七夕

ってことで、吉原遊びの「七夕」を改稿したんで、こっちにも転載しちゃいますね。長いんで、お暇な時にでもどうぞ。

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七月七日は、織姫と彦星のお話でお馴染みの七夕祭りです。これは中国の織女(こと座のベガ)と牽牛(わし座のアルタイル)の物語が起源ではあるのですが、元の行事とは異なる、日本独自の形が多かったりもします。元の物語は余りにも有名ですし、ネット上にも数多く紹介されているので割愛させいただきますが、類似のお話しは、東アジアに広く分布する事が知られています。

7月7日に、中国の宮中で行われていた乞巧奠(きっこうでん)という、天帝の娘であり、織物の達人であった織女にちなんで、祭壇に針などを供えて工芸の上達を願う星祭りが、奈良時代に渡来し、日本の朝廷でも行われるようになったと言われます。物語の成立過程と変遷については、諸説ありすぎるので、記述は遠慮させていただきます。

牽牛と織女が天の川を挟んで相対すという伝説は、孔子が編纂したといわれる「詩経」にも現れますが、恋人同士に見立てるのは後漢時代(2世紀)、年に一度デートする設定は六朝時代(3世紀)頃ではないかとの説が一般的です。

最初は、中国の宮廷儀式の様式に近かったのですが、それ以前から、日本には7月7日に水辺に作った棚で、処女である選ばれた娘が機を織りながら客神を迎える行事があり、これと、宮中行事であった乞巧奠と結びついて、七夕になったと言われています。「たなばた」という読みは、棚機女(たなばたつめ)から転化したという説が有力です。これに、牽牛・織女の伝説が重なり、民衆にも浸透したようですね。

棚機女は棚機津女とも表し、七夕神社(神奈川県厚木市荻野)に奉られています。この縁起は失われているのですが、伝説としては「百姓の神」であり、年に一度の逢瀬で受胎し、繁栄をもたらす豊穣神としての神格を持っています。また、新選風土記に現れる神社でありながら、紀記に連なる祭神は不明という珍しい神社でもあり、原形としての七夕祭りが、古来からの伝承である事、そして伝来の説話との融合を伺わせてもいます。

乞巧奠は宮中で盛んに営まれ、平安期には万葉集にも多く詠まれています。星祭りに関わる祭具は、正倉院の目録にも含まれ、宮中祭事としての伝統を伝えています。

民間の行事は、最初は7月7ではなく、6日の晩から7日の朝にかけての行事であって、7日に笹を川に流す物忌みと禊の行事であったとの説もあります。またこれを、元々小正月(1月13−15)の「望みの正月」にの前段となる正月七日の行事(現在は七草として残っています)に相対しての、盆の開始の行事だとの説もあります。

ご存知の方も多いと思うのですが、仙台の「七夕」 は、青森の 「ネブタ」、弘前の「ネプタ」、秋田の「竿燈」、能代の「七夕燈籠」など共に東北中心に分布する「ネムリ流し」の祭事に連なる系統と言われています。この祭祀の変遷も、土着の信仰が神道と関連されて成立した説話や、道教儒教の祭祀の色濃い中国の宮廷行事、そして仏教の浸透、神道との習合という多重な伝承世界を持つ、日本的な世界観の現れの傍証ともなっています。

 「ネムリ流し」とは、睡魔を様々な形の人形や、竹等に託して、川に流した行事であるとされ、「ねぶた祭り」の唱え言葉の原形である「ねぶた流れよ、まめ(勤勉)の葉よとまれ」が本幹を表し、田植えを終え、秋の刈り入れまでの勤勉を誘い無事息災を祈る農耕祭の色彩も強いようです。

棚機女が水辺で待つ客神は、雨であるとの説もあり、稲作の期間中の最大の神事であったとの解釈もあるのですが、様々な日本古来の祭事に、星祭りの要素が加わり江戸時代に、笹に短冊を付ける風習も定着し現在の七夕の形になっていったようです。また、京都では、紙ではなくて、梶の葉や桐の葉に歌を書いてつるす習慣もありました。

