話数単位で選ぶ、2013年TVアニメ10選

2013年も残すところ24時間を切りましたね。アニメスタッフの皆様、今年もたくさんの素晴らしいアニメを見せていただき、ありがとうございました。
さてさて毎年恒例、今年も10本選ばせていただきます。


ラブライブ! 第4話「まきりんぱな」(脚本:花田十輝、絵コンテ:渡邊哲哉、演出:綿田慎也)
たまこまーけっと 第9話「歌っちゃうんだ、恋の歌」(脚本:吉田玲子、絵コンテ・演出:三好一郎)
フォトカノ 第5話「恋の掛け違い」(脚本:横山彰利、絵コンテ:金子伸吾・横山彰利、演出:澤井幸次)
ローゼンメイデン 第1話「アリスゲーム」(脚本:望月智充、絵コンテ・演出:畠山守)
有頂天家族 第3話「薬師坊の奥座敷」(脚本:菅正太郎、絵コンテ:吉原正行、演出:許螬)
リコーダーとランドセル ミ☆ 第5話「あつしとゴマダラカミキリムシ」(脚本・絵コンテ・演出:いまざきいつき)
幻影ヲ駆ケル太陽 第8話「こぼれおちる水」(脚本:伊藤美智子、絵コンテ:小坂春女、演出:安藤貴史)
のんのんびより 第4話「夏休みがはじまった」(脚本:吉田玲子、絵コンテ:川面真也、演出:阿部栞士)
凪のあすから 第5話「あのねウミウシ」(脚本:岡田麿里、絵コンテ:篠原俊哉、演出:市村徹夫)
BLAZBLUE ALTER MEMORY 第12話「未来への代償」(脚本:高橋龍也赤尾でこ、絵コンテ:和村昭・水島精二橘秀樹、演出:信田ユウ・橘秀樹


ルール
・2013年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・放送順(最速に準拠)に掲載。順位は付けない。


ラブライブ! 第4話
ラブライブ!』ではシリーズを通じて下敷きになる関係性のイメージが第3話でいくつか提示されている。ダンスパートに注目してみると、三人を配置した三角形が回転し位置を入れ替え展開してゆくダンスはそれまでの準備の場面の構図を汲んでいて、2年生トリオの関係を反映した振付に見えることだろう。
第4話では1年生トリオの間でその三角形が反芻されるのが美しい。真姫と凛が反目し合いながら共同で花陽を引っ張っていくさまは多少ぎこちなくもあるが、その自己主張の強さをアップショットの緊張のうちに秘めて、花陽はスクールアイドルに志願し真姫と凛がなめらかに背中を押す。穂乃果たちが閑散とした客席の前で披露した渾身のステージは、1年生トリオに確かに引き継がれている。


フォトカノ 第5話
1話ないし2話完結で各ヒロインのルートが映像化されている『フォトカノ』にあって、前田一也くんが被写体のヒロインを選択するということは第1〜4話で提示されているモチーフ群を絞り込むことと関連している。第5話、第6話の新見遙佳編で選択されるモチーフは「往来するボールの放物線」である。ボールの放物線軌道は二人の幼いころの蹉跌に起因するイメージだが、そのとき見誤った二人の距離がついに修正され二人が適正な距離を取り戻すのは、前田くんが新見さんの胸を触る気恥ずかしい第6話の一幕になる。
その前段として第5話では二人の距離が徹底的に反省される。消失した二人の左斜めの会話線を取り戻すべく、前田くんはピントのズレた過去の風景に再び焦点を合わせ、果てしない左右の往来を繰り返し、一旦はカーテンにシャットアウトされた左斜め頭上の新見さんに向けて再びボールが打ち上げられる。
二人の焦点距離をめぐる、新見遙佳編はメインヒロインにふさわしく「順光の撮影の物語」であり、本作の写真のモチーフにおいて最も基本的なところが第5話で突き詰められている。第6話で太陽光を受けブランコに座る新見さんのアップショットを撮影すること、それを自然な所作として受け入れる準備がなされている。


リコーダーとランドセル ミ☆ 第5話
見た目は好青年な小学生と見た目は小学生な女子高生の姉のコメディが『リコラン』だが、第5話でリコランの世界はその「見た目の世界」から拡張される。あつしの「見た目」に恋をする女子高生・沙夜は道端の置物と妄想的に対話し、ラップを聞き、虫の羽音に怯え、あつしの声に救われる。言葉も出ない沙夜のむせび泣きを引き継ぐようにエンディングがオフボーカルで流れる。その間、沙夜さんは振り向かず、あつしくんの顔を見ることもない。沙夜の一目惚れは「音」によって補強される。
昨今増加してきた5分アニメシリーズでは今年は良い作品がいくつもあったが、いまざきいつきさんが精力的に三本の監督をされていたことが印象的だった。


のんのんびより 第4話
のんのんびより』のTVシリーズで描かれるのは、「田舎」で過ごす「四季」であるが、例えば冬編がやや型破りに初日の出のエピソードから始まるなど、「見かけ」と内実のズレがある(11月に書いたエントリも参照)。時間は区切られていながらも緩急をつけて進み、山間の風景の範囲で少女たちの活動圏は狭くも広くもなる。言ってみれば、少女たちは自分の場所で自分の時間を生きるだけである。
第4話でれんげは新しく出会った友達のほのかと過ごす時間を「やすやすと越えてゆく」。ならば、最後に手紙が届くように、あるいはこの先の挿話でも結構頻繁に帰省するひかげのように、案外サックリと距離は越えられるものだろう。そして続く一年を、少女はやすやすと待てる。


