世界は称賛に値する

日記を書きます

2024年05月25日(土)どんな領域でも羨ましい対象はある

日記を書けるの羨ましい

ちゃんとした日記を書いているひとに対するコンプレックスがなくもない。と、書いておいてなんなんだけど、「ちゃんとした」も「日記」も「コンプレックス」も、けっこう乱暴な言葉選びであることには気づいていて、適切な文章かどうかあやしい、って考えたりもした。まあでもそのあたりは別によい。とにかく、「日記」っぽい日記には、長らく憧れている。羨望も敗北感もある。思索、随想、ひとりごと、みたいに、どうしてもなってしまい、日記を書きたいと思いながらも、ぜんぜん「日記」が書けていないことには、気づいている。ほんともうこの文章がすでに日記じゃないんよね。いや、日記じゃないは流石に過言なんだけど、こういうのじゃない、時系列の、生活の、日常の、人生の、"暮らし"の、文章にも、憧れてはいる。

少し前に訪れた渋谷〇〇書店が楽しかった影響か、文学フリマあたりの熱気に影響を受けたためか、ジンとかリトルプレスといったものに、最近は、ちょくちょく、惹かれるようになった。そして、そのまわりで、「日記」にスポットライトが当てられているシーンを、見かけるようにもなった。称揚される姿を見かけている。結果、隣の芝生は青い的に、みなさん素敵な「日記」を書くなあ、と(特に)憧れるようになった次第ではある。感化され、惚れっぽいというか、目移りしやすいというか、尻軽的なところもなくはなく、「日記」って素敵だ、と思い始めた。

「日記」っぽい日記、中でも、ほんとうに素敵な日記は、こんなにも、気持ちよく、健やかに、穏やかに、読めるものなんだな、とか思えて、羨ましくなったし、コンプレックスに似た思いもいだいた。ひとの日記が羨ましくなるのってなんとなく変テコな感じ、と思って書き始めた文章だったのだけど、ここまで書いてから振り返ってみたら、もともとの違和の源泉がなんだったか、見えなくなった気もするな。書いていくうちに素敵さが明確になってきて、羨ましいやつはそりゃ羨ましいよね、羨んでもおかしくないよね、って素朴に思えてきた。たぶん書き出しの瞬間には、日記なんていうごくフツーのものにあこがれるなんて変なの、くらいの偏見があった。偏見が解消されていく文章はよいものだな。「日記」じゃなくても、書いてよかった。

2024年05月24日(金)双方向で悪いし悪くない

双方向

人間関係において、「一方が正しい振る舞いをしていて、もう一方は誤った振る舞いをしている」なんてことはないんだぞ、と思っておいてよさそうではある。「双方が欠点を持っている」とか「両者をつなぐライン上に難点がある」とか認識しておけばおおむね問題なしっぽい。むしろそれが最も改善や治癒しやすい状態だ、って言ってもよいんだと思う。双方が「自分のダメなところを正していこう」あるいは「互いに、相手と噛み合うよう、努めるしかない」と決意していることこそが、「よく」なるためには必須、っていうかな。少なくとも、効果的な状態ではあるのだと思う。

「相手がアホなせいで、自分はこんなに頑張っているのに、ダメダメなんだ」とか思っているばかりでは、事態は改善されない。一概に言い切れるものでもないのかもしれないが(どちらか一方が、ある背後関係においての、大きな懸念材料を有している可能性は、もちろんあるが)、しかし、それでも、双方が、「ぼくの直せるところを直そう」と思っているのであれば、構造的に、改善には近づいてゆくはずだ。片側が「ぼくが正しい!向こうのせいだ!」って"思っていないと改善に向かわない"ケースは、だいぶ考えづらい。

