買ってしまいました・・・
ユリイカ2007年11月臨時増刊号 総特集=荒木飛呂彦 鋼鉄の魂は走りつづける
- 出版社/メーカー: 青土社
- 発売日: 2007/11/26
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攻殻機動隊1.5 HUMAN ERROR PROCESSER (KCデラックス)
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合計3,000円也
もしかして、こういうタイプの商品をこのブログで紹介すると、読者のタイプ(いや、そんなこと言えるほど多くの方が読んでくださっているなんて思っていません・・・でも、読んでくださっている方には感謝です)が変わるのかな?
科学哲学の冒険
科学哲学の冒険 サイエンスの目的と方法をさぐる (NHKブックス)
- 作者: 戸田山和久
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- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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最近注目している本(でも、まだちっとも読んでない)である『論理学をつくる』の著者が書いた本ということで読んでみました。
文体が先生と学生の会話調なのに、その割には学生のレベルが結構高くて驚きでした。
読む分にはスピードが落とせるのでいいのですが、会話のテンポを維持しつつあれだけの内容が話せる学生って結構優秀だなぁということが読み始めた頃には気になっていたのですが、内容的に分かりやすく充実していたので満足でした。
著者は、科学的実在論という立場をなんとか擁護したいようですが、恐らく、多くの人が抱いているような科学観(僕もこのような考え方をしていました)なのに、難しいものなんだなぁ、哲学って面白いこと考えているなぁというのが全体的な感想。
で、少し気になる考え方が紹介されていたので、以下では少しそのことについて言及してみます。
一つは物理学者のエルンスト・マッハという人の考え方で、面白かったのでちょっと引用させてもらいます。
世界を構成するのはモノではない。色、音、熱、などの感覚的要素のみである。常識的にはモノがまずあって、そこから反射した光が目に入って、色や形の知覚が生じる、と捉えられるのだけれど、マッハはそのようには考えない。われわれがいちばん直接にアクセスできるのは、色や形や音などの感覚データではないか。これがわれわれにとって最も直接に「ある」と言えるものだ。(p.61)
この考え方も、科学的実在論という常識的な考え方とは異なるのですが、「モノがある→認識出来る」という「客観→主観」という方向性ではなく「認識出来る→モノがある」という「主観→客観」のような考え方、つまり、主観が客観に先行するというコトになっているところがなかなか面白いなと。
でも、モノだけが全てというわけでもないわけだし、数学とかだとどうなるのかなぁ、なんて考えていたら数学の認知的基礎付けというのを思い出して、ちょっと悩んでいます。
でも、面白いのは間違いない・・・はず。
で、この本のなかで扱われていた面白い考え方その2はというと、『いかにして物理法則は嘘をつくか』という本の著者であるナンシー・カートライトの理論。
彼女の理論の面白いところは、電子のような科学的に観察されうる(と常識的に考えられている)対象物については実在論の立場にあり、また科学に関する理論についてもボイル・シャルルの法則のように実際に観測可能な現象論的法則についても存在を認めているのに、こうした現象論的法則を支えるための基本法則というものは誤っているんじゃないの、と考えて見ているところですね。
深入りすると良くないのですが、言語学もそういうのってあるんですかね?
観測可能な各個別言語のなかで個別に生じる面白現象を説明する理論(というか説明)みたいなのが現象論的法則に当てはまるのかな?
で、UGみたいなのは現象論的法則を支える基本法則、つまり物理学でいうところの万有引力の法則みたいなものになるのかな?
だとしたら、『いかにして生成文法は嘘をつくか』ってタイトルの本が出てしまいそう・・・。
まぁ、言語に関する研究でも、物理法則みたいに理想化やモデル化を経て理論構築している場合がおおいので、『いかにして生成文法は〜』とか『いかにして認知言語学は〜』みたいな本が出ても、それは生成文法や認知言語学を言語学的に批判しているというより、哲学的あるいは科学哲学的に批判していることにしかならないのでしょうね。
というか、万有引力を批判するのって結構現実的には大変なのかもと思ってしまいます。
これまでの物理学の発展の歴史とかもありますしね。
といっても、あまり物理学を知らないのですが・・・。
学校英語はどこで役に立つのだろうか?
