塩田雄大『変わる日本語、それでも変わらない日本語』

なぜ「コーヒーでいいです」はモヤモヤするのか

助詞「で」を使うとどんなニュアンスになるのか。

たとえば、

「これでいいです」
「これがいいです」

はどんな違いがあるのだろうか。本書ではこう説明している。

「これでいいのだ。」は、おそらく「正解」がいくつもあると思われる中で、ひとまず及第点に達している結果の一つだ、といったようなことを表します。(p.176)

それに対して「これがいいです」は、正解はほかでもなくこれだ、といった感じになる。それを踏まえて、「コーヒーでいいです」「コーヒーでお願いします」を見てみると、「ほかにも飲みたいものはあるけれど、とりあえずこれでいいか」といったニュアンスが含まれる。「コーヒーがいいです」あるいは「コーヒーをお願いします」なら、「飲みたいのは他でもなくコーヒーだ」ということになる。

この場合、助詞「で」を使うことに抵抗感を抱く人の割合は高齢になるほど多くなるという。(p.177)

山田邦子がこう語ったという。

続けて「例えば、一緒にいて『何か飲む?』って聞くと、『コーヒーでいいです』って言うんだよね。『で』…。『が』って言ってもらいたいんだよね。お金はこっちが出すわけで」と続けると「コーヒーだって、ただなわけじゃないからさ。『で』って…」と語った。

山田邦子 若者の言葉遣いに困惑「何か飲む?って聞くと、コーヒー『で』いいですって言うんだよね」― スポニチ Sponichi Annex 芸能

助詞「で」の使用は、若者だとあまり抵抗感がない。なので、言葉づかいの世代間ギャップは気をつけないといけないのかもしれない。助詞「で」の使用が自然な場合は、以下の通りだという。

「ココアをお願いします。」
「すみません、あいにくココアは売れ切れで、コーヒーしかないのですが。」
「じゃあ、コーヒーでお願いします。」

ほかにも「対比」の意識がある場合も自然だという。

「紅茶をください。」
「私はコーヒーでお願いします。」

「が」と「で」の違いは難しい。

 

復本一郎編『正岡子規ベースボール文集』

正岡子規が野球に熱中していたことは、よく知られている。かつては「野球」の訳語は子規によるものと誤解されてもいた。(子規は「野球(のぼーる)」と本名をもじって使っていた。ベースボールを「野球」と訳したのは中馬庚<ちゅうまんかなえ>だそうだ。)

そんな子規のベースボールに関係した俳句や随筆などを集めている。けっして体が丈夫ではなかった子規であるが、ベースボールだけは夢中になっていた。ベースボールへの強い思いが感じられる。ベースボールの歌にはこんなものがある。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも
若人のすなる遊びはさはにあれどベースボール如く者はあらじ

本当に子規はベースボールが好きだったことが伝わってくる。

今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな

これなどは、フルベースになって点が入るかは入らないのか、その緊迫感がよくわかる。今も昔も変わらない。
子規はベースボールの説明も書いている。

ベースボールにはただ一個の球あるのみ。そして球は常に防者の手にあり。この球こそ、この遊戯の中心となる者にして球の行くところすなはち遊戯の中心なり。球は常に動くゆゑ遊戯の中心も常に動く。

ボールを中心に刻一刻と状況が変化する。その変化に対応するために常にボールを見続けていなければならない。ダイナミックなところに、子規はベースボールの特質と捉えており、そこに面白さを感じていたのだろう。このようなベースボールの特質は、子規の写生とも通じるところがあるかもしれない。ベースボールは子規の思想・感性に大いに影響を与えている。

 

野矢茂樹『言語哲学がはじまる』

現代言語哲学に関して、フレーゲラッセル、ウィトゲンシュタインを取り上げ、その思想を外観する本。
新書なので、この本一冊で、これらの哲学者の思想が理解できるわけではないが、それでも非常に参考になる。語り口が柔らかいので、説明が理解しやすいのも良い。論理学とか言語哲学とか、ほかにも「入門書」はあるけれど、たいていは難解でとっつきにくかった。それゆえ、言語哲学を敬遠するということになっていたが、この本のおかげで、言語哲学に対するイメージがちょっと変わったかもしれない。
また、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』は好きな本の一つであるが、これまで何が書かれている本なのか、いまひとつ理解できなかった。この本の説明によって、『論理哲学論考』で何をしようとしていたのか、少し理解できたのは大きい。

 

『図解 眠れなくなるほど面白い 社会心理学』

この「眠れなくなるほど面白い」のシリーズはたくさんあって、これまでもいくつか読んでみたが、わりと役に立つ。当たり外れもあるとは思うけれど、最近は新書の値段もやたら高くなっているし、高い新書を読むなら、このシリーズのほうが良いかもしれない。

社会心理学とはどんなものなのか、少し興味があったので読んでみた。有名な心理学の実験の話などが簡潔に解説されていて読みやすい。

目次は以下の通り。

第1章 社会現象と心理学

第2章 組織・集団の心理学

第3章 職場における心理学

第4章 個人と対人認知の心理学

第5章 社会のあり方と心理学

 