投げ棄てコミュニケーション

上司との本日のコミュニケーションで、投げ棄てるようなリアクションを取られる瞬間があって(前にも同じような表現をしたことがあったな……)、あれはぼくが適切な受け答えをしなかったせいだったのかなー、なにかしら苛立たせる要因があったってことなのかなー、というようなことを考えていた。帰りしなにも考えていた。が、「どんな状態であれ不機嫌をぶつけるとかそもそもよくない」「理由があれば軽んじたり侮ったりしてよいとか別にない」、と、そのうちに思えてきたので、さらに整理し直して、「コミュニケーションなんだからどちらか一方が間違いだった」とかないはずじゃん、っていうところに気持ちを持っていった。なだめた。今回の対応と関係があるのかないのか曖昧な、不備が、前日にあったはあったのだけど、そんなもんあろうとなかろうと、関係ないのだ、と、少しは居直ることができた(前日の段階で話し合いは済んでいたので関係ない可能性もあった)。なんにしろ、同じ状況でも、不機嫌にならないひとは当然いる。注意するなら不機嫌でなければならないというルールもない。

こういった結論を導き出して、脇にかかえておくことで、今後の(気の持ちようみたいなところもふくめて)関係性を改善していけるんじゃないか、といったことを思ったわけではぜんぜんない。ただ、ぼくがひとりで気落ちして、気を回すのも、なんか違うよな、とは思ったし、「互いの問題」というところから状況を見つめ直すことによって、スタンスを整えることもできた。まあ、ぼくとはまったく無関係に、単なる寝不足とかで不機嫌になっているシチュエーションも、聞けば、あるようである。判別がつかないぶん、余計にやってられん、とも言えるが。

2024年05月23日(木)口癖の世界観

しつこいくらい言っている

しつこいくらいやってしまった、と認識していても、実際、ほかのひとから見たらそこまで目立ってない、というか、いちいちそこまで着目してないよ、といったことはよく言われる。気にしているのは自分だけ、といったシチュエーションの話だ。自意識が過剰だったり自己評価が過大だったりする話である。ただ、逆もまたしかりなところもあって、気づかれていないだろうと思っている些細な癖(だと思っているもの)が、実はめちゃくちゃ目立っていることだってあるようだから、結論、区別しようがない、とも言える。わからん。

文章を書くときの癖でも、いっつもこの言い回し使っちゃうな~、っていうのが、まあまあある。乱用しないほうがよいのでは、と思われるような、やや奇抜な表現がちょくちょく口をついて出ていると、なおさらそう思う。「振る舞い」とか「じゃなかろうか」とか「都度都度」とか「なんにせよ」とかが、ぼくの場合、気になってしまうやつ、って言えるかな。そうそう、「かな」も頻出させている。ただ、読み手側でそんなことまで気にしているひとがいるのかと問われるなら、むろん、あやしい。実際どんなものかはわからないが、書き手側と読み手側のあいだで、気になるような違和感って、だいぶ齟齬がありそう、とは感じる。「感じる」と「感じる」が近い距離に置かれていたりすると、そんなところも気になったりはする。

頻出単語の世界観

とはいえ、頻出単語というか、口をついて出てくる"少しとがった言い回し"が、結局は、世界観のようなものを形作ってくれているのではないかな、とも思えてきた。

態度や動作のことを「振る舞い」と呼ぶ癖がどうしても抜けないわけだけど、しかし、こういう「しつこく出てくる」ものが、世界観の根源とまではいかなくとも、雰囲気や印象をコントロールしてくれているのではないか、とは想像できる。「おこない」「行為」「挙動」「所作」「仕草」「ムーブ」「アクション」、といった類語だって、たしかに思い浮かべられる。でも、なぜかぼくは、それらを選ばなかった。不随意に選んでしまう言葉があった。後押ししてくる空気があった。そしてその空気のなかで生きている。そういう空気から、なにかが醸し出されてしまう(個性のようなものが漏れ出てしまう)のも、悪くないね、って思った。

2024年05月22日(水)現状、振り返りから始めていないのが、すでに問題、とも言えるけど

最初に振り返る

前日・前回の振り返りからその日の業務を始めてみるのが(オーソドックスすぎる気もするが)、やっぱり、よい振る舞いにはなるのかな。目の前にあらわれたものにどうしても釣られがちなため、気を引き締める意味もこめて、動き始める際のスタンスについて再考してみた。「復習」から始めたらいいんじゃないの、って見つめ直した。とりあえず記憶定着効果は高められそうだ。初速も向上するんじゃないかと思う。むろん、げんなりさせられてスピードが落ちるパターンも想定はされる。が、しかしまあ、それはそれとしておく。「げんなりする」割合がそれほど大きいともいまのところは思えない。とはいえ、意気消沈率があまりにも高いようであれば、対処はしたい。げんなり感が手に負えないなら、スタンスをスライドさせて、うまいことやりかたを切り替えたい。

