは、「帝国」の文物をいかに効率よく早く吸収するか、キャッチアップするかという衝迫であり、特に中国で統一帝国が現れた時(隋・唐時代が特に顕著)、その危機感をキャッチアップの動機としたことは想像に難くない。つまり、明治維新以降の西欧文明へのキャッチアップは、中国の統一帝国へのキャッチアップにその原型を求めることができるのである。
 
 このような日本の地政学的な位置をだから「周辺的」と言うことはできない。それはもう少し別な言葉で表現されなければならない。まだ何と呼ぶべきかはっきりしないが、柄谷行人はこの地政学的位置について「亜周辺」という言葉を用いている。「準周辺」とも言いうるだろうし、「間接的周辺」とも言えるかもしれない。
 
 この地政学的な位置を、理論的に規定し導入することは、きわめて重要なことだと考えられる。それは一義的には日本の歴史と経験について理論的に接近するために、「帝国―植民地」という二項対立的な概念からは接近しにくい独特の歴史と経験とを記述するために必要であるし、またそれは「間接的な周辺」であった他の地域・国家の経験と接続させるためにも必要であるからである。
 
 たとえば、インドネシアの歴史や、オーストラリア・ニュージーランドの歴史、また遡れば古代ペルシャにとってのギリシャローマ帝国にとってのイングランドなどと言った地域と、その経験は接続しうるものだからである。地政学的な位置について、より理論的な考察が必要であるのである。
 
 
 

日本の悲劇の根源

 
 日本の直面している問題の多くは、日本の構造的な二重性に根拠を持っている。どういうことかと言うと、憲法では「非戦」を唱えつつ、現実では自衛隊というまぎれもない軍隊を保有したり、また中国・韓国に対して謝罪を繰り返しつつ、その裏ではヘイトスピーチを放置したり、政治家のいわゆる「妄言」を止められないような事態のことである。
 
 このような二重性は多くの場面に見られるもので、実は日本の文化に組み込まれた二重性だと考えた方が分かりやすい。日本人の行動および思考はそのような二重性に取り巻かれているのである。
 
 建前と本音というようにも言われ、加藤典洋によれば「ジキル氏」と「ハイド氏」とも呼ばれるようなこの二重性はどこから来ているのだろうか。この二重性を根本において究明し、解決しなければ日本の直面している困難な問題は解決のしようがないのである。
 
 しかしこの二重性は奥が深く、日本の歴史を通じて見られてきたものであり、それを根源にまで遡るのは容易ではない。天皇と幕府の二重権力にしてもそうだったし、和語と漢語、漢字とひらがな、カタカナの関係にまでそれは辿られるものである。
 
 おそらくそこには外来の文物に対して、それを優位なものとして受け入れながら、その理念を脱臼させ、技術的な問題として変換するような日本の土着的な感性や受容態度が関わっているのだろうと思われる。
 
 漢字を受け入れながら、それをひらがなに崩して、あるいはカタカナとして変容させ、和語に適応させるような態度のことを指している。漢字の一義的な意味は、二重化し、和語の訓読みと漢語の音読みとが併用し、共存していく。そのような漢字の受容に象徴されるような二重的な受容が、日本の歴史を通じて行われてきたのである。
 
 近代以後、戦後にかけても全くその構造は変わっていない。戦後の民主主義や戦争放棄も、そのような二重的な受容の中で、いわば「和語化」されて、本来的な理念とは離れたものとなっていく。
 
 だからそこには、日本の文化的な受容の問題が、根本に存在していると見られる。ひらがな、カタカナ的な変容にその根源が見られるように思われるのである。その二重的な受容の根源に遡らなければ、現在の問題も解くことはできないと考えられるのである。
 

憲法へのクーデターの後に

 
 国家もまた人間と同様に性格を持ち、キャラクターを持ち、過去史を持って存在している。過去の歴史をどう把握して、それを未来の行動にどのように反映するのか、という所にその国家の個性や性格、そして理念は現れる。通常は、憲法とはそのような国家の性格や理念を体現しているものと理解される。
 
