言葉の速さと遅さ


しゃべり言葉の速さと思いつきさ加減、

話されたそばからもうどこにもなくなってしまうような、

自分に溜まっていかない感じと、

書きつけられた言葉のどうにも動きようのない遅さ、

言いつけられた言葉のずっとぐるぐるとまとわりついてくる停滞感と、

こういう言葉のむけられかた、「言葉」という輪郭の与えられ方で、それらは全然違うリズムを生むんで、

ずっと毎日毎日が無駄になんの境界線もなく、突然現われてくる「締め切り」に対して注意深くしたり、そもそも守らなかったりしていた学生のときと今は違って、

社会(というより他人間)関係のなかでのわりと単調なリズムとそれぞれの言葉のリズムがどんどんずれてってその隙間のような、過不足めっちゃある感じが、結構不安だ。

でもこうして書いてみると、学生のときは、(自分の)言葉のサイクルにひたすら忠実に、「住んでた」かんじだ。

外へ出されて、たくさんの自分以外に殴られて、もちろん自分も知らずのうちに何かをちょっとずつ殴ることで、

自分じゃないものが構成する状況にいるということだと思う(当たり前すぎるけど)。だとすれば、そういうたくさんの自分じゃなさのなかで、どう振舞うことを望むのか、ということを、時々は自分の言葉の家にこもってじっとしながら、考えていくしかないなあ。

デジカメが壊れてから、撮りためた写真を使ってるけど、ついに適当に選んだ画像が2011/8/27のものに当たった。一年前の同じ日には、私は友達にジャムを選んで買っていった気がする。

いつまでになにをしなければいけないか

転職をして、

すこし体調を崩して、

用意していた二つの行事をなんとかこなした後で、

でもやはり「いつまでになにを」という頭はずっと

自分の後頭部にへばりついて不快。

死ぬまで「いつまでになにを」と考えていくのか。

それとも働いている間ずっとなのか。

しなければいけないことと別に、

やりたいことがたくさんあって、

やりたいことをやろうとすると、

そのためにしなければいけないことが生まれる構造。

でも「しなければいけない」と思うのは、

精神的な余裕がないときで、

あたりに広がった余裕のなかでは、

しなければいけないこともやりたいこととしてできる。

余裕のなさは単純に想定している処理速度の速さで、

ゆっくりでいいと思えば、しなければいけないとは思わない。

そして、ゆっくりでいい仕事なんてほとんどない。

仕事の速度から、仕事外の速度へ、

うまく切り替えられるようになりたい。

それは偶然です。

 フリードリヒ・キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』ちくま学芸文庫の上巻を読んでいて、グラモフォン(蓄音機)がいかに霊的なものを物理的なものに捉えなおさせたか、というぐらいのところですでにものすごい興奮している。

 このブログの最初のほうでチョイ・ウニョンさんというアニメーターについて少し紹介して、アニメーションについて語りたいと書いたきり、ずっとほったらかしてあったけど、『グラモフォン・フィルム・タイプライター』でのグラモフォンと人間の記憶との類推について読んでいて、学部の時に自分が「アニメーション」について「萌え」とか「構造」とか「ネタ」とか「メタ」とかじゃなしに、輪郭と色彩が絶えず変化していくような前衛アニメ・実験アニメの気持ちよさについて、ずっと考えてたこととむすびついて、鮮やかなヒントを与えられたような衝撃を受けた。打たれたような気分。

 蓄音機が録音の際に記録盤に「溝」を掘ること、物理的な音の振動を針に反映させてつけた傷を、逆にその針でなぞるときに、同形の振動が生じて、録音時の音が「再生」すること。

 一度ついた溝は再生に役立つけれども、記録されていない未経験の溝は、そのつど傷つけられることでしか「再生」はできないこと。

 こんなこと蓄音機の構造を理解しているひとにはあんまりにもあたりまえだけど、それが人間の記憶の構造と比較されるとこういうふうになる。感覚された刺激と現象はそのつど感覚を司る器官に傷をつけ(溝をほり)、似たような刺激や現象を感覚するたびに、「記憶」が「再生する」。

 一度彫られた溝には、経験は抵抗なくながれていく。繰り返されることで多少の軌道の差では溝は広がらなくなる。それが「記憶」することで、経てきた溝と違う部分に新たに傷つけるものが「未来」なのでは?

 学部のとき、「アニメーション」をどう歓んでいるのか? ということを考え続けて、とりあえず出した結論が、人間の世界認識の成長過程でもっとも原始的なものに「類推(アナロジー)」があって、それは同形の対象に曖昧に同一性を(試験的に)あたえていく機能で、抽象化の能力と言って相違ない。いつか食べたリンゴとこれから食べるリンゴのゆるやかな同一性。表情が常に変化していき、老いていく母へのゆるやかな同一性。昨日まで履けた靴が履けなくなる自分の足への同一性。などなど。学習や記憶にとってそういう可変的な同一性の付与は欠かせない性質にみえる。ちょっと遠回りしたけど、変化していく形状を、連続性と同一性のうちに「認識しようとする」人間の知能の「はたらき」が、動かないはずの絵が動いてしまうことへの純粋な驚きと同時のとき、それが「アニメーションを歓ぶ」ことなんじゃないかということだった。のをだから『グラモフォン〜』を読んでて、さっきの記憶と蓄音機のところで「パーっ!」っと頭を巡った感じがした。