BLAZBLUE ALTER MEMORY 第12話
先々週に長文エントリを上げたばかりなのであまりくどいことは書かないが、「過去が未整理なままでも、ラグナはノエル・ヴァーミリオンを救える」というのが本作の一つの到達点ではないかと思った。レイチェルに右腕を与えられたラグナは左腕をノエルに差し出す。その行為は同時に、邪推せずにはいられない「レイチェルが右腕をくれた意図」という懸念を払拭する。すべての出来事に裏の意味があるわけではなく、誰もが弁えて行動しているわけでもない。そのような希望を残して「コンティニュアム・シフト」という偶然に満ちた時代は終わるのである。

『BLAZBLUE ALTER MEMORY』について(第10話まで)

この記事は『BLAZBLUE ALTER MEMORY』というTVアニメを絶賛する内容なのだが、このアニメにある数多くの批判に応えるものではない。というか、ぶっちゃけ大体は反論の余地がなく、正直なところ全く見られていないのもしょうがないかなとすら思う。しかし私が毎週楽しみに見ているこのアニメ版が無価値であるわけがないと私は信じているので、そのことを主張するためにこの記事を書いている。アニメを見るのを途中でやめてしまった方も、意味不明さに耐えながら放送を追っている方も、お付き合いいただければ幸いである。


とはいえ、格ゲーとしてはそれなりに有名な原作ゲームであるので、そのファンがついてきていないことにはそれなりの理由があるのだろうし、その点を多少なりとも考慮に入れてアニメ版が何に着眼しているのかを考えるのは無益ではないだろう。それを論の起点にしたいと思うが、しかし原作については何も知らないので幾つか推測を交えることになる。その点はご容赦いただきたい。
まず、原作の格ゲーのストーリーモードにはノベルゲー的な性格があるようだ。しかし、物語が進むにつれて分岐が起こるシステムと比較すると、格ゲーのそれは使用キャラクターを選択するという最初の段階に重大な分岐がある。それがアニメ化に際しての困難の一つなのだろう。そういったシステムのゲームをアニメ化するに際し、まず群像劇にするというのは考えられうる手法だ。もちろん、最初から使用キャラクターを選択するように、ラグナ=ザ=ブラッドエッジの物語のみを描く手法もあるだろう。しかし、本作で採られている手法はややトリッキーである。このアニメでは、主人公をラグナに据えつつも、彼を取り巻くキャラクターたちを俯瞰的に捉えようとしているように思える。ラグナと過去を共有するジン=キサラギと妹から複製された「素体」ノエル=ヴァーミリオン、彼ら3人を中心にマコト=ナナヤとツバキ=ヤヨイ、タオカカやライチが彼らを取り巻き時に関わっていき、さらにその全体を俯瞰するような上位の階層にココノエやレイチェル、ユウキ=テルミがいて、さらにその上に神様気取りのタカマガハラが…といった風に、3人を取り巻くキャラクターたちが層をなしている。

第1話、第2話の主眼はこの階層制度を俯瞰させることであり、素体「ニュー」とともに繰り返し落下していくラグナに奇跡のように手を伸ばすノエルを固唾を呑んで見守る上層の取り巻きたちの、そのすべてを我々は眺めることになる。それは、得体のしれない衝動に突き動かされるノエルに同化するようでも、レイチェルの紅茶に起こる波紋の反射を見つめるようでもある。第1話、第2話はそのような二つの視座が混在している。

ところが本作のキャラクターたちは、所与の「階層」つまり自分の役割に甘んじるほど素直ではない。レイチェルは「傍観者」ながらやたらとラグナに関わりたがるし、第七機関所属のココノエは研究室を私物化してテルミ抹殺のための研究に邁進していて、タカマガハラに遣わされたテルミは統制機構を私物化して反逆を企てている。テルミへの復讐に燃えるラグナ、本来の役割に就けないツバキ=ヤヨイの悲哀、パートナーを失い医療に自分の役割を見出すもテルミの甘言に心を動かされてしまう女医ライチ=フェイ=リン。あるいは前線から退いたはずの獣兵衛など「前の世代」ですら、隠居生活とは程遠くラグナやジンに諫言をしては若い世代の愚痴をこぼす立派な老害ぶりを見せる。涼し気な表情を見せるヴァルケンハイン爺さんも裏では奔放な姫様にため息の一つでもついているに違いない。

よって、各々のキャラクターが自分の役割からはみ出そうとする運動が展開される。これが本作の言うところの「確率事象」の世界ということであろう。整列された階層が確率的に崩壊していく過程にあって、さんざんと諫言された「ラグナ=ザ=ブラッドエッジはユウキ=テルミに勝てない」という命題も確率的にしか成り立たない。ラグナはテルミに勝ちうる。ココノエもテルミに勝ちうる。ツバキもジンに勝ちうる。現に第6話でツバキはジンを「運悪く」一度殺した。このような下克上の可能性に下支えられて階層都市におけるバトル・ロワイアルが繰り広げられている。

