リリーのすべ2015年、イギリス、トム・フーバー監督

夫婦愛というか、人間愛というか、究極の愛というか?...
夫が女性として生きたいと願った時、妻はすべてを受け入れる…。


今から80年以上前、命をかけて世界初の性別適合手術に踏み切った"リリー"という女性の実話に基づく物語。


先日、タイでニューハーフショーの鑑賞を初体験したばかり。
余りにも美しくエレガントな彼女たちに、すっかり魅せられてしまった。
興味津々で本作を観た。


画家同士の夫婦。夫は、妻が描く絵のモデルであるバレリーナのピンチヒッターとして、足元のモデルを依頼される。
バレーシューズを履き、チュチュを纏う夫。


彼は言い知れぬ恍惚感に包まれる。
今まで気づかなかった内なる女性性。
女装がこんなに心地よいとは…。


いつしか夫は女性用の下着を身につけるようになる。
それを知った妻は、単なる芸術家の遊び心と捉え、悪ノリして、夫に女装させてパーティーに連れ出す。

その場で男性にナンパされ、うっとりする夫。
以来、日に日に心と身体の乖離は深まるばかりだ。


妻は夫の女性化を止められなくなってしまう。
夫は風景画家を続けられなくなり、妻の専属モデルになる。


夫を描いた肖像画は評判を呼び、妻は売れっ子になるが、愛する夫の変化に苦悩する。
夫も自分に起きていることを理解できず、妻を深く愛するがゆえに苦しむ。


美しく優しい夫、綺麗で凛々しい妻。
共に理解しあい、芸術に精進する、同志のような理想的なカップルが、訳が分からないままに、心理的にジリジリと離れていく切なさが、繊細に描かれる。


何よりヴィジュアルが素晴らしい。ワンシーン毎に良質の絵画を鑑賞しているような、幸福感に包まれる。
「わあ、きれい!」と、何度呟いたことだろう。


夫を愛してやまない妻は、夫の望みを叶えることが、何よりも2人の幸せへの近道、と納得。手術の可能性を示唆するドイツ在住の博士を見つける。

手術を即断する夫。
だが、妻には「夫という存在を消しに行くのだから、一緒に行ってはいけない」と言い、1人で旅立つ。


妻は、夫が女装を始めた頃、彼からプレゼントされたペアのスカーフを
(私の身代りに、と)夫に手渡す。


今日ではかなりポピュラーになったこの手術も、抗生物質が出回る前は、感染症との戦いに大変苦しんだ。


1度目の、男性器除去手術は成功した。
「神が私を女にしたの。私は自分の人生を生きたい。本当の自分に気づかせてくれた貴女に感謝しているわ。貴女もそうしてね」と、リリーは妻のゲルダに言うが、「貴方は私のすべてなの」とゲルダは悲しそう。


あの日、夫に足元モデルを頼まなければ、何ごとも起こらなかっただろう、と彼女は後悔の念に苛まれる。
果たしてそうだろうか?


リリーの幼馴染のハンスは、「彼は異質だから、友人になった」と、早くからリリーの本質を見抜いていた。
このことからも分かるように、カミングアウトは必然の理だろう。


人知れず性別違和を感じながら、思い悩んで一生を過ごすより、カミングアウトして、自由になった方が、生きやすいのでは?


たとえ相手に理解されなくても、自分が何者であるかを知らずに、人は生きられないのだから。


リリーは、すべての人たちの「時期早尚」との反対の声に争って、膣形成のため、2度目の手術に挑戦する。


一刻も早く、女性としてアイデンティティを確立したかったのだろう。
今度はゲルダに付き添いを頼み、彼女から預かったスカーフを「(私の身代りに)持っていて」と彼女に戻した。


世界初の難易度の高いオペは成功したのだろうか?
(以下ネタバレを含むので、注意!)