江戸の初期、京都から七夕の行事として現れ広まったものに、「小町踊り」があります。これは少女が着飾った姿ではちまき、襷をして太鼓を打ち鳴らして輪を作り、唄いながら踊るというものでした。踊っている少女の身分に相応しく、それぞれの付き添い人が、傘をさしかける事が決まりでもありました。

これは、七夕のロマンチックなと言うか、牽牛と織女の契りにあやかるとの名目でしたが、実際には、未来の良縁を得るためのデモンストレーションでもあったようです。この流れが、すぐ後にあった盆踊りを、供養踊りから、古来の歌垣的なものに変えた先駆であったとの説もあります。

また、七夕の説話は、幼い子供達が最初に出会う、男女愛の説話でもありました。

お気付きの方も多いかと思いますが、七夕も七月七日と言う節句です。元々は旧暦での日にち指定の祭礼を新暦に置き換えてしまったので、本来は晴天の多い梅雨明け以降なのですが、現在は大抵、梅雨の真っ只中になってしまって、天の川を挟んだ二人は、中々会えなくなってしまいました。今年だと7月31日が旧暦の七夕なので、案外、ちゃんとデートの予備日は決まっているような気もしますよね。

今年も、たくさんの願い事が短冊に託され、星に祈りが捧げられます。皆様の願いが叶いますように御祈り致しております。

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*付記
比較的認めれている説を中心に採っていますが、中国と日本の文化や祭礼・神祇の相関、民族伝承と祭礼の関係については諸説あります。また室町末期−江戸初期の民族資料は同時期であっても表記内容に差異が見られ、資料としての真贋評価が一定でなかったりします。興味をお持ちの方は是非専門書、専門サイト等をお探し下さいね

吉原遊郭の位置 / 吉原遊び江戸の日々、更新再開!

ってことで、いきなり文体が崩れて、「ど〜もすみません」@林家三平師匠風

それはともかく、「吉原遊び江戸の日々」本体の更新開始しました。やっと資料が揃って、頭もまとまった感じなので、ちょびっとずつですがアップしています。

振り返ると、サイト造り始めた頃は、判ったつもりでも随分不勉強だったんだなぁって、反省しきりです。

「吉原遊び」は元々原典当たりから始めたので、市販の吉原本への理解が浅かったんですね。ぶっちゃけ、ここまでムチャクチャな本が多いとは思っていなかった(笑)

そして、それを孫引きした薀蓄本や、wwwでの記述がここまで多いってのも、改めてびっくりしました。

もちろん、web上にもしっかりした記述はあります。後ほど許可頂ければリンクも貼ろうと思っていますが、サイトとしても素晴らしい物があるし、mixiのコミュにもしっかりしたものがあります。

少し具体名を挙げちゃうと、稲垣史生さんの吉原遊郭に関する記述は色んな意味で凄いっす。それ以外の江戸時代考証はしっかりしているのも多いのに、この分野は「なんじゃこりゃ?」って感じだったりしますよね。遊女、そして現在の風俗業にも反感を持っているとしか思えない。なんか嫌な思い出でもあるんだろうか、なんて(笑)

杉浦日向子さん、大好きなんですが(マンガも著述も出版物は全て持っています)極々、初期の遊郭に関する記述に「あれっ?」って思うのがあったのは、最初、稲垣史生さんに弟子入りしてたんですね。知らなかったっす。

勿論、本格的に江戸に興味を持たれてからは、直ぐに原典に当たるようになられているので、稲垣さんの影響はあっと言う間に消えていますが。再版以降に、訂正を入れていらっしゃるのはほとんどその部分ですし。

サイトの記述と一部重複するけど、まずは吉原遊郭の位置です。東京にお住まいの方々とソープ好きな方々(^^;;は、現在の吉原(住所は千束)の位置をご存知なので、なんであんなに「遠い遠い」って書いてあるのか、「変だなぁ」って思っていらっしゃるかと思うのですが時代の変遷が抜けているんですよね。地元の方はご存知のように、百花園と桜の墨提で有名な向島よりは手前だし、鬼平さんの地元「本所」からは、橋を渡ってすぐそこだし、お芝居で有名な「猿若町」からは300メートルしか離れていなかったりします。

まぁそんなこんなで、この仮宅はちょっと砕けた感じで、サイトの補足と、思いつきも書いていこうと思うので、宜しくお願いしますね!

