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新学期が始まる。といっても、初日が始まってすぐに土日が挟まるので、まだ休みのような気がする。
そんな貴重な休みも雨となってはいまいち盛り上がれない。
本を読めばいいのだろうけれど、最近自分の読むペースの遅さにイライラする。
とりあえずいまはデリダの『有限責任会社』とリンギスの『何者も持たないものの共同体』と『存在の彼方』を平行読み。明後日には返却期限が来るので、とりあえず延長の申請に行かなければ。
後期が始まっておそらく月曜日から火曜日までは大変になるのではないだろうか。
月曜日は4時から4時間、火曜日も2時間ぐらいマンツーでフランス語を読むことになるのではないだろうか。
火曜はそのあと、ヘーゲルの『大論理学』があるし。
話は変わって、最近ちょっと思ったことがある。
ネットのどこかのブログで(もう覚えていない)「潔癖症」についての2chまとめサイトの記事を見て、
その記事に対するコメントが本当に苦しんでいる人の配慮が足りないと書いている人がいた。
それに対して、俺はなにか違和感をもった。たぶんこれは前から持っていたものなのだろうけれど。
その違和感をもつのはおそらく、この記事にコメントしている人たちも「病」を抱えた当人を目の前にしたら、
このようなことは絶対にいったりはしないだろうということだ。それでこの配慮のなさは十分免責されないだろうか。
けれど、だからといってこのような配慮の足りなさを非難する人は態度を変えないだろう。
たぶん、この手の発言に非難を寄せる人は
例え、そのように言葉に出さなくても、「弱い」部分を持っている人に対する悪意が許せないのだ。
けれどその「悪意」はどこまでが悪意なのだろうか。
かわいそうと思うところ?あるいは助けてあげなきゃと思う心に、ある種の「弱さ」への侮蔑、
配慮のなさはさし挟まってないといえるだろうか。
もう一度繰り返すならば、多くの人は例えネットで書き込んだりしたとしても、その人の前であからさまに
自分の考えていることを口に出したりはしないだろう。
もちろん、何事か悪いことをしなければいいというわけではないし、差別はないし、
偏見もないという主張したいのではない。でもそれらを悪意として外的化することで何かが変わるのだろうか。
それこそ、自らの悪意を忘却することにならないだろうか。
たぶん悪意というものを問題にしなければならないのは、このネットの世界ではない。
ネットに流れるさまざまな発言は、決して何か世界に参与するようなものではない。
それは感情であり、ただの情報である。
悪意は「他人」の前に立った、否応なく応答の態度をとらざる得ない「他者」との対面において
初めて問題になるものではないだろうか。
(追加)
12時を回ったのに、次の日の日記が書けない。
少し頭が痛い。ビールを飲む。