現代娼婦濡れ場考

 先日オーディトリウムで行われた曽根中生特集で、『続・レスビアンの世界 愛撫』を初めて観たが、濡れ場に関して『実録白川和子 裸の履歴書』を想起させる場面があり、ハッとした。
 女実業家(水乃麻希)と主婦(言問季里子)がホテルでレズるシーンで、なんとカメラは二人の裸体を映さずに、たゆたいながら壁を映し続けたのである。
 そこに映し出された壁紙、黒地に緑と黄色の花模様が美しいアラベスクは、たゆたいながら無限に折り重なり絡み合うレスビアンたちの世界を暗示させ、象徴しているかのようだった。


 この手のファックを映さない濡れ場は、『実録白川和子 裸の履歴書』にもあって、白川和子に織田俊彦が結婚を申し込んでそのまま性交に移る場面で、男女の性交はそこそこにカメラは動き始める。
 それは誰の視点であるか詳らかではないが、まるで幽体離脱した白川和子の魂の視点であるかのように、性交中の自らの体を離れ、真っ暗な部屋を彷徨いつつ、台所の水にさらした野菜にまで視線(カメラ)は到る。
 「台所の水にさらされた野菜」は「結婚」のメタファーであり、野菜にまで到って止まる視線はつまり白川和子の心ここにあらずっぷりをよく表している。性交の最中にもかかわらず(男と自分の体はそこに置いて)、白川和子の魂はすでに「団地妻」になる喜びに、幸福に、思いを馳せていたのだ。
 勃起前提の濡れ場としては落第であろうが、たった一つのカメラワークで「女」というものを感じさせた仕事はただ感歎に値する。


 ちなみに、『続・レスビアンの世界 愛撫』 『実録白川和子 裸の履歴書』ともに、監督曽根中生、カメラマンは森勝である。



 例えば、ロマンポルノに関する言説に「10分に1回濡れ場を入れれば、あとは何を撮ってもかまわない」というのがあり、それは現在でもまことしやかに囁かれている。
 もしもその約束事に遵守するならば、仮に作り手がそれを望まなくても、それが必要でなかろうとも、濡れ場を無理矢理入れる場合は多々あるだろう。現に濡れ場が映画の流れを断ったり、無駄だと思われるそれに出会すことはロマンポルノを観ていれば、いくらでもあることだ。


 しかし、約束事に遵守しながらも、濡れ場を省略していると言ってもよい希有な例もある。
 仮にそれをあげるならば、その最たるものは小原宏裕の『OH!タカラヅカ』ではないだろうか。
 ある新米教師(冨家規政)が、「右手の恋人さようなら、やりまくるぞー」と意気込んで女だらけの島に赴任してくる話だが、しかしこの教師、超が付くほどの早漏で、濡れ場に突入しても三こすり半も経たないうちに終わる(なにせ女の裸を見ただけで射精してしまうほど)。しかもこの映画の中で一番長尺な濡れ場が、教師がホモにお釜を掘られるシーンという、既存の濡れ場へのアンチテーゼともなっている。女優の裸もといチョメチョメを観てシコシコしたい客にとってはこれほど腹立たしい映画はないのではないか(美保純さえ見られればいいのか!)。


 そして、以下を「濡れ場の省略」と言うと少し語弊があるかも知れないが、例えば、神代辰巳などは濡れ場でも大体男女にべちゃくちゃ台詞を喋らせて話の流れを切ろうとしないし、長谷部安春の不条理劇にはやはりレイプこそ必要不可欠で、それがスタイルにまでなっているし、さらに田中登の『マル秘色情めす市場』にいたっては、濡れ場を特に意識して観てみるとわかるが、全ての濡れ場が物語と不可分であり、無駄なそれが一つもないという驚嘆に価するものだった。


 しかし、曽根中生が『現代娼婦考 制服の下のうずき』でやったことは、そのロマンポルノの約束事をあっさりと反古にしたことである。つまりそれは濡れ場それ自体の「省略」である。
 繰り返して言うが、濡れ場を挿入することが厳命だったロマンポルノという枠組みの中で、かつてその描写をばっさりカットした映画が他にあっただろうか(いままでそんなことは思いもよらず、それを意識的に観ていなかったので、他の作品でそれを気づけてないだけかも知れないが)。
 もちろん『現代娼婦考 制服の下のうずき』に濡れ場がワンシーンも出て来ないという意味ではない。濡れ場は出て来る、しかしそれは物語上、特に必要を感じるものではなく(くるみ夏子の濡れ場など。一体誰が観たい?)、映画の核心に迫る重要な濡れ場の方こそカットしていることである。
 例えば、クロード・シャブロル『引き裂かれた女』は、濡れ場の一切が省略されているエロ映画だった。
 老作家が若い恋人の誕生日に「きっと喜んでくれると思うんだ」と言って何かをプレゼントしようとするシーンがある。この後は誕生日と関係ないシーンに飛ぶので、何をプレゼントされたのかは描写されていない。しかし、映画の流れから察しのいい観客はそこでわかったはずなのだ。シャブロルのやさしいところはそれを最後で種明かしするところだろう。つまり若い恋人は老作家から「乱交」をプレゼントされたのだと。
 『現代娼婦考 制服の下のうずき』の場合も『引き裂かれた女』と同様に、「映画の核心に触れる濡れ場の省略」というロマンポルノにとっては革新的なことがなされているのだが、曽根中生の場合さらに質が悪いのは、それを最後まで種明かしせず、そのほとんどを観客の想像力に委ねているところにある。
 その最たるものが、真理(潤ますみ)とどもりの青年(中沢洋)のセックスシーンを廃墟の風景3カットのみで表現してしまったことだろう。
 確かにそれだけで濡れ場の省略を読み取ることは困難だが、その風景カットのしばらく後に、真理が電車の車窓からその廃墟を見、下車して廃墟に向かうシーンがある。何故そこで青年に会うためにそこへ向かえるかといえば、論理的に過去に一度行ったことがなければおかしいからである。
 また真理の発する言葉は意外と素直な心情の吐露であるので、青年との会話の内容からも二人の間に性交渉があったことをうかがい知れるのだ。
 そして、真理と青年に交渉があったことがわからなければ、真理の終焉へと向かう心の流れがうまく掴めないのである。