国立国語研究所編『日本語の大疑問2』

日本語の中で普段は気にも留めないけれど、よくよく見れば不思議な現象がある。そういった日本語に対する疑問を専門家が答える本。日本語に興味がある人、日本語を勉強している学習者、日本語教育に携わる人などにおすすめ。
本書に出てくるどの問題も面白い。「なるほど」と思ったいくつかを取り出して見る。
たとえば、「旨い旨い」とか「偉い偉い」など繰り返して言うのはどうしてか、という質問。

A:この店のお刺身旨いよね。
B:うん、旨い旨い。

 

[転んで泣かなかった子供を褒めて]泣かなかったね。偉い偉い。

こういう言い方、たしかに普段よくある。繰り返しだから「強調」ではないかと思ったが、それだけではなさそうなのだ。ここが日本語の奥深いところ。

A:6畳の部屋って結構広いよな。
B:いやいや、{①狭い/②狭い狭い}。

この会話では、たしかに①は不自然に感じる。②の繰り返しはなぜか自然だ。なぜ繰り返しだと自然になるのか。

今から生きる上でとっても重要なことを言うよ? それは適度に妥協すること、これ、{①大事/②大事大事}。

この例文はどうか。「大事」を強調しているのだから、「大事大事」でも良いのではと考えられるが、ここでは繰り返しは不自然に感じる。「繰り返し=強調」説では説明が十分にできないのである。
本書での結論を記せば、「会話における形容(動)詞の繰り返しは、「話者が相手の言動に即応して能動的に自らの気持ちや意見を表明する」(p.50)ということになる。話者が会話に積極的に参加する態度が繰り返し表現の自然さに繋がっているという。
こういう日本語表現は、日本語教育では重要だ。センスのいい学習者なら、おそらく疑問に思うだろう。そんな学習者に「繰り返しは強調だよ」と教えるのも良いが、それだけではない使い方があることも注意しておきたい。自然な日本語の会話をするのに、けっこう大切なことだと思う。
他にも日本語教育に関わる質問としては、助詞の「が」と「を」の使い分け、「いいです」は承諾か断りなのか、理由を表す「から」と「ので」の使い分け、などがあった。これらの説明もとても参考になる。

 

上海

上海は何度か行ったことがあったが、一度も観光をしたことがなかった。最後の中国であるし、上海の有名な場所は見ておきたいと思い、急きょ一泊の予定で上海へ行った。

上海でぜひ見ておきたかったのが、内山書店があった場所である。谷崎ファンとしては、ここは絶対に見ておきたかった。内山書店は魯迅公園の近く、地下鉄「虹口足球場」から少し歩いた場所にある。

現在(2023年)は銀行になっているところが、かつて内山書店があった場所である。およそ百年前、ここで谷崎は中国の文学者たちと交流していたのだと思うと感動する。猛暑の上海を汗だくになって歩いてきた甲斐があるというものだ。(ここは1929年に移動してきた場所とのこと。谷崎が訪れた時の内山書店は別の場所にあったという。)

銀行の中に内山書店の記念館があるらしいのだが、残念ながら銀行が休みで開いていなかった。その後、近所にある魯迅の家を見に行く。魯迅が亡くなるまで住んでいたという家が普通に住宅街の中にあるのがなんとも不思議な感じがする。8元の入場料を払って見学する。案内係の人が中国語で説明しているのだが、中国語が全然分からない。家はそれほど大きくない。階段が狭くて急なので歩きにくい感じがする。魯迅はこんな階段を上ったり降りたりしていたのか。

それから魯迅公園をぶらぶらしてホテルに行く。夕方、外灘に行く。歩行街には大勢の人がいる。歩くのが大変だった。

翌朝、あまり時間がなかったが、かつてのフランス租界を見たかったので、とりあえず武康路を少し歩いた。有名な「武康大楼」の写真を撮る。大勢の観光客が写真を撮っていた。

 

紹興

紹興へ行く。

杭州の地下鉄5号線で「姑娘桥」で紹興の地下鉄に乗り換え。そこから50分ほど乗ると、「鲁迅故里」に到着。以前から行ってみたかった魯迅の故郷を見に行った。

魯迅の家を見る前に、少し歩いて「八字橋」に行ってみた。こぢんまりとした橋であるが、静かな古い町の中にあるのが良い。

魯迅故里は無料で見学できるが、魯迅の育った家や記念館、三味書屋などを見学するにはアプリを使って予約しなければならない。予約のやり方がいまひとつ分からなかったが、自分の名前とパスポートの番号と見学する時間帯を入力したら、なんとか予約できた。予約画面からQRコードを出し、入口の機械にスキャンさせれば入場できる。予約は1日に1回しかできない。1回の予約で全部の場所を見学できるようなことが書いてあったのだが、できなかった。魯迅の家を見たあと、近くの魯迅記念館を見ようと思ったが、記念館の入口でQRコードをスキャンさせるとなぜか入場不可で入れなかった。残念。

宿泊は魯迅故里のすぐ近くにある「咸亨酒店」に泊まった。まあまあ広いホテルで、入口から自分の部屋まで行くのにわりと歩かなければならない。

翌日、「三味書屋」を見学した後、「仓桥直街」という古い町並みが残った地区を散歩する。昔の中国という雰囲気が心地よい場所である。