確率的に成立した事象が歴史に記述されるにあたって、一つ重要なルールがある。それは格闘に立会人(歴史の証人)が要求されるということである。立会人には歴史の証人たる資格が必要で、「有資格者」というそれ自体が役割、つまり階層である(作中では「観測者」と呼ばれている)。第6話でツバキがジンを殺したという「事象」は、タカマガハラの「事象干渉」によって「無かったことにされた」。つまり観客を遮断した封印兵装内部での「暗殺」という「見なかった」ものを「なかった」ことにしたのだった。「確率事象」以前で、「観測者」たちは自明に立会人だった。「確率事象」以降でその制度は崩れたのである。


このようにまとめてみると「確率事象」の世界は本来ゲームの媒体と非常に相性によいものに見える。時間的に分岐していくシステムをアニメ版では様々なキャラクターがコミットしてゆくカオスな空間として実現した。これがアニメ化に際して被った変化の一つだが、これだけでは苦肉の策のようにも思われるかもしれない。しかし、このようにアニメ化したことによって一つ面白い現象が観測できる。第1話ではアドベンチャー的だった格闘が、階級闘争という性格を与えられることで演劇的性格を持つのである。このことは第7話の格闘に顕著に現れている。第7話はおそらくゲームの必殺技がそのまま再現されているのだが、格ゲーとアニメのアクションの差異を見る上でも格好のサンプルではないだろうか。ノエルが腕を十字に構えて銃の反動を動力にして右肩のあたりでツバキにタックルしているであろうあの「ポーズ」は、全くアニメ的な動きではないが非常に格ゲー的なアクションである(第7話のアクションの差別化は非常に見事で、もっとやるべきだと思う)。第7話ではノエルの対戦を拒む意思が「人形」としての本能(階層)に凌駕され、それまで防戦一方だったノエルは格闘人形として一気にツバキを圧倒する。この質的変化がアクションの様態の変化として発露しているのである。

第7話はアクションに演劇的性格が発露しているという意味で顕著だが、格闘にあって各キャラクターたちは一つの階層からの逸脱を試み、または一つの階層の保守を試みることで演劇的な性格を得る。またそれは、我々が観客つまり歴史の証人を存在を知っているからでもある。格闘はその結果を見届ける証人たちによって記録されることで「正史」として編纂され、できあがるのは固定された「ステージ」を順番に辿っていくような一本道のアドベンチャーだ。そうして編纂された「正史」として、あの世界には既に「六英雄の大戦」と「イカルガ内戦」などの「歴史」が存在している。

ジン=キサラギはこのような「正史」の信者だ。イカルガの殺戮の光景、シシガミとともに歩いたイカルガ民の住む階層の光景、人々の顔、そういった散在的な風景を純化して編まれた「統制機構の真相」という「正史」の先に、彼は歴史の使者として己の役割を自覚する。この宗教的体験をもって彼の階級闘争はひとまず(良いか悪いかはともかく)終わる。

このような正史を編纂する運動は逆説的に観客の視界の埒外にある「舞台袖」の存在を照射する。そこでは敗れ去っていった者たちの、歴史に記録されない屈折したドラマが、表舞台の世界と同様の広がりをもって展開されていく。

第8話では、格闘が行われている「テルミvsアラクネ」や「ラグナvsアラクネ」がかろうじて表舞台と呼べるのみで、それすらタカマガハラなどが興味を持っているかはかなり怪しい。当然ながら、アラクネが置き去りにしていった寄生動物のことなんかは「歴史の証人」たちの眼中外である。カグツチの中で忘れ去られたように佇む区画にあって、ラグナとラムダはその動物を助けようとし、その努力むなしく動物は命を枯らす。面白いのは、この行動がラグナとラムダにとって自己言及的な意味を持つということである。少年時代にテルミに「敗れ」、レイチェルに右腕とともに命を救われた経験を持つラグナにとって、他者を助けるという行動それ自体が屈辱の記憶を否応なしに呼び覚ます。今でこそ死神と呼ばれ注目を集めるラグナでも、一度はテルミに敗退し、舞台袖でレイチェルに拾われて再び立ち上がってきたのだ。彼の右腕は力の源泉であり、同時に屈辱の記憶の象徴でもある。そのコンフリクトに直面するとき、彼の右腕は疼く。

これはラグナだけの問題ではなく、むしろカグツチには一度敗退した過去を持つものばかりがいるように思える。コーヒーの主を亡くしたココノエ、ココノエに命を救われたテイガー、ラグナに敗退したミューの魂を古い素体にあてて創りだしたラムダ、ココノエのチームはそんなルーザーたちで成り立っている。中間的な立場に立つレイチェルとテルミも、あるいはタカマガハラの圧力に苦しむ日もあるのかもしれない。ジン=キサラギもテルミに「拾われた」と言えるのかもしれず、また第9話のツバキ=ヤヨイの「仕組まれた救済劇」がある。*1