 私見では、『現代娼婦考 制服の下のうずき』で濡れ場自体が省略された箇所は、真理と五條博、真理とどもりの青年の場合の二つである。そして回想として描写されても違和感がないと思うのは、真理が強姦されるシーンだろう。
 しかし、それら主人公である真理の濡れ場は、それぞれに真理の心理の過程を計り知る端緒、物語を紐解く意味が付随するものであるにも関わらず、省略され、代わりにくるみ夏子や清水国雄などの別にどうでもいい者の方のそれを描写するのである。
 またここで描写された濡れ場に関しても言えば、この映画ではどれ一つ劣情をもよおさせるそれはなかったように思う。安田のぞみの濡れ場は鏡台や車内ミラーに写し込むため画面が極度に限定されていたし、真理と影山のそれはテーブルや本の山でそのほとんどを遮り、工事現場の騒音もやかましかった。また真理と長弘の場合においてはすでに事後の描写だけであった。

 『現代娼婦考 制服の下のうずき』における作劇または心理過程の考察


 『現代娼婦考 制服の下のうずき』(1974/曽根中生)は開巻が最も重要な気がする。
 このアバンタイトルをどう見るかで、映画の、物語の捉え方がまず最初に大きく変わってくるからだ。


 少し説明すると、日活マークの直後に現れるアバンタイトルは、ハイコントラストでシルエット化した女の横顔、「お荷物なのよ」というその女の気怠い、なんとも印象的な一声から始まる。そして、その女の独白は大筋で以下の通りで進む。
・いとこの女の子とアパートに一緒に住んでる。私はその子がお荷物
・そのいとこは六つまで孤児院で過ごしたかわいそうな子
・そのいとこの母親(私のおばさん)は、ヤクザと駆け落ちして捨てられて病気になって、いとこを残して死んだ
・そのいとこは私の母親の妹の子供
・そのいとこは人殺しもしてる、子供のときに
 この独白に男が「複雑なんだなぁ、君の家って」言った後に、たっぷり間を空けて、「そう、複雑なのよ」と女が応え、タイトル、タイトルバックへと移る。
 またそのシルエット化した男女の声を背にして映し出される映像は、シルエットの女が「いとこの女の子」と言ったのを受ける形で潤ますみが歩く映像に変わり、白いシーツにベッド、男のネクタイ、喘ぐ潤ますみ等のカットが繋げられていく。


 シルエットの女の「複雑なのよ」という台詞が、まさにこの映画の行く末を暗示しているかのようで、『現代娼婦考 制服の下のうずき』は、”いとこ同志”である夏川真理(潤ますみ)と斉木洋子(安田のぞみ)の確執を描いた映画であり、二人が主人公と言えるのだが、つまりこのシルエットの女を、真理と捉えるか、洋子と捉えるかが問題なのだ。
 例えば、「いとこの女の子」とシルエットの女が言ったとき、それを紹介するように闊歩する真理が映し出される編集とか、独白の内容からも洋子をシルエットの女と見るのが極めて論理的である。
 しかし、映画を最後まで見ると、事はそれほど単純でなく、開巻の一連のシークエンスと最後のシーンとは、同じ時間、同じ場所であることに気づく。それは真理が点かないライターで男をひっかける場面を、開巻と娼婦になった後のシーンに挿入させることで表しているのだし、そのときひっかかる男のネクタイ柄も全く同じであることからわかるのだ(娼婦になった真理が客と寝るたびに、必ずその男がつけていたネクタイのカットが挿入されるという規則性。その柄の違いで何人もの男と寝たことを表している。また長弘の場合は、まだ完全に娼婦になっていなかった)。
 すると一つ奇妙なことに気づくのは、シルエット女の独白の内容で、つまり真理は洋子の立場になって、自分のことを鳥の目で俯瞰しながら(そういうショットと編集)、自分のことを話しているということになるのである。
 そういう意味で、かなり歪な形はしているが、物語の構造はむしろ『番格ロック』に近いのではないかという気がしてくる。


 例えば、『番格ロック』(1973/内藤誠)を観るとき、プラトンの『饗宴』を想起することは容易い。
 すなわち、あまりに有名な「愛慕の説」の一節アンドロギュヌスのくだり、「原初の人間は両性具有者であって、その容姿は球形であった。ところが、傲慢な人間どもは神々に逆らって、天上への登攀を企てたので、ゼウスが怒って、すべての人間の身体を二つに切断した。それ以来、人間は本来の姿が二つに断ち切られてしまったので、みなそれぞれ自己の半身を求めて、ふたたび元の一身同体になろうと熱望するようになった」というあれである。
 音無由紀子(山内えみ子)とアラブの鷹(柴田鋭子)は女同士ではあるが、お互いが失われた半身であるという意味で、「引き裂かれたアンドロギュヌス」と言って差し支えあるまい。
 それは特別少年院の懲罰房で”背中合わせに繋がれた”二人の姿や、一本の裁ちバサミを二人で分かち、その刃で決闘をするというあまりに象徴的な行為を見てもわかる。
 二人は敵対しながらも、心の奥では通底している。安直に言えば、二人は愛憎の関係であるし、またレズビアンの関係を見ることもできよう。それが証拠には、由紀子はアラブの鷹を廃人にしたヤクザ(鹿内孝)はもとより、その子分で根っからの悪人ではなかろう自分の恋人(誠直也)をも、失われた半身、つまり自分自身の復讐のためにぶち殺すのだ(そして由紀子は永遠に半身を失われることになるのだろう)。


