違う仕事

違う畑の仕事をするということは,大切なことだ。

今まで意味のないことだと思っていたことが,本当は結構意味のあること,というか相当に重要なことだということに気付かされる。

形式と実質。

外見と中身。

形式が支配する世界に身を置くこと。

そこから学ぶことは多い。

あまり長居はしたくないけど。

刺激

今日は,月に1回の研究会。
大学の先生達が集まって,海外の判例(午前),国内法の諸問題(午後)等について発表し,議論する場です。


みなさん大学の先生や弁護士さん達なので,議論が高度すぎていつもほとんどついていけません。
なので,しばしば襲われる睡魔との闘いの場でもあります(^ー^;


しかし,それでもオイラがこの研究会に参加しているのは,こういう高度な議論の場に身を置くことで大きな刺激を受けるからです。
人間というものは,自分でやることには自ずと限界があります。
自分の研究領域だったり,関心領域ならば自然と勉強する気になりますが,そうでない分野についてはどうしても疎かになりがちです。
例えば,オイラが専門にしている法律には,大きく分けて,実態規定(どのような行為が違反となるか)と手続規定(調査手続や防御権等についての規定)に分かれるのですが,オイラの研究領域及び関心領域は実態規定の方になるので,手続規定の分野はどうしても疎かになりがちです。
今日の研究会の一方の発表は,まさにその手続規定に関わる問題を取り上げており,非常に勉強になりました。


このような場に身を置くことで,自分の知識のなさ,能力の限界を多々感じますが,それが,その後の向上心にもつながっていくので,こういう場は非常に大事だなと思います。


東京に帰ってからも,そういった知的好奇心を持った人たちを何人か集めて,勉強会を催そうと密かに考えているのでした。


終り。

相談

最近,歳のせいか,学生の子たちから色々と相談されることが多い。


就職のことだったり,働くことについてだったり,恋愛のことだったり。
正直,人の相談にのっている場合でもないのだが,なんというのでしょうね,相談されるって,自分が必要とされているんだって思えて,やっぱり嬉しいですよね。


しかも,その相談にのっていることで,自分の考えが整理できたり,認識を新たにしたり,気付かされることも本当に多いから,自分のためにもなるしね。


しかし,みんな色々悩みを抱えているものですね。
かくいうオイラも,大いに悩んでいるというか,どうしようもなくむなしくなったりする時があります。


ただ,この前,テレビを見ていて,「ホント,そうだなぁ」と思えることがありました。


齡い100歳になるという詩人のおじいちゃんが,高校生から「幸せってなんだと思いますか」って質問されて,「自分の今を肯定できている人は幸せな人だ」って言っていたんですね。
いわゆる自己肯定感というやつですが,このおじいちゃんの口からその言葉を聞いて,本当に説得力があったというか,思わずちょっと泣きそうになりました。


自分はどこまで今の自分を肯定できているだろうか。
足りないもの,できないことに一喜一憂して,今満たされていること,できていることをどれだけ前向きに捉えられているか。
自分を厳しく戒めることも大事だけど,今の自分をありのままに認めてあげることも同じくらい大事なことなんだなって,つくづく思いました。


オイラみたいな人間でも頼りにしてくれる人がいる。
それだけでも,生きている意味はあるのかなと思う今日この頃でした。

優れた論文

今,ある人の助手論文を読んでいる。
助手論文だけあって相当長い。200頁くらい。


だけど,その人の論文の書き方,論理構成,筆致,どれを取っても非常に優れており,読んでいて苦痛,退屈さをまったく感じない。
その論文は,オイラが研究している法律に関わるある事象を取り上げて,それに関する米国の判決を素材とし,当該判決の論理構造をテクストに基づいて丹念に解き明かし,当該判決が生成された歴史的経緯を追いながら,当該判決が導いた法理の重要性を指摘するものだ。


今まで,結構な数の論文を読んできたが,この論文は,その中でも頭ひとつ抜けているというか,突出して優れた論文であるうように思う。
問題意識を明確に持ち,その問題意識を解明するために適切な素材を見つけ出し,当該素材をその内的視点から解明しようとするその姿勢から紡ぎだされる文章というものは,これほどまでに人を惹きつけるものなのかと改めて感じた。


それはあたかも,自らがたどり着いた頂に,一般の人でも登れるように,階段を一段一段築きあげていくような,そんな作業である。


こういう仕事ができる人になりたいものです。

ホメる

今日,NHKの朝の番組「あさイチ」で,人にとってホメられることは色々と良い影響があるということがやっていた。


例えば,ホメられることでやる気が出たり,うつ病が改善したり,認知症の予防になったりと,脳にとって,あるいは,精神的に非常に良い影響が観察されているらしい。
感覚的には,それはそうだろうと思うのだが,それが実証的に色々と明らかにされているということに,改めて驚かされた。


そこでやっていたのは,人からホメられることのほかに,自分で自分をホメることでも効果が大きいらしい。
例えば,日記みたいに,その日に自分ができたことや自分のよかったところをホメてあげるんだって。
それで,うつ病が大幅に改善された人の例が紹介されていました。


という訳で,オイラも自分で自分のことをホメるようにしようと思いました。


今日できたこと。
・論文作成で,少し前に進んだこと。
・演習で,わりといい質問ができたこと。

あり?
2つしかないや。。。

でもいっか。

まぁ,こうやって少しずつ自分で自分をホメてあげるようにしましょう。

なんか少し元気が出てきた気がする♪

明日も頑張ろう。

京都観光&鶴瓶

最近,ブログを書くペースが鈍ってきた。。。
授業が再開し,かつ,自分がやらなければならないことが増えてくると,どうしても億劫になってしまう。
まぁでも,前よりはだいぶいいでしょ。