母に抱かれ、「リリー!」と呼んでくれた、と嬉しそうなリリー。
母の姿はいつしかゲルダと重なる。


やっと本当の自分になれた、と喜ぶリリー。
リリーのくれたスカーフは、ゲルダを離れて、リリーの故郷のフィヨルドの崖で飛翔する…。
鳥のように自由に大空を翔け廻るスカーフ。


先駆者のリリーの勇気と彼女を支えた人たち
に感銘し、とめどもなく涙が溢れた。

ところで、リリーがゲルダに贈ったペアのスカーフは、何度も反復され、2人の間を往復する。
スカーフはそれぞれの分身なのだ。


つまり、人生において、他者(の分身)との関係が必須であることを表している。他者との関係なしに、人は存在しないのである。


ラストで、スカーフはゲルダから離れる。
他者との関係が不要になったのだ。
さて、この意味は?


(★5つで満点)
2016年3月18日(金)公開 、東宝東和配給
(C)2015 Universal Studios. All Rights Reserved.

人権を映画で観て語った2日間

2月13日と14日に、旧作の日本映画を6本観た。
1951年から2015年まで、時代は様々だが、大いに考えさせられる作品ばかり。
家族の崩壊、リストラ、政治の謀略、戦争、差別、思想といった、現代にも通じるテーマを描いたすごい内容だ。


2日間とも大入り。年配が多いのが少々残念だが、会場は、問題意識を抱く人たちの熱気に包まれていた。


13日は友人の主催で合評会を開き、10人の仲間が意見を交換。
老舗の食事処「志の島」で、美味しい料理と酒で2時間半、非常に有意義かつ楽しいひとときを過ごした。


初日の一番人気作品は、熊井啓監督の『謀殺・下山事件』。未だに解決されない実在の事件を、執念で追う新聞記者の目を通して不正を暴き出す。


リアリズムに徹した迫力ある展開は、第一級のサスペンスだ。
骨太な体制批判も小気味がいい。
昨今の日本映画には観られない、スケールの大きさを堪能した。


山本薩夫監督の『人間の壁』では、香川京子の美しさと演技力が話題の的。
女性の良いところが前面に出ていた。
また、自立した女性をきちんと描いている点でも評価が高かった。


森川時久監督の『若者の旗』は、きょうだいの葛藤と、時代の状況を絡ませて、等身大で観せる。
再映を切望していた人も多く、感謝の声が挙がった。


今井正監督の『戦争と青春』は、前述の3作品に比べると、リアリティに欠ける。
作りすぎで、突っ込みどころが多い。
疑問点をお互いにぶつけ合って解決したり、批判したり…。


最年少の50代の女性は、今の若者観として、「空気を読むのに一生懸命で、本音を言わず、スルスル抜けていく。
その点、シニアは力がある。こんな風にきちんと語れる場があるのはうれしい」と話す。


各種映画祭の主催者が2人いたので、それぞれ裏話などを語って貰った。
皆、映画愛では誰にも
負けないと自負する人たちばかり。
大盛り上がりで、お開きとなった。


14日は閉会後、関西から参加した友人を見送りがてら、3人で名駅の居酒屋「安曇野庵」で、軽く呑む。


私は行定勲監督の『GO』を、前に観ているのでパスした。
しかし、友人は、「以前観た時より、深く観られた。差別の問題を的確に捉えて提起している」と高く評価していた。


降旗康男監督の『日本の黒幕』は、政治の暗部を描いた傑作。
東西の右翼対決、政商の暗躍、テロ、近親相姦など、我が国の恥部をこれでもかという程、抉り出している。
本作の魅力は何と言っても、佐分利信のドンの存在感の凄さに尽きる。


池田博穂監督の『薩チャン 正ちゃん』は、山本薩夫監督と今井正監督の、独立プロの軌跡を
記録した作品。
戦後の混乱期の映画の歴史がよく分かる。


体制に抗って、作家魂を貫いた数々の名作を、一部シーンとはいえ辿るのは大変楽しい。
気骨ある映画人たちが多数いたことを知り、感銘を受けた。


今井監督は「明るい映画を作り、明るい世の中にしたい」と言い、山本監督は「映画を通して社会の問題点を大衆に知らしめ、解決に向けて進みたい」と結ぶ。


果たして、今の日本映画に、そうした作品が
いくつあるのだろうか?