 失われた半身と一体化しようとする希求は、『現代娼婦考 制服の下のうずき』でも見られるように思う。しかし、それが『番格ロック』のような凛とした美しさではないのは、やはり真理の洋子に対する一方的で、陰鬱で、歪んだ妄執であることに起因する。
 まず真理の一体化願望の萌芽は、洋子を自分と同じ境遇に貶めたい、また洋子の男を共有しようとする形で表れるように思う。
 前者に関しては、洋子がどもりの青年に襲われたとき、真理はそれを助けようとせず、むしろ物陰に隠れて、その現場を鋭い目で睨みつけていたことを思い出せばいい。
 直接的に描写はされていないが、真理が過去に洋子の友達に強姦されたことは、例えば、洋子強姦未遂事件にふれてヒロミ(くるみ夏子)が言った「強姦未遂なんて素晴らしい経験をして羨ましい」という言葉に対して、それを洗面所で聞いていた真理の顔が一瞬にして険しくなるカットの挿入や、影山英俊の「きみ、怖いよ」に対しては「あなたたちを憎んでいるからでしょ」と返すことなどから鑑みて明らかであって(またヒロミの真理に対する「産婦人科」という揶揄から、堕胎経験をも暗示させる)、故に真理はあのとき洋子を助けなかったのである。
 また後者に関しては、まずは洋子の婚約者であるところの五條博とのセックスを思い出せばいい。このとき真理は洋子の服を着て、洋子のベッドで、洋子の婚約者に抱かれるのである(また蛇足だが、真理と洋子のそれぞれの着替えシーンを、五條博がアパートに訪れるときに限ってわざわざ挿入するのも、二人がシンメトリーをなしていることの表現ではないだろうか)。
 しかし、そこには倒錯というよりは、洋子に対する当てつけ以外のものはなく、事が終われば、五條博には「あなたは洋子さんのベッドで寝てね。私は自分のベッドで眠るから」などと言って実にドライなものである 。
 その真理の態度は洋子の半恋人である影山英俊を寝取ったときも同じで、影山の「来てくれるとは思わなかった」に、気怠く「ただの暇潰しよ」と応えるだけ。
 真理と寝た男たちはいつでも取り残されるばかりなのだ。そう、真理の目は男たちにはいっかな向けられず、常に洋子の方を向いているのである。


 しかし、常に男が真理に取り残されるというのは厳密に言えば正確ではない。それは真理が洋子の男たちの場合とは違った感情で接した、どもりの青年(中沢洋)の場合があるからだ。
 どもりの青年はいわば世間から虐げられている村八分者である。強姦未遂の罪で警察に追われてもいる。
 周りに味方が誰一人おらず、小さい頃から娼婦の子と蔑まれ孤立し、(真犯人は洋子であるが)殺人の罪まで着せられた真理が、青年の境遇と自分のそれを重ね合わせてシンパシーを感じたとしてもなんら不思議はあるまい。
 孤独感に打ちのめされていた真理を救えたのが、映画の中でこの青年だけだったのは確かなのである。


 その真理の孤独は、仮に置き去りゲームと名付けるシークエンスのときに描写される。
 一人だけを車外に残し、その他のメンバーは先に車で次のドライブインに行き待つという洋子らの遊びで、真理が置き去りになる番が来たとき、一人で右往左往する真理の姿と併行して、真理の幼少時代のシーンがカットバックされる。
 それはお兄ちゃん(正確には洋子の兄)と遊んだ思い出である。
 孤児院で育ち、親戚の家に引き取られてからも娼婦の子と蔑まれた真理にとって、やさしいお兄ちゃんが真理の唯一の「居場所」であった。
 その真理の拠り所が、拳銃で撃たれて死んでしまう。しかも犯人の洋子は、その罪を真理のせいにする。
 その場面を最後に回想シーンは終わり、次のカットはその幼少時代とまるで同じかのように、夜のとばりに孤独をまとって佇む真理が映し出されるのである。


 そしてそのすぐ後、真理が自らどもりの青年に接触を試みるシーンに繋がる。つまり真理は置き去りゲームをきっかけとして、お兄ちゃんを失って以来となる「居場所」を欲する気持ちになっていたのである。
 距離を縮めようとする真理に、青年は最初卑屈に警戒していたが、真理が「(レイプは)洋子さんと私を間違えたのでしょう?私だったら警察に訴えたりはしなかった」と言ったとき、満面の笑み(下からのあおりアップ)を浮かべる。
 そしてその直後、廃墟の風景のみが3カット、パッパッパと挿入されるのだが、その最小限のカットで二人がそこを訪れ、(大胆に省略はされているが)セックスしたことを表している。
(廃墟の風景カットは時間にして2〜3秒で、そして真理の下校を洋子が待っているシーンに繋がる)


 しかし、青年と肌を重ねてみても、二人の間には埋まらぬ溝があり、結局相容れないことがわかってしまう。それが現出するのが真理が廃墟に訪れるシーンである。
 暇潰しにもならないつまらぬ男(影山)と寝た帰り、電車の車窓からかつて青年と肌を交わした廃墟を見たとき(青年に対する心情が決定的になった瞬間、このときの潤ますみの表情は素晴らしかった)、真理がふたたび青年に会いたいという気持ちになったことは、下車して廃墟に向かったところから疑い得ない。
 何故そう言い切れるかというと、これより前の他のシーンでの洋子の詰りが真理の本質、行動原理を的確に言い表しており、それを曽根中生が後に真理と青年の関係を説明するための伏線として機能させているから。
 そのときの洋子曰く、「高校のときに家出したのだから、そのまま帰って来なければよかったのに。行く所がなかったから戻って来たんでしょ?」
 つまり真理は今自分を取り巻くあらゆるものを投げ出して(言うなれば洋子からの家出である)、恋情などと大袈裟なことは言わないが、青年に自分の「居場所」を今度は求めたのである。
 だが廃墟に行ってみると、青年が人形(白いブラウスに赤いタイトスカートを着させられている、まるで真理であるかのようなマネキン)を棒で激しく叩いている暴力的場面に出会す。
 驚いて逃げ出す真理、屋外で青年に捕まりナイフで脅される、カメラはそれを俯瞰の超ロングショットで捉える。彼らの台詞はヘリコプターの爆音で掻き消されており(ヘリの爆音は青年のテーマ音であるかのように、かつて洋子強姦未遂のシーンでもけたたましく鳴り響いていた)、何をしゃべっているのかは全くわからない。一枚ずつ服を脱ぎ出す真理、そこでロングショットから青年を下からあおるカットに変わるが、そのときもう青年の関心は真理には全くなく、飛び出しナイフをただただ何度もズチャ!ズチャ!と飛び出させ、太陽に反射する刃の閃きに恍惚とするだけなのである。それはまるでなんぴとの理解をも超越したところに行ってしまったかのように。
 それを見た真理は、自分の部屋に帰り、赤いソファに埋もれながら虚空を見つめ、今度は真理の方が男に取り残されたことを強く感じるのである。
 (このときバックに流れるのが潤ますみ『裏町巡礼歌』、「どこか遠くへ行きたいな」という歌詞部分である。行きたいけれど、行けない心情を歌でも説明している。ちなみに余談だが、映画では出て来ないけれど、この曲には「見知らぬ人に賭けたけど、星の降る夜に捨てられた」と歌われる箇所もある)
 そして、青年が自分の「居場所」ではなかったことを悟った真理はふたたび洋子の元へ戻るのである。高校のときの家出と全く同じ顛末をもって。