節分についてちょびっと

今年(2006年)は2月3日に節分を迎えます。ことしは旧暦では1月6日にあたるのですが、これは今年が旧暦7月の後に、閏月(簡単に言うと1年が13ヶ月になります)が入る年に当たっているためで、昨年は2月9日、来年は2月18日再来年は2月7日が旧暦のお正月となります。

明治5年に太陰暦から太陽暦へ暦が変るまでは今年のように、閏月がある年など、希に年内に立春を迎えることもありましたが、冬至を過ぎ、寒が終わり節分を過ごし、そして新年を迎えるのが一年の流れでした。この感覚が現代と大きく違っていたりします。

節分は元々立春立夏立秋立冬の大節季の前日なので、年に4日あり、それぞれ大切な日として様々な行事が行われていました。その中で一年の厄を払い新年に福を迎える儀式として立春の前日の節分が大きな意味を持ち、江戸時代以降は「節分」と言えばほぼこの日を指すようになったようです。

現在行われている豆まきを始めとする行事の由来は、諸説はありますが中国の周王朝時代に編まれた「周礼」にのっとり平安時代に毎年大晦日(一説には28日)に行われた追儺(ついな)の儀式が元になっていると言われています。

「儺」の字は「おにやらい」とも読み厄災をもたらす邪鬼を追い払う行事に他なりません。当時の「鬼やらい」は12ヶ月それぞれの疫病神を表す12匹の鬼に扮した鬼役と、松明をかざしてそれを打ち据える役が立ち回りを演じる物で、豆を撒く習慣は無かったようです。また原形はやはり五行を元にした形であったようです。

平安時代に編まれた延喜式では、節分に「彩色した土で作成した牛と童子の人形を大内裏の各門に飾る」との記述があり、追儺とは別々の日に行われた行事であることが判ります。

豆を撒く習慣は「豆占」という古来からの農耕行事があり、これは節分の夜に12ヶ月になぞらえた12個の大豆を灰の上に並べてその焼け具合によって、月々の天候と作物の豊凶を占っていました。この行事は現在でも一部地方には独立した形で残っていたりもします。

この二つの行事が融合して一説には鎌倉中期一説には室町初期に民間へ広まり江戸期になって全国的に現在の形に近くなったと言われています。

江戸中期以降の一般的な江戸での節分は豆の枯茎に塩鰯を刺した物と柊の小枝を家の玄関へ挿します。主人が神前仏前に灯りを点し、竈を清めて鬼打ち豆を煎って煎りあがった豆は升に入れてから三方へ乗せその年の年男に渡され恵方へ向って豆を打ち、次に神棚に向って同じように打ち順に家中の部屋すべてへ豆をうちます。

それから「年取り物」(年包・福包)を主人から家内全員に配って、用意した里芋、大根、牛蒡、焼豆腐、黒豆、高野豆腐、蓮根の煮物、田作りの重と数の子を肴に酒を酌み交わすのが吉例とされていました。内容は現在のお節料理の一部となっていたりします。これも旧暦から新暦への移行に伴って変化しました。

お節料理という言葉自体が元々は「御節供料理」で節句、節分、春・秋分夏至冬至に神仏へ御供えした料理の総称で現在はお正月の料理を指す言葉になっていたりします。

現在でも易暦では節分を冬の陰気を払って、春の陽気を取り込む日として「除夜」と呼びます。

節分は様々な日本の伝統行事が、暦の移行に伴って変化した最も判り易い例かも知れません。

YAHOO BBマガジン 掲載御礼

毎日、ほんとに暑い日が続きますね。暑中お見舞い申し上げます。お身体、くれぐれも御自愛くださいね。

1999年に公開させて頂いたこのサイトも、早いものでもうすぐ5年になるのですが、更新を停止してからも、早、3年になってしまいました(汗)