ひつじ村の兄弟

2015年 アイスランドデンマーク/グリームル・ハゥコーナルソン監督


昨年度カンヌ映画祭、ある視点部門グランプリ受賞作品。


最近、本作の舞台であるアイスランドを訪れた知人は「日出ずる国、日本に帰ります。極夜は沢山です」と、SNSに書き込んだ。


神話の世界のようなロケーション。まさに地の果て。無限に広がる灰色の空間…。
1年中雪や氷が身近にあり、夏には昼が、冬には夜が長くなる


広大な大地に建つのは、親の代から牧羊を営む、生涯独身の老兄弟の家2軒のみ。
2人は相続でもめたらしく、40年このかた口をきいたことがない。弟のシープドッグが運ぶ兄への手紙が唯一のコミュニケーション手段だ。


果たして兄弟は絆を回復することができるのだろうか?


2人の犬猿の仲ぶりが反復され、数少ない村人たちとの絡みが描かれる。



極めてシンプル。
厳しい風土と牧羊家たちの暮らしが、延々と長回しで映し出され、音楽もセリフもほとんどない。
風や足音、ドアのノック音、息づかいなどが聞こえるだけ。


原題は『仔羊たち』。
いうまでもなく、旧約聖書の、神である羊飼いに導かれる羊たちであり、神への生贄であるスケープゴート、そして、新約聖書の、 信仰の薄い逸脱者である迷える仔羊たちを指している。


この兄弟は旧約聖書カインとアベルだ。不出来の兄は、親に愛された出来の良い弟に嫉妬し、怨み続ける。


村人たちは、9-10世紀ごろバイキングがもたらした、「アイスランディック」という肉用種の牧羊で生計を立てている。この羊は、大陸と地理的に離れているため、交雑が行われず、純潔種の家畜用羊としては世界最古の歴史を誇る。


兄弟はこの村一番の羊飼いで、例年の品評会では必ず1、2位を争うほどの腕前。
当然、羊愛は誰にも負けない。


しかし、兄の羊が狂牛病の羊版にかかり、政府の方針で、村の全ての羊を殺処分しなければならなくなる。
(以下ネタバレ注意!)

伝統が途絶えてしまうのを恐れた兄弟は、役人の手から逃れるために、止むを得ず協力。ブリザードの荒れ狂う山に羊たちを連れていくことにする。


2人は神の如く、羊たちを救う羊飼いになれるのだろうか?


ラクターに相乗りして、羊たちを誘導するが、途中で車が故障し、羊たちを見失ってしまう。
加えて弟は失神し、兄は凍えと戦いながら重大な危機を迎える。


聖書では、兄のカインは弟のアベルを殺害するが、本作の兄は意外な行動を起こす。
雪洞の中で、産まれたままの姿になり、弟を抱き、必死で体温で温めるのだ。
まるで母親のように、愛おしみながら…。


恍惚状態のまま突然暗転して、映画は終わる。


最終的に神に赦された農耕者カインは、牧羊者の弟を殺したことをどんなに悔いただろう。
本作の兄は、真の牧羊者である弟を見殺しにはしなかった。
例え命のように大切な羊たちを失っても…。
長年の確執を超え、兄は弟にとって、神のような存在になったのである。


弟は助かったのだろうか?
羊たちはどうなったのだろう?


すべては観客の解釈に委ねられる。

見終わった後、余韻が長引く不思議な作品である。
 (★5つで満点)

アリスのままで

2014年 アメリカ リチャード・グラッツアー&ウォッシュ・ウェストモアランド監督

主人公である50歳の言語学者アリスは、若年性アルツハイマー患者だ。
この病気は、早期で知性的な人ほど進行が速いという。


他方、75歳以上の認知症患者は3.5人に1人の割合。そのほとんどがアルツハイマーである。
他人事ではない。


言語の研究を生業としている人が、徐々に言語を失い、ついには人間の尊厳も無くしてしまう・・・。
その哀しみの過程を忠実かつ克明に描いている。
奈落の底に堕ちていく、ジュリアン・ムーアの極めてリアルな演技の迫力。
納得のアカデミー賞主演女優賞受賞である。


アリスは、人格の喪失=死、と捉え、それを受け入れつつ、日々格闘している。
彼女は本来的な生き方をしている、と言えよう。
なぜか?


