直示辞対「こ・そ」と日本語の階層

新潮社のメルマガ「考える人」に若手の言語学者のエッセーが連載されている。ここで「は・が」についてかなり安直な記述があると思っていたら、次は「タ」「コレ」などについての記述がはじまった。直示辞対「コ・ソ」についてはここでさんざん議論してきたので再度まとめておく。

日本語学習では学校で習う「ビジネス日本語」と、移民の習う「地域日本語」では重点の置き方が違う。前者は従来からの学習方法で社会階層を上昇することを目標に組み立てられている。後者は移民を対象として日本社会への適応のための最小限の日本語力を身につけることを目標としている。

したがって日本語話者としても、日本語の深層に横たわる基本事項については、「地域日本語」の前提に沿った理解が求められる。その第一が直示詞「コソアド」で以下の整理。これは会話のなかで使うから習得自体はむずかしくない。しかし一般の日本語話者は、この原則を日常生活の中でいつも意識していくことはない。

表Ⅰ;直示詞「コソアド」;地域日本語の初歩

 

コ;自分

ソ;相手

ア;遠方

ド;疑問

場所

ここ

そこ

あこ

どこ

事物

これ

それ

あれ

どれ

 

次の段階で、繰り返し語を用いた呼びかけ語が登場する。この段階で「敬意・見下し」表現が登場する。

これは話し手が自分と相手の立場を入れ替える場面を前提として会話が成立する段階になったことを意味する。地域日本語の重要なタスクではあるが、ビジネス日本語の枠組みはこの段階からはじまり、直示辞が直接登場する地域日本語の初級の場面は出てこない。われわれ日本人でも幼児期の記憶を呼び出さない限りこの階層の差異に気がつくことは稀である。

それを確認できるのが文末助詞助詞対「よ・や」で、現在は関西弁にしか残らない「や」が、「人称+や」でみると「や;目下に」「よ;目上へ」であることがはっきりする。それゆえ、「文末助詞や」は規範言語である東京方言には取り入れられなかった。そして直示詞「こそあど」の語義が表Ⅱのように確定する。

表Ⅱ;繰り返し語による呼びかけと終助詞の登場

自分(質問者)

相手(敬意)

相手(命令)

遠方

驚き

どれどれ

もしもし

これこれ

それそれ

あれあれ

文末助詞助詞や

ばあや、ぼうや、おきくや、太郎や

文末助詞助詞よ

神よ、主よ、

ド;(質問者)

コ;相手の近傍

ソ;質問者の近傍

ア;遠方

どれよ

これよ

それよ

あれよ

どれや

これや

それや

あれや

どれですか

これです

それです

あれです

 

ビジネス日本語では地域日本語と異なり、口語よりも文書の読解力の涵養に重点があるから上記の表Ⅰ、表Ⅱのような単文の構造には関心を示さず。複節文と複文の構造解析に重点を置く。しかもサンプルを商業出版物からとってくるから、複文と複節文との差異に無頓着な傾向が出てくる。先のメルマガの例を挙げておく。

メルマガ例文(複文);昨日誰かが来たんだけど、コレは王君だった。×

・前件の内容を指示しているので「ソレ」を使うべき。

訂正文(複文);昨日誰かが来たんだけど、ソレは王君だった。

 

実際は一部を省略して複節文として流通する場合も多いので検討しておく。ここで「は・が」の問題が顕在する。

複節文1;昨日来たのは、王君だった。/昨日は王君が来た。

複節文2;王君が昨日来たノダった。/王君が昨日、来た。

・ 複節文2;ノダは重要

前後に文章が続く商業出版物の場合、冒頭の複文と同意とみなせても、文法説明の例文としては似て非なるものになってしまうのはネイティブの日本語話者ならばわかるはず。だが、長文読解が主となっている日常生活の中ではその嗅覚は鈍りやすい。注意したいものだ。

 

雅俗融和から雅俗反転へ

2019年以来2年ぶりの投稿です。

2018年の『狂歌絵師北斎とよむ古事記万葉集

2020年の『百人一首図像学――狂歌絵師北斎 最後の大仕事』に続いて

2021年に『文化史よりみた東洲斎写楽―なぜ寛政六年に登場したのか』と上梓して

やっと私自身、自分の書きたいこと、書くべきことが見えてきました。

 

北斎を理解するためには江戸文化を理解しなければならないわけですが、そのカギが中野三敏氏のかかげた「雅俗融和」にあるとしても、現在のわれわれは世界的な潮流である言語論的転回の中で生きている以上、「雅俗の分明」そのものを理解しにくくなっています。その分明の内実を21世紀の日本語で取り出さなくては次の世代に伝えることは難しい。 

 

江戸時代は武士と平民の間は決して超えてることのできない一線があることを前提としていた。しかしその一線は関ヶ原の戦いで確定したもので、天然自然のものではないことも皆わかっていた。北斎と西村屋の最後の共同版行は1835年の「百人一首姥がゑとき」であるが、わかる人たちはもう一度、下剋上の世になることを予感していた。

そのことがはっきりしたのはアヘン戦争で清国が分割されてからであるが、清国よりも幕府よりも上の存在があることがはっきりした。来年はそれから奇しくも180年。鎌倉幕府滅亡から江戸幕府成立まで270年だったことを考えると、まだ道半ばではあるが、全く新しい秩序が生まれてくるはずである。

しかしその新しいものは伝統の先にしか見えてこない。だとすれば江戸文化の中に新しいものを見出していく作業に手をつけなければならない。それが雅俗反転の試みである。

たとえば現在は雅の領域に囲い込まれている松尾芭蕉も「古池や」一つでは、雅の先生でしかない。

・古い池や 蛙(かわず)とびこむ 水の音

だが以下の二句をくわえると  

・面白うて やがて悲しき 鵜舟かな

・物云えば くちびる寒し 秋の風

以下の三拍子がそろう。

・古今のずらしによる文化の継承

・反転のおもしろさ

・うがちのさびしさ

これで、雅俗が逆転する。

今のおもしろさの裏にあるさびしさを感じ取ることこそが、変わらぬ文芸の道なのだから。

 

せっかく夏井先生が俳句の面白さの伝道でがんばっても江戸文芸につながらないのはこういう作業がかけているからだと思う。

詩哥写真鏡 北斎

千葉市美術館のHPによれば
葛飾 北斎の「詩哥写真鏡」は10枚ある。50.9x22.9cmの長大判錦絵で製作年代は天保4~5年(1833~34)頃。
和漢の詩歌に発想の契機を求めた揃物であるが、絵の構想そのものは北斎流に自在に巧んだものが多い。本邦歌人絵5、無名氏3、李白と白楽天である。
「安倍の仲麿」
在原業平
清少納言
「融大臣」
「春道のつらき」

木賊刈」
「少年行」
「雪中人馬」

李白観瀑」
「伯楽天