けっこう書き溜めているものはあるのですが、特にこのページの母体になっている「吉原遊び江戸の日々」は調べれば調べるほど、興味深い事項が見つかりますし、ここ数年、新しい古文書の発見や、研究者の皆様の新説も発表されていて、傍証を集めたり、思い込みを改めたりと、なかなかwww上にアップ出来なかったり致しております。

またこのようなサイトであるにも関わらず、今月のYAHOO! BBマガジンさま「ブロードバンドで出来ること」という特集の「読みたい」という項に掲載いただき、御礼を兼ねてこの一文を掲載させて頂きます。

また、以前よりリンクを頂いております皆様、そして、御紹介のリンクを通し毎日多くの方々から御訪問いただいております
ジャーナリスト 有田芳生さまの「今夜もほろ酔い」
評論家     加藤弘一さまの「ほら貝」
作家       神田憲行さまの「Candid Photo」
万能作家    眠田直 さまのMINDYPOWER

の皆様に改めて御礼を申し上げます。

そして、「せっけん王国」「吉原遊び江戸の日々」においでいただいたすべての皆様に。

もう一度ありがとうございました。

東京は7月15日ですね。//お盆など

祖先の供養をする行事として、最も知られているのが「お盆」で、東京では7月15日に迎えるのが一般的です。しかし、最も暮らしに溶け込み、また古くから広く行われていた行事でありながら、現在では大きく3つの日程で行われる珍しい行事でもあります。

お盆の来歴は、中国の「仏説盂蘭盆会経」が出自だとの説が有力です。これは経典ではあるのですが、仏教説話の色が濃く、大幅に意訳すれば、釈迦の十大弟子の一人で、居ながらにして世界を俯瞰し声を聴き、心を見通す力を持つ目蓮尊者(モッガラーナ)が、今は亡き父母の恩に報いようと修行に励み、死後の世界を覗き見ると、父は天上界にあったものの、母は餓鬼道に落ちやせ衰えた哀れな姿になっていました。驚いた目蓮尊者は、すぐにご飯を供えて供養しようとするのですが、ご飯は炎に包まれてしまって、口に運ぶことが出来ません。万策尽きて釈迦に相談したところ、7月15日は夏安吾(練成会)の最後の日であり、大勢の僧がそろぞれの過去を反省・懺悔し、更に修行に向う「仏歓喜の日」なので、父母の為に回向を頼むと良いと教えを受けました。この際、釈迦から儀式、作法も伝授され、多くの布施を行い、御馳走を供えて回向を受けることにより、亡母は救われたとされています。尚、「盂蘭盆会」の語源とされる「ウッランバーナ」と言う梵語の原意は「非常な苦しみ」だったりします。

日本で最初に記録に現れるお盆の行事は、推古天皇14(606)年に始まると言われ、その後日本土着の暦による祖先の霊を奉る儀式や、神道の祭祀と混合し、人々の間に根づいていったと言われています。

陰暦7月15日は「中元」と呼ばれていました。これがご存知、夏の贈り物の名称として現在まで残っています。この日は望の正月、春分秋分と並んで、古来より祖霊の訪問を受ける忌日でもありました。

元々、24候や暦ではなく、7月15日という日付によって行われていたため、明治の改暦の際に地方によって日程が分かれました。東京を中心とする大都市圏と農繁期がずれていた東北の一部はそのまま新暦へ移行し、旧暦のまま行うのは関東北部、中国・四国・九州・南西諸島。そしてその他の地域は月遅れのお盆が一般的になっていました。


明治中期以降、労働者の都市集中と学校の夏休みが定着するに従い、事業所や商店の夏期休暇は最も暑くなる8月中旬が多くなります。昭和20年以降は、太平洋戦争の終戦祈念日が8月15日であった事もあって、盆の行事は以前の日程で行う地域でも「盆休み」は月遅れの盆と日程が揃って来ました。

