10ケ月の空白

昨年は、戦時中の体験記をこのブログで書き綴ってきました。

戦争という非人間的な時代と、その抑圧された時間を体験した者にとっては、

60数年過ぎた今でも、忘れがたい、苦い経験として中々脳裏から去ってくれないものなのです。

特に、最前線で敵と対峙し、敵兵を殺したことのある旧軍人は、思い起こすのさえ厭なことであり、

ましてや人前で語ったり、書いたりすることが、どれほど精神的に辛いことであるかは、私のように

少年期の一時期であれ、戦時の体験者としてですら、同じような思いを共有してしまうのですから、

その気持ちが分かるように思うのです。

と言うことで、語り終えた後、わたしは、気分的に少々落ち込んでしまったのです。

そして、このブログから離れてしまいました。

10ケ月がその間に過ぎていました。

その間、他のブログでは、コツコツと老骨に鞭打って、書き繋いできました。

そのブログでは、コメントを避け、自分だけの世界でエッセイ的に書いてきたので、

気楽な時間が過ごせました。

今日、このブログをご覧になって、ご興味があればそのブログを読んでいただきたいな、と思ったのです。

そして、気がつかれたことがありましたら、この欄でご指摘いただけたら有難いナと思うのであります。

よしなに。

そのブログは、 http://ameblo.jp/mikawanookina/  です。

戦争中のはなし12

終戦間近のことども

中学3年生から戦時動員令で、学業を中断し、生産性を上げるため、軍需関連の工場で働くことになりました。
学徒動員と呼ばれていました。
胸に自分で作った丸学と呼ばれる、赤の地布に簡易文字の学を墨で書き、それを制服に付けて軍需工場に配属
されました。
初期の仕事は、出来た部品を、工場から近くのお寺の本堂に運び入れることでした。 その軍需工場は飛行機の
エンジンを生産していました。ですから、敵機の空爆の対象になるので、出来た部品を疎開し、隠しておこうと
いう事のようでした。それはエンジンのシリンダー部分でした。倉庫より荒縄で縛って持ち出し、一人2個を
両手に下げて、徒歩で20分くらいかかるお寺に運びいれるのです。小さかった私には、とても重たいもの
でした。道には憲兵が見張っていて、道に下ろしたりすると、怒声がとんできました。
一台のエンジンが出来ると、試運転のため、死刑執行の台のようなのに付けて、騒音をたてて回していました。
それが終わると、木製の大きな箱に納めて、工場長とか偉い人たちとか、派遣されている憲兵や軍関係者が
集合して、神主さんの武運健勝祈願が行われます。そしてクレーンで吊り上げられ、運搬用の牛車の荷台に
載せられて、牛の口紐を操るオジサンが車を動かして出て行きました。運搬用のトラックも、その燃料も節約
しなければならないほど、すべての物資は欠乏していたのです。 子供心に、この戦争は負け戦だな,と思えて
きました。
工場動員になる前に、よく山の中に連れていかれ、松の根っこを掘らされました。なんでも松根油を採るのだと
いうことでしたから、ガソリンはもう底を尽いていたのでしょう。 近所で学徒出征した大学生が、すぐに自宅
に帰ってきて、自宅待機中などと言っていました。聞けば、飛行機の燃料がないので、訓練が出来ないからだ
ということでした。
そのうち、その軍需工場が敵の標的になっているので、一部疎開する、ということで、小学校や中学校の体育館
や教室に機械類を運びですことになりました。
たしかに、敵機が何べんも偵察に飛んできました。その度に空襲警報が鳴り響き、私たちは走って竹やぶのほうに
退避しました。 警報解除で帰っていると、敵機がユーターンして戻ってきます。また竹やぶ目指して逃げます。
空中戦が行われたらしく、機銃の音が響き、間もなく一機が煙を吐いて墜落するのが見えました。皆んなで
敵機撃墜だ、万歳と叫びました。 後で聞いたら、撃墜されたのは、友軍機、すなわち日本軍の飛行機だったのでした。