 日本の憲法もまた、そのような国家の過去史を踏まえて、性格や理念を体現したものということは変わらない。しかし、今回の集団的自衛権閣議決定に見られるのは、国家の憲法という枠組みはそのままにして、その内実をなし崩しに変質させようという企図であり、それが意味するものはとても大きい。
 
 実はこの閣議決定が意味しているのは、戦後の憲法に対する理念的な次元での抵抗であり、国家の理念あるいは性格を(憲法を変えることなしに)変質させようという企図であり、非合法な憲法に対するクーデターである。
 
 戦後の憲法の理念は、アメリカに強制されたものであれ、日本人が自主的に受け入れたものであれ、はっきりした輪郭を持っている。それは「非戦」という理念であり、太平洋戦争などの過去史を踏まえたものであった。それは日本の国家としての行動を(未来の行動を)明確に規定するものとして、日本の国家としてのキャラクターを規定しているものとして存在していた。
 
 しかし、その「非戦」という理念は、現実政治のリアリティの中では決して強い理念ではありえなかったし、また戦後70年近い時間が流れるにつれて、その内実が希薄なものとなってきたことは疑えない。
 
 理念を持ち続けることは難しいことである。共産主義という崇高な理念も現実の政治の中では70数年しか続かなかったし、それと比べるとちょうど戦後70年ぶりに同じような理念の崩壊の現場に立ち会っていると言えるのかもしれない。
 
 この理念的なクーデターは、国家の性格あるいはキャラクターを変えるものとして、日本の国家としての行動を変えていくことは明らかである。そしてそれは近隣諸国や、アメリカとの関係をどのように変質させていくものとなるのか、きわめて注意深く見て行かなければならないと思われる。
 
 このクーデターが、「非戦」という理念への不満というよりも、近隣諸国との関係への不満(韓国・中国との関係への不満)、アメリカとの関係に対する不満に、その内実を持っていることは確かである。そこでの国家としての立ち位置について、この理念的クーデターは大きな変更を加えようとしているのである。このクーデター後の日本の国家としての立ち位置について、深い関心を持って注視していかなければならない。
 
 
 

日本の学生たちへの不満

 
 以前、韓国で教えた時、ある映画を見せて感想を聞いたことがあった。その時、女子大学院生があまりに感情移入してしまって、泣きながら感想を述べ続けたことがある。もちろん「かわいそう」とか「健気だ」などという紋切り型の感想ではなく、誰それが、人物関係の中で、これこれこういう決断をして、それを受け止めてくれた夫の内心を思うと、涙が止まらない云々と言った、ちゃんと論理立てて述べた感想であった。こんな経験はその時だけだが、鮮やかな記憶として残っている。
 
 その後、日本で教えるようになって、日本でも頻繁に映画を見せて感想を問うているが、このような反応にお目にかかったことは一度もない。というよりも、感想を述べよと言うと、だいたい出ないし、出ても紋切り型のものが多い。意欲的な学生がたまにいることはいるが、そのような学生は「感想」を述べるのではなく、フェミニズム的な視点から見てどうだとか、演技について、演出についてどうだと分析的に述べる傾向にある。
 
 つまり言いたいのは、日本の学生たちは「感想」を述べるという当たり前のことが、ひどく不得手であるということである。自分の感動を受けた部分を論理立てて、誰がどうしてどういう行動をとったため、どのように感じた、という単純なことが、とても苦手なようなのである。
 
 もちろん私も日本人だから、彼ら/彼女らの気持ちは理解できる。「感想」というのは個人的なものだから、あまり人前で述べるようなものではないし、まして授業で多くの学生たちの前で述べるのに適当ではない。友達の前ならまだしも……。ということなのだろうが、韓国の授業の時と比べると面白みに欠けるのはどうしようもない。
 
 日本の学生の言葉、特に授業でしゃべる言葉はたいへん儀礼的である。つまり当たり障りのない、妥当なことを述べようとするのである。何か正解のようなものがあって、(褒められる?間違いのない?正解)そのような言葉を探そうとするのである。それが思いつかない学生は沈黙を守るのである。
 