ラグナとラムダの前で一つの命が枯れたことを、当事者のほかは誰も知らない。そのことを「歴史を記述する階層」でもないラグナが記憶しようという意思は、「正史」という運動への反抗であり、また階級闘争そのものでもある。オマエラが見た景色だけが歴史じゃない。この反逆の姿勢を描くことが、アニメ版の主題の一つである。
歴史の表と裏という対立構造を通じて、ラグナとジンの(「青の力」と「秩序の力」の)対立構造もこれで概観できたと思うが、一方でラグナとジンの過去の記憶という散在的描写がある。これはジンにとっては未整理のまま残された風景であり、ラグナにとっては自身によって記述されるべき歴史の原型である。お互いがこの課題を乗り越えることが、一応はラグナを主人公に据えたこの物語の落とし所としては妥当なのだろう。


最後に、残り2話で語られるべき内容に触れておく。本作で目を引くのは、ジンを除いては各々のキャラクターの階級闘争がどれ一つとして完遂していないことである。第10話にあってなお、それぞれの「シナリオ」が未だ過程にある。まるで尖塔を登ってゆくように、無秩序に蠢いている各々の思惑は別々の道を辿りながら「ラグナ=ザ=ブラッドエッジvsユウキ=テルミ」という最終局面へと収斂していく。ここに至って、第1話の「確率事象」以前の構図が意味を変えて再び出現しているようなのだ。この決闘の果てに「確率事象」は終りを迎え、ひとつの歴史としての完成を迎える。その兆しが第10話にあらわれている。

*1:これはジンの宗教的体験とはかなり性格が違って、彼女に階層を押し付ける悲劇である。ノエルの「人形としての覚醒」もこれと同型。テルミの計画の主なメソッドはこのように舞台袖での陰謀を通じて歴史を操作しようとすることだろう。本文中で触れられなかったテルミやノエルのドラマを人知れず拾っておくべく脚注に記す。

『のんのんびより』のタイトルの意味するものとは


アニメ版『のんのんびより』について、今回はタイトルの「のんのんびより」の意味するところを少し考えてみようと思う。これは「のんびりする」+「日和」からもじった造語で、字義通りに読めば「のんびりするのに適した環境」のことを指している。「環境」と言っても場所より時期的・時間的なものに重点が置かれていて、田舎に住んでいればいつでも「のんのんびより」であるというわけではない。さらに、「のんびりすること」は主体的な行動であるという含意もあるように思う。田舎だからのんびりしなければいけないということでも、田舎の人はのんびりしているということでもない。「環境」と「主体的行動」の協奏のことである。かくして、やたらにゆっくりとしたリズムで刻まれる風景と伴奏の上を、不安定なリコーダーの音が「のんびりと歩いていく」(第1話アバン)。


田舎は「のんびりすることに適した場所」であるかもしれないが、「のんびりするための場所」であるわけではない。少女たちは駄菓子屋に行くし(第2話)、秘密基地に家出もするし(第3話)、ちょっとした冒険もする(第4話)。少女たちはいつも「のんびりして」はおらず自由に行動し、そして「田舎」は少女たちの自由な行動を包含してくれるだけの膨大なスペースを備えている。反面、田舎の膨大な広さに比較して少女たちの行動のスケールの小ささを実感する時が訪れる。第1話では丘の上の桜の木と田舎の風景を見晴かし、第2話では大人ぶった蛍に公衆電話の影がふっとかぶさり、第3話では子猫を養う母猫と空の高さに自分たちの知らぬ世界を感じ、第4話では冒険の次がないと分かったとたん膨らんだ期待の分だけ「広さ」がのしかかる。こうして「のんのんびより」が訪れ、その時期にあって、少女たちは小さなお出かけの区切りをつける。


もちろん、それは田舎の圧倒的なスケールが少女たちを押しつぶすような性質のものではない。「のんのんびより」の訪れを知らせるのは、第2話では傾いた陽のつくる公衆電話の小さな影であり、第3話ではちくわをかじる子猫たちと母猫の威嚇だった。それらは「田舎のスケール」を背景としながらも手の届く日常の範疇に収まっている。赤とんぼが秋の訪れを知らせるように、むしろ日常の小さなできごとこそが「のんのんびより」を秘めるのである。そして第6話にあって、ついに「田舎のスケール」が後退する。「いろいろあった」夏休みの一日の締めくくりとして「のんびりする」少女たちの手元では、線香花火の小ぶりな火の玉が黒の中に輝く。

『ラブライブ!』最終話「μ'sミュージックスタート!」について――「音」という起点

ラブライブ!』最終話は「μ'sミュージックスタート!」というサブタイトルで、このセリフが最後に合唱され、改めてスタートを切るμ'sを予感させて締めくくられる。綺麗な締めくくりだが、これがサブタイトルに設定されている意味を考えると、それはつまり「音」が起点であるということだ。ラストの「予感」を確かなものにするために、穂乃香たちは「音」を起点とする運動を積み上げていく。それをこれから見ていきたい。


アバンは、映像的な主題としては「空白」だ。下校時の絵里の右側、ハンバーガーショップで目立つ空席、音楽室の扉の向こう(加えて、Aパートのことりの部屋も)。絵里・希や真姫は元々居た場所に帰り、にこたちは新しくグループを立ち上げようとするが、その中に感じる物足りなさが「空白」として映像に現れる。本来なら穂乃香も、むしろ帰るべき場所までも喧嘩別れで失ってしまっている穂乃香こそ、そうした「空白」を強く感じるはずだ。しかし穂乃香の「空白」は後ろからサポートしていたクラスメートたちで埋められる。全てを棚上げしたまま、海未でもことりでもないクラスメートたちと帰宅し、ゲーセンに立ち寄る。そんな状況に疑問を投げるのが、「弓の音」である。
二つの異なる場所を「音」で繋ぐのはよくある手法だが、今回強調されているのは同時性ではなく二つの場所の断絶である。また、弓の軌道が穂乃香たちに対して横断的であることにも注目したい。一人また一人と“ステージ”を降りていくなか、一人“壇上”に残った海未は弓を引き続ける。しかしそれは穂乃香を掠めることなく空を通り抜ける。こうして、「音」という主題は断絶として、“ひっかかることなく”導入される。


