Richard Wagner(1813-1883) Tannhäuser und der Sängerkrieg auf Wartburg

台本は作曲家自身による。
1843〜1845年くらいに作曲。30〜32歳頃。


<このアリアまでの、大変簡潔なあらすじ>
タンホイザーは官能的快楽を求めてヴェーヌスのいるヴェーヌスベルクへ行くが、官能的快楽に飽きてエリーザベトのいるワルトベルクへ戻る。ワルトベルクでの恋人であったエリーザベトは、タンホイザーがいない間、ワルトブルクの歌手の広間(殿堂)に足を踏み入れていなかった。
第2幕冒頭の、タンホイザーが戻って来る時にエリザーベトが喜びに溢れて殿堂に向かって歌うアリアがこの"Dich,teure Halle(お前、貴き殿堂よ)"。


タンホイザーと言えば2003年フジテレビのドラマ「白い巨塔」で財前教授がオペのイメージトレーニングをしながら鼻歌でタンホイザー序曲を歌い、その後壮大にカラヤンの演奏に音楽は繋がれていくシーンが印象的で、あれから日本にワグネリアンも少しは増えたはず。私もそこで初めてワーグナーを聴いた気がする。

このアリアにも後奏に序曲を思わせる旋律が滲み出てくる。ピアニストが可哀想なくらい重厚な音。それを突き破る大きな喜び…


頑張ります。

Richard Strauss(1864-1949)作曲 Du meines Herzens Krönelein Op.21-2 Ges Dur

詩はFelix Dahn(1834-1912)による。
1889年4月7日ミュンヘンにて完成?
この図書館の本の情報が正しければ24歳11カ月くらいの作品。


リヒャルト・シュトラウスと言えば後期ロマン派で少しおしゃれめ、決して聞き苦しくない、前衛的だけども美しい和音を使う人というイメージ。よく考えつくなあ…と感心してしまうほどの和音を使い、よく考えつくなあ…と感心してしまうほどの自然な転調を多用する。


この"Du meines Herzens Krönelein Op.21-2"も、【Ges→As→Ges→b moll→es mollを通ってB→Cesを通ってGes→as moll→Ges→D→Cisかと思ったらDesを通ってGes】という、Gesを中心に私がざっと数えるだけで9つの調を通る(もっとかも)。特にシャープ系からフラット系にいつの間にかうつる技法は本当に素晴らしい。


とてもゆったりとした4分の2拍子で、最初は16分音符の体感速度がゆっくり。けれど素直な詩に素直に呼応した音符たちは自由に加速減速を続ける。32分音符単位での細かい音符と表現が、虹のような転調と共に緻密。
ざっくり分けると「Du」「andere(andern)」の違いを、ピアノパートでのレガートとスタッカートで明確に示していて、たとえドイツ語が分からない人でも、曲の表情を読み取りやすい。
細かい表情としては、高い音にアクセントが置かれていて、更に強弱記号はピアノの場合もあり、高度な技術も要する。それはまるで静かな心にきらめく一筋の光のよう。
そして曲の中でただ一つだけ、比較的低い音のFisにアクセントがついている。その言葉は「allen(全ての)」。あなたは「どんな」ところでも価値がある…としみじみピアニッシモで語っている。
もしかしたら恋は盲目という言葉のように、惚れたばかりの時期の詩なのかも?


この約5年後の1894年、R.シュトラウスバイロイト音楽祭ワーグナーのオペラ「タンホイザー」を指揮し、そこでエリーザベト役を歌っていたソプラノ歌手パウリーネとたちまち恋に落ち結婚。きっと自身の歌曲に自分の心情を重ねたに違いない。



なんと、偶然タンホイザーのエリーザベトの歌うアリア"Dich,teure Halle"と共に明日試験で歌うわけで(笑)

