改革の道半ばにして

他所のことではありますが、長野県知事選は意外な結果ではありました。記者クラブ撤廃以降、地元有力紙の信濃毎日新聞によるネガティブキャンペーンが展開され、圧倒的野党多数の県議会との対立も深刻なのは知っていましたが、それでもまさか、組織票を前面に押し出した旧勢力の権化のような対立候補田中康夫が敗れるとは。超党派田中秀征クラスの非自民の地元大物か、自身と被るタイプの草の根選挙を行う候補なら交代はある、と見ていましたが、とにかく驚きの一言です。
彼の行政手腕については賛否両論あるでしょうが、新自由主義でもバラマキ主義でもない財政改革を実現した点と、記者クラブを廃止し、情報と政治の癒着状態に風穴を開けた点は、私は評価したいと思っています。後者は結果として政治生命に致命的なダメージを与えた感は否めませんが、恐らく田中康夫は最初からそのリスクを計算した上で、文字通り政治生命を賭けてやったのでは、と推測します。一政治家・田中康夫の権力維持の上では馴れ合いでやる方が楽だったが、表現者田中康夫として筋を通した、とでも言えばいいでしょうか。
新党日本代表就任など、県政後期には疑問が残る行動もありましたが、「脱記者クラブ宣言」は間違いなく、後世に誇るべき、信州情報ルネッサンスとでも言うべき偉業であると私は考えています。今後、ブロガーも海外メディアもミニコミ誌も分け隔てなく受け入れる、「脱記者クラブ宣言」の精神を受け継ぐ自治体は現れるでしょうか。せめて、フランスのように、審査制程度で極力間口を広げることは出来ないか、と思います。新聞社、通信社、TV局などはそもそも組織力、資金力、人的資源において圧倒的有利であり、記者クラブを廃止することで一時的には不利益を被るようでも、きちんとした取材さえしていれば、さしたる障害はないはずなのです。むしろ、イメージ戦略の上では、廃止のメリットの方が大きいとさえ思えます。勿論、それを逆手に取って情報操作、取材拒否を行うような相手には、「第四権力」として正当防衛を行えば良いだけのことです(大メディアだけが排除される状況も、それがメディア側の非によるものでない限りは当然批判されるべきである)。それでも潰されるようであれば、悲しきかな、日本のメディアと国民の成熟度はその程度であるということでしょう。
選挙は一応住民の(完全な形ではないにせよ)意思の結果であり、相手がどうあれ田中県政に終止符を打つことが望まれたのは現実です。ただ、だからといってその全てを否定し、須く田中以前に戻すというのは下策中の下策でしょう。長野県が新体制下でも広く情報を公開し、取材の門戸を開放すること、そして、これを機に記者クラブ制度見直しが後退しないことを切に願います。

水谷建設関連ニュース

http://www.nikkei.co.jp/news/main/20060805AT1G0501105082006.html
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/gyousei/news/20060811k0000m010078000c.html
最近はこれといって目立った動きがないながらも、地味な作業(県庁からの資料押収など)が続いている水谷建設関連事件。地味な中から今回はこの二つを。上は原発関連、下は水谷建設による福島県知事のパーティ券購入。どちらも想定の範囲内ですが、そういった部分を一つ一つ埋めていく他ないのでしょう。まあ、堀江社長逮捕のようなケースが異常なだけで、本来立件というのはこういうものではないのでしょうかね。