そして、出身地に戻り墳墓に参る、帰省の行事が広がっていきました。もちろんこの行事は、一堂に会した子孫の姿を先祖の霊に披露し、家の栄えによって供養する意味を持ちます。その意味でも、地方でのお盆行事の8月15日への移行はこれからも進んでいくと思われています。

視点を少し変えてみると「盆と正月が一緒に来たような」と言う言葉があるくらい、お盆は祖先を祭る大切な行事であると同時に、民衆の祝祭でもありました。

盆踊りは、庶民の娯楽として最も定着した踊りで、室町中期から発展し、江戸初期に爆発的な隆盛を迎えます。これは、直前に行われる七夕祭りの際に行われる「小町踊り」が「将来良縁を願う」から転化して、古来の「歌垣」的要素が、安定する社会を背景に盆踊りへ習合したとの説もあります。しかし、余りに華美に流れ、淫靡に流れたため、府内禁止の高札が立ち、三都(江戸・大阪・京都)では江戸後期に至っては殆どすたれていましたが、農村地域で綿々と続いていて、明治になって、地方から都市へ逆流して、再度復活したようです。

現在のお盆の形式は、やはり江戸時代に形作られたようです。但し、それはそれぞれの行事の根幹であって、現在の一般的なお盆行事のイメージと言うか、祭祀自体は神仏分離された、明治以降に現在の形になってゆきました。

今のお盆は、お坊様や和尚様が在家を訪問し仏壇にお参りしお勤めを頂くのが一般的です。江戸時代は、在家には仏壇を置かないのが普通で、「魂棚飾り」を設けて、祖先の霊魂を迎え祭る形でした。この棚の前で、僧を招いて読経するのを「棚経」と言いました。

形式は、仏像や祖先の位牌や経木に法名(戒名)を書いた物を真菰(まこも・イネ科の水辺に生える多年草)を敷き詰めた上に奉り、四方に葉の付いた青竹を立て周りを青杉葉の籬 (まがき)で囲いました。青竹に、現在の神社や、正月の結界のように注連縄(菰縄)を結んで、それに素麺や米をはじめ、栗や粟、芋等地方によって様々な物を結んでいたようです。今の感覚からすれば、まさに仏壇なのか神棚なのか判らない形式です。

その他にも、お馴染みの牛馬四足に見立てた、瓜や茄、芋茎(ずいき)で編んだ馬等を飾り、時代が下がるにつれて、盆提灯を掲げるようになりました。

盆提灯の原形は、寛喜2(1230)年に燈された、「盆灯篭(ぼんとうろう)」であると言われます。江戸時代の初期は、魂棚飾りにかける灯篭は、立方体の枠に白紙を張っただけの粗製なもので、一年限りのものでした。その後、提灯(ちょうちん)の形で発展したものと、吉原の夭折した名伎「玉菊」の三回忌にあたる享保13(1728)年に茶屋が申し合わせて作った箱提灯の二つの系統が起こりました。これが融合して、優れた細工師を排出するに至り、「回り灯篭」に代表されるからくり灯篭や、装飾を施した様々形態の提灯が現れ、盆灯篭(提灯)として現在に至っています。また防火の観点から、盆提灯には蝋燭を用いず、「ひょう燭」と呼ばれる背の低い器状の中に太い木綿の芯を蝋で固めた物を用いました。

明治維新後、神仏判然令が出され、お盆は仏事としての色合いが濃くなります。一部の行事は、七夕へ移行し、又、直接仏事に組み込まれない独立した「精霊流し」等の行事へと移行していったようです。

現在のお盆は、12日に「魂棚飾り」から変化した「精霊棚」を設けるか、仏壇の前に飾り物をして、夕方には迎え火を炊きます。14日に芋茎和え、茄とふくべとごま和え等を供え、15日にはハスの葉に白いご飯を包む地方や「送り団子」と称する米団子を供えたりします。瓜や茄の牛馬を供えるのも一般的です。そして、15日か16日に送り火を焚いて、精霊をお送りします。