ヴォルフ「隠棲」

今日試験で歌ってきました。ヴォルフの中で最も有名な一曲。ヴォルフは誕生日が一緒なんです。このブログのタイトルである「313」→3月13日。なので身近に感じ…るなんておこがましいことは言いません。(ちなみに没1903年は瀧廉太郎の没年と同じ。)マーラーの友人であったヴォルフは、ケン・ラッセル監督の映画「マーラー」の中で、檻の中に裸で入れられているという姿で映し出されています。発狂して死んでいく、という尋常ならぬ人生を送った人なのです。だからこそとても濃厚で、でも信じられないほど美しい世界の曲を書き上げています。隠棲では歌の旋律とピアノの旋律が同じようで違い、違うようで同じなのがとても印象的です。
詩はメーリケ。よく共感していると言う人を見ますが、部分部分は良いとしてもそう簡単に全てに共感してはいけないと思います。どんな体験をすればこんな詩が書けるのか。そしてこの情緒不安定な詩を読んで、どんな気持ちでヴォルフは曲を書いたのでしょうか。
一見簡単な旋律の為に大学受験でもよく課題曲に使われています。私も今回はほとんど声の出し方と言葉の運びに集中してしまいました。けれど20代の多感な時期にこの曲を歌えたことを、嬉しくも恐ろしくも思います。

歌劇「ジャンニ・スキッキ」

グラインドボーン音楽祭2004
プッチーニ作曲 歌劇「ジャンニ・スキッキ」
ジャンニ・スキッキ アレッサンドロ・コルベルリ
ラウレッタ サリー・マシューズ
リヌッチョ マッシモ・ジョルダーノ 他
指揮 ヴラディーミル・ユロフスキ、ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団
演出 アナベル・アーデン

2007年3月16日に放送されたものです…熱を出して家に引きこもる羽目になったので、撮り溜めていたこの映像を1年以上の時を経てやっと見ることにしました(笑)上演時間1時間で見やすいからパッと見ちゃえば良かったのに。見てみたらちょうど「5月1日花祭りの日に結婚する」って何度も言っていてびっくりしました。

ジャンニ・スキッキと言えばあのアリア、音大入試〜卒試まで幅広く歌われる名曲「私のお父さん」が入っていますが、その他は知られていないのでどんなものかと思いきや、アリアってラウレッタの「私のお父さん」しか無いんですか?いやもう一つありました、リヌッチョのアリア「フィレンツェは花咲く木のように」。どちらにしろこのオペラはレチとアリアが明確にわけられていないので、突然アリアが出て来てびっくりします。そのノリでラウレッタって脇役なんじゃ?疑惑浮上。しかも主人公のジャンニ・スキッキにはアリアがありません。まあアリアがあっても無くても明らかに主人公ですが。

お話は極めて単純明快!死んだ富豪の遺産を親族が手に入れるためにジャンニ・スキッキが手を貸して遺言を書き換えるというお話ですが、そこに悲しみやドロドロとした憎しみは無く、堂々と悪口を言うわ媚を売るわ全員で怒るわで、むしろ見ててサッパリします。最後はジャンニ・スキッキの可愛い独り言で幕を閉じ、明るい気持ちで劇場をあとにすることが出来るような素敵なオペラです。

グラインドボーン音楽祭では主役から脇役(含死体)まで全員のキャラが濃くて、悲しむ演技が大袈裟で、1時間ずっと笑いっぱなしでした。んーもっとはやく見ておけばよかった。

歌劇「ロメオとジュリエット」



歌劇「ロメオとジュリエット」
アンジェラ・ゲオルギュー / ロベルト・アラーニャ 歌手)ヴラティスラフ・クジーシュ / アレシュ・ヘンドリヒ / フランティシェク・ザフラドニーチェク / ズデニェク・ハルヴァーネク / プラハ・キューン混声合唱団(パヴェル・キューン合唱指揮) 俳優 )パヴェル・ノヴァーク / ヤン・シュヴァープ / ダニエル・リプニク / マルツェル・アツクアロネ / チェコ国立歌劇場のメンバー/チェコフィルハーモニー室内管弦楽団/指揮:アントン・グァダーニョ/監督:バーバラ・ウィリス・スウィート