「音」が“ひっかかり”をおぼえるのは、クラスメートたちと行ったゲーセンのダンスゲームコーナーである。6話では穂乃香たちが訪れたゲーセンにて、「音」が穂乃香の眼前に出現する。ダンスミュージックが、穂乃香の練習風景――「運動」の記憶を呼び起こす。そしてダンス後の評価画面、トリプルAの評価が999位という順位を、真姫が入れてくれた一票を思い起こさせるが、これは視覚的な連想だ。この「音」→「運動」→「視覚」という道筋が、その繰り返しが、これまでの穂乃香たちの力学であり、そしてこれからも継続すべき力学だ。
クラスメートたちと別れ、穂乃香は両側から押し寄せる「空白」を実感する。自分の立ち止まった足を見下ろし、モニターに映るアライズという「光景」を見て、今度こそと、「起点」を探して上手に向かい踏み出し、しかしすぐに立ち止まる。改めて実感する「空白」。それを押し流すように踏み出されるのが、花陽の「運動」である。穂乃香はその「起源」を問い、にこの「宣言」を聞く。後の絵里や海未の場合においてもそうだが、回想などの形式ではなく「語って聞かされる」ということが何より重要だ。
絵里の差し出した手を受けて、穂乃香は小さな「運動」を起こす。パソコンを開き、仕舞っていた衣装を取り出して着る。頬を両手で叩く。この運動は像を結ぶことはない。しかしひとつの「ビジョン」を作り上げる。


さて、上手下手の原則をちょっと拡大解釈して言えば、“最”上手に配されるのは全ての決断を“済ませてしまった”ことりだ。Aパートのことりの部屋の場面はことりを上手に配されているし、例えば11話などで見られた2ショット内の「傾斜」も、左奥から右手前だったものが右奥から左手前と、逆転した格好で登場している。Aパート最後の画面分割は、下手に焦がれることりと上手を志向する穂乃香を、“イメージとして”(視覚的に)接合したものだ。つまりこれが、「運動」の先に想定される「ビジョン」であり、この「ビジョン」に向かって、「転回の運動」がはじまる。
「転回の運動」の先駆けとなるのが、穂乃香がパソコンを立ち上げた際の、右回りに弧を描くカメラワークだ。この右回りは、飛行機を見上げることりの視線の右回りに引き継がれ、そして講堂に向かう海未の右回りに引き継がれて一周している。最後だけ実際的な運動を果たした海未は、その分の角度をつけて穂乃香と対峙する。
この傾斜した対峙は、言うまでもなく3話の再演だ(あわせて、今回の絵里との対面が水平位置であることにも注意されたい)。3話と今回で、絵里と海未が立っている位置は、実際には大した差はないだろう。しかしあくまで直線が意識されていた3話に対し、今回は切り返しの中に「横の広さ」を見せるショットがある(穂乃香が「ごめんなさい」と頭を下げるところ)。この「広さ」はなんだろうか?それは、満員の観客のために予約されている席であり、一人壇上に残った海未が再び来るであろうメンバーのために予約してある「ポジション」であり(ライブパートの海未の位置を参照)、そして「転回」のために予約されている軌道である(そういうわけで、今までの「空白」とは意味が異なる)。
海未が穂乃香のところまで降りてきて(実際はこれで「一周」が完成)、歌が口ずさまれ(今度こそ二場面を繋ぐための「音」)、穂乃香の「運動」が開始される。ことりの腕をつかむ場面は12話の逆転構図で、穂乃香が左回りに回りこみ、策定された「光景」はここに完成する。しかし「転回」した彼女たちは左回りに運動を続け、講堂の控え室に滑りこむ。続く「光景」はもちろん、3話と同じ軌道を辿ってアップショットからPOVへと回転するカメラの映す、今度こそは疑いもなく「満員」の客席の、ライトの輝きだ。