 そして、その洋子の元へと戻る道は、洋子との一体化へと突き進む道であった。青年(新たな「居場所」)との決別を皮切りに、運命はまるで詰め将棋のように真理を殺人へと一手一手追い詰めて行くのである。
 どもりの青年との決別を発端とすれば、さらに真理を人格崩壊へと導く最初の蹶起となったのは、例の如くなんの説明もないが、競馬場のカットからすぐに切り替わる、長弘とのセックスシーンだろう(競馬に負けて、その場で男をひっかけたのだろうか)。
 事が終わり立ち去ろうとする男に、真理は「お金ちょうだい」と言う。数枚の札を男は渡すが、真理は「もっとちょうだい」と言う。男は苛立たしげに真理の髪の毛を掴んで「おまえはパンパンガールか?」と詰問するが、真理は首を横に振る。男は「でもやってることは同じだよ」と呆れたようにお金を放り捨てて去る。
 いままで娼婦の子と蔑まれながらも男に体を売ることはしなかった真理が、初めて売春をした瞬間である。
 このときの真理がどういう気持ちであったかはわからぬが、ただその帰り道、柵を手でカランカランとやりながら落ち込むように俯いてアパートへと歩く真理のカットであることから察するに、真理にとって決してプラスに作用する出来事ではなかったことは確かであろう。


 落ち込みながらアパートに帰ってみると、そこで洋子が引っ越しの準備をしている場面に出会す。
ここで初めて洋子の話をするならば、引っ越すことによって真理から離れようとしたのは、母親の死がきっかけであっただろう。
 洋子の家は、父親(雪丘恵介)と母親(橘田良江)、父の妾(星まり子)、兄(藤田漸)、そして母の妹の子である従姉妹の真理が同居していた複雑な家である。
 特に父の妾であるユキは、兄とも肉体関係があり、兄の死の遠因ともなった女で、洋子にとってはもっとも忌むべき存在であったが、しかし母親はユキを追い出そうともしなかった人なのである。
 母の葬式でユキと対峙した洋子は、「私の青春はこの家の人にめちゃくちゃにされた」と言うユキを一顧だにせず、「私は母とは違うわ」とユキを斉木の家から追放するのである。
 例えば、みんなから娼婦の子と言われる幼い真理が、「娼婦って何?」と兄に尋ねる場面で、兄は「ユキみたいな女の人のことだよ」と嫌悪をもって答えたことを思い出す(女性に潔癖を求める男性心理は『死ぬにはまだ早い』の黒沢年男と重なるところがある。兄が「売女め!」と叫んだあとに太陽に向かって拳銃を発砲するシーンはいい)。
 つまりこの映画の中では、実際すべての娼婦が皆そうとは限らぬが、娼婦は淫蕩、忌むべきものの記号であり、それを暗黙の約束事としているのである。
 洋子にとっては、例えば映画の前半に五條博に言った台詞を思い出してもいいが、「真理はそういう血をひいている」のであり、ユキも、真理の母親も、真理も、すべて「娼婦」と一緒くたにカテゴライズされ、忌むべきものとして特に区分はないのである。
 そして現に真理は、洋子の偏見が正しかったと言わんばかりに、結局長弘に春を売ってしまったのである。


 洋子はとにかく真理から離れようとするが、その理由がわからぬ真理は洋子を問いただす。
 二人は軽く言い合いになり、そのとき真理は「私は小さいときから洋子さんになんでも命令されてやってきたわ。いまさら一人勝手にやれと言われてもできないわ」と言い返すのだが、この告白は真理の偽らざる全くの本心であり、この映画の核心でもあろう。
 仮に洋子から受ける屈辱に耐えられないというのであれば、大学生の真理はいっときも早く洋子から離れ、何をしてでも一人で暮らすことはできたはずなのである。
 「洋子さんの言いなり(兄の事件のとき洋子の罪をかぶったこと)になったから、私はこんなになった」と洋子を詰る真理。
 しかし洋子に言わせれば、例えば先のユキとの対峙が伏線となって、娼婦という記号でイコールである真理の本質を間接的に説明するのだが、結局真理自身が「そういう生き方を選んだ」ということなのである。
 ここで真理の本質について鑑みるとき、すぐさま想起されるのは、ジャン・ポーラン「奴隷状態における幸福」の中の一挿話であろう。すなわち、法律によって自由の身分になった黒人奴隷らが、主人にもう一度自分たちを奴隷の身分にしてくれと頼むのだが、主人がそれを拒むと黒人たちはその主人を殺し、再び自分たちの奴隷部屋に戻ったというエピソード。


 そこでやっと真理の洋子に対する殺意の源がわかるのだ。
 そう、真理がいくら洋子にささやかな抵抗を表面的に試みようとも(例えば、洋子「(真理は)家政科よ」を受けて、真理「女中科よ」と二人の関係を皮肉るシーンなど)、深層の部分、無意識的な本能(イド)はやはり奴隷であることを求めている。洋子なしでは生きていけない真理にとっては、洋子と二人で一人なのだ。
 洋子への殺意は幼き頃から受け続けた侮蔑や屈辱に耐えかねての復讐心からなどではなく、つまりはすべて自分の「居場所」問題に起因することだったのである。
 そして、二人は決別する前に最後のドライブに出掛ける。
 そこで洋子の「真理は”自由”よ。何でもしたいようにすればいいんだわ」という決定的な言葉を受けて、真理が間を空けて「ええ、そうするわ」と答えたとき、真理は洋子を殺すことを車の座席にズブズブと沈みながら決意するのである。