この前の土日は,それぞれ,とても充実した一日でした。


土曜日は,院の友達の友達(男女併せて4人。関東近郊に在住。)を,ひょんなことから,オイラが京都案内することになった。
元々は,オイラの友達が案内する予定だったのだが,授業が入ってしまいお願いされたといういきさつ。
当然,彼らとは初対面であり,どうなることかと思ったけど,向こうもオイラに終始気を遣ってくれて,かつ,それぞれが個性的で,そのやり取りを聞いているだけでも面白い人たちだったので,自然に仲良くなることができた。
案内したのは,清水寺から祇園に抜け,そこから,哲学の道を歩いて銀閣寺,そして大学に行き構内を案内して,最後に鴨川沿いを歩いて三条で飲み会という,かなりオーソドックスではあるけれど,それなりに充実したものになりました。
オイラも,こちらにきて,清水寺銀閣寺に行くのは初めてだったので,とても良かったです。
みんな,オイラよりは5,6歳下の人たちだったけど,既にみんな働いていてちょっと疲れた感じだったな。
大学時代の仲間ということだったんだけど,あの頃は良かったなぁ的な感じが伝わってきて,少しだけ切ない気持ちになりました。
ただ,飲み会のお店を出た後,最後に三条の鴨川沿いでみんなで軽くお酒を飲み,たわいもない話をしている時は,とても幸せでした。なんか,青春の1ページみたいな。


一方,日曜日は,笑福亭鶴瓶が毎月1回大阪の帝塚山でやっている「無楽の会」というのに行ってきました。
前の職場の後輩がチケットを取ってくれ誘ってくれたので行ったんだけど,鶴瓶の話術に惚れ惚れしてしまいました。
話の流れというか,構成の仕方というか,どこまで考えて,どこからがアドリブなのか分かりませんが,そこにはどこかしらひとつの作品を見るような趣があり,やはりプロはすごいなぁとつくづく思った次第です。
友達の話によると,会場は,鶴瓶の師匠の自宅で,そこを鶴瓶が自費で改築したらしい。
すごいお金がかかったらしく,とても「無学の会」の料金だけで賄えるものではないらしい(だって,1人5千円で,会場はキャパ70人。)。
しかも,会には毎回秘密ゲストが来るのですが,中にはすごい大物がいたりして,そんな人たちのギャラ(もちろん,正規のギャラを払っているとは思わないけど)とかを払っていたら,お客から取る料金なんてあってないようなものでしょう。
鶴瓶にとっては,原点に戻るような,そんな場所なのでしょうね。
あ,ちなみに,今回のゲストは中村珠緒さんでした。
人柄というか,キャラというか,とにかく面白い人でした。

久しぶりに天王寺界隈をウロウロして,新世界とかも見ることができて,濃い大阪を堪能できました。

時代との不適合

最近,検察がエライことになっている。


郵便料金不正事件に絡む一連の不祥事は,訴追機関という強力な権限を持った組織だからこそ封じ込めることができてきた組織的矛盾を,図らずも露呈する形になっている。


検察,警察の捜査手法は,戦前からの調書偏重主義から脱することができず,「自白は証拠の王」という大原則の下,供述調書を取れるかどうかが,事件解決の分水嶺とされてきた。
確かに,「秘密の暴露」を引き出し事件解決に至った事件も多いだろう。
しかし,物的証拠がほとんど存在しない下で,供述調書をほとんど唯一の証拠として有罪判決が下された事件も多いだろう。
それら事件において,実は,今回の郵便料金不正事件で無罪となったケースのような事案が少なからず存在したのではないかという疑念はどうしても拭うことができない。


今回,一連の裁判において,検察が提出した調書が,少なからず不採用とされたことは,ある意味で,検事逮捕よりも検察,警察にとっては大きな衝撃なのではないだろうか。なぜなら,証拠不採用の理由が,調書の信用性に疑義を持たれてことによるものであり,裁判所のこの姿勢は,今後ますます強くなることが予想されるからである(ちなみに,調書との関係では,裁判員裁判が導入されたことに伴い,法定での証拠調べが重視された結果として,否応なく物的証拠重視を迫られているという事情もあるようである。)。
したがって,検察,警察は,今までの調書偏重主義的調査手法を根本的に改めることが求められているのであり,かつ,それとパラレルの関係にある事情聴取の可視化の流れも押しとどめようがないものとなるだろう(それはすなわち,調書に頼ることを実質的に難しくする。)。


それともうひとつ,今回の一連の不祥事の背景にある問題として,検察,警察組織の問題点を挙げない訳にはいかないだろう。
それは,軍隊組織のような上位下達の,前近代的な組織構造と起訴至上主義の問題である。
仮に少しでも,意見が自由に言えるような組織環境になっており,証拠に基づく立証手法がより精緻に確立されていれば,今回のような事態は,ここまでひどい展開を見せなかったのではないだろうか。
検察組織の末端にいる検事が,上から加えられるプレッシャーというものはハンパない。
それは,自分のプライドや組織的地位が常にまな板の上に載せられているようなものだ。
法律の世界というのは,未だにこの前近代的な組織構造が採られているところは多いが,検察や警察はその最たるものだろう。
もちろん,組織運営上,それが求められることも多いだろう。
しかしそれが,より大局的,長期的視点から見ると,実は組織を腐敗させるのだということを,今回のケースはまざまざと見せつけた。


今回の問題は,一検事や誰かの逮捕,辞任で終わらせられるようなものではない。
検察,警察の組織構造及び捜査手法の根本的な改革が求められているのである。
それができなければ,同じことが再度繰り返されることになるだろう。