30歳のはじまり

しばらくブログを更新していなかったのはきっと、
私のまわりの環境が急激にかわりはじめ、
それに追いついていくのがせいいっぱいだったし、
そして、それらの日々は大変ではあったのだけど、
ブログを書くときのように、
出来事を楽しめるように、丁寧に振り返って、
咀嚼しなくたっていいほど、
有り余るほどの楽しくて刺激的な日々でもあったのだと思う。


そして今、また急に、書きたい気持ちが芽生えてきた。


その刺激的な日々に馴染んできたこともある。
結婚をして、社会的に責任も出てきた。
知識を溜め込めば溜め込むほど、
色んな事象をそれなりに理解もできるようになり、
共感の名で赦すことができるようになってきた今。
ある程度のずうずうしさでもって、
私は無敵といえば、無敵なのだ。


そのことがなんだか怖い。


なんだか日々はうまいこと、まわっていく。
そしてその術をもうなんとなく知っている。
だからもう焦らなくていいような気がして。


そんな風なことを思い、
急に感触としてざわざわと立ち上がった焦燥感。
このままでは、世の中の「グレーというもの」に
がんじがらめにされてしまいそうな気がした。


「グレーというもの」から、もがきつづけること。
30歳で感じた焦燥感は、
そういうステージなのだろうと思う。


ちょっと出口の見えないテーマだけど、
グレーのままでいいのか、というと、
よかった場面はたくさん見てきたけど、
本当はどこかでいけないような気がしている。


だからきっとながくお付き合いするであろうテーマ。
少し前なら、ここで無理やりオチにもっていき、
白黒つけていたところだけど、
そういうのは、なんかもういい。


ながく付き合っていけるっていうことは、
今の自分にはちょうどいいと思っているのだ。

儀式のはじまり


パソコンの前に陣取り、
蘇民祭の由来や概要を調べてみたりと、
実に優雅な休日の午後を過ごす私。
そんなこんなネット界隈をウロチョロしている間に、
先日、私もお祭りに参加していたことを思い出したのでした。


金曜日の夜、いや、日付が変わって土曜日の午前0時にはじまる東京三大祭の一つ。
『山手終電まつり』


気を抜くとホームへはじかれてしまいそうなただならぬ緊張感の中、
老若男女がまんじりともせず待ち受ける渋谷駅に入ってくるシルバーの車両。
そして扉が開いたその瞬間、祭りははじまる。


隙間という隙間を目指して、我先にと人は争い、
乗り継ぎにつぐ乗り継ぎを目指して、山の如しと人は譲らず、
おしあいへしあいのもみくちゃで、胃が押し潰されそうになり、
『うがー』とかわけのわからない声をあげた時、
私はあの息苦しさの向こうに妙な一体感を感じたのです。


その時、思いました。
私があの時に乗っていたのは、移動するための山手線ではなく、
『山手終電まつり』のおみこしにちがいない。

黒石寺 蘇民祭 (こくせきじ そみんさい)
岩手県奥州市水沢区妙見山黒石寺で毎年旧正月7日夜から翌朝にかけて行われる、千年以上の歴史を誇る裸祭りである。災厄を払い、五穀豊穣を願う、裸参り(はだかまいり)に始まり、柴燈木登り(ひたきのぼり)、別当登り(べっとうのぼり)、鬼子登り(おにごのぼり)、蘇民袋争奪戦の五つの行事から成る。夜を徹して行われ、翌日未明からは男たちが東西に分かれ、裸で押し合いながら蘇民袋を奪い合う。これを最後につかんだ者の住む方角がその年、豊穰多福になると伝えられている。平成18年は、2月4日夜から、氷点下7度の寒さの中、男衆約100人が参加し、翌朝まで行われた。  

先ほどから蘇民祭の内容が全く頭に入ってこない。
それは、
『何故それが裸でなければならないのか?』
という問いに対する回答に、
おそらくたどり着いていないからなのですが、
神霊に奉仕して、霊を慰めたり、祈ったりする祭りの、
その神霊を意識するための装置として、
自分を極限に高めていくための裸であるとするのなら、
なるほど。
蘇民祭のことがなんとなくわかってくるような気がするのです。


わっしょいわっしょい。
それぞれの宴を乗せて、深夜の東京をぐるりとパレードする『山手終電まつり』。
わかっていてもわかっていなくても、
今日も私たちは宴の神様に感謝して、
おしあいへしあいのもみくちゃになる儀式を捧げるのである。