話数単位で選ぶ、2012年TVアニメ10選

毎年恒例になっていますが、今年も10本選ばせていただきます。


パパのいうことを聞きなさい! 第4話「ワンダフルライフ」(脚本:成田良美、絵コンテ:高橋丈夫、演出:ふじいたかふみ)
ちはやふる 第20話「くもゐにまがふおきつしらなみ」(脚本:鈴木智、絵コンテ:山内重保、演出:いしづかあつこ)
宇宙兄弟 第1話「弟ヒビトと兄ムッタ」(脚本:上江洲誠、絵コンテ:渡辺歩、演出:釘宮洋)
さんかれあ 第11話「特別…なんかじゃ…ない」(脚本:杉原研二、絵コンテ:名村英敏、演出:久保太郎)
・だから僕は、Hができない。 第1話「運命の赤い糸!?」(脚本:荒川稔久、絵コンテ:高橋丈夫、演出:園田雅裕)
超訳百人一首 うた恋い。 第2話「貞明と綏子 陽成院」(脚本:金春智子、絵コンテ:泉保良輔、演出:三間カケル)
人類は衰退しました 第8話「妖精さんたちの、じかんかつようじゅつ episode.02」(脚本:熊谷純、絵コンテ・演出:ひいろゆきな
絶園のテンペスト 第3話「できないことは、魔法にもある」(脚本:山口宏、絵コンテ:安藤真裕、演出:高橋健司)
ヨルムンガンド 第15話「Dance with Undershaft phase.2」(脚本:黒田洋介、絵コンテ・演出:元永慶太郎、絵コンテ協力:岩畑剛一)
PSYCHO-PASS 第6話「狂王子の帰還」(脚本:虚淵玄深見真、絵コンテ:金崎貴臣、演出:江島泰男


ルール
・2010年1月1日〜12月31日までに放送されたTVアニメ(再放送を除く)から選定。
・1作品につき上限1話。
・放送順(最速に準拠)に掲載。順位は付けない。


パパのいうことを聞きなさい! 第4話
今年最も繰り返し見たアニメは間違いなく『パパ聞き』の4話なので、順位は付けないとしているがベストを挙げるとしたらコレ。
『パパ聞き』は、主人公の祐太くんが「父親」として成長していくストーリーだが、しかし世間一般的な「父親」に、無理になろうとしなくてもよい。第4話は「パパ」としての最初の一日を描いた話数で、祐太が、三姉妹が、飛行機事故で亡くなった両親(姉夫婦)という空白を埋めようとする。長いレシートや壁の落書きなど、「空白を埋めるもの」が繰り返し登場する。
序盤の朝の一幕では、確かに祐太くんは「不十分な父親」だった。美羽とひなに適用される横の構図は、父親の典型像を切り出した構図だ。それが、玄関前で祐太くんを送り出す場面になって、ふとイマジナリーラインを越え、空の斜め向きの視線が導入される。二次元的な構図に立体感が導入され、祐太くんにとっての「パパ」像が立ち上がる瞬間である。


ちはやふる 第20話
第20話で起こった事件というのは、例えば『咲』などに見られるような「イメージエフェクト」が持ち込まれたことだった。『ちはやふる』では、『咲』などと比較すると競技の実態に即した描写がされていたが、千早の「感じの良さ」、そして反応速度から来るそれは、「体育会系のかるた」だ。これだけなら、実際に千早が陸上をやっていたように、他のスポーツにも共通する要素だろう。しかし、「かるた」だからこそ、音の響きが情景のイメージを喚起するからこそ、かなちゃんの言うところの「文化系のかるた」が成立する。
かなちゃんの「富士山」など(「イメージエフェクト」の萌芽)、これまでかなちゃんたちを通じて垣間見てきた「イメージ」が、第20話で「技術」として誕生する。そしてその「技術」を磨いた先に、クイーンの「糸」や周防名人の「感じの良さ(情景イメージの共有)」がある。第20話は、千早がそれらに近づくための布石であり、同時に水の底に沈む太一に課題を残す。新の指が水を弾く瞬間が、鮮やかだった。


さんかれあ 第11話
礼弥の父親・団一郎は行き過ぎた愛情表現を示す父親だったが、対する千紘もゾンビにしか興味を持てない倒錯した性癖を持っていた。団一郎の「写真撮影」に対して千紘の「ビデオ撮影」があり、二人の立場には類似点が見いだせた。なら、団一郎ではなく千紘が選ばれる理由はあるのか。この問題を争って、二人は第11話で対決する。
通り一遍の「普通」を大上段に語る千紘に対して、下手から団一郎が反撃し、二人の対決は「異常性」の衝突に移行する。天井の写真に対して窓に”映像”が浮かび、千紘は「ハーフゾンビ」になって戦うが(右回りの回転が「異常性」の象徴)、イマジナリーラインを超え団一郎が上手を取ったところで、おそらく千紘に勝機はなかった。しかしその太刀を、礼弥が弾く。
結局のところ、千紘の優位性は「礼弥がいた」ということに尽きる。団一郎の回想中、右回り軌道から外れていった礼弥の軌道の先に、自分が居たというだけのことだ。千紘に正当性があるように見えるのは、彼が団一郎の失敗を踏まえているからである。その意味でフェアな戦いではなく、続く12話で「たまたま自分だったこと」の重圧が千紘を悩ませる。千紘が上手を譲り、団一郎を載せた飛行機は遅まきながら、礼弥を追いかけるようにコースアウトしていく。
「ふたつの撮影」という主題の終点として、また「幸福と不幸を分けあう」第12話の布石として、団一郎の愛情の重さと狂気の深さを、自分のものとして受け止めさせる構成が上手かった。