しばらく見ないうちにカウンターの数が増えているのに少し驚きました。
読んでいただいている方がどういった意見を持っているのかということも少し気になるところなのですが、前回の続きです。
まずは、世間の親が中学生や高校生の子ども達に対して、学校の勉強をしっかりとしなさい、と言い続ける理由は基本的に高学歴志向にあるものだと考えられます。
タイトルとの関連で言えば、僕は中学で学ぶ英・国・数・社・理の主要5教科(及び、それと同等の扱いをうける高校での諸科目)を学ぶことで実社会に出てから直接役に立つものはないと考えています*1。
基本的に本題からズレないようにするということと、英語の教科や科目についての知識が不十分きわまりないということから、英語以外については述べませんが、もし、学校での勉強が直接実社会で役に立つと考えている親が多いのであれば、子どもを英会話学校に通わせる親は日本からいなくなってもいいのではないかと思うのです*2。
こうした子どもを英会話学校に通わせる親は現実をある程度分かっており、また自身の過去の経験から学校英語(だけ)では使える英語は十分に身に付かないということを理解しているのだと思います。
僕は、学校英語は使える英語を身につけるためにはあまりにも遠回りをさせすぎているのではないだろうか?ということをしばらく前から考えていました。
「複合関係代名詞」「仮定法過去完了」「語彙機能文法」・・・最後のは学校英語じゃないや(笑)
とにかく、こういうことばかりしていても通訳になれるとか、他にも色々な仕事が出来るほど実社会で役立つ英語は身に付きませんし、学校もそうしたことを目的としているとは思えません*3
にもかかわらず、親が子どもに英語の勉強が必要であると言うのは受験があるからに他ならないでしょう。
一部の学校では大学入試であっても英語が不要であるという場合が出てきているようですが、やはり、学部を問わず大抵の大学入試では英語は必須という状況にたいした変化はありません。
使える英語ではなく、受かるための英語。
それが学校英語だ、というのが僕の認識です。
日本語能力が低下していると言われようとも、日本語よりも英語だという意見は受験での重要性ランキングにおいて、英語が国語を上回るからでしょう。
このような状況をふまえた上で、小学校からの早期英語教育も叫ばれているのではないかと。
そんなことなら、いっそのこと受験から英語を外せばいいのにと思うわけです。
あまりまとまりがないのですが、後日また続きを書きます。
欧米か!?・・・いや副教科
タイトルではちょっと韻を踏んで遊んでみたのですが、先日、NHKの「英語でしゃべらナイト」にて早期英語教育について論じられていおり、某SNSにてマイミクさんの一人がそのことに関して言及されていました。
その「日記」に僕がコメントを残したところからもう少し考えを発展させていくことが目的です。
そのSNSでは「英語教育」という参加者6000人を超える巨大?コミュニティーもあり、そうした場で議論を持ちかけても良いのかもしれませんが、比較的最近のトピックなどを見ると《文法用語"object"の「目的語」という訳語について》などあまり発展性の無い興味の無い事柄に関して盛り上がりを見せる傾向が強いような印象を持っていますし、せっかくなのだから完全にとは言いませんが、半分くらい閉じたネット空間よりもいくらかオープンなブログで書いた方が良いのではないかと思い、こちらで書くことにしました。
タイトルにもあるように、主張は「英語を副教科にしてしまおう!」というややラディカルなものです。
このような主張をするきっかけとなる主な理由は以下の通り。
- 世間の親が「英語っ!」「英語っ!」「さっさと英語っ!しばくぞっ!」みたいな感じで騒ぎすぎ
- 社会人で英語が必要な人の中には「英語が話せるようになりた〜い!」という意見の方が多いような気がする
- 両者は相容れない部分が大きい
今後、これらについて少しずつ書いていくことにします。
頭の中では色々とアイデアは浮かんでいるのですが、丁寧な論理の展開を心がけてもう少し頭の中で推敲をしてから書いていくことにします。
被害はさらに拡大する・・・
タイトルに挙げたのは、昨夜(って言っても、実は数時間前)のラジオ放送で、番組の途中に流れる時事ニュースを聞いていて出てきた表現です。
正確には「被害はさらに拡大する模様です」だったと思うのですが、どうもスマトラ島沖でマグニチュード7クラスの大きな地震があったようです。
この地震に関して色々と言えることがあるはずなので(例えば、数年前にも同じような場所で大きな地震があり、すごい被害が出たとか)そういうことについて書いてみるというのももちろん可能ですが、言葉には関心があるので少し別の角度から思ったことを書かせていただきます。
もちろん、地震については状況なども気になりますし、被害がそれほど大きくないことを切に祈っています。
以下、本題です
僕の曖昧な記憶では、地震以外の他の災害時にもメディアを通じて、恐らくこのような表現は多用されていたように思います。
実際に「被害はさらに拡大する」と「被害は今後もさらに拡大する」ググってみると色々と出てきました。
そこで、気になるポイントですが、山火事の場合はともかくとして、地震の際に聞かれる「被害は(今後も)拡大する・・・」という表現はどうもしっくりとこないような気がします。
というのも、この場合の「被害」という言葉の使われ方が日常的に使われる「被害」という言葉のニュアンスと異なるのではないか、と思われるからです。
普段使う言い方だと「あいつが余計なこと言ったせいで、俺にまで被害がきたよ。」みたいな表現になると思います。
この時の被害というのは、既に現実世界において確定していることを指すはずです。
そこで、広辞苑で調べてみると・・・
ひ–がい【被害】
損害をこうむること。危害を受けること。また、受けた損害。「ーをこうむる」
広辞苑 第五版
というようにあり、やはり、上記において述べた既に現実世界において確定していることを指す、という認識でも大きな誤りはないように思います。
しかし、地震のような災害時に聞かれる「被害は(今後も)拡大する・・・」というからは、「被害」という言葉がどうも被害状況などをメディアを通じて見聞きする認識主体が得ることの出来る(あるいは既に得ている)被害に関する状況、という意味で用いられているのではないか、という気がします。
例えば、「今回の津波での死傷者は現在○人。しかし、○○からの情報は現在入ってきておらず、被害は今後も拡大するものと思われます。」という表現から、僕たち情報の受信者は「死傷者○人」という被害状況を認識することが出来るわけですが、実際に現地ではそうした報道がなされた段階で既に死傷者の数はほぼ確定しており(すでに数えられている、という意味ではありません)それ以上には増えない、ということも十分あり得ると思います。
このような時には、既に現実世界において確定している被害は、今後拡大することはなく、現地と情報の伝達という点で時差のある認識主体が得る情報という枠内での「被害」が拡大するだけです。
つまり、この時の「被害」という言葉が表すことは現実世界での事態のあり方ではなく認識主体が得た事態に関する情報ということになります。
誤解を恐れずに言うと客観的情報なのか主観的情報なのかの違いということになるかとも思われます。
なぜ、このような違いのある二つの「被害」があるのか、少し気になるところです。