そんなことを考えていたら、終電の大混雑をゆるせるような気がするのでした。
わっしょい。

私のためのはじまり

作家の角田光代さんが今日の読売新聞夕刊でうまいことを言っていて、

青春、という言葉で私が思い浮かべるのは、安酒といかくんと吐瀉物のにおいである。甘えと依存と無知と、頓珍漢にせっぱ詰まった恋愛である。その言葉は私にとって、健やかでないもの、豊潤でないもの、美しくないもので満ちている。
(中略)
老いてもなお青春、という言葉には、ぞぞーっとする。六十年も七十年もがんばって、なぜ安酒といかくんに再度戻らねばならん。あそこからできるだけ遠く離れようと日々精進して生きているのに。成熟という言葉より、青春という言葉が魅力的だとは私にはどうしても思えない。


「青春」という言葉をそのまま「焦燥感」に置き換えたのが、今の私の気持ちである。

目的の事が、なかなか実現しないので、気があせること。(新明解 国語辞典第4版)

「焦燥」のこの前のめりな感じが、
実にしっくりときていた時期もあったのですが、
年をとり、いろいろとはじめてみるにあたって、
実現できることとできないことを、
わかりやすく目の前に提示されちゃったりすると、
気があせるというよりは、
むしろ、落ち着いてくる。
腑に落ちてくる。
なるほど。


そして、自分になら実現できそうなこと実行してみて、
実際にかたちになったりすると、
焦燥感を忘れそうになるほど、充実感があったりする。


いや。そもそも、はじめに描いていた目的とは、
果たして正解であったのだろうか。
そんなことも考えたりする。


あ。
そうか。
そんなことをずっとずっと悩んでいたりしていたのが、
青春というものなのか。


安酒といかくんで大いに語り、
吐瀉物にまみれて朝を迎える。
甘えと依存と無知を身に纏い、
いつだって頓珍漢でせっぱ詰まっていて、
ここではないどこかにいこうとする。


甘えと依存と無知が、
自分の中にあるのを知っているにもかかわらず、
見て見ぬふりをしていた。
私は怖がりだったのだと思う。


自分のできることがわかって、
そのことにおいてなら、
ちょっぴり自分に自信がもてるようになって、
はじめて、外に目を向けられるようになった気がします。


そんな外向的な姿勢にもたらされる、
今までの自分の中にはなかった、
わけのわからないもの。
そういうものと対峙しているほうが、
今はよっぽどドキドキする。
実現可能な企てが生まれそうな気がするのです。


待ち合わせ30分前に必ず集合場所に居る、その人の哲学。
満員電車でありえない音量で独り言を放つ、その人の生活。
それでもなお安酒といかくんで未来を語る、その人の姿勢。


憤りや謎を興味に変えて、
なかなか実現しないことなんてとっくに見切りをつけて、
おもろいことばかり貪っていくための焦燥感。

とはいえ、こういうことがあるから言葉はおもしろいのだと思う。書きあらわせばそれだけでしかない言葉が、人の体験や記憶によって、さまざまに意味を変え、色やにおいや肌触りをも、持ち得るのである。


私にとっての「焦燥感」も、きっとこんな感じである。

「どうもすみません」のはじまり


本屋に足を踏み入れたその瞬間から、
文房具屋に足を踏み入れたその瞬間から、
かなしいかな、トイレを我慢できなくなってしまう少年の、
「なんだなんだ。トイレを借りに来たのかこの少年は」
と思われたくなくてなかなか店員さんに言い出せない小さくてかわいらしい意地。
そんな意地が彼の履いていた水色の半ズボンの股間部からじんわりと藍の色を広げていく。
その藍色がすっかりと半ズボン全体に染み渡りはじめて、いくばくかの時がたち、
まるで、はじめから藍色のズボンであったかのような顔をして、
店員さんにコロコロコミックを渡す少年。
そこへいくと、
その状況におかれてきっと、
藍色に染め上げた半ズボンをあえて指差し、
「どうもすみません」
とコツンと自分の頭にやっていたであろう林家三平はすごいなあと思う。


そんな三平を妄想してしまうほど。
今の私はそんな気分だ。
どんな気分だ。


いつの間にか、
パソコンを立ち上げログイン画面を開いた瞬間に、
尿意を催してしまう生き物になってしまっていた私。


そんな私に
「どうもすみません」
の一言はとてもやさしい。


自分のできないことがようやくわかってきた。
そして、自分のできないことを、
楽しそうにやってくれる周りの人がいることがわかってきました。
んで、そんな周りの人が苦手とすることが、
自分には意外と楽しかったりすることなのです。


尿意に勝ったり負けたりを繰り返し、
酒を飲んでは記憶を失い、
いまだに稟議書の書き方がわからない私ではありますが、


「どうもすみません」
積極的に舌を出して、
あたまをコツンとやっては、
あいつはしょうがないなあと、
思い思われ、やっていきたい。
そんな思いを新たに2008年2月でございます。
ペロリ。