 この儀礼的な言葉は、授業だけの問題ではなく、日本社会全般の問題であると考えた方が分かりやすい。つまり日本の社会全般が儀礼的な言葉と儀礼的な人間関係からなっている、と考えた方が問題はよく見えてくる。日本の家族、学校、そして社会、は儀礼的な言葉によって成り立っており、それを妥当なものとして見なしているということである。むしろ儀礼的な関係をこなし、儀礼的な言葉を操れるようになることを「大人」らしいことと見なしているふしがある。このような社会の中で、自分の内心を、きちんと論理的に語る言葉は出てくることが難しいのである。
 
 この頃、大学で討論式の授業をせよ、ということで、グローバルな討論式授業を導入しようという動きがあるが、大学だけでこのような試みをしても、効果は薄いことは明らかである。家庭の中で、あるいは学校(小中高)の中で、また社会の中で、自分の「内面」を語る作業や、語る言葉がまず先行しなければならないことは言うまでもない。そしてそれはおそらく至難の技であることも明らかである。ほとんど革命に等しい社会的変革がそこに起こらなければならないだろうし、個人主体が、家族や学校や社会を前にして対抗できるように自立(吉本隆明)しなければならないのであるから。
 
 しかしそれは案外難しくないものかもしれない。幼時から愛情を受けて、自分の言葉で語らせることが可能ならば、それはすぐにでも可能なことであるのだから。もし、外国人ベビーシッターが一般化して、自分の言葉で語れるような世代が生まれれば、それは近い将来可能となるかもしれない。帰国子女らが特殊なケースではなく、もう少しメジャーな存在となるならば、あるいは日本の国内で帰国子女と同様の経験ができるようになれば、その問題は解決できるのである。そのような世代が生まれることに期待したいものである。
  

奇妙な風景

 
 今日、日本と北朝鮮とが拉致被害者の再調査で合意したとのニュースがあった。北朝鮮が日本側の要求をのむ形での合意で、それに伴って日本の制裁措置を一部解除し、さらに人道支援や国交正常化の議論の可能性にまで言及したものである。
 
 外交的な利害が北と日本とで一致したと言うことなのだろうが、それにしてもこれは何とも奇妙な風景である。中国・韓国との関係悪化に伴って、日本が北朝鮮に接近したという印象はぬぐえない。東アジアでも外交のグレートゲームが始まるのかもしれない。
 
 これが奇妙な風景だと思うのは、われわれの世代などから見ると、戦後の国際秩序の最大の受益者であったはずの日本が、もっとも戦後秩序に不満を持っていると見られる北朝鮮と手を結びたがっている光景のことである。
 
 いつの間にか日本は戦後の国際秩序への不満の情念を持つ国家となり、戦後の国際秩序から見れば危険分子と言ってもいい北朝鮮やロシアと親和的になっている。この風景は奇妙であるが、どこかで見た覚えのある風景でもある。
 
 1929年の大恐慌以来、日本は満州事変で国際的な秩序を破って国際連盟を脱退し、同じく第一次大戦後の戦後秩序に不満を持っていたドイツと急接近した。今回の東アジアでの日本と北朝鮮との急接近はそんな記憶を蘇らせる。
 
 だからこの北朝鮮と日本との急接近は、ある意味で現在の国際秩序への否定のメッセージと受け止められかねない危険性を持っている。この一歩はどこにつながっていくのか、戦前のような「東亜新秩序」への一歩でないことを切に祈るばかりである。
 
 
 
 

小保方さん報道について

 
 小保方さんのスタップ細胞をめぐる報道については、初めから何か行きすぎで不快なものを感じていたが、その過熱ぶりによってむしろ現代の「病理」を見せるよい症例だと思うようになってきた。この小保方さん報道は、まさに現代日本の無意識的な「病理」を端的に現していると思える。
 
 若い女性研究者で、しかも彼女が「女性性」をある意味無防備に出していたことから、この小保方さん報道の過熱は始まっている。早稲田大学とハーバードで学んだ研究者であり、研究ユニットのリーダーとして実験を行い、ネイチャー誌に論文を発表し、…という有能な研究者としての人物像よりも、むしろ割烹着を着て研究室をムーミンのキャラクターで飾っているという「女性性」の方へと偏った(偏向した)人物像に焦点が当てられ、一人歩きするようになる。
 
