月が欠けていく

ああ、世界にはなんとたくさんの情報があふれていることか。

もともと、無差別な大量の情報にさらされることは得意ではないので、テレビも見ないし、新聞や雑誌も、他に読むものがないとき以外は、読まない。
アンテナを開放していないときにいろんなものが自分に入ってくると、それだけでへとへとになってしまう。

すべてを処理する能力でもあればよいのだけれど、そんなものは持ち得るはずもない。
お願い、わたしに無感情な言葉の羅列をどうか投げかけないでください。

【海は、とても静かです】

今年になってから3回目、ここへ来るのは。
これでいいのか、良くないのか、わからないけれど。

わたしは思ったよりずっと熱しやすく冷めやすい人間なのかもしれない、とふと思う夜。
それでも全然かまわない、のだけれど。
続けることは価値のあることだけれど、「価値」は、そこにだけあるのではない、と思う。

ただ、「したことがないこと」はいくつかあって、頑なに守り続けていることも、いくつかある。
それは大事にしていきたいと、四半世紀以上生きてきてもまだ、思うことがある。

しばらくまとまった文章を書いていないせいか、文体も変わってしまっているかもしれない。
それでもいい、と自分では思う。
世の中には、変わらないものなど何もない。
世の中には、変わらないものだってある。
どちらも真実なのだから。きっと。

そんなわけで、わたしは生きていて、それなりに元気で。
時々、いわゆる鬱に陥るけれど、それでも、消えてしまおうとは思わない。

【まるで空気になったような】

自分の存在感が著しく薄いのを感じる。
ごく身近な人を除けば、誰もわたしに興味を持たないし、わたしの声など聞こえもしない。
たくさんの人の中にいると、まるで自分が空気になったようにすら感じる。
無能で、凡庸で、つまらない人間で。空気でいたほうがむしろ有益かもしれない。

いっそのこと、再び自分を固く閉ざし、空気になりきってしまったほうが楽になれるような気がする。

何も求めなければ、きっともっと楽になれるはずだ。

【気がつけば2007年ももう27日も過ぎていた】

ここに来るのは久しぶり。とりあえず生きていることを記録しておく。

雪が降りそうだから手袋を出そう、とか、稽古までに台詞しっかり覚えなきゃ、とか、睫毛を長くしてみたい、とか、新しく買ったハンドクリームは使い心地がいいな、とか、今日のお仕事も出来るだけがんばろう、とか、お買い物にどのセーターを着ていこうかな、とか、明日のお弁当のおかずは何にしよう、とか、試薬の注文をしなくちゃ、とか、お薬飲み忘れちゃった、とか、明日の朝は遅刻しないようにしよう、とか、好きなアイスが売り切れだったよ、とか。
そんな感じで日常はなんとなく回っている。なんとなく。

「自分」を賭していることはいくつかあるけれど、それ以外はなんとなく、なんとなく、で日常が流れていることにさっき気がついた。
好きだった歌手の新譜とか、読んでみようと思っていた本とか、新作のお洋服とか、きれいなドレスがたくさん出てくる映画とか、今までだったら確実にわたしの網がとらえていただろうものたちが、いつのまにかするり、とこぼれてしまっている。
情報はあまりにも多すぎて、わたしのスペックでは処理しきれなくて、結局自分が本当に必要だったり本当に好きなことだったり、しか残っていかない。残らないことの中にも、実は残しておきたいことはあって、でもそれを追いかけて手を伸ばす気力はわたしにはない。

自分のことで精一杯、といえば簡単だけれど、おそらくそういうことなのだろう、と思う。

それがいいことなのか悪いことなのか、わからないけれど。

【眠れない夜と、雨の日】

久しぶりに、眠れない夜だ。
遠く、近く、車や電車の音が断続的に聞こえる。虫の声すら聞こえない濃密な闇。蒸し暑いけれど、冷房の嫌いなわたしには、リモコンがどこにあるかもわからない。