 ドライブの帰り道、ガソリンスタンドの洗浄機に車が入ったとき、激しい轟音の中、真理の凶行が行われる。そして洗浄機(子宮の象徴)から車が出て来たとき、洋子を殺したその女は、まるで新しく生まれ変わった新生児のように、もはや真理であって真理でなくなっているのだ。
 ここでこの考察の冒頭に提示した、真理は洋子になって真理のことを話すという謎、開巻のシルエット化した女の独白の意味が解けるのである。
 殺人をきっかけに、姿こそ真理だが、人格は洋子になっているのである(娼婦は真理の担当人格部分)。
 例えば、洋子の母親の葬式のため田舎に帰るときの荷造りシーンで、洋子がツバ広の白い帽子をかぶって見せて、真理に似合うかと問う唐突な会話があるが、これも後に二人が一体化したことを表す伏線として機能している。
 すなわち殺人後、洋子の人格になった真理はその白い帽子をかぶるのだし、もっと言えば、真理の代替として主人に対する態度がひどく悪い少女の女中と暮らすのもすべて洋子の人格によるものなのである。(シーンの時間軸を考えれば、冒頭シルエットの女(洋子人格)が言っていた「いとこの女の子と暮らしてるんだけど…」というのは、実際は真理の代替を意味するこの少女女中と暮らしていることを指していたのがわかる)


 殺人を発端として、安直に言えば真理は発狂したのだ。現実的に言い換えるならば、真理は解離性同一性障害を発症したのであり、その発症経緯や症状などのパターンは、実際の場合とほぼ一致する。
 例えば、洋子と二人で一人だった真理にとって、洋子の死は自身の半身の欠落を意味するのだし、根っこの部分で奴隷体質であった真理にとって「自由=主人(洋子)の死」こそが極度の心的外傷だったと考えた場合、その精神的苦痛に対する本能的な自己防衛として解離性障害を発症することは十分ありえるのである。
 その症状としては、口調や態度がガラリと変わることがあるという。また交代人格の中には迫害者人格と呼ばれるものがあり、自分に危害を与えた者がそのまま人格となって現れるということは現実でもままあるそうなのだが、映画でもまさにそうで、真理に「危害=自由」を与えた洋子は殺害後真理の中に現れるのである(そういう意味では、数多ある「多重人格映画」の系列に加えてもいいと思う)。


 あるいはもっと形而上学的に言い直すならば、やはり真理と洋子はアンドロギュヌスであり、お互いは自身の半身だったのだと。
 例えば、『番格ロック』では裁ちバサミがその象徴であったが、『現代娼婦考 制服の下のうずき』の場合は、兄、そして兄の事故に関する秘密がそれを担い、真理と洋子の二人を繋げていたのではなかったかと、映画が終わりにさしかかるとき少女女中が拾い上げ、スクリーンに大写しにされる、兄、洋子、真理が三人で一緒に映っている写真を見たとき、なぜだかそう思えてきて仕方なかったのである。
 幼き頃から「居場所」を求めて彷徨い続けた真理の妄執は、最後に洋子と一体化することで結実し、自らの中についに安息の居場所を得ることになった。
 エンドマークの際に現れる、白い帽子をかぶった真理と洋子の後ろ姿が、私にはなにやらひどく崇高なものに見えたのである。

 ゲゲゲの女房

今日のポレポレのトークゲスト、鈴木卓爾だったらしい。
『痴漢電車 弁天のお尻』を観て以来すっかりファンなので、行けばよかったかなといまにして少し思う。



鈴木卓爾監督ゲゲゲの女房を観ました。
原作も読んでないし、ドラマも観てないので比較できないけれど、映画は摩訶不思議でなかなか面白かったです。
嫁いできたゲゲゲの女房が夫の描く漫画の中にいきなり放り込まれ、次第に馴染んでいくかのような趣があり、水木しげるの世界観を底流させることに重きを置いているファンタジーだと感じました。


例えば、『ツィゴイネルワイゼン』では「切り通し」を抜けると異界だったけれど、『ゲゲゲの女房』では「橋」がその役割を果たしています。
調布パルコがあり、電光板を搭載したバスが走り、大勢の人々が慌ただしく行き交う橋の向こう側が、ムラジュン演じる金内に言わせるならば「耐えられない世間」、つまり現実であり現在の風景であるのに対し、橋のこっち側(ゲゲゲ宅側)は妖怪がところどころにごく自然に散見できる、なにげない日常に異界が立ち現れて交錯している内田百鬼園水木しげるの妖怪漫画まんまの世界になっている。そして、その風景は昭和三十年代のどこかゆったりしたそれなのだ。
ピストルオペラ』でも冥界のイメージが桟橋で表象されていた記憶があるけれど、川は三途の川を持ち出すまでもなく此岸と彼岸を分ける表象でありましょう。しかし『ゲゲゲの女房』では、河原に懸衣翁や奪衣婆などといった物騒な輩はおらず、小豆洗いと川太郎がおるばかりのただただのほほんとした、いわゆる「ゲゲゲ世界」なのだった。