見えてくるもののはじまり

前の席の中学生らしきカップルがケラケラと笑っていた。その屈託のない笑い。きっと心の底から笑っていたのだろう。そう思いたい。中学生の時分から、感情表現をパフォーマンスに変えてほしくはないし。

昨日映画を三本観てきた。
「300」「大日本人」夕飯を挟んで「舞妓Haaaan!!!」。



大日本人」を見終わったとき、件の中学生カップルは居た。脱臼しちゃうじゃないかと思うくらい、女の子はあらん限りの力で、彼の肩を叩き、笑っていた。


好き好き大好き超愛してる。

好き好き大好き超愛してる。

僕の好きな人たちに皆そろって幸せになってほしい。それぞれの願いを叶えてほしい。温かい場所で、あるいは涼しい場所で、とにかく心地よい場所で、それぞれの好きな人たちに囲まれて楽しく暮らしてほしい。最大の幸福が空から皆に降り注ぐといい。僕は世界中の全ての人たちが好きだ。
(「好き好き大好き超愛してる」/舞城王太郎

ふと、舞城さんのテキストを思い出した。



いろんな人のさまざま考えを深く知りたいと願う。わたしもきっと人が好きだ。
ただ、世界中の人のことはよくわからないし、というか想像もつかないし、そしてきっと、「世界中の全ての人」となんの関係も持たずに、わたしは死んでいくのだろうけど、でもせめて、わたしの日常、まわりでめぐっている、わたしが気がつくところ、何の縁だかわからないけど、わたしの近くに来てくれた、まだみぬ哲学たちとうまくつきあっていきたい。さらにいうなら、その哲学の良し悪しがどうだとか、姿勢が本気とか冗談とか半笑いとか、もはやそんなのどうだってよくって。身勝手かもしれないけど、つまりそれは、わたしにとってどうなのか。それがいちばん大切なことで。だって関係ないことはとことん関係ないんだもの。でも、その哲学を知ることが出来るすべをわたしがもっているのなら、出来る限り、わたしは俯瞰し、吟味し、触れ合い、そしてその考えをどうにかして、わたしの生き生きとした血肉に変えたいと願う。そんな理由があって私の手の届くところに来てくれたのだと思いたい。そして、いまは関係ない人といつか関係をもったときに、なんか還元できるといいなと思う。だから、周りの人がなんか言ってくれていたら、それに素直に耳を傾けようと心がけたい。身近な人のお説教も、どっかのおっさんの戯言も、わたしの手が届くのであれば、わたしにとっての価値は等しい。
小説でも、音楽でも、踊りでも、居酒屋での与太話も。
そして映画を観にいくということも。
そんな願いを叶えようとする行為なんだきっと。



その中学生が羨ましかった。
願いだけじゃ届かないこともあることをまざまざとみせつけてくれた。



今日は「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観てきた。
いつか見たときはボロボロ泣いたりしなかったのに、
恥ずかしくなるくらい、バカみたいに泣いてきた。


『もう見るべきものは何も無いの』
そう言ったセルマはあの時、何を見ていたのだろうか。

あたしの好きなトマトの赤は、あたしにしかわからない。

■おすすめのはじまり
そうでした。
本の貸し借りというものは非常に甘美なものでした。


アレを読んでもらいたい!
コレの感想をなんて言うのだろう!
貸すひとのことを考えて午前2時。本棚をひっくり返し、じたばたと格闘する。


本を漁りながら、ふと、大人になったなあと思う。
昔、ある女子からおすすめの本を貸してください。と言われ、
その当時、私が実におもしろいなあ!と思った
「マダム・エドワルダ」

マダム・エドワルダ (角川文庫)

マダム・エドワルダ (角川文庫)

『エロティシズムの巨匠、バタイユ先生』
という剛速球を繰り出し、ドン引きされたことを思い出した。
感想はもとより、本すら返ってこなかった。
自分がよいと思うものは、人もよいと思うに違いない。
うん。そうに違いない。
そんな風に確信していた私。


いやあ、恥ずかしさを通り越して、すがすがしさを覚えるくらい、いい思い出だ。


今、私は「おすすめ」という言葉を、
自分の意見を推し進めるという意味で捕らえていたあのころから、
相手にとってどのくらい有意義なのか、いう意味に考えられるようになりました。


本の貸し借りをするなら、まとめて3冊ぐらい貸してみることをオススメします。
1冊だけの貸し借りでは伝えられない線を超えて、まとめられたその本たちは、その人のことを考えて編んだテーマを訴える。
言い訳できない真っ裸。
まわし要らずのがっぷり四つ。
私という人間が正直に出てしまう、おすすめ本の組みあわせ具合。


そんな緊張が、非常に甘美。

20070227-20070313

ゆれる [DVD]

ゆれる [DVD]

TIME HACKS!

TIME HACKS!

ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)

生きて死ぬ私 (ちくま文庫)