前日・前回を振り返ることで見えてくる「問題点」「改善点」については、できるだけ抽象的な姿でも描き出しておきたい、とは思った。具体的バージョンと抽象的バージョンを並置させる形で残しておきたい、と言ってもよい。具体的な経験としてぼく自身に再認識させるかたわらで、抽象的な経験として他人に語りうる状態でも認識させることができれば、響き合うような相乗効果を狙えるんじゃないか、といった期待をいだいたのだった。二重構造にすることで認知がより精緻になるよう働きかける、といった攻めかたかな。

2024年05月21日(火)復習はいいものだよと何度も言い聞かせてはいるんですが

復習

「復習」というアクションに対する認識がどうしても甘っちょろい。そんな自覚はある。あんまりうまく期待できていないというかな。甘い汁がここにあるぞと自分自身に認識させ、インセンティブにしてみせるような境地に、至れていない。実感が薄いせいではあるんだろう。身に染みていない。脳内に行き渡っていない。長いこと怠惰にやってきた弊害だ。努力の効力に対する理解が浅い。結果として、サボりがちだ。

対処はしたい。ひとには変えられる部分と変えられない部分があると、それなりに思うよういもなってきたけれど、とはいえ、その線引きが明らかかというとそうでもないようだし、諦めずにいろいろ試してみたいとは考えている。復習や努力の習慣があらためて身に沁みる日も来なくはないんじゃないかと思う。まあ難易度でいえば難しい寄りではあるのかなとは思っているが。しかし不可能じゃないとは、基本、思っていたい。

今後、どのくらいの勤勉さを身に着けていけるのかは、むろん不明だ。ほどほどにあやしくもある。求める勤勉さの種類や、伸ばしていく向きにもよるに違いない。しかしそれでも、多少は、マシな形にしていけるんじゃないか、と期待はしている。実際、少しずつマシになっているとも言えなくはない。期待しているハードルは超えられていなくとも、知性や学問はだいぶ好きになったし、勉強することへの抵抗感はほとんどなくなった。少しずつは(ぼく基準で)よくなっている。そこはまあ見逃さなくてもよいんじゃないかと思う。

2024年05月20日(月)やわらかい文章のほうが世には広まる模様

萌芽がある、芽生えている

読みやすい文章のためには和語を推奨します、っていう文章指南をときたま見かけることはあって、そんなときには、和語(やまとことば)と漢語の対比例を、あらためて考えてみたくなったりもする。ピックアップしてじっと見比べてみたくなる。いくらでも思いつくと言えば思いつくんだけど、ほんとうにイコールと見なしてよいかあやしいな、という疑問を感じることもあって、そこに見出せる違和感をはっきりさせてみたくなる、と言ってもよいかと思う。軋轢や齟齬を具体的に受け止めてみたくなる。「分ける」と「分割する」、「嫌う」と「嫌悪する」、「泊まる」と「宿泊する」、「止める」と「制止する」、「合う」と「合致する」、「すすめる」と「推奨する」。

「芽生え」と「萌芽」も手触りのよい取り合わせだな、って思った。頻繁に出くわす単語ではないけれど、ほどほどに目新しくて、心地好い。なんとなく性にも合う。ぼくの感性に合う「和語・漢語」実例モデルとして、普段から携えておくのにちょうどよい対比の形だ、って思えた。あんまり身近すぎたり自然すぎたりすると、それはそれで、咄嗟に出てこなくなるし。よい距離感だ。

「~的」「~性」「~化」という言い回しが、漢語の温床である、だから封印しよう、といった解説に出くわして、なるほど!とも思った。こういうのも漢語の範疇なんだなとも思った。漢語と和語、硬い文書とやわらかい文章、といったものを整理していく場面において、こういう「的・性・化」から攻めてみるルートもまた、だいぶ有効そうである。緊急時に"思いつけ"そうだ。すぐに取り出せる位置に置いておける具体例については、よくよく考えて準備しておきたい気持ちがある。