人間は時間性(現在・過去・未来)の存在である。
私たちは、誰にも到来する(未来の)「死」を目指して、その都度(過去)をリニューアルしながら、(現在)を生きている。
  「死」を自覚しない限り、人間は本来的な生き方ができないのに、多くの人が無知や恐れ、怠惰、享楽、逃避といったさまざまな要因により、「死」について考えることから遠ざかっているのが実情だ。


  しかし、アリスは、「死」と向き合い、自分自身と他者(事物も含めた)との真剣な出会いの中で、一瞬一瞬、渾身の情熱を込めて生きている。
だから本来的な生き方なのだ。


 彼女は言葉や記憶を失うまいと、携帯電話に生年月日など自分への質問事項を入力し、定期的に応答して、現存能力を確認する。
 さらに、パソコンに保存してある「蝶」のファイルをクリックすると、自決を指示するヴィデオレターが出て来るように準備する。
 なぜ「蝶」なのか?


 彼女は母の形見の青い蝶のネックレスを愛用している。
 近い将来、自分が自分でなくなった時でも、大好きな蝶なら忘れないだろうと考えたのだ。


 「蝶」は、死者の魂のメタファー。儚い命の象徴でもある。
  青色の意味は平和と安らぎ。聖母マリアの青い衣は母の慈愛を表す。
 青い蝶は、彼女の最期の願いである、魂の安らぎを得るための記号なのだ。


 彼女は、テクノロジーを最大限に活用する一方で、「アルツハイマー介護会議」で体験をスピーチする際には詩を引用する。
 さらに、演劇を志す次女が、母のもとに持参する戯曲の数々。


 ラストで次女は、「死者たちの魂が、環境汚染で崩壊寸前となった地球を救う・・・」、といった幻想的なセリフを読んで聞かせる。
 それに呼応して、今や言葉をほとんど失ってしまったアリスは、ただ一言「LOVE」とつぶやく。


 これほど優しく美しい言葉が他にあるだろうか?
究極の一行詩・・・。


 理性(技術)と対極にある詩(芸術)は、真理を明らかにする、という一点で繋がっている。
  前者は、魂の叫びである後者に支えられて顕現される。
 テクノロジーを駆使した理性的なアリスは、詩作することによって、神に近づくことが出来たのだ。


 共同監督の1人、リチャード・グラッツアーは、難病で苦しみながら本作を完成させ、アカデミー賞授賞式の直後に亡くなった。
 彼の思いと闘病体験に裏打ちされたであろう本作は、「死」と「詩」がキーワードであり、「LOVE」がテーマである。


 佳作だが、少々弱点もある。
 アリスの視点とカメラが同化し、記憶が失われるにつれて画面もぼやけてくる。
彼女に同化せよとのメッセージかも知れないが、違和感が残る。


 彼女を取り巻く人々も善人ばかり。
 確執や葛藤が淡泊なので、物足りない。
 ジュリアン・ムーアの演技が光るだけに、もっと奥行きのある演出が欲しかった。
★★★★ 

沖縄 うりずんの雨

2015年 日本 ジャン・ユンカーマン監督

まさに沖縄の近現代史
この1本を観れば、その全てが分かる。


内容の重さに、うなってしまった。
数々の本を読み、映画を観、現地を訪れ、少しは分かっていたはずの沖縄。
本作は、私の貧弱な沖縄観を何倍も深化させてくれた。

映画 日本国憲法』『チョムスキー9.11』などで知られるアメリカ人監督、ジャン・ユンカーマンが、戦後70年の私たちに問いかける、心血を注いだドキュメンタリーである。



うりずんの雨は、血の雨・・・」と詠まれている。
うりずんとは、潤い初めのこと。
沖縄の冬が終わり、大地が潤い始める3月ごろから、梅雨に入る5月くらいまでの時期を指す。


