前も紹介したんだけど

あまりに急に涼しくなって、秋を感じるというよりもただただ夏の終わりを感じる、季節の狭間の空隙の日々。
とはいえ例年を思えば、すぐさままた暑さがぶり返して夏が息を吹き返すんだろうけれど、しかしそれまでの一瞬の今みたいな気候にはこの曲こそが。


TNB!

TNB!

もともとアイリッシュ系は伝統的なものもより現代的なミクスチャー的な音もどちらも好きなんだけど、そのどちらとも違う形でしっとりと、かつボーカルは重くなるすぎることなくっていうこんな音がまさに今ツボで。国内ではあまり取り上げられていなくてほとんど調べずに買った一枚だったけど、結構な名盤じゃないかと思う。

Cannie Hour

Cannie Hour

湿度

温度や湿度のの管理された“快適な”空間で長い時間を過ごしていて、ときたま湿度に溢れることがある。それは単に屋外である場合もあるけれど、例えばエアコン等で気温は管理されつつも外気に開かれていて湿度だけがなだれ込んでくるという不意打ちのような空間も時にはあって、そんな空間に足を踏み入れてもすぐにはその異質さに気付かない。けれどしばらくそこにいると、気温の低さとなだれ込む外気の狭間で湿度はさらに高まり、空気に/体の表面にじっとりとした水分を感じることで、空調の効いた屋内や空気の底のような暑さにため息をつく屋外とははっきりと違うという違和感が浮き上がってくる。
あの感覚を後になって思い返すと何かに通じるアレなんだよと言えそうで、厳密にはやっぱり違うかなーなんて曖昧に考えながら、しかし暑くないけれどまさに水分的な湿度を纏う感覚というのは、季節は全く異なるモノの、何故か“雪”を触れるような感覚を思い出させて、その対比にへえと思ったという。
冬はドライな空気とその冷たさよりも、それによって際立つ水分/湿度によって感じているのかもしれないし、夏は暑さと湿度ではなくそこに時折差し挟まれる快適で乾燥した空気の心地良さによってこそ感じるのかもしれないよね。

とある幸せな景色を、ああこれはつくづく良いものだなあと心底思いながら眺めるような、そういう時間が欲しい。偶然の景色でも良いし、作り込まれた景色でも良い。そこには多分、優劣はないのじゃないかと。というか作り込まれて実現された景色には、ある種、それを計画的に作り出してしまうという錬金術の実現のような素晴らしさがあるかもしれない。

てのは、理想の“広告”的な一形態だろうなと、ふと。

Oscar Peterson

前回書いたように最近は非英語圏の音楽にはまっている一方で、局所的にはOscar Petersonにも嵌っている。僕が(今のところ)最も好きなJAZZピアニストとしてEugen Ciceroを挙げるとすれば、Oscar Petersonはそのキケロと同様の軽さ(軽妙さ)を備えているという点で以前から好きだったというのがあって。特にこの一ヶ月で、編集盤等ではないアルバムを6枚分ほど立て続けに入手しては、飽きること無く聴き続けている。
特に聴き比べるという点では「Fly Me To The Moon」なんかは面白い。『The Oscar Peterson Trio Plays』と『Tristeza』との2枚それぞれに収録されている同曲は、軽やかさと適度な湿度を使い分けるようでどちらも良い。そのままさらにその他の盤へと手を伸ばしたくなる入口になるんじゃないかと。その他の盤ではビッグバンド的なより派手な音もあったりする。


オスカー・ピーターソン・トリオ・プレイズ

オスカー・ピーターソン・トリオ・プレイズ

Tristeza on Piano (Reis)

Tristeza on Piano (Reis)

仕事上の案件の重なりが度を越すあまりに何も出来ない期間が1ヶ月強。気付けば7月も後半。暑い。会社からの夜中の帰り道に見かけるのは公園の芝生で寛ぐ人達やら、まだ生きている蝉をつついては銜え振り向く雀やら、街灯を避けるように場所を選んでアスファルト道ばたに座り込み会話を続けるおばちゃん達やら。季節は確実に過ぎていく。