これが、東京では7月、地方では8月、そして一部の地域では旧暦の日付にそって行われるのですが、勿論、心がこもっていれば形式に縛られることはありません。

今年のお盆を、どのように過ごされますでしょうか?実家に戻れない方も、日頃の感謝を込めて、電話で互いの無事を伝えあうのも良いかも知れませんね。


2004.7/9 一部改稿

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*付記
比較的認めれている説を中心に採っていますが、中国と日本の文化や祭礼・神祇の相関、民族伝承と祭礼の関係については諸説あります。また室町末期−江戸初期の民族資料は同時期であっても表記内容に差異が見られ、資料としての真贋評価が一定でなかったりします。興味をお持ちの方は是非専門書、専門サイト等をお探し下さいね。

七夕祭 //乞巧奠と土着信仰など

七月七日は、織姫と彦星のお話でお馴染みの七夕祭りです。これは中国の織女(こと座のベガ)と牽牛(わし座のアルタイル)の物語が起源ではあるのですが、元の行事とは異なる、日本独自の形が多かったりもします。元の物語は余りにも有名ですし、ネット上にも数多く紹介されているので割愛させいただきますが、類似のお話しは、東アジアに広く分布する事が知られています。

7月7日に、中国の宮中で行われていた乞巧奠(きっこうでん)という、天帝の娘であり、織物の達人であった織女にちなんで、祭壇に針などを供えて工芸の上達を願う星祭りが、奈良時代に渡来し、日本の朝廷でも行われるようになったと言われます。物語の成立過程と変遷については、諸説ありすぎるので、記述は遠慮させていただきます。

牽牛と織女が天の川を挟んで相対すという伝説は、孔子が編纂したといわれる「詩経」にも現れますが、恋人同士に見立てるのは後漢時代(2世紀)、年に一度デートする設定は六朝時代(3世紀)頃ではないかとの説が一般的です。

最初は、中国の宮廷儀式の様式に近かったのですが、それ以前から、日本には7月7日に水辺に作った棚で、処女である選ばれた娘が機を織りながら客神を迎える行事があり、これと、宮中行事であった乞巧奠と結びついて、七夕になったと言われています。「たなばた」という読みは、棚機女(たなばたつめ)から転化したという説が有力です。これに、牽牛・織女の伝説が重なり、民衆にも浸透したようですね。

棚機女は棚機津女とも表し、七夕神社(神奈川県厚木市荻野)に奉られています。この縁起は失われているのですが、伝説としては「百姓の神」であり、年に一度の逢瀬で受胎し、繁栄をもたらす豊穣神としての神格を持っています。また、新選風土記に現れる神社でありながら、紀記に連なる祭神は不明という珍しい神社でもあり、原形としての七夕祭りが、古来からの伝承である事、そして伝来の説話との融合を伺わせてもいます。

乞巧奠は宮中で盛んに営まれ、平安期には万葉集にも多く詠まれています。星祭りに関わる祭具は、正倉院の目録にも含まれ、宮中祭事としての伝統を伝えています。

民間の行事は、最初は7月7ではなく、6日の晩から7日の朝にかけての行事であって、7日に笹を川に流す物忌みと禊の行事であったとの説もあります。またこれを、元々小正月(1月13−15)の「望みの正月」にの前段となる正月七日の行事(現在は七草として残っています)に相対しての、盆の開始の行事だとの説もあります。(お盆については、近日中にアップする予定です)

ご存知の方も多いと思うのですが、仙台の「七夕」 は、青森の 「ネブタ」、弘前の「ネプタ」、秋田の「竿燈」、能代の「七夕燈籠」など共に東北中心に分布する「ネムリ流し」の祭事に連なる系統と言われています。この祭祀の変遷も、土着の信仰が神道と関連されて成立した説話や、道教儒教の祭祀の色濃い中国の宮廷行事、そして仏教の浸透、神道との習合という多重な伝承世界を持つ、日本的な世界観の現れの傍証ともなっています。