4日1日から始まった沖縄地上戦は、丁度その季節。
この時期になると、悲惨な戦争の記憶が甦り、体調不良になる人が多いという。



アメリカ人監督ならではの取材が随所に活きている。
例えば、地上戦で対峙し、生き残った元米兵と元日本兵
日本人をレイプ殺人した米兵、
米軍内での女性兵士への性暴力の実態など、
日米双方の語り部がほぼ均等に登場する。
さらに新発掘の米軍撮影資料映像などもふんだんに用いられている。


それらの映像が重層的に構成され、沖縄戦の実像、集団自決、差別的な占領政策、強引な基地建設、反基地闘争、日本政府の強制的な対応、私たちの差別と無関心、沖縄の人たちの深い失望と怒り、粘り強さ、不屈の戦いなどが語られる。


内地出身の元日本兵は、「食文化の異なる沖縄の人々を、大和民族ではないと見下したことが全ての根源」と語る。
今の私たちの沖縄に関する意識の薄さとと繋がっている。
鋭い指摘にたじろいだ。



戦後生まれの僧侶は、「返還前、アメリカの支配から逃れるには、日本に行くしかない。日本には憲法があり、戦争放棄、軍隊なし、基本的人権尊重、経済的発展がある、と憧れていた。しかし、復帰しても、未だに何も変わらない。戦後のままだ」と言う。



そう、戦後は終わっていないのだ。
沖縄を真の「日本国」にするには、日米双方の市民の強い思いが不可欠、と監督は言う。
それにはまず、沖縄のことを知らなければ…。


私の子供たちも、沖縄といえばリゾートを連想するようだ。
私は戦跡や基地巡りを必ずすることにしているが・・・。


海軍壕の血の匂いを嗅いだ時…。撤去される前の「象の檻」を探し当てた時、嘉手納基地の騒音を耳にした時、普天間基地の長いフェンスにぞっとした時。たとえ一瞬でも、戦中戦後の沖縄を生身で感じる時があれば、沖縄の現状に目を瞑ることはできないのではないだろうか?


目を背けたくなるような凄惨な映像も提示されるが、決して声高に訴えているのではない。
知的で、的確で、濃密。
何よりも沖縄の人々への愛と尊厳が感じ取れる。優しい眼差しに満ちている。


2時間28分の長尺ものだが、全ての日本人はもちろん、アメリカ人、そして世界中の人々に観てもらいたい。
戦争とはどういうものか、自分自身の問題として考えさせてくれるから。
(5つで満点)

サンドラの週末

2014年 ベルギー・フランス・イタリア  
ジャン=ピエール&リュック・ダルデンヌ監督


車道、玄関扉、車のドア、窓、フェンス…。
障壁物の多用が、他者との関係性の難しさを表している。
本作は、自己と他者との関わりを徹底的に抉り出し、人はどうあるべきかを考えさせてくれる。


長期の鬱病から復帰した金曜日、「社員の投票で貴女の解雇が決まった」と告げられたサンドラ。
生活のために働き続けたいと願う彼女を見かねた同僚の計らいで、1000ユーロのボーナスと、彼女の雇用継続のどちらかを選択する再投票を、週明けの月曜日に実施することになつた。
2日半で16人の過半数を味方につけなければならない。


カメラは、1人ずつ自宅を訪ねて説得する彼女を丹念に追う。
ただそれだけ。
ドキュメンタリーのような手法である。
主演の美人女優、マリオン・コティアールもノーメイクで奮闘。



時間との戦い、裏切り、恩寵、非情、家庭崩壊…。
彼女自身だけでなく、同僚とその周辺をも巻き込み、次第に追い詰められていく。


止めたはずの薬を飲みながら駆けずり回る、痛々しいサンドラ。
我々は、彼女とともに薬を服用し、嘔吐し、水をがぶ飲みする。


失業率の高いフランス。底辺労働者の生活は楽ではない。
経営者に背けば即解雇が待っている。
彼女は、「気持ちは分かる」と、反対者にも理解を示し、無理強いはしない。


二律背反に揺れ動いた人もいたに違いない。
一概に、賛成が善で、反対が悪とはいえないのだ。


そう、この引き裂かれた感覚が重要である。
反対者も、決してすんなりと結論を出したのではないだろう。
(もし自分が彼女の立場なら)と一瞬でも考えたら、それは人間として当然で、かつすごいことなのだ。