舞台映像ではなく映画形式。実際の夫婦であるヒロインは二人とも顔が濃くて美しい。冒頭の合唱による設定説明と時間が74分であることもありとても見やすい。その代わり原曲に対してフィルム化のために若干カットされているため、ストーリーの進み方がとても速い!
始まってすぐにジュリエットによる有名なアリアがあり、いきなりヒロイン二人がくっついているところをジュリエットのいとこのティボルトに見つかってしまう。家柄を重視しロメオを敵視するティボルトはロメオの仲間のメルクティオを殺してしまい、それを見たロメオは怒りのあまりティボルトを殺す。いとこを殺されたというのにすぐに許すジュリエット…。ここまで一瞬の出来事。
その他にもジュリエットが神父にもらった薬で死ぬのがあっという間だったり、ロメオもすぐに毒薬を飲んでしまったり。でも良かったのはロメオが死ぬ前にジュリエットが目を覚まして、短い間だけでも幸せだったことかな。

グッと来た名言集
・ああロメオ、何故あなたはロメオなの 名を捨てて!
・死ぬほうがむしろ嘘をついているよりましです
・アデュー モナムール(以上ジュリエット)
・ああ!死んでしまった!(ジュリエット父)

もう4年生。ありえません。。やっと空きコマ出来ました。残り一年、たくさん見て聴きます。

「異郷にて Op.39-1」

一方シューマンですが、詩の理解がとても難しい!アイヒェンドルフによる詩を訳すとこんな感じ。
「赤い稲光の後ろの故郷から、雲がこちらへやって来る。しかし父と母は随分前に死んでしまった、そこでは私を知る人はもはや誰もいない。静寂の時が来るのはなんと早いことだろう。そこで私もやすらう。すると私の上で美しい森の孤独がざわめく。そしてここで私を知る人はもはやいない。」
故郷から離れたところにいる男が故郷の方角を眺めながら故郷を想っているものの、そこでは父や母はおろか誰も自分を知る人はいない。というところまでは誰でも同じ解釈をすると思うのですが、その先の「静寂の時が来るのは」の「静寂の時」とは何なのかを色々解釈できるのです。
まず一つの解釈として「静寂の時」とは「自分を知る人が誰もいなくなる時」だという解釈。そうするとその先の「そこで私もやすらう」は、「孤独」を寂しいばかりか喜びにも思うような、孤独に浸る独りの男性の姿の表現だと解釈できます(その前に私は「私もやすらう」ではなくて「私はやすらいもする」という訳の方がしっくり来ると思うのですがこう訳していいのかまで独語が解るわけではないのでなんとも言えません)。そして森のざわめきだけが男性の孤独への美意識に共感して美しくざわめくのではないかと。
もう一つの解釈は、「静寂の時」とは「自らの死」という解釈。そうすると、まもなく自分も父母と同じように死んで行くだろう、そして死をもってやすらぐのだ、森のざわめきは死を見守るだろう、という理解できます。
この詩にシューマンがつけた曲は聞き流しそうなくらい淡々としているけれども、やすらう時と後奏だけに見せる長調が効果的というか印象的。でもまもなく死を迎える男の曲のようには聴こえないなあ、、ということで私は一番目の解釈で孤独に浸る男性を考えて歌うことにしました。この曲はいかに落ち着いて安定して歌えるかが問われるのだと思います。後半にとても長いフレーズがあって今の私は息継ぎ無しにはとても歌えませんが、フィッシャー=ディスカウの録音を聴くと泣くほど息が長くて自分のふがいなさに凹みます。息の長さは歌の上手さに比例するとおっしゃっる先生もいらしたくらいですから息の短さも克服して行かないといけませんね。

今回は、声をはりあげようとしたりだとか変な事はしないで、心を落ち着けて詩を感じながら、ただただ安定して歌えればいいなと思っています。本番は明後日です。