 「ネムリ流し」とは、睡魔を様々な形の人形や、竹等に託して、川に流した行事であるとされ、「ねぶた祭り」の唱え言葉の原形である「ねぶた流れよ、まめ(勤勉)の葉よとまれ」が本幹を表し、田植えを終え、秋の刈り入れまでの勤勉を誘い無事息災を祈る農耕祭の色彩も強いようです。

棚機女が水辺で待つ客神は、雨であるとの説もあり、稲作の期間中の最大の神事であったとの解釈もあるのですが、様々な日本古来の祭事に、星祭りの要素が加わり江戸時代に、笹に短冊を付ける風習も定着し現在の七夕の形になっていったようです。また、京都では、紙ではなくて、梶の葉や桐の葉に歌を書いてつるす習慣もありました。

江戸の初期、京都から七夕の行事として現れ広まったものに、「小町踊り」があります。これは少女が着飾った姿ではちまき、襷をして太鼓を打ち鳴らして輪を作り、唄いながら踊るというものでした。踊っている少女の身分に相応しく、それぞれの付き添い人が、傘をさしかける事が決まりでもありました。

これは、七夕のロマンチックなと言うか、牽牛と織女の契りにあやかるとの名目でしたが、実際には、未来の良縁を得るためのデモンストレーションでもあったようです。この流れが、すぐ後にあった盆踊りを、供養踊りから、古来の歌垣的なものに変えた先駆であったとの説もあります。

また、七夕の説話は、幼い子供達が最初に出会う、男女愛の説話でもありました。

今年も、たくさんの願い事が短冊に託され、星に祈りが捧げられます。皆様の願いが叶いますように御祈り致しております。

                                                                                                                                                              • -

*付記
比較的認めれている説を中心に採っていますが、中国と日本の文化や祭礼・神祇の相関、民族伝承と祭礼の関係については諸説あります。また室町末期−江戸初期の民族資料は同時期であっても表記内容に差異が見られ、資料としての真贋評価が一定でなかったりします。興味をお持ちの方は是非専門書、専門サイト等をお探し下さいね。。

端午の節句について2(鯉のぼり・柏もち等)

端午の節句行事の風景を想う時に、五月の空を元気に泳ぐ鯉のぼりと柏餅は欠かせませんよね。この二つも江戸時代に入ってから現れた風習だと言われています。



来歴・行事等に少し詳しく書いて居るのですが、端午の節句「上巳の節句」と並ぶ病気・厄災を払う日として周代から行われていた記録があり、日本でも推古天皇の時代(7世紀初頭)に薬草刈りを行った記録が残っていて奈良時代には、宮中の正式な行事として位置付けられていたことは、ほぼ間違いありません。ただ、昔は旧暦で行われていた行事なので、現在の季節感覚とは違っていたりします。また、行事自体が原形から変化し、今では行われない物も多くありますし、時代推移もあるので、もしお時間に余裕があれば来歴・行事等から目を通して頂けた方が判り易いかもしれません。



さて、鯉のぼりの由来なのですが、これはほんとに諸説あってどれが正しいとは言えないのが現実ですので、あくまで私の知るところだと思って頂ければ幸いです。



端午の節句飾りは最初は尚武の昂揚のため、武家屋敷の門や塀などに本物の幟を立て、梅雨前の手入れを兼ねて、本物の鎧を飾ったりしていたようで、その風習が庶民層に広がったとの説が有力です。そこに鯉のぼりが加わってゆくのは江戸中期以降だと言われています。



鯉を模った幟は、最初から今のような形態であったわけではなくて、紙製の小さなものであったようです。それも独立したものではなく、幟の「麾(まねき)」として小旗の代りに結んだのが始まりだと言われています。「麾」と言うのは、幟の上部の横竿に付ける小旗で、古くは経文や護符や吉言が書かれていて、幟に描かれている一族の紋所に武運と栄を招く物であったようです。