 ところでだから、なにが「パーっ!」っとさせたのかと言えば、溝のたとえであって、それは「アニメーション」を「なぞる歓び(同一性付与の欲望)」と「逸脱する歓び(同一性非付与の欲望)」の二項でしか考えられなかったのが、「類推」という共時的な把握に対して、「現象と記憶と再生」という共時でも通時でもない「物理的な現在(これはつまり、僕がずっと考えている〈今〉ということの全体性じゃないか!)」という切り口が与えられたからで、そうするともっと具体的に「アニメーションの歓び」について語れそうな気がしてきた。

 というところで前置きに収まらなくなったのでつづく。

グラモフォン・フィルム・タイプライター〈上〉 (ちくま学芸文庫)

 

梨を食べたい

梨を食べたいと突然思って、

梨は味がおいしいというよりも。

梨を食うという体験全部がおいしいんだと決めつけて、

梨だけじゃなくて、そういう全部がおいしいというような体験を望む。

スティーブ・ジョブズが死んだというのを残業中に知って、

やっぱりツイッター上では多少関連したことが呟かれていて、

 いまさらスタンフォード大学の卒業式でのスピーチを字幕つきの動画でみたんだけど、いろいろすごいと思ったけど、「死はとりわけ知的な概念だ」という言葉にものすごいおどろいた。そういう風に考えられるのかと思った。ずっと「死」なんて嘘だ。言葉でしかないんだ。とか思ってたので。衝撃的だった。

 でも良く考えたら、西口想が自分のやってるフリペに連載してくれていた文章は「死」についての考えのめぐりだったにも関わらず、身近で素朴な先輩の死から、一般的でピュアなアクセス不能性について、そして、アクセス不能性へと向かう芸術論、これは「芸術とはアクセス不能なものへの志向性だ!」とかいうのじゃなくて、「アクセス不能なものについての想像と行為のセットを芸術っていってるんじゃ?」という問いで、それ自体散文表現をしているわけで「知的」だった。

「死」という字の形を含めたイメージへの拒絶反応を、やわらかくしてくれた、西口想とジョブズ

※ちなみに確認のために日本語訳を読んでたら、ジョブズは「死はとりわけ知的な概念だ」とは言っていなかった。ひどい読み違いだけど、該当箇所は以下の通りで、自分の飛躍癖にうんざりしつつも愉快。


(前略)
 死というのが有用だが単に純粋に知的な概念だった頃よりも、私は多少は確信も持って言えます。
 誰も死にたいと思っている人はいません。天国に行きたくても、そこに行くために死にたい人はいません。それでいて、死は誰もが向かう終着点なのです。かつて死を逃れられた人はいない。それはそうあるべきだから。なぜなら「死」は「生」による唯一で最高の発明品だから。「死」は「生」のチェンジエージェントだから。つまり古いものが消え去り、新しいものに道を開ける働きです。いまの時点で、新しいものとは、君たちのことです。でもいつかは、君たちもだんだんと古くなり、消え去るのです。あまりにドラマチックな表現なのですが、それが真実なのです。
(後略)(翻訳:小野晃司)

<なぜなら「死」は「生」による唯一で最高の発明品だから。「死」は「生」のチェンジエージェントだから>ってところに今度は震える。流れを感じる。読み違いとともに発見する。<新しいものとは、君たちのことです。でもいつかは、君たちもだんだんと古くなり、消え去るのです。>

グー神

 グー神が夜の闇にまぎれてメロンの実を食べていると、足元に数十人の人間が来て、彼等は大きな声を出して騒いだ。グー神がたいそう怒って地上に向かって口から種をふきだすと、種は足下の人間のうち何人かをつぶしてしまい、人間たちは増えて余計に大きな声を出し、笑い、口々にグー神を侮辱する言葉を吐いて、踊りながら足を踏み鳴らした。グー神が人間に言うには、
「あなたたちが騒いでその声があまりにも騒々しい為に、全くメロンの実を食べることができない」
 ところがたちまち大量の雨が降り、グー神の口から地上に落ちた種から芽が出たために、また人間たちの騒々しさの放つ光で芽がみるみるうちに育ったため、グー神の足下は一面がメロン園になってしまった。驚いた人間たちはさらに騒々しく言葉を交わしながら、メロン酒をつくり宴を開いた。宴は23ヶ月にも及んだため、グー神の足元にはゴミが散らばってチ山、ス山、クタ山の三つの山ができ、グー神の足は苔生して分かれ、そのまま森となった。人間たちが糞尿を流して止めなかったので、森をいくつかに分けるようにしてフン川ができた。
 さて、その夜の闇があまりにも深く罪深いものだったために、パー神は人間がもう騒いで悪い行いをしないように、人間が悪い行いをしない間だけ、グー神の顔を輝かせ、それを昼とした。