 ここに第一の「病理」は存在している。「女性性」に関して焦点が当てられることで、彼女の人物像はきわめて身近で感情移入しやすいものとなり、簡単に言えば芸能人に準ずる報道が行われるようになる。有能な研究者であり、家族生活を送る統合された一人の人間としての人物像と言うよりも、アイドル化された存在となったと言えるだろう。
 
 この報道が、小保方さんのプライバシーへの侵害を生み、セクハラ的な性格を持ったことは、明らかである。芸能人については、現代日本の社会においてはプライバシー報道が許容されうるのであり、むしろ大衆の知りたい欲求に答えることが正義とされるからである。ここに第一の転倒があり、「病理」がある。
 
 そして第二の「病理」は、彼女のネイチャー論文が不正確な画像を用いていたこと、および博士論文中にコピー&ペーストをしていたという指摘に端を発している。捏造、引用疑惑である。さらに再現実験がうまく行かないという指摘が続いたことによっている。
 
 この疑惑について、今の段階ではどう判断するべきかは保留するほかはない。なぜならスタップ細胞の再現性という本質的な問題にまだ片がついていないからである。ただ、「病理」はそこにあるのではなく、またもや統合された複雑な問題に対して、単純な報道が、それも以前とは180度違った方向からされ始めた所にある。
 
 このネイチャー論文に関する捏造、引用疑惑は、おそらくグレーゾーンにあるものであり、若い研究者の論文なら1,2の問題点は指摘しうるものだと思われる。経験上、そう完璧な論文は存在しないからでもある。ただ、そのような捏造、引用疑惑が、科学界を巻き込み政治問題化した所に第二の「病理」は存在している。
 
 個人的な感覚からいえば、この捏造疑惑はアカデミックハラスメントアカハラ)に属するものであり、グレーゾーン的な問題は政治的に利用され、判断されうるものである。だから、小保方さんが疑惑に対して反論を行使し、再審査を要求したことはまっとうなやり方であると思われる。
 
 しかし、そのようなグレーゾーンに属するような問題に対して、メディアがこぞって疑惑を強調し、ここぞとばかりに小保方さん叩きに狂奔するようになった所に、先の第一の「病理」を裏返してさらに悪意をもってそれを強調したような「病理」が存在している。
 
 マスコミ報道は、こぞって疑惑に加担し、「クロ」である印象を与える方向に急展開した。グレーゾーンの問題に対して、一方的に加担し叩く態度である。このことは、最初の「女性性」を強調した報道と、実は相通じる態度であり、そこには総合的で統合された人間像や、問題の全体像を描き追及する態度は見られない。断片的な人目を引く報道によって、アイドル化したり、悪魔化したりするようなきわめて末梢的で偏向した報道態度がそこには存在しているのである。
 
 そこには悪意があり、セクハラとアカハラの交じり合った構図がある。若い女性研究者の未熟さが強調され、さらにはスタップ細胞自体を詐欺的なねつ造であるかのような報道まで現れている。
 
 ここには単純化があり、複雑な問題を簡単に白黒つけてしまうような怠惰がある。「女性性」を先に強調して芸能人化したのとまったく同じ手口で、「女性性」の別な側面――研究者として未熟でさらには資料を捏造するような悪事を行う――が強調されているのである。
 
 ここには先の無邪気な「女性性」への強調よりも、「女性性」への無意識の差別が存在している。その意味で悪質な「病理」と言うべきである。
 
 昨日の記者会見で、小保方さんはスタップ細胞の再現性については確証があると述べ、自信を示した。様々な疑惑があるにせよ、その問題こそが問題の本質なのであり、論文の疑惑などなどは二次的なものにすぎない。マスコミを巻き込んだセクハラとアカハラの大洪水の中で、小保方さんが問題の本質をはっきり把握していることに、安堵した。やはり有能な研究者である。マスコミと現代日本社会の「病理」に負けずに、研究者としての道を彼女がまっとうしてくれることを心から祈っている。気丈で悲壮な昨日の会見を見て、彼女ならそのことができるものと確信している。