とろけるあめ

高校生のころから書いていたこのブログを製本したところ、300ページもある分厚い本になりました。300ページそれぞれのわたしはいつも部屋でひとり、誰かが読んでくれるであろうここで文を書き、世界とつながっていました。  とても気持ちがすっきりしたので、わたしはまた部屋でひとり、書いてみようと思っています。

さよならのあわい (hatenablog.com)

さよならとさよならの間で、またお会いします。

作家が、自分が扱う媒体それ自体をテーマにした作品をつくることはあって、それに出会うとわたしはこころがわなわなする。   真心ブラザーズの「拝啓、ジョンレノン」の、神聖かまってちゃんの「ロックンロールは鳴り止まないっ」の、切実さ。ただ好きなものへの盲目なラブソングではない、「最近の曲なんかもうクソみたいな曲だらけさ!なんて事を君は言う、いつの時代でも」と言う、客観的な眼差し。


フェリーニの「8 1/2」に私たちがめまいを覚えるのは、映画をつくるということを描くということに、フェリーニの人生には必然性があるから。   ターセムの「落下の王国」では、脚が不自由な主人公が物語を紡ぐというストーリーのラストで、サイレントコメディ映画が引用される。ああ監督にとって俳優たちが躍動することは、生きることと同義で、映画が美しいということは、この世界が美しいということと同義なんだ、とおもう。


そうしてこころがわなわなするのです。わなわなする作品があったら、おしえてください。

「雨だって風だって何でも着られるの。」

男の子みたいに髪を短く切っているのに、まつげをくるんと持ち上げたくなる日もある。とても大きい胸にいつもぴちぴちのリブのセーターを着る女の人を見るとちょっと引いてしまうのに、自分だって、寒い日に20デニールのタイツを履きたくなる日もある。    わたしはいまだに、自分が女の人であるということを受け入れた上で、どのように女の人らしさを身に着けていくのか、その納得する地点をみつけられずに、くるしいおもいがします。   山口小夜子は言う。「雨だって風だって何でも着られるの。」    ああ、そうか、わたしも、何を着るのか、何を身につけるのか、そんな性や美醜の問題をこえて、ふるさとの、海岸で、潮のにおいがしみたワンピースをたなびかせて、脚のあいだをふきぬけていく風をかんじたい。ただわたしの輪郭をなぞってほしい。    そうだ、わたしはただ、輪郭をなぞってほしいのだ。そう考えると、わたしが受験生のころ、藤田嗣治の墨で描いた細い輪郭線のデッサンを、必死で模写したことにも、必然性がたちあがってくる。わたしが、ネットに溢れる少女たちの映像の輪郭を追いかける作品をつくったことにも、意味がうまれてくる。体の輪郭である皮膚の病気に悩まされつづけていることも、ただの障害ではない。輪郭をなぞることは、そのものの存在を確からしいものにすること。    わたしはただ、わたしの輪郭をなぞってほしい。わたしと世界の境界線である輪郭をなぞってもらうことで、性や美醜をこえた、ただ“わたし”というものを、かんじたいのだ。    どんな髪をしていても、雨の日は、わたしに染みこんでいくしずくをかんじよう。どんな格好をしていても、風の日は、わたしの服や産毛をかすめていく風と、おどるようにまじわろう。 雨も風も、わたしの輪郭をやさしくなぞる。そこからすこしずつ、らくになれる気がする。

くやしいことがあって、家路。もし、わたしが、SNSで、痴漢被害やセクハラに関する投稿をしたとして、「おまえにはやらない」「ぶすのくせに」のような返信がきたとしたら、「わたしが歳をとっていても醜くても、女として綺麗か綺麗でないかという土俵に勝手にあげられ勝手に品評されてしまうという意味では、美人と苦しみは変わりません。まあ土俵は土俵であがれないんですけど。」と返そう、という想定を頭の中にぐるぐるとめぐらせることで、くやしさを誤魔化しながら帰宅した、22時。わたしの部屋の、茨木のり子が言う。

女がひとり
頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
油断すればぽたぽた垂れる涙を
水道栓のように きっちり締め
男を許すべきか 怒るべきかについて
思いをめぐらせている
(略)
女たちは長く長く許してきた
あまりにも長く許してきたので
どこの国の女たちも鉛の兵隊しか
生めなくなったのではないか?
(略)
女がひとり
頬杖をついて
慣れない煙草をぷかぷかふかし
ちっぽけな自分の巣と
蜂の巣をつついたような世界の間を
行ったり来たりしながら
怒るときと許すときのタイミングが
うまく計れないことについて
まったく途方にくれていた
それを教えてくれるのは
物分かりのいい伯母様でも
深遠な本でも
黴の生えた歴史でもない
たったひとつわかっているのは
自分でそれを発見しなければならない
ということだった

アパートの部屋でぼうっとするわたしを、「女がひとり 頬杖をついて」と描いてくれる。涙がじわじわ湧いてくる様を、「油断すればぽたぽた垂れる涙を 水道栓のように きっちり締め」と描いてくれる。わたしの部屋と社会を、「ちっぽけな自分の巣」「蜂の巣をつついたような世界」と描いてくれる。茨木のり子に描いてもらうことで、かみくだいて、うけいれられる、くやしさがある。くやしいことがあった日は、わたしの部屋の、茨木のり子に聞けばいい、毅然とした気持ちを、とりもどせる。

わたしのアパートの近所、団地の一階部分の店舗に入った喫茶店ブレンド一杯250円。おじさんが1人でやっていて、本棚には、バルテュスの画集や、ブラタモリや、風の立野ナウシカ全巻が並ぶ。神棚には、ブルースブラザーズのDVDがお供えしてあって、音楽は、相対性理論が流れている日もあれば、ジャズが流れている日もある。おばあちゃんたちの井戸端会議の場所であり、おじいさんたちが新聞を読む場所である、ここが、とてもすき。今日は風が気持ちいいから、とびらが全て開いていて、団地の街路樹の木漏れ日が差し込んで、舞ったほこりがキラキラしていた。カフェオレの、底に沈んだ、まだとけないコーヒーシュガーを、スプーンですくいあげたら、琥珀のように、チラチラかがやいた。うつくしい、金曜日。 ひかりはカメラには写らず、数分で消えた。


このリアーナにとって肉体は、自分自身であり、味方であり、コントロールできるものなんだろうな。わたしにとって肉体は、自分から乖離しているものであり、敵であり、暴走してばかりいるものです。 わたしも、気高い動物のように美しい肉体を、踊るように、奏でるように、うごかしてみたい。