あまりにお粗末な

http://www.mainichi-msn.co.jp/entertainment/tv/news/20060727k0000m040050000c.html
安倍晋三支持の皆様が狂喜乱舞した、TBS「イブニング5」における「サブリミナル疑惑」問題。実際にサブリミナル映像というのはこんなチンケな技術ではなく、もしこれを何らかの政治的意図を以て行ったとするなら、「NEWS23」でサヨク(敢えてカタカナ表記)レッテルを貼られたTBSのイメージを利用して、サヨクのえげつなさを強調して、安倍晋三への同情とサヨク狩りの正当性を引き出すためにやった、とも私などは思うのですが(笑)、当事者たちの言い分通り事故とすれば、あまりにお粗末ではありませぬか。
「事故」の内容としては、他のコーナーで使用する予定だった安倍氏の写真パネルの映像が混入してしまったということらしいですが、それは編集段階で気が付くはず。そもそも安倍はメディアの独立性なんか全く関心がなく、むしろ自分の主張と対立するようなメディアには言論弾圧まがいの行動も辞さないことはNHKETV「戦争をどう裁くか」への放送前介入(この件に関してはNHK側にも落ち度があるが、それを抜きにしても彼のメディアへのスタンスを如実に示している。ちなみに私はこの番組で取り上げられた「民衆法廷」そのものについては当事者たちの自己満足に過ぎないと思っており、それ自体は支持しないが、問題は制作者の意思が政治の圧力で歪められたことにある)で明らか。もしこれが純粋な事故であるのなら、そういった人物に付け込む隙を与えたという意味で致命的なミスでしょう。気づいた段階で取り直すべきだった。
TBSについては、脇の甘さは古くはオウム真理教による坂本堤弁護士拉致殺害事件当時から指摘されているわけですが、危険な相手に報道機関として致命的なミスを犯す体質はどうも改善されていないようです。朝はみのもんた、夜は筑紫哲也と、既に外部の人間に報道番組を託して久しいのだから、いっそ夕方も外部の大物を招聘してはいかがか、とさえ思うのですが、どうでしょう。とにかくこれが、安倍晋三政権誕生後にメディアが満足に政権批評(批判以前に)すら出来なくなる状況を生み出すことにならなければ良いのですけれど。

水谷建設と政界を繋ぐ糸

http://www.asahi.com/national/update/0728/TKY200607270756.html
水谷建設議員秘書に裏金数億円 組幹部側にも」というタイトル。他紙では議員秘書の存在には触れられておらず、朝日のスクープか。以前あった参議院議員福島県知事の親族企業への融資、取引と違い、実名が出ていないので少し慎重に見守るべきでしょうが、出るべくして出た感じ。ただ、水谷関連報道がこれまで一番充実していた読売が触れていないのが気になるのですよねえ。いつかみたいに自作自演じゃないだろうな(笑)
あと、既に福島県が三ヶ月間の指名停止処分を発表しています(7/24付)が、同社の受注手法は元請けの大手ゼネコン(主に前田建設)から下請けとして仕事を貰うというもの。その手法で摺上川ダム(福島市)や木戸ダム(双葉郡楢葉町)などの大型工事を手がけているので、この制裁措置の有効性はかなり疑わしいです。木戸ダムは現在工事中ですが、案外今でも平然と水谷建設が作業していたりして。近辺の林道は閉鎖されていて工事関係者以外立ち入れないから、一般の県民には分かりませんし。
ともあれ、「議員秘書」はどこの誰なのか、注目です。

NHKスペシャル「ワーキングプア」

表題番組はNHKによる格差社会告発ドキュメンタリー。非正規雇用や零細農家問題は新鮮味に欠けるきらいはあるが、それでもこのようにまとまった形で「景気回復」の闇を描き出した試みには一定の評価をしたい。
小泉改革というより、1995年の「新時代の日本的経営」発表以降の新自由主義の潮流においてなされた政治、経済の変化が何をもたらしたか、この番組においてはその具体例のうち、代表的なものは一通り網羅されている。地方の切り捨て、若年層の雇用悪化、中年層の格差拡大に伴う「教育格差」の発生、医療負担増。少々下品であるが、これに所謂「セレブバラエティ」を組み合わせると、新自由主義化の日本の標本が出来上がるであろう。
私は懐古主義者ではなく、かつての田中角栄並び自民党田中派に象徴される、過剰な公共工事を行うことで地方への再分配を目指す制度を必ずしも賞賛しようとは思わない。結果としてこの手法は地方の政府依存を招き、地方の真の自立を阻んだ側面がある。しかし、その手法は正しくなかったにせよ、一時的には格差を是正したのは事実である。また、民間に転じても、一社終身雇用は柔軟性に欠け、時に会社への異常な帰属、忠誠心を求められる側面もあったが、それでも雇用の安定をもたらした。しかし、今、負の側面に代わる正の部分、光は存在するか。かつての制度は光を失い、闇のみは今尚生き続けている。新自由主義は旧時代の打破には何ら役立たなかった。規制緩和により新富裕層は一時的に出現した。しかし、彼らのうち、旧体制をも打破せんと志した者たちは、大きな力に屈することとなった。残った比較的従順な面々も、バブル紳士のように消えゆく運命にあると私は考えている。その上で残る光とは何か。結局、元々持てる者のうち、特に狡猾な者のみにより富が集中するのだろう。私は国益、国籍という概念は必ずしも信用していないが、そういう観点も含めれば、国外への富の流出も当然ある。しかし真の問題はそれよりも、光なき大多数の者の行方である。番組に登場した、痴呆症の妻を抱える秋田の仕立屋の老店主は、東北訛りで「貧乏人は死ねという時代ということか」と語ったが、大筋でこの言葉に同意せざるを得ない。かつてモータリゼーションの進行による交通事故の急増が「交通戦争」と揶揄された時代があったが、今の状況を何と言えば良いのか。国家による自国民の無差別大量殺人は、一般に武装反乱への報復という形態程度しか考えられないが、そういった今までの常識、想像力を超えた事態がある。飢饉による餓死なども通常、一時的なものである。恒常的な国家による自国民への殺戮が罷り通るのは、ポル・ポト政権のカンボジアや現在の北朝鮮など「特殊な」国のことであり、それも一応は彼らの基準で「反政府的」であれば、であろう。仮に体制に従順であろうと、無差別に生存権を脅かされる事態は、どう説明すればいいのか。通常、そういった事態に陥れば、政府は交代を余儀なくされる。かつては武力による転覆しか手法はなかったが、今はひとまず、選挙による穏便な革命が制度上可能である。まずは選挙で「改革者」たちに否を告げなくてはならない。交代する適当な勢力がないと考えるなら、作り出すのも手だろう。NHKアナウンサーは貧困層に自己責任論を問う向きに対し、取材した人達に努力していない人は誰一人としていなかったという趣旨の発言をした。これは公共放送の性質上精一杯の抵抗とは思うが、私はそこから一歩踏み込んで、最早戦争状態である、と述べたい。ただ、国家同士の戦争以上に逃げ道のない、そして、直接的暴力ではないが故にかえって抵抗の難しい、厄介な戦争である。それでも、この問題の本質を掴み、抵抗しなければならない。当事者以上に抵抗する者はあり得ないからだ。