横竿付きの幟は、「旗指し物」を原形として武家の印として発展しました。 これは図示すると 型なのですが上部に竿を用いる幟も、現在は神社の祭礼等で見かける 型が一般的な幟の原形で、武家以外の貴族や庶民はこちらの形を幟として用いていました。型の幟が一般化するのは、節句飾りの一般化と歩を共にしたのと説も有力だったりします。



「麾」に鯉を模った物を結ぶようになったのは、「登竜門」の故事、すなわち、「鯉は黄河上流、龍門の急流を登れば龍になって天に昇る」にちなむのは言うまでもない事なのですが、「麾」以前にも幟自体に鯉の図を描く事は広く行われていて、幟の図−麾−鯉のぼりへ変遷したのではないかと言われています。また、武者飾りや武ばった飾りは庶民の外飾りとしては憚られたので、麾に結ばれた鯉であれば堂々と飾れるため、一挙にこの風習が広まり、大型化していったようです。時代的には安永(1772〜1780)年間頃の資料から散見されるので、この少し前頃からではないかと思われます。



さて、もう一つの端午の節句に欠かせない「柏もち」なのですが、「柏の葉」は元々は地方によって違った種類の木の葉であったようです。「かしわ」という言葉は、「炊(かし)ぐ葉」に由来すると言われ、食物を包む葉の総称だったので、食器の代用となる葉、あるいは腐敗を防止遅延させる葉をすべて「柏葉」と称していたようで、その葉で包まれた餅の類の総称として「柏餅」が各地に存在していたようです。



種としての「柏」は「ブナ科の落葉高木。実はどんぐり状の堅果。樹皮を染料とし,葉は食物を包むのに用いる。(新辞林 三省堂)」なのですが、これが端午の節句と結びついたのは、「新しい葉が育つまで落葉しない性質が、子孫繁栄と長命祈願、そして円滑な代替わりを祈念するめでたい葉」とされたようなのですが、これもなんだか採ってつけた様な理由と言うか、宣伝の成功例のような気もしています。



現在は、「柏」の他に西日本中心には「アカメガシワトウダイグサ科の落葉高木。高さ 10m に達する。昔,葉に食物を載せたので御菜葉(ごさいば)・菜盛(さいもり)花の別名がある。(新辞林 三省堂)」の葉を使った柏餅もあります。薄手の香りの強い葉はこちらなんですよね。その他にも「山帰来(サンキライ)=ユリ科・昔は毒消しの実として使用されていた。つる性植物の落葉低木で2mくらいまで成長。茎には刺があり、他の植物に絡み付いて自生する。(植物辞典 集英社 )」など、様々な葉が使用されているようです。



柏餅が端午の節句と結びついて登場するのは、鯉のぼりよりは少し早くて、寛永年間(1624−44)より後ではないかと言われいますが、「守貞漫稿」に は 「其製は米の粉ねりて円形扁平となし、二つ折りとなし間に砂糖入,赤豆餡を挟み、柏葉大なるは一枚を二つ折りにして之を包み、少なるは、二枚を以て包み蒸す。江戸にては砂糖入り味噌をも餡に交る也。赤豆餡には柏葉表を出し、味噌には裡を出して標とする。(岩波文庫版「近世風俗誌」より引用)」 とあり、江戸末には、ほぼ現在の形態となっていて、一般に浸透していた事が判ります。



端午の節句もそうなのですが、古来から続く年中行事には先人の知恵が詰まっていると同時に、日々の暮らしの中で忘れがちな自らと、そして家族や近しい人々との関係を振返る節目でもあります。幼い頃に訳も無く嬉しくて見上げていた鯉のぼりを、思い出す日にもしたいなぁって思ったりしています。




*付記

比較的認めれている説を中心に採っていますが、中国と日本の文化や祭礼・神祇の相関ついては諸説あります。また室町末期−江戸初期の民族資料は同時期であっても表記内容に差異が見られ、資料としての真贋評価が一定でなかったりします。興味をお持ちの方は是非専門書等をお探し下さいね。