戦時中のはなし 11

昭和19年から20年
警戒警報と空襲警報の回数が増え、警戒警報発令の間もなく、空襲警報が発令になるようになりました。
不気味なサイレンの断続的に鳴る音を聞いていると、何か奈落の底に引きずり込まれていくような、滅入った
気分にさせられました。
各家には空襲に備えてあったものといえば、防空壕、火消し用具(竹竿に縄の帯をつけたもの)、バケツくらい
のもの。各町内の角々には、火消し用水のセメント製の桶があり、防火用水槽と呼んでいました。 これが冬に
なると凍ってしまい、ほって置くと槽全部が氷になってしまうので、私たち少年は毎朝その氷を割ってかきだす
仕事が割り当てられていました。 思えば、当時は公害もなく、温暖化などとは無縁の時代ですから、京都の冬
は厳冬そのものでした。
昭和20年の3月に大阪の街が大空襲に遭い、焦土と化しました。私の当時の住まいは加茂川の上流付近に
あったのですが、大阪の街が真っ赤になっているのが望見できました。 また、爆弾が落ちて地響きをあげて
いるのがわかりました。その翌日は夜が明けませんでした。大阪の街の大火災の煙が淀川、加茂川と遡って
きて、空は一面真っ黒でした。雨も降り出しました。兎に角学校に行きました。 幾何の期末試験の日だった
のですが、その教師が興奮状態で、試験はヤメヤメ、と叫んで職員室に引き上げてしまいました。
戦後間もなく、河内の友達を訪ねて行ったとき、大阪駅から鶴橋まで乗った車窓から見た大阪の街は、何にもない、
あるのは造幣局の建物が焼け爛れて、鉄柱がグニャグニャになって立っているのみでした。
空襲が繰り返されるので、もう夜中に起きて防空壕に潜るのも、最後の頃は止めてしまいました。
B29の大編隊の進入航路は、関西では、潮岬から紀伊水道を北上し、大阪湾より大阪を爆撃、さらに淀川を
遡って、どうも比叡山を目当てに来て、そこで編隊を立て直して琵琶湖、名古屋径由でグアムまたはサイパン
基地に帰還すると言う様子でした。比叡山近辺で編隊の再編成をやるので、B29の轟音が長時間響き渡り
ます。丁度ドラムをたたいているような響きでした。ドンドコドンドコと気味の悪いことったらありません
でした。 昼間、青空に見えるB29の編隊飛行は見事でした。 編隊を組んだまま、ドンドコドンドコとそれぞれ
が真っ白な飛行雲をたなびかせて飛んでいくのです。日本の戦闘機は成層圏まで上昇できないらしく、飛び立ち
もしません。時々高射砲を打っていますが、はるか下方でボンボンと白い煙があがるのみで、編隊はその形を
変えることもなく、飛び去っていきます。 子供心に唖然とする光景でした。

戦時中のはなし 10

昭和19年

学校では、戦時色が段々深まっていくのが感じられました。 警戒警報、空襲警報の発令回数が次第に増えて
きました。 夜間は、玄関下に掘った所謂防空壕に、一家防空頭巾に非常食を抱えてもぐりこみました。
親父殿が乾パンを一個ずつ家族に配ってくれるのが、唯一の慰めでした。
私の家から学校は割合近かったので、警報が出ると、自主的に学校に駆けつけて、屋上に上り、灯火の漏れ
をチェックする係りをやりました。大声でどなると、その灯火は消えていきます。 それほど、交通が全くない
静かな世界だったのです。
職員室で当番をした記帳をしておけば、一時間目の授業は出なくても欠席になりませんでしたし、それに校長
や教練の教官の説教じみた講話を聞かずにすみました。
当時は2年生から予科練、いわゆる航空予備訓練学校に志願入校が認められだしていました。それも半強制的に
学校に人数の割り当てが来ているようでした。 予科練を志願するものは、一歩左に出ろ、などと教練の教官
に言われて、志願していく同級生もチラホラいました。
一時間ごとに交代で門衛の衛兵に6人ずつ詰める行事もありました。勿論授業より優先した強制的な当番でした。
銃器庫より自分の銃と弾装帯を出してきて、門衛に立つのです。 交代時に先の門衛隊との引継ぎがあり、
職員室の教練の教官の前に行き、上番衛兵マルマルは下番衛兵ペケぺケに連絡事項を委細申し送りました、
と上番衛兵が言い、下番衛兵は、下番衛兵ペケペケは上番衛兵マルマルより連絡事項を委細申し受けました、
と言って交代するのです。教官は意地悪そうな目付きで服装や銃の持ち方などを一瞥して、ヨシと一声あり
交代が終わります。こんなことを13歳の皇国少年がやっていた、やらせられていた、ということを信じて
もらえるでしょうか? 教育基本法など、その当時はどんな形をしていたのでしょうか?