Coccoはなぜ再び歌ったのか?

ザンサイアン(初回限定盤)(DVD付)

ザンサイアン(初回限定盤)(DVD付)

CDそのものはDVD付き限定版を出先の沖縄で発売日に買って、この一ヶ月聴き込んでいましたが、ここまでレビューはさぼって書かず。どうせ誰も待っていないし、という自虐ネタはさておき、他のはてなユーザも含めた世間の声は、評価二分、違和感のある人も、という感じのようです。
確かに、「Beauty C」の打ち込みや「Swinging night」のタップダンスは異色だし、前者はくるりの影響を考える向きもあるかとは思いますが、私の感想としてはこのあたりは彼女が時折見せるけれん味の範囲内。本質的な部分はより深化して帰ってきた、と思います。やはり活動休止期間がそういうものをもたらしたのでしょう。活動休止直前、「風化風葬」で明確に沖縄を歌うことを宣言した(それ以前からも沖縄を想起させる世界観があったり、彼女の幼年期をモチーフにしたと思しき楽曲はあったが)Coccoは、「ゴミゼロ大作戦」に合わせ制作した「Heaven's hell」であまりに赤裸々に沖縄を歌い上げ、その歌詞は沖縄内部に向けたメッセージであるが故に痛々しいほどでしたが、その傾向は全国的な商業展開を再び行うことになっても基本、継続されていると私は見ています。勿論、間口が広がったこともあり、メッセージ性はある程度オブラートに包まれていますが、彼女が「Heaven's hell」で投げ掛けた沖縄、そして世界への切実な願いは、今作にも継承されているし、故に心を打つのです。
勿論、音的にもクオリティは保障できます。彼女の旧作が好きな人であれば、打ち込みへの極端な抵抗が無い限りお勧めします。抵抗のある方は4曲目を飛ばせばOK(笑)
個人的見解としては、『ブーゲンビリア』と並ぶ彼女の傑作と思います。まあ、基本的にCoccoのアルバムは売れてないやつほど好きですけど。『サングローズ』も気に入ってるし。別に他二枚が嫌いというわけではないですが、特にこの三枚がCoccoCoccoらしさを感じられるいうか、偽らざる姿に近いと思っているので。ちなみに表題のなぜ彼女はもう一度歌ったか、ということについての私の考えは、ここまで読んで頂ければ大体想像はつくかとは思いますが、「風化風葬」以来の一連の流れの中で、歌わずにいられない本能を再認識すると共に、故郷・沖縄とヤマトとの関わり方について、一定の整理がついたからではないか、というところです。