しかし僕がこの映画で一番感じたのは、貧乏ながらも生きていく夫婦の絆やあり方でも、妖怪さえどこか明るくのほほんとしているファンタジー世界でもなく、ゲゲゲ家の二階に間借りしているムラジュン演じる金内の「闇」なのだった。
前半はたまに画面にちょっと現れるだけの男だったが、最後にふとしたきっかけでゲゲゲ夫に実は自分には妻と子供がいることを告白する(つまり金内は蒸発中なのだろう)。そして似顔絵を描く商売をするために「橋」を渡り、街(調布パルコ前)に出ても自分一人だけ世間(=「現実」)から取り残されている観念に襲われ、そこに一時間も立っていられない、耐えられないのだとつぶやく。おそらくここがこの映画で唯一暗く、劇中何度も繰り返された貧乏などとは比較にもならない悲痛な、ゲゲゲ世界観の基底と最もかけ離れたシーンだろう。
ゲゲゲ家は居心地が良いと言っていた金内も、ゲゲゲ夫婦に子供ができ、ゲゲゲの仕事が軌道に乗るかと思われるところで、間借りしていた二階から去って行く。
それはゲゲゲ夫婦に触発されて妻子のもとへ帰って行ったわけではないと考える。例えば、彼にとって「橋」を渡ることが「耐えられない現実を受け入れる」ことのメタファーならば、劇中何度も現れる祠(?)の前を通って「橋」に向かわなければならない(顔をこちらに向けて歩いてこなければならない)のだが、金内は祠に背を向け遠ざかるようにさらに奥へと去っていく。このように彼はこれからも現実を逃避し蒸発し続けるのだろう。「橋」から遠ざかれば遠ざかるほど、それは冥界の闇にますます近づくことであり、彼の妖怪化は目前、いやむしろすでに妖怪になっていたのかも知れない。ただしゲゲゲ世界において極めて稀有な圧倒的な負のオーラを持った妖怪に。
いや、もしもこれを水木しげるの妖怪漫画視点で観るならば、ムラジュンは妖怪というよりも「風景」に近づいたと言った方がいいかも知れない。水木しげるの妖怪漫画が怖いのは、なにも妖怪のせいではない。水木しげるの描く妖怪は、それがいかに悪であろうとも愛嬌があるからだ。では、水木しげるの妖怪漫画のいったい何に畏怖を感じるのかと言えば、それは風景であり、その奥にある闇なのだ。
どこまでものほほんとしたゲゲゲ世界において、唯一無二のムラジュンの闇は瞠目に値すると思う。


ゲゲゲの女房』のエロチシズムにも触れておこうか。
雑巾がけの作法に詳しくないが、吹石一恵が後ろに下がりながら雑巾がけする場面でカメラはワンワンスタイルをした吹石のお尻ばかり撮っている。お尻がカメラに近づいてくる。このカットを挟んだ理由がよくわからないのだが、ようするに吹石ファンに対するサービスもしくは監督の吹石さんに対するセクハラということでOK?
自転車を漕ぐ女のバックショットのエロチシズムは、ハンス・ベルメール曽根中生(『続ためいき』)らが喝破していたが、雑巾がけする女のそれを出してくるとは、この一件のみでも鈴木卓爾の名は後世に残るであろう(ほんとかよ!)
にしても、監督に対する変な先入観からか、台所に立つ吹石を見ただけで妙にそわそわしてしまった。ムッシュムラムラしたムラジュンが後からいきなり襲ってくるんじゃないだろうかと思って。おぞまし3組…(『ゲゲゲの女房』に限ってそんなことはありませんでした)
そして以前に『やくざ囃子』(http://d.hatena.ne.jp/migime/20070723)で勉強したが、『ゲゲゲの女房』の「意味ありげに消える蝋燭の火」も夫婦のチョメチョメを暗示しており、”おっ!やりおった!”と内心ほくそ笑んでいたら、その次のシーンは冬から夏に飛び女房の妊娠が発覚するという案の定の展開に。ドラマにもチョメチョメシーンはあったのかなぁとかふと思う。


その他にも、撮影は美しく、音楽はかわいらしく、満足の二時間だったのです。
そして漫画の中の鬼太郎や悪魔くんや吸血鬼ジョニーがおもむろに動き出し始めるアニメーションがものすごーく素晴らしく、アニメだけもう一度観たい衝動に駆られたのでした。



水木先生と言えば、一度だけ調布(甲州街道)で見かけたことがあります。コンクリ塀に向かって、一人でぶつぶつと何事かを話しかけていました。僕にはわかりませんでしたが、あれはぬりかべだったんでしょうか?

 神楽坂恵×荒木経惟『緊縛恋愛』

今日はオーディトリウムに神楽坂恵×荒木経惟『緊縛恋愛』アラキネマ+トークショーを観てきました。

下町生まれ花火育ちらしい荒木経惟、アラキネマは花火とのこと、その儚さを語る。
その花火とは若干違うかも知れないけれど、儚さという意味で『女高生偽日記』の線香花火を想起しながら荒木さんの話しを聞いていました。
女性を撮るとき女性を「景色」にしたいんだという荒木さんの言葉に、荒井理花を見直したくなりました。

・『女高生偽日記』について
http://d.hatena.ne.jp/migime/20090116/p1

 藤井克彦監督幻の初期作品『OL日記 牝猫の匂い』 『大江戸性盗伝 女斬り』


五月下旬
藤井克彦監督が自身のデビュー作『OL日記 牝猫の匂い』(1972)を16mmで持っており、それがザ・グリソムギャングで掛かるかも知れないという噂を聞く。
『OL日記 牝猫の匂い』についてはブログ「映画遁世日記」に詳しいので割愛するが、なかなかお目にかかれない映画であることは間違いない。
加えて、主演女優の中川梨絵さんをゲストに考えているという情報も得て、大興奮!!
中川さんの大ファンである私は喜び勇み、即座に『OL日記 牝猫の匂い』のポスターを購入。中川さんにサインをいただこうという魂胆であるのは言うまでもなく。



さらに、『OL日記 牝猫の匂い』と併せてもう一本、藤井映画を二本立てで興行し、ゲストとして丹古母鬼馬二さんを考えていることも聞く。
藤井克彦で丹古母鬼馬二と来れば、大活躍の『必殺色仕掛け』で決まりかなと思いきや、これまた上述の「映画遁世日記」に詳しいが、桂千穂さん会心の一作『大江戸性盗伝 女斬り』(1973)というこれまた以前から物凄く観たかった映画を上映するというので、激レアすぎる二本立てを想像してクラクラ眩暈が…
”なんだかとんでもないことになってきたなー、いやあ、めちゃくちゃゴイスーだわー”と感心しつつ、”『大江戸性盗伝』って上映プリントあったんだなー”などと思って関係者に聞いたら、実はないという。
あはは、そうなんですかー( ´∀`)ノ というか、  え っ ? !