ふたつの「反・ミステリー」――『PSYCHO-PASS』第一期について


最初に第1話アバンの、立体交差点(「十字の構図」)と、ヘリコプター及び螺旋階段の互いに逆回転の螺旋、この2つに注目したい。1話で犯人を追い詰めたところで、征陸と朱が銃を捨て、犯人が人質を手放したところを狡嚙が横から撃つ場面があるが、「十字の構図」は概ねそんな風に適用される。これを推論の構図と見て、仮定と帰結の二軸に分解すると、「被害者」の女性を追い詰めてしまう場面の縦の構図は朱の「決断」だ。宜野座たちが横から割り込んできて勝手に「結論」を出してしまったのだが、少なくとも「被害者」の命を救った決断は無意味だったわけでもないだろう。
十字の構図は「ミステリー」のシンボルであるが、アバンの狡嚙はドミネーター(理性的判断)が通じない犯人と見るや、格闘で犯人と戦う。螺旋・あるいは円運動のモチーフはそんな形で現れる、「反・ミステリー」的運動だ。公安局のマークとして使われているケーリュケイオンのように、アバンには2つの螺旋軌道が現れているが、これらの象徴する「反・ミステリー」とはどのようなものだろうか。
十字の構図および螺旋運動(あるいは円運動)は、第11話で再び中核的なモチーフとして使われる。ただ、詳しくは触れないが、概ねどの話数でも下敷きにされているように思う。


管理社会を象徴するガジェットとして重要な「ホログラム」について、少し触れておく。ホログラムは部屋の内装などを虚飾するが、ホログラムは家具の配置などを含めた内装一式でしか手に入らないらしい。ホログラムの椅子を部屋の好きな位置に動かす、ということはできず、実際の椅子をホログラムの椅子の位置まで動かさないといけない。現代的な価値観からすれば倒錯しているが、つまりホログラムとはシビュラシステムが市民に強いる規範なのだ。執行官たちが抵抗感を示す一方で、朱たちはホログラムに、つまりシビュラシステム中心の価値観に馴染んでしまっている。

第2話で朱の悩みを象徴するのもホログラムだ。彼女を悩ませるものは、第1話で狡嚙を撃ったことよりもむしろ、シビュラシステムが自分を監視官に導いた理由だ。そんなものは、ありもしない幻影かもしれない。しかし、あらゆる選択肢の中に隠れた「シビュラの宣託」を積極的に読み取ることで公安局に来た、「敬虔な信徒」である朱にとって、これは深刻な問題だ。そんな中で、執行官と対等なパートナーとしての監視官ではなく、執行官をただ見守るだけの監視官という現実に直面し、彼女はシビュラシステムの意思をこう解釈したのだろう。「何もしないことが私の天職なのか」と。落ち込む彼女に狡嚙が語る刑事の心構えも、復讐に燃える彼からすればすでに忘れかけている、建前半分の虚飾された言葉だ。しかしそれによって、朱の信仰心は保たれる。


朱が監視官としてどのような活躍ができるかについて、第1話で片鱗が見えて以降はしばらく保留される。というよりも、それは第二期の課題なのだろう。第一期は主に、狡嚙たちの捜査の様子が描写される。
第2話で、犯罪係数が高いことは犯罪捜査の才能でもある、という征陸の話があった。執行官たちはその「才能」から、しばしば推論を飛び越して犯罪者の思考を直観する。第3話に典型的なように、そのような形式で進められる捜査はとうてい公正なものではなく、たとえ真犯人を逮捕できたとしても、現代的な倫理観からすれば問題のある捜査だろう。3話の執行官たちを見てて感じるのは、推論の有効性よりも、むしろ推論の限界である。その意味で『サイコパス』はミステリーではなく、反・ミステリーであるといえる。


第4,5話の御堂将剛、6,7,8話の王陵璃華子は、推論と直観の狭間で捨象されていった犯罪者たちだ。4,5話はネット上の仮想コミュニティが舞台だが、ネット空間はもちろんホログラムの同類だ。ネットは間違っても「現実から解き放たれた自由な空間」などではなく、市民を縛る檻である。槙島が御堂に与えた道具もホログラムを操作する力というお誂え向きのものであり、「不信心」な狡嚙の捜査は、ホログラムと現実の「ズレ」を見るという形で展開される(第4話)。スプーキーブーギーが体制に協力的なのも当然だと思うが、御堂にはそれが許せない。彼の主張する「アバターと実体のズレ」は、実際のところ閾値を超えていないのだが、彼はどんなズレも許せないようだ。一見すると公安局よりも体制側に寄っているようにも見えるのだが、タリスマンとスプーキーの二人のキャラクターを演じることに成功したのは、実は大変なことである。アバターは市民に押し付けられる規範でなければならず、複数のアバターを渡り歩く存在というのは、シビュラシステムが許容出来るものではない。彼は不自由なネット空間のなかで、徹底的な模倣により自由な存在に近づけたのだ。

王陵璃華子の場合、彼女の動機は父親の仕事を反転させたような、社会にはびこる「安らかな死」に対する「絶望」の啓蒙だという。ストレスの無くなった社会において、負荷を与える役目を負うということだ。彼女が人間の遺体を継ぎ接ぎして作る芸術は父の絵画(の模倣)を立体化したものだが、『タイタス・アンドロニカス』が作中で引用されているのを踏まえれば、脚本と舞台の関係と見てもいいだろう。となると「場所」は確かに重要であり、槙島も狡嚙も「場所」に対するコンセプトの無さを指摘している。しかし、狡嚙の言うような陳腐な風刺のなかに閉じ込めてしまうことは、果たして有効だろうか。これがもし父の復讐劇だったなら、『タイタス』の場面をなぞって遺体を配置するなど、工夫もできるだろう。しかし彼女の場合は、むしろ無作為に配置していくことによって目的を達成できたかもしれないのだ。対照的に、9,10話で槙島が狡嚙に仕掛けるゲームはまさに「意図を読むゲーム」(ミステリー)であり、「無作為である」ことの意義について彼らは考えをめぐらすこともない。