自己と他者は表裏一体、お互いに鏡の存在である。
だから他者との遮断など不可能だ。
自己の都合を優先しても、どこかで他者を意識せざるを得ない宿命…。
誰にもある「良心」が、他者を犠牲にすることを良しとしないのである。


さて、月曜日。
私は、想定外の結論に深く感動し、泣いた。
席を立つことができなかった。


数は問題ではない。
彼女の2日半の行動のプロセスこそが眼目である。
それは、彼女はもちろん、関わった人達全ての人生感に影響をもたらし、成長に結びつけた。
人は他者なくしては成長できないし、生存できないのだ。
(★5つで満点)

日本の保健婦さん

 友人の映画監督・武重邦夫(故今村昌平監督の愛弟子)が、素敵な記録映画を作った。
名古屋市在住の96歳の女性が主人公である。

 
まるでドラマのような、波瀾万丈の人世。
 こんなに面白いとは・・・。タイトルから想像していた内容とは大違いだ。


 大正7(1918)年生まれ。昭和17(1942)年、名古屋市初の保健婦(現在の呼称は保健師)になり、96歳の今も、専門家として研鑽を続ける前田黎生(あけみ)さんの一生を辿った、希有のドキュメンタリーである。
 彼女と同い年で健在の私の母とは、全く違う彼女の生きざまに度肝を抜かれた。 


私の母はいわゆる「可愛いいおばあちゃん」だ。他人から「いい人」といわれ、皆に好かれることがモットー。思ったことをなるべく口に出さず、やりたいことも我慢し、それが幸せの秘訣だと思い込んでいる。
 そのせいか、デイサービスでも人気者。身内にも大事にされている。


 一方、前田さんは若いときから信念がぶれず、自分に正直に生きている。自分の考えをズバっと言いい、実行力がある。
 好奇心が旺盛で、保健師に関することは勿論、フェミニズムや趣味の文芸についての研究も怠らない。


どちらが幸せか?なんて比べることはできない。人世は十人十色なのだから。


  私は何よりも、前田さんの情熱的な生き方に惹かれる。彼女は、文学青年の父親が平塚雷鳥に傾倒していたので、その影響を受け、早くから自立した女性をめざしていた。


  無産者診療所でボランティアをしただけで、治安維持法にひっかかり、4年も投獄された。
 しかし、反権力を貫き、今もみずみずしい詩を書いている。

 戦後は、地域住民のための保健所保健婦として、公衆衛生の徹底に貢献し、保健婦の地位向上に尽力。名古屋発の保健婦全国ネットワークを構築し、安曇野に「保健婦資料館」も建てた。


  定年後は企業戦士のための産業保健婦になるが、労務管理の手先になりたくないと辞職。保健婦の視点で社会運動を展開し、多くの専門誌に記事を書いている。


  本作の圧巻は、彼女に自身のセクシャリティーを語らせたところにある。
 理路整然と女性の性欲について話し、名古屋在住の作家・山下智恵子の小説「サダと二人の女」の阿部定に共感を寄せる。
 「定はどうしようもない女だが、正直で人間的だ。男性本位の社会における女性の地位を問題提起している」と言う。


 定と前田さんには、共通点が多い。少女時代、共に他家に預けられた経験があり、十代半ばで家を出て自活している。
さらに、生涯に一度の激しい恋愛をし、そのために人世を狂わせてしまうが、みごとに立ち直ってみせる・・・。


 本作は、前田さんが激動の時代を自立した女性としてどう生きぬいてきたか、を克明に描いている。
 妻として、母として、女として、ある時は社会と戦い、ある時は共存する。
  アクティブにフェミニズムを追求し、体現してきた前田さんは妖艶でさえある。


   監督は、彼女のつきない魅力を丁寧に引き出している。
   高齢にも関わらず、まだまだ活躍の場が広がっていることに驚く。
  願わくば続編が観たいものだ。
(★5つで満点)