六月上旬
『大江戸性盗伝 女斬り』ニュープリント代のカンパ始まる。
そういうことならばと、わたくしも微力ながら一口カンパ。なかなか強気に思える料金設定だったので、集まらない可能性もあるだろうなぁと内心思っていたが、これが幹事の力なのか、蓋を開けたら二週間足らずで集まったご様子。凄いわ…



七月上旬
グリソムギャングより“日活100周年プレ・イベント”「藤井克彦監督幻の初期作品2本立て!」の日替わりゲストが発表される。


9月23日 桂千穂さん(脚本家)
9月24日 丹古母鬼馬二さん(俳優)
9月25日 前田米造撮影監督


あれ、な、中川梨絵さんは…?!

わざわざポスター買った意味なーし!!!



八月下旬
日替わりゲストが皆さん魅力的すぎて、誰の日に行こうか決めかねて先延ばしにしていたが、重い腰をあげて、ようやくグリソムに予約のメールを送り、予約完了。

イエーイ!!!!




というわけで、“日活100周年プレ・イベント”「藤井克彦監督幻の初期作品2本立て!」を予約される方は、ザ・グリソムギャングの公式告知ページへ!!
http://grissomgang.blog.fc2.com/blog-entry-16.html

 蠱惑のにっかつビデオ・タイトル絵の世界

かつて映画遁世日記のヂョーさんは、60分ある映画を30分に超短縮した『女教師を剥ぐ』のビデオを観て度肝抜かれた経験があるようである。
かく言うわたくしも『フライトSEX 夜に燃え、夜に濡れ!』(*1)というビデオを観たとき、本来は60分はある映画がやはり30分しか収録されておらず、「詐欺だ!」と思わずテレビに向かって叫びそうになったことがある。


狐に抓まれたような気分になること請け合いのこの短縮版ビデオは、にっかつビデオフイルムズ株式会社から出てる「ポルノ・ベストシリーズ!」というシリーズで、僕の知る限りその特徴は三つ…


第一に、映画を切って切って切りまくって必ずジャスト30分に短縮させていること。


第二に、日活が制作した映画がまずないこと、つまり日活が買い取った他社制作のロマンポルノだということ。

※ 「日活ロマンポルノ」というのは十日から二週間ごとに新作が公開されるいわゆるプログラム・ピクチャーだった。主に三本立ての上映だったので、日活制作の新作が二本、あとの一本は他社製作の買取作品という構成で大体興行されていた。ただし後年のロマポ衰退期はこの立場が逆転し、他社制作の買取作品がロマポ・プログラムの中心を占めるようになって行ったのは、まあまた別の話。

※ いや、第二に関して正確にいえば、『愛の寓話 日活ロマン、撮影所システム 最後の光芒』に収録されている買取ロマポも含めた「ロマンポルノ全作品リスト」にももちろん載っていない、新東宝が制作・配給した例外的な映画さえ混じっていて、何故これがにっかつビデオから販売されているのか…という謎もあることはある。


そして第三に、このシリーズすべてのビデオに妖しい「タイトル絵」が付されていることである。
今のところ8本しか確認できてないので、”すべての”とはいささか言い過ぎではあるが、おそらくそうに違いないと思うので、まあいいでしょう。
そう、本日のブログのテーマは、妖しくも不思議な味わいのあるその「タイトル絵」なのであります。
では早速、「にっかつビデオ・蠱惑のタイトル絵コレクション」をどうぞ!



[1] 『美保純の女高生スキャンダル』
劇題:『ポルノドキュメント トルコ特急便』 制作:ワタナベプロダクション、配給:にっかつ、監督:中村幻児、出演:美保純、香川留美、岡美由紀、大杉漣
http://www.jmdb.ne.jp/1982/df000330.htm



[2] 『縛り・縄狂い』
劇題:『縄で犯す』(改題:『残虐!縄責め』) 制作:渡辺護組、配給:新東宝映画、監督:渡辺護、脚本:小水一男、出演:日野繭子、野上正義、国分二郎、杉佳代子、飯島洋一、堺勝朗、丘なおみ
http://www.jmdb.ne.jp/1980/dd003010.htm



[3] 『修道女地獄縄』
劇題:『地獄縄修道女』 製作:新東宝、配給:?(しかし買取ロマポでは確実にない)監督:渡辺護、出演:朝霧友香、丘なおみ、栄雅美
http://www.jmdb.ne.jp/1981/de001280.htm



[4] 『下半身・熱い余韻』
劇題:『処女残酷 うぶ毛』 製作:現代映像企画、配給:にっかつ、監督:渡辺護、出演:夏麗子、栄雅美、霧安奈
http://www.jmdb.ne.jp/1981/de000030.htm



[5] 『フライトSEX 夜に燃え・夜に濡れ!』
劇題:『下半身美人 狂いそう』 製作:現代映像企画、配給:にっかつ、監督:久我剛、出演:吉田さより(風祭ゆき)、小川恵、朝霧友香、草間二郎、高原リカ、佐藤やすし
http://www.jmdb.ne.jp/1980/dd001890.htm



[6] 『女教師を剥ぐ』
劇題:『女教師を剥ぐ』 製作:現代映像企画、配給:にっかつ、監督:高橋伴明、出演:夏麗子、竹村祐佳、忍海よしこ
http://www.jmdb.ne.jp/1981/de004450.htm



[7] 『女子大生・とろけそう』
劇題:『女子大生 痴漢のすすめ』 製作:現代映像企画、配給:にっかつ、監督:山本晋也、出演:木村佳子、竹村祐佳、竹岡由美
http://www.jmdb.ne.jp/1981/de002080.htm



[8] 『浦野あすかの女教師・偽処女』
劇題:『ある女教師 偽処女』 製作:葵映画、配給:新東宝、監督・脚本・撮影:西原儀一、出演:杉佳代子、浦野あすか、柚木春美、真木麗子、港雄一、戸川栄二、高崎隆一、村井浩
http://www.jmdb.ne.jp/1980/dd001990.htm


どうですか、在野にかくも魅惑的な絵を描く、どこの誰だか名前さえわからぬ絵師が埋もれているこの驚き、また感動!
(『女教師を剥ぐ』と『女教師 偽処女』のまっこと素晴らしいタイトル絵は、ヂョーさんから拝借いたしました。感謝!)

前述の『愛の寓話〜』のロマポ全作品リストにさっと目を通してみても、外注買取ロマポのなんと多いことか。そう考えると、「ポルノ・ベストシリーズ!」はまだまだ底が全然知れません。
このビデオシリーズのタイトル絵をコレクションしているので、もしもこのビデオやタイトル絵を見つけた際は是非ともご投稿をよろしくお願いいたします。



ちなみに好きな絵を三枚あげろと言われれば、わたくしごとではありますが下記を推します。


[7] 『女子大生・とろけそう』
[6] 『女教師を剥ぐ』
[1] 『美保純の女高生スキャンダル』


[7]は、性癖なのでしょうか、「赤い靴下」がひどく琴線に触れます。宙に浮いた花から蜜が滴ったり、左下の結晶みたいのもよくわからんし、シュルレアリスム絵画のようですね。

[6]は、顔の表情と脱げかけのパンツが良いですね。顔立ちにオリエンタルな風を感じます。

[1]は、8枚の中で一番の傑作かと思います。まず乳首の位置が素晴らしく(もはや人間のそれではない)、女の子の表情もそうであるが全体的になにか仏画でも見てるような安らぎを覚えるのと同時に、その化生が放つ魔性に総毛立つようでもあります。


でもよくよく考えるに、このマイベスト3は、すべて同じ絵師の作品で、結局この方が描く絵が自分の好みってだけの話ですね。
例えば、長谷川海太郎のように一人で三つの文体を使い分けたというようなことでない限り、上に掲げた8枚の絵は、私見では三人の絵師たちによって描かれていると思われます。


[1][4][6][7]は、陰影の付け方に大きな特徴が見てとれ、同じ絵師の絵で間違いないと思います。


[2][3][5]は、顔つきや鼻の形、乳首、また必ず下っ腹から腰にかけての肉付きを強調する線を描いているのが最大の特徴で、その腰つきや太股を見るならば、「肉感のエロス」が持ち味の絵師だと思われます。
またそこに描かれる「影男」たちは、例えば江戸川乱歩のようでもあり、また長谷部安春の『襲う!!』(*2)をも連想させ、それが特に顕著なのは『フライトSEX 夜に燃え・夜に濡れ!』でありますが、飛行機の中に現れる影男の神出鬼没は、性的に抑圧された女の妄想が具現化し実体を持ったようにも感じ取れます。


[8]は、上の二人が描いたものとは思えず、また別の誰かの絵ではないでしょうか。この絵師が描く『女教師 偽処女』のタイトル絵は、他の二人とはまた違った意味で物凄いかと思います。
まず絵の脱力感が半端なく、妙にのっぺりしていて、ビーチクも取ってつけたようにやる気がなく、とりあえず適当にピンクで色つけとけばいいや的なものを感じます。
また手の変な伸び具合と、”どっから足の付け根を出しとるんじゃい!”と思わずつっこみたくなる、デッサンが変な足の開き方、どう見てもマンコから足が出てる!
そして、この顔つき、のっぺりさ、まるで不良品のダッチワイフ。一番狂ってます…


<追記>
最後に「ポルノ・ベストシリーズ!」のイカしたオープニング(「陶酔に誘うラブタイム〜」)、おっぱい揉まれる宮下順子の動画を貼って終わりにしたかったのですが、動画の貼り方がよくわからないので割愛します(このOPが一番の見どころという話もなきにしもあらずですが…)。
OPの「お二人の愛を高め〜」というナレーションから推測するに、これは元々はラブホ用に編集されたビデオシリーズだったのではないかという気もしないではないですが、実際のところはよくわかりません。でも、大体これからチョメろうってときに60分も悠長に映画観るアベックが一体どこにいるでしょうか。もしもそういう意味でチョメシーンを中心に30分に短縮したのならば、このビデオシリーズは正しいです。



(*1) 『フライトSEX 夜に燃え、夜に濡れ!』
原題は『下半身美人 狂いそう』(1980/久我剛)、いわゆる日活買取配給の外注ロマンポルノ。
主演は吉田さより。吉田さよりとは、『下半身美人狂いそう』の約二ヶ月後に『赤い通り雨』で、にっかつ制作ロマンポルノのデビューを果たす風祭ゆきの本名、旧芸名である。
30分に短縮されたビデオを観ただけで判断すると、ストーリー自体は…
スチュワーデスである吉田さよりは、夜な夜なナイトクラブに出かけては男をひっかけ(ひっかけられ)SEXをする。「こんなハクい女とやれるなんて俺信じられねえよ」と、ひっかかった男らは腰を動かしながら決まってワンパターンなことを言う。そんな吉田を町で見かけて以来、密かに恋心を抱く青年が一人、結局吉田はこの青年ともSEXをし、青年は自分の想いが報われたと思う。しかし青年は自分が世話になっている先輩(?)草間二郎とも、吉田が関係していることを目撃しガーンとショックを受ける。そこで青年と目が合う吉田、そして心のつぶやき、「ごめんね、フライトの後は無性に男が欲しくなるの」(終)
って感じで、男って哀れだなぁ…以外の感想も特にないので、超短縮されてようが別にいいっちゃいいんですけどね…(僕は現物を見たことないが、『下半身美人 狂いそう』はそのタイトルで全長版のビデオも出ていること老婆心ながら記しておく)
また短縮版ビデオにはクレジットが全く入っていない。データベースを見ると出演者に「草間二郎」とあり、ビデオではずっとサングラスをしていて一度もはずさなかったけど、アゴのしゃくれとか、声で一発でわかる、ヘーベルハウスの草薙良一さんです。
あとビデオでは、高原リカのおっぱいがあまり強調されてなかったのが残念すぎでした。


(*2) 長谷部安春『襲う!!』についてhttp://d.hatena.ne.jp/migime/20070904