御堂と王陵は「可能性のある」人たちだったわけだが、二人がそのことに自覚的だったかというと、かなり怪しい。むしろ描かれているのは、意図しないところに何かが生まれるという現象であり、この現象がもう片方の意味で「反・ミステリー」的である。ならば、二人を弔う者として適格なのは、宣託を聞いてしまうほどの純粋な信仰者である朱しかいないだろう。
第11話で朱が登っていく複雑な立体迷路は、これまでの事件を通じて槙島に迫って来た、その推論のステップだ。朱が迷路を登っていく軌道は左巻きに積み上がっていき、その先で朱はついに槙島と対面する。しかしそこには「ギャップ」があった。この高さは、狡嚙ならば猟銃一つで越えてしまえる高さだったろう。「推論の限界」を前にして、朱は友人を救うことはできない。彼女の「信仰心」は再び試されることになるだろうが、しかしそこに、御堂と王陵の「可能性」が槙島にとって死角だったように、いずれ槙島のいる高さまで辿り着くための、もう一つの「反・ミステリー」の萌芽が見える。朱の前方から三方へと伸びていく道に、もうひと巻きの螺旋を描く朱の動線の可能性を感じる。

『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』について

ネタバレ全開なので、気にする人はご注意を。


最初にTV版の第24話『最後のシ者』を思い出したい。最後の使徒、カヲルはシンジの正面から見て右側から現れ、一緒に寝る場面で位置が逆転し、打ち解けたのち、左側に消えていく。『Q』ではこの間に有り得るはずだった、二人が親密になる過程=回転のムーヴメントが描かれる。


回転のムーヴメントを軸とし、本作の主要なイメージは球形の収縮と膨張である。シンジが目を覚ましミサトたちの前に顔を出したときの、「中心」に注がれる厳しい視線、これが「収縮」であり、ミサトたちがシンジの元を離れ、球形のコックピットに収まった後、そこを起点としてヴンダーの回転運動まで広がりを見せる回転のムーヴメント、これが「膨張」である。基本的に「収縮」に不安定な心理が表れ、「膨張」に調和が表れる。『破』ではビーストモードだの何だのと暴走しまくったエヴァたちを制御してみせるミサトたち「ヴィレ」、その安定した戦いぶりが膨張のイメージで紡がれる。


収縮と膨張はサード(フォース)インパクトの過程であり、「膨張」の調和した振る舞いにはサードインパクトの有り得るべきだった姿を見ることができる。ヴィレを抜けだしたシンジは廃墟同然のネルフ本部でカヲルと、ゲンドウと、そして何人目かも定かでない綾波と再会する。シンジはカヲルと親交を深めていく。ピアノの連弾がはじまり、下手から日が差し、風が吹き、青空のイメージへと、回転のムーヴメントは「膨張」していく。彼らはピアノの連弾を繰り返し、星を眺め、互いに位置を/主導する立場を変えながら親密さを増す。だが、カヲルはシンジに見せる。「膨張」の先にある、サードインパクト後の世界を。


ゆえに、彼らの目標はサードインパクトの「やり直し(=REDO)」である。「膨張」の先、「爆発」(フォースインパクト)の起こらない、調和した世界を目指す。TV版で既に明かされているような絶望の既定路線を辿り収縮していくシンジに与えられる、たったひとつの希望がそれだ。
彼らが地下深く、リリスのもとへと降下していく場面は、「膨張」の前段階の「収縮」だ。ここで2人の位置が『最後のシ者』の終盤と同じ位置になっている。彼らには二本の「聖槍」、カシウスの槍とロンギヌスの槍が必要だったが、リリスに刺さっていたのは(たぶん)ロンギヌスが二本だった。おそらく、『破』でカシウスの槍をシンジくんに贈り、サードインパクトを起こしたことで血塗れてしまったのだろう。「処女膜を破った」(というのはもちろん不適切な言葉なのだが)その罪を「やり直せない」、そう宣告され、ここでカヲルの恋は破れる。しかしシンジは「収縮」を続ける。その結果が「爆発」だ。


左側の見えない壁の向こうで、カヲルは命を落とす。カヲルの魂は左回りの上昇軌道(膨張)、シンジは左回りの下降軌道(収縮)を辿り、2人の運命は逆志向に進んでいく。「やり直し」てなお、2人は引き裂かれた。しかし、カヲルは「やり直せ」なかったが、シンジはまだ「やり直せる」。収縮の果て、いつものようにエントリープラグにうずくまるシンジを、アスカが連れだしていく。もう一度、ゆるやかな膨張がはじまる。




難解だという声も聞くが、カヲルくんの純愛と悲劇を綴った、良い映画だった。『最後のシ者』を見た後に、待ち続けたカヲルの14年を想像しながら見るとより楽しめるのではないかと思う。

様々な謎が散りばめられているけど、とりわけ二本の聖槍に絡むことが重要だと思うので、その辺はいろんな人の解釈を聞いてみたい。とりあえず上のような解釈も付けたけど、まだ全然足りない気がする。