戦時中のはなし 9

今 東光で有名になった大阪府下の河内から来た転校生の私は、京都の悪がきどもにとっては、格好の
いじめの対象ではありました。父親が家族を伴ってくるまでの短期間、私は父の上司の家に厄介になりました。
その家には、早稲田大学の弁論部の長男と立命館大学の次男がいました。長男は結核を患っていて、家でブラブラ
していて、演説の練習ばかりしていて、もっぱら次男と私が聴衆役でした。次男は大学の空手部員で、庭に藁
草履をくくりつけた板があり、それを指の骨が砕けるほど毎日なぐっていました。 私も見よう見真似で練習
していました。 その構えが身についたので、いじめられるときはその構えをするので、あいつは空手が出来る
と評判がたち、いじめが途端になくなりました。
転校していった中学は所謂過去の名門中学で、三高、京大の予備校的存在であったのですが、当時はもう学区制の
範疇で、その地域の学生が通っている単なる公立中学校でした。
しかしその地区に住んでいる人たちが所謂エリート層であったため、その子弟である同級生は只者でない生徒
が数多くいました。いままで書物といえば、教科書ぐらいしかなかったのが、古本屋の存在でにわかに本屋通い
をはじめました。はじめは参考書の閲覧から、だんだん岩波文庫に手がでるようになり、夏目漱石や、友人の
勧めでモーパッサン女の一生などを読むようになりました。
文化的には全く河内とは較べものにならない雰囲気、風潮でしたが、こと戦時下にかかわる点では、河内より
激しい面がありました。
驚いたことに、校内には銃器庫があり、その中に多くの38銃が保管されていました。さっそく私にも一丁の
38銃一式が割り当てられました。弾帯と短剣もありました。決められた日に、必ず銃の点検と清掃があり、
油布で銃身の中を鉄棒を通して掃除したり、外を磨いたりしました。この銃にも菊の御紋章が刻印されて
いて、天皇陛下から下賜された大切な預かり物であると教えられました。粗末に扱ったり、落としたりしたら
厳罰ものでした。寒い校庭の朝礼台の上に銃を構えて立たされている生徒が時々いました。

戦時中のはなし 8

昭和18年、戦時下の中学生の夢は兵隊でも、下士官に、また将官になることでした。
その為には、早道として陸軍幼年学校あたりが手っ取り早いところでしたが、2年生から受験できることになっていました。 
また中学4年か5年から高等学校に進学する代わりに、陸軍士官学校江田島海軍兵学校を志望する道もありました。
時々、それらの軍関係の学校に進学した先輩が休暇のときに母校を訪れ、学校の宣伝を兼ねて講演をしにきました。
陸軍は陸軍の話し方があり、海軍は江田島の独特の高低をつけた話し方で私たちを魅了しました。
当時は甘いものに飢えていた時代でしたから、彼等がお三時にビスケットが食べられるゾ、などと言うとそれだけで
陸士や海兵が好ましく感じたものでした。
しかし、戦況は悪化しているようでした。海兵出身の海軍士官が訪れたとき、ミッドウェーの海戦の話をしました。
戦後分かったことですが、この海戦で日本海軍は大打撃を受け、主力艦隊の大半を失った戦いであったのです。
当然多くの戦死者が出たのでしょう。その海軍士官の話は、敵弾を受けて死んでいく兵士の話でした。
瀕死の重傷の中で、彼が発した言葉は、天皇陛下万歳であったと。 そしてオカーサンと言って事切れたと。
列席した者皆感動に浸たるなか、校長はこっくりこっくり居眠りをしているのと対照的に、教頭はハンカチを目に号泣
しているのが、なんとも奇妙な光景でした。この教頭は、戦後最も熱心なデモクラシー論者になったとか、当時の同級生から聞きました。
私は2年生の1学期を最後にこの学校を去り、父の転勤の地、京都に移り住むことになったのです。
京都は京都で、一味違った戦中体験を味わいました。