昔好きだったこと、いま好きなもの、欲しかったもの、欲しいもの。
睡眠薬を飲んで数時間経ってもまだ眠りに落ちない、どこか一部分だけ醒めた脳のどこかで、そういったことたちがきらきらと、ちらちらと、ひらひらと、揺れている。
どちらかというと、もう消えてしまって掴むことの出来ないもののほうが、欲しくてたまらない気がする。
屈託のない笑顔、どんなものでもつかめると思っていた小さなてのひら、やさしかった世界。
いま、ベッドに寝転んで手を伸ばしても、そこに触れるのは湿度を含んだわたしの呼吸だけだ。

からだを床に押し付けてくるような暑さのなか、明日になったらきれいですらりとした美少女になってやしないかしら、なんて御伽噺のようなことを考えながら、明日になったらもうわたしなんて消えてなくなっちゃっていればいいのに、なんて思ったりもする。いったいどちらが本当なのか、わからないくらいの螺旋。落ちれど落ちれど、醒めた部分は水面に浮いたままだ。

お昼に生きるわたしは、おそらくまだ、そこそこに誰かを癒せる笑顔、廊下で転んだ子供に思わず差し伸べてしまうてのひら、悪いことばかりではなく、むしろ美しい世界、を持っている。けれど、ひとりぼっちの夜には、それはどこかに隠れてしまう。いや、借り物のようなそれらは、夜に返却されているのかもしれない。感情のレンタルだなんて、笑えもしないけれど。
わたしのいるべき場所は本当はどこなのだろう。
明るい世界では少しばかり生きづらくて、闇の中ではどこにも行けやしない。居場所なんて本当にあるのだろうか。

幸か不幸か、誰にでも「明日」は来る。それがいいことなのか悪いことなのかわからないが、それだけは生きていれば誰にでも公平にやってくる。

明日さえ来てくれれば、答えはきっと見えるだろう。
わたしの人生は、砂時計の砂でも、赤く光るゲージでもはかれない。どのくらい多くの時間が残っているか?などというのは問題ではなく、どんな時間が残っているか、が重要だ。
そしてその時間をどう使うか、がわたしにとっては大切だ。
迷うなら行こう。でも、迷いたいときには思う存分迷おう。迷って迷って、まだ迷うならやっぱり、行こう。

うん。そうしよう。

【未命】

わたしは結局「何者にもなれない」のだな、と痛感する今日この頃。
よくいえば「多才」、悪く言えば「器用貧乏」、そんな自分がわかっているから、最近ではもうあれこれと手を出すのはやめにした。仕事すら満足に出来ないわたしに、そんな余裕があるわけでもないし。
でも、だからといって、社会人として、家庭人として、女性として、完璧でいられるわけもない。どのわたしも少しずつ綻びを見せながら、どうにか繕い繕い、息も絶え絶えに生きている、といった感じだ。
わたしにはそれで精一杯。それで充分。
そのはずなのだけど、ああ、あれももう少し極めておきたかった、これも今からやっても遅くない、と、目の前にはきらきらとしたものがたくさん流れては落ちて。
わたしのまわりにいる多才なひとたち、いろんなことを両立あるいはそれ以上立てているひとたちを見ると、わたしといったい何が違うのだろう、と考えさせられる。
でも、これがわたし。誰と比べたって、わたしはわたしでしかなくて。
出来る範囲でそれなりに楽しくやっていくこと、わたしに出来ることはそれだけだ。

本はすごい勢いで読んでいて、「ダ・ヴィンチ・コード」とかいろいろ思うところはあるのだけど、なんだかうまくまとまらなくて、そのままずるずる次の本へ、次へ次へと読んでいく日々。

「周囲の期待に応えない」という選択肢もあり、かな、と最近は思っている。
自分の中で、これ以上は出来ない、というラインを知ることはとても大切だ。それがたとえ、他人よりかなり低い位置にあっても、これ以上は出来ない、という事実に変わりはないのだから。
それは努力をしない、とか、がんばらない、ということとは違う、と思っている。
無理